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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

   

第6章 多以南の道の解明



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第7章 上宮への道(磐余道)

   

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち・日本最古の官道)の謎を解く−−−筋違道の研究


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  第2章 太子道(筋違道)のなぞ

 これまで述べてきました筋違道にはいくつもの謎(不明個所)があります。道の痕跡の方が少ないので当然だと言われる方もあるかと思いますが、痕跡を結んでほぼ直線上に並べば 、その部分の道は発掘しなくても存在したことは確実で、謎でも何でもありません。問題はどう結べばよいのか皆目、分からない所がいくつもあることです。そこで、その不明点とそれに関連した謎を列挙してみることにします。

(T)どこで大和川を渡っていたのか。


 これが最大の謎です。安堵道と三宅道の2つの太子道はどう結ばれていたのでしょう。

       

 図でも分かるように、それぞれの道は角度も異なり、延長してもその間で交わりません。東西に大きくずれています。明らかにこの理由は2つの道の間に大和川本流が流れているからと考えるのが自然です。
 しかし、単にどこかで川を渡っていただけなら、その点で2つの道が交わるはずですが、上に述べたように大きく横にずれています。
 考えられる可能性は途中で道が曲がっていたか、あるいはそれらを結ぶ第3の道が存在したかでしょう。
これを解明しようと様々調べ、考えたのですが、より謎が深まる結果となりました。


1. 寺川の流路は変わっていないか。
 三宅道の北端で寺川の堤防にぶつかります。川を渡って直進したのか、それを避けるように道が曲がっていたのか。寺川の堤防を伝って道は北上したのか。そもそも太子の時代に寺川が現在のように流れていたのか。・・等々です。
 最後に挙げた疑問は重要です。寺川が現在のように流れるようになったのは何時頃か調べましたが、全く不明です。近世以前の河川付け替えの記録は殆ど残っていないようです。

 図は明治時代の測量図ですが、寺川の流れ方の奇妙さがよく分かると思います。
 これは大和盆地の多くの河川に共通する特徴ですが、条里を壊さないように、南北、東西の条里に沿ってジグザグに河川の流れを人工的に変えられていることです。
 本来の河川は、大和盆地の中で標高の低い王寺町付近へ向かって、概ね北西方向に流れていたものと考えられます。
 人工的であることは例えば田原本付近では寺川が下つ道に沿って真北に流れていることからもわかります。

 ですから、条里制の実施後に河川の付け替え工事が行われたと考えるべきです。
 条里制が何時始まったのかは諸説ありますが、少なくとも太子の時代には無かったと考えるべきでしょう。なぜなら、すでにあったか構想されていたとするならば、太子道や斑鳩遺構のように斜向した、 条里を破壊するような設計はされなかったはずです。とすると、太子の時代の寺川は別のところを流れていた可能性が高いと言えましょう。(飛鳥時代の河川の研究は  近江俊秀「奈良盆地における旧河川の復元」橿原考古学研究所紀要 No.33 2011年を参照。)


2. 三宅道は直進していたのか。
 すると、太子道は寺川に邪魔されずに直進していたと言えそうですが、そう単純ではありません。現在の寺川は今問題にしている下流部では条里に沿って流れていません 。明らかに太子道を意識したように北北西に直線的に流れ、そしてその先で急に向きを西に変えて大和川に合流しています。もしかすると、太子道が現寺川の向きに進んでいたのかも知れない。 実際、屏風付近では太子道が若干西向きに振っている。(後のGPSデータを参照)。
 後世、寺川付け替えの際太子道に沿って河道が掘られた可能性もあります。


3. 消えた2つの杵築神社

 安堵町からの太子道(安堵道とよぶ)と三宅町からの道(三宅道とよぶ)の延長線は それぞれ大和川の別の場所にぶつかります。このあたりは大きく大和川が蛇行していたところで、洪水防止のため昭和35〜40年にかけて大改修工事が行われ、直線流路に変わってしまいました
 そのため、安堵道と三宅道の接続を考えるには、旧大和川の流路で考察しなければなりません

 現在、大和川の南岸には(吐田の)杵築神社がありますが、この神社は元、西南西約200mほどの地点にありました。
 また北岸から少し北へ行った所には現在(中窪田の)杵築神社がありますが、 この神社は元々、ここから約300m南方にあり、大和川が南に突き出すように大きく蛇行していた所の北岸にあったのです。
 現在の両神社は工事に先立って現在地に移築されたもので、 元の両神社とも現在の大和川の河床に消えてしまいました。

 この両神社は密接な関係があります。右岸の中窪田にある杵築神社の由来書によると、当神社は1178年に対岸吐田の杵築神社より、当地に分神移座したとあります。 移座の折、大和川を清めて奉迎したと伝えられ、 以来「川掘祭」と称して毎年4月に氏子が集まり川浚えの式が行われてきたそうです。対岸からの分神は、対岸の吐田との間に特別な関係があったことが推察されます。
 どうもこの両神社の間で太子は大和川を渡っていた可能性があります。というのは、明治2年の「窪田氏神之記録写」には、聖徳太子が橘寺(飛鳥)への道中に当社に立ち寄られたという以下の文章があります。 (安堵町史より)
「・・三十三崇峻天皇之御時より今年に至迄六百拾弐年以前聖徳太子橘寺へ御通い被成当所明神之社を御休めとして御休足有之。・・・末之世迄此旧跡残し名三人に伝え聞し残置候もの也。 歴仁元戊 年(1238年)・・・」 とある。

現杵築神社へ移築されているが、旧中窪田杵築神社の境内にあったもの。(東より撮影)

 また、この移築後の杵築神社境内には、推古式古代人造の7重の石塔が残っています。(旧中窪田杵築神社にあったもの。境内のどこにあったかは、第5章参照。)
 「初層の軸が長い」という古い石塔の特徴持ち、この初層には薬師「バイ」、釈迦「バク」、弥陀「キリーク」、弥勒「ユ」を表す4梵字が彫られ、これらは太子の時代に共通する諸仏である。 (ちなみに、これらは法隆寺金堂の壁画に登場する4大浄土の諸仏です。)
 これらのことから、両杵築神社の間で太子が大和川を渡られた可能性が十分にあります。これについての更なる考察は第5章で行います。

 また、そうだとするなら三宅町から吐田の杵築神社へは現寺川の向きにに進むのが最短距離となります。果たして現寺川の流路の向きに太子道は伸びていて、 吐田の旧杵築神社の辺りから対岸の中窪田の旧杵築神社へ渡られたと考えてよいのでしょうか。これも謎です。


4.  謎の参道

 上の考察から消えた2つの杵築神社の元の姿を知りたくなります。 手元の資料としては、明治時代の地図しかありませんでした。この地図をよく見ると、吐田の杵築神社の北東側に石灯籠のマークと、短い斜めの2本線が描かれています。 これは地形図では広い道を表しています。つまり広い参道が斜め北東へ延びていたことを示しています。
(右図、川の東岸の田んぼ中にあるのが、吐田の旧杵築神社、十字星のような印が石灯籠のマーク、 そのそばに描かれている2本線が広い参道。 対岸の川の湾曲部にある鳥居マークは中窪田の旧杵築神社。)
 私はこの「斜めの参道」に大変興味を覚えました。
 

工事のボーリング位置の青焼きの図を反転したもの。 図中央が杵築神社、斜めの参道が描かれている。(国交省大和川管理事務所提供)

  もっと詳細に知りたいと思い、国土交通省大和川管理事務所を訪れました。移築以前の両神社の資料が保存されていないか、お聞きしたのですが、担当の方は親切に対応して頂き、 わざわざ古い工事資料を探して図面等を送っていただきました。その図面の一枚に南吐田の旧杵築神社が載っていて、確かに斜めの参道が描かれています。
 これは村の参道としては不自然です。近くの村落は南吐田ですが、神社の南にあり、遠回りな上に条理の向きに反してわざわざ斜めの参道を作るとは思えないからです。

 元南吐田に住まれていた老婦人に伺うと、「子供のころ、あの神社に行くのは怖かった。田圃中の誰もいない所にあって、参道を通って鬱蒼とした森の中に入り、 森の南に西向きの拝殿があって、東向いて拝まなならんかった。」と話された。 河川事務所の図に描かれている弓形の道のようなものは社殿を高く土盛するために掘った堀だったそうです。 なぜ、遠回りの斜めの参道があったのかお聞きしても、分からないようです。
 この参道はかなり、古いものであることは、橿原考古学研究所の条里復元図を見ても、斜めの太い参道らしきものが、2つの字(あざ)にまたがって描かれています。
 その後入手した戦後まもなくに撮った航空写真には、はっきりと広い斜めの参道が写っています。
  

2つの字(あざ)にまたがっていることがわかる。 もしかすると昔は道幅を2つの字に分割できるほど広かったのかも知れない。(橿原考古学研究所・条里復元図より)

1948年2月米軍撮影(国土地理院提供)子供の頃神社でよく遊んだという、板屋ケ瀬橋に近い吐田に住まわれているご老人に伺うと、この航空写真に写っている神社の森の中央部の白い点のように見えるのは神社の広場で、夏には盆踊りが行われていたそうです。



 どうも太子道や、太子の川渡りに関係しそうです。この参道が昔どこに繋がっていたのでしょうか。謎は深まります。


5.  額田部へ行く道?
 三宅道が曲っていたとは、実はそう単純に言い切れないのです。

油かけ地蔵尊。三宅道の延長線から少し東へずれた田圃中にあります。(西から撮影)

 吐田の現杵築神社(旧杵築神社から東北東へ約200mの場所に移築されている。) のさらに東約200mの田圃中に「油掛け地蔵」とよばれるお地蔵さんがあり、その近くを太子道が通っていたとの地元の伝承があります。
 太子はこの太子道を通り、対岸へ渡ってから東約1km先の額田部にある太子自らが開かれた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)(現在の額安寺)の学問所へ通われていたとのことである。 もしそうだとすると、太子道は寺川の向きではなく三宅道の延長線へ直線的に伸びていたことになります。

    

 さらに、太子道は斑鳩ではなく、額田部へ向かっていたことになります。 はたして太子道は額田部へ行くために作られた道だったのでしょうか。謎は深まります。
 この謎解きは後の第5章で行います。


(U)安堵町以北の筋違道のなぞ


1. 高安の痕跡の謎
 安堵道がその北の高安まで伸びていた事は、定説になっています。その根拠は高安に明瞭な斜向道の一部が残っているからです。しかし、これは安堵道を直線的に延長した線上から残念ながら、かなりずれているのです。 これは誤差の範囲だとか、太子道の傾きがそれぞれ場所によって微妙に異なっているためと勝手に想像して無視されて来ました。(別の言い方をすれば、太子道がそれほど正確な直線であるとの認識が無かったのです。)
 しかし、次章以降で詳しく述べるように、GPS測定の結果によると誤差の範囲を大きく越えています。それでは、途中で斜向道の角度が変わっていたのでしょうか。 もしそうだとするとJR線以北と以南の道の傾きが角にして約6°も異なってしまいます。どうなっていたのでしょうか。解明すべき謎の一つです。


2. 法起寺への道の謎
 高安から北へ延長すると、道は岡本宮のあった法起寺付近に達します。太子が亡くなられる際、長子の山背大兄皇子に宮の跡を尼寺にせよと遺言されたとの記録があり、法起寺境内からは斜向する古い遺構が見つかっているので、 同じ場所に宮があったと考えられます。これらのことから、太子道は法起寺まで伸びていた可能性が高いと考えられています。

奈文研・法隆寺若草伽藍発掘調査報告書の5.斑鳩地域の発掘調査と地割(2007.3)より。

 しかし、安堵道を単純に延長すると、法起寺のかなり東を通ることになるのです。ところがそうではなく、 橿原考古学研究所が行った発掘から、道の一部と見られる溝の遺構と足跡が発見され、その延長は現法起寺の南門に達するので、奈良文化財研究所の報告では、太子道遺構であると推測されています。
 本当でしょうか。道路側溝らしきものはほんのわずかであり、他に発見されている溝遺構を無視しており、かなり予断が入っている可能性があります。というのは、もし南門へ通じていたなら、 高安以北の道の角度が安堵道の角度より、かなり大きく西へ振れることになるからです。また現在の法起寺は正方位の伽藍配置なので、現南門が建てられたときには、南門からは条里に沿った真南への (太子道とは別の)道が伸びていたはずです。(現在はその道も消滅しています。) ですから、法起寺南門を太子道の起点とするには無理があります。
 では起点はどこだったのでしょうか。第4章でその解明を行います。



(V) 多以南の痕跡のなぞ。


 第1章の3で述べたように、筋違道の痕跡が殆ど残っていないように見えます。その理由は太子が亡くなって約70年後には、大和三山で囲まれたこの盆地南部に広大な藤原京が造営され、斜向道が潰されたからでしょう。 私は当初そのように考え、痕跡の探究も諦めかけていました。

1. 直線上に並ばない痕跡群
 しかし、斜向道の痕跡ではないかと思われるものがいくつかあることに気付いてきました。これらを列挙すると、多の南にある西新堂の神社横の道、同集落内にある短いカーブ、 さらに下つ道の東にある橿原市新賀町にある市岐嶋姫神社横の道、橿原市醍醐町の天理教会そばの短い道、同町本村集落横にある短いカーブなどです。しかし、これらは直線上には並びません。


2. 駒繋ぎの石のなぞ
 さらに謎が深まるのは、太子が休憩されたとされる駒繋ぎの石が筋違道から大きく東に外れた耳成山の東南の伊勢街道沿いにあったことです。これと飛鳥への道とどの様に関係しているのでしょうか。 しかし後に、私がそれまで見落としていたある発見からそれらの関連が明らかになりました。この複雑な謎解きは、第6、7章で行います。


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