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GPS考古学序論




朱の王国と神武大和侵攻


第1章 朱との出会い

第2章 神武伝説の地を訪れる

第3章 神武伝説の謎を解く


  住吉大社の埴使
   

第4章 神武の宇陀占領と天神山古墳、黒塚古墳

   

第5章 崇神と邪馬台国

   

第6章 武埴土安彦の反乱

   

第7章 壱与と物部の謎

   

第8章 天照の復興と女帝

   

朱の王国(邪馬台国)と神武(崇神)の大和侵攻


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第2章 神武伝説の地を訪れる

                        (2017.5.23) 

 ◎ 宇陀の神武聖跡を訪れる


 桜井から旧伊勢街道である国道165号線に沿って東へ、名の通り長い谷である長谷の谷を行くと、長谷寺を過ぎるあたりから、道は長い登りになり、榛原に至る。
 元は榛原町であったが、今は、宇陀市榛原区に変わっている。ここから南には、先ほど紹介した大和高原に続く宇陀の高原が広がっている。(この宇陀高原と大和高原を併せて、大和では、「さんちゅう=山中」と呼び、その「さんちゅう」の中心が宇陀である。それに対し盆地の平野部は「くんなか=国中」と呼ばれる。)
 榛原から10km程南に行くと宇陀の中心地である大宇陀に至る。国道と平行する旧道には城下町を偲ばせる古い松山の町並が残っている。 
 私も幾度か訪れた所であるが、推古天皇の薬狩り(鹿狩り)以来の伝統を持つ薬草園もある。国道沿いに道の駅があり、そこから歩いて直ぐである。 
 その道の駅の案内所で貰った一枚の宇陀市の観光地図を見て驚いた。
 何と、名所旧跡の一覧の中に、「神武東征の道」の項目があり、数カ所の地点が地図上に印されていたのである。 
 今まで神武天皇は全く伝説上の人物だと思っていた私は目を疑った。本当に神武天皇はいたのだろうか。そして観光案内に載せるほど、地元で確かな言い伝えが残っているのだろうか。 
 神武東征の物語は日本書紀で読んではいたが、そこに出てくる地名の場所へ実際に行くことが出来るとは想像もしていなかった。
 特に案内図の中の宇賀志にある「血原」は元々気になっていた地名である。
 神武が最初に宇陀に侵攻した場所で、そこで、地元の豪族の頭「兄猾(えうかし)」を策略にはめ、圧死させたので、その血で地面が真っ赤になったとの由来伝説がある。もちろん、地名伝説は、ほとんどが、こじつけであり、この場合は、辰砂の鉱脈が地表に露出していたため大地が真っ赤だったのだろう。
    
    
                   宇陀市観光地図(一部)

 さっそく車で出かけることにした。道の駅から、東へ5kmほど行くと、菟田野に出る。その中心の古市場には有名な宇陀水分神社(みくまり神社)があり、春日造りの壮麗な社殿は国宝に指定されている。

         
                 菟田野 にある 国宝「宇陀水分神社」

 案内地図ではそこから更に南東に行った所に「穿邑」(うがちのむら)伝承地があるはずである。
 

◎ 宇賀志の里



                「穿邑伝承地」の碑から見た 宇賀志の里

 国道から外れ、地道を行くと、道端に「穿邑伝承地」の木の道標を見つけた。
 山裾の緩斜地で川に沿って畑が広がっている。そこで、畑仕事をしている老人に声をかけてみた。
 少し登った所に石の記念碑があり、そこから邑を見下ろすことができるらしいが、今は鹿よけのネットで覆われて近づきにくいそうである。
 畑を下ったところを流れる川が血原川で、今でも、川底を掘ると、ときに赤い石が見つかるらしい。
 また老人から興味深い話を聞いた。
 『あの水分神社のあたりは、実は蟻の巣のように穴だらけで、わしが中学生のころまで、その裏山で水銀鉱石(辰砂)の採掘がやられていて、焼いた鉱石のガラを今の国道を作るのに、撒きに来ていた。
 わしらは、その熱いガラの中に芋を放り込んで焼き芋にして食べたりした。
 しかし砒素公害の問題で廃山になって、今は公害対策研究を行う会社に変わっている。』
 とのこと。
 私の想像通り、この宇賀志は太古時代には血原の名の通り辰砂の鉱脈が真っ赤に野を染めて露出していたようだ。
 それは、松田氏の著書の中でも、当時操業していた大和水銀鉱山の担当者の口から、
 『鉱脈の傾きからすると、宇賀志あたりで、地表に現れていた可能性が充分あります。』
と述べられていることからも窺える。

 伝説の舞台の中心である宇賀志神社はそこから更に1kmほど上流に行ったところにあった。

   
                        宇賀志神社

    
                           「血原川」

 川の両側の平地が狭まり、細い谷川に変わる手前にその小さな神社があった。
 人気のない境内をキジがゆったり散歩をしていた。 その神社の前には小さな橋があり、「血原橋」とあった。
 橋を渡って少し登ったところにある石垣が「大殿の跡」だそうだ。
 兄猾(えうかし)が神武をだまそうと大殿を建て、中に押機の仕掛けを作って、神武を饗宴に誘って殺そうとした。それを知った弟猾(おとうかし)がそのたくらみを神武に伝え、逆に兄猾を建物に入れて殺したと伝えられる所である。

 そこから、国道に出た所が吉野と宇陀の境の峠佐倉峠である。神武は吉野からこの峠を越えて宇陀に進入したらしい。
 峠を見下ろす小山の頂に、神武が宇陀・宇賀志攻略のために築いたと伝えられる『菟田の高城に鴫なわ張る・・』の歌で有名な「高城(たかき)」の跡がある。
 私は登りかけたが、体力が続かず、途中で諦めてその山の麓の天然記念物「八つ房杉」の巨木のある桜実神社を訪れることにした。

      
                   天然記念物 「八つ房杉」

 1本の杉の根元から途中八本の幹に分かれ、それらが互いに入り組んで成長した正に八叉の大蛇のような巨大な杉である。 この杉は神武天皇が植えたそうだが、確かなことは分からない。

 これらの、神武東征の聖跡はいずれも、戦前の神武天皇顕彰事業の一環として、地元の協力を得て調査されたものであり、信憑性はない。

 しかし、数々の宇陀の伝説の地をこの目で見た私は、神武伝説は単なる作り話ではないように思えてきた。
 特に気づいたことは、神武は辰砂の最大の露頭、たぶん露天堀りで採掘可能であったであろう宇陀の宇賀志を直接ねらって、攻撃し、占領している点である。

             第3章 神武伝説の謎を解く 

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