名前:  石坂わたる

性別とセクシャリティ : ♂(生物学的にも、性自認も) ・ ゲイ 

年齢など : 30歳  (O型 動物占い=サル)

住所 : 東京都中野区

職歴 :特別支援教育(発達障害)の正規教員( 2002.4.1〜2007.3.31)
            

ボランティア歴 :学習障害(LD)・注意欠陥多動症児(ADHD)などの集団指導、知的障害児の遊び相手、
           高齢者の車椅子介助、選挙の街宣車での男性ウグイス嬢、
          保育園や学童保育での保育補助。

性格:・知的好奇心の固まり、温厚

好きな恋愛の形 : お互いの同じような所だけでなく、違っている所も楽しめる関係。
             それぞれのプライベートな時間も尊重しながら、
             時間をかけて細く長くという関係がわりと好きだったりします。 
             あと、ドラマティックな恋愛よりもほのぼのとした恋愛が好きですね。
             ちなみに、現在は進行形(7年目)なため、「非」募集中です。(^^)

苦手なタイプ:ヘビースモーカー。気むずかしくて短気な人。へそを曲げる人。

わたるの略年表:

1976年(0歳)
(ピンクレディーデビュー、ロッキード事件発覚の年)
東京都内で生まれる。
1977年
1978年(成田空港開港、日中友好条約調印の年)
1979年(3歳になる)
(イラン革命による第2次石油ショック、養護学校義務制の年、日本政府「国際人権規約」批准)
・東京郊外に引っ越してきた。よそ者と言うことに加えて、「女っぽい」「男らしくない」「弱い」と言う理由で近所でイジメにあう。石を投げつけられる、自転車を取られてしまうなんてことがしょっちゅう起こっていた。(^^;
1980年
(イラン・イラク戦争開戦の年)
1981年 幼稚園入園。いじめについて幼稚園の先生に相談したところ「君がもっと男の子らしくなればいじめられない。」「女の子とばっかりあそんでいるから悪い。」という指導を受けた、だけれども、幼いながらも全然納得がいかず、その後も遊び相手に対して男女関係なくそれまでの友達と遊び続けていた。
1982年(フォークランド戦争) ごく短期間、幼稚園への登園拒否を起こす。
1983年
(大韓航空機撃墜事件、1983〜1992「国連障害者の十年」、世界で初めてHIVウイルスが発見された年)
・83年に小学校入学。小学校ではわりとGoing my wayな子どもで、周りの冷たい視線はそっちのけで保健委員、音楽クラブ、料理クラブなど女子生徒の人気の高い委員会やクラブにばかりはいっていた。今思うと、「やりたいことは、誰がなんといおうがやる。」という気持ちに加えて、「これは女子が行うこと。これは男子が行うこと。」という既成概念への反抗心ということも結構ありました。

・小学5年生頃自分がゲイであることを何となく自覚しはじめた。何とか異性愛者に矯正できないかと悩んでみたものの、どうやら治るとか治らないと言うものではないらしいということを知るとともに、誰にも相談できない、話せないと思い込み悩む。

・ちなみに小学校卒業時の得意教科は音楽と家庭科、理科。苦手教科は体育、図工。将来は理工系の仕事か天文学系の仕事をしたいと思っていた。
1984年(宇都宮病院事件)
1985年
1986年(チェルノブイリ原発事故の年)
1987年 (精神衛生法が精神保健法に改正)
1988年(イラン・イラク戦争停戦、リクルート事件、精神保健法施行の年)
1989年(ベルリンの壁崩壊、マルタ宣言、写真家ロバート・メイルソープが死去した年、デンマークとノルウェーで同性夫夫登録制度ができる。 ・89年に中学校入学。吹奏学部でホルンを吹く。たいていいつもニコニコ人畜無害な割には、相手が不良っぽい子でも、こわそうな先生に対しても言いたいことがある時にははっきり言わずにはいられない子だった。不良っぽい子とも、普段からイジメられがちな子とも卒なくつきあう方だったけれど、どうしても「どういうタイプの女が好きなのか」という話題についていくことができなかったのと、男子の中のイジメの構図のどこかに収まってしまうのが嫌で、休み時間とかは真面目系な女子のグループの中に籍を置いているような状態で過ごしていた。
・同性愛者である自分がものすごく無価値で、害こそあれ益にはならないと感じられて、居ても立ってもいられなくなる。そんな時に初めて障害者関連のボランティアに参加する。「こんな僕でも何かの役に立てればいいな。」そんな思いから始めたボランティアでしたが、比較的、性に合ったようでその後も断続的に障害者関連のボランティアに関わるようになる。
1990年(ドイツ統一、府中青年の家事件<青年の家職員が他の利用者による同性愛者の利用者への差別を黙認するとともに、それ以降の同性愛者の宿泊利用を拒否>
1991年(湾岸戦争、バブル崩壊、ソ連崩壊、ユーゴスラビアでクロアチアとスロベニアが独立宣言。南アフリカ共和国でアパルトヘイト廃止、伏見憲明著『プライヴェイト・ゲイ・ライフ』が出版、府中青年の家事件について同性愛者の団体アカーが裁判を起こす。
1992年
別冊宝島シリーズ「ゲイの贈り物」が出版された年。PKO協力法成立、ボスニア内戦開始の年)
・高校入学。生徒会の会長になる。当時の学級担任の先生に言わせると、型破りな発言や行動が多くて面白かったとのこと。
・それまでは、同性が好きであるということは動かぬ事実であったが、特定の誰かを本格的に好きになるということはなかった。この年に本格的な片思いをしてしまい、どうにもならなくなる。
1993年
(欧州でEUが誕生、障害児の「通級による指導」の実施、精神保健法一部改正、心身障害者対策基本法が障害者基本法となる
、1月『別冊宝島 ゲイのおもちゃ箱』 9月伊藤悟『男二人暮し』(太郎次郎社) 10月蔦森樹(つたもり たつる)『男でもなく女でもなく』(勁草書房) 『Badi』創刊)
・本格的な片思いの末、高2の秋に当時の副会長に告白を兼ねて生まれて初めてのカムアウト(というか、カムアウトなんて言う言葉は当時は全然知らなかった)をした。その後、どこか吹っ切れて、なし崩し的に両親や友達にカムアウトする
・複数のゲイサークル、ゲイネット(パソコン通信。UC-GALOP、Gun-HEAD、GNJなどに)デビューを果たす。恋人を作るという希望はなかなか叶わないものの、自分以外のゲイの知人・友達がどんどん増えるのが嬉しかった。)
・ゲイのHIV陽性者としてカミングアウトをしていた平田豊さん(故人)と一緒に、とあるグループで一緒に食事をする機会があった。
平田さんは既に失明をされていましたが、ユーモアあふれる話しっぷりに、HIV感染者に対するイメージがだいぶ変わった。
1994年(保健所法→地域保健法に改正、アメリカのストーンウォール事件(1969.6.28に行われた警察のゲイバーの取締りに対する、初めての同性愛者による暴動事件)から25年の年、東京でゲイパレードが行われる。アメリカでの)府中青年の家事件について東京地方裁判所にて同性愛者団体側が勝訴するが東京都側は控訴。別冊宝島「ゲイの学園天国」発刊 ・高3の夏には東京で初めてのゲイパレードに参加。昼日中、堂々とゲイ・レズビアンが街中を歩けることの気持ちよさをものすごく感じましたが、その一方で、まだこの頃は露出の多い人やドラァグクイーンなどと一緒くたに見られることに対する抵抗感もあった時期でもありました。
横浜国際エイズ会議に某NGOのメンバーとして参加。展示会場にて、ノンケカップルの男性から、ホモ呼ばわりされ、嫌悪感にあふれる目で見られるという経験を初めてする。(団体で参加している立場だったので、恐怖感を感じることなどはなく、「あぁ、やっぱりこういう人がいるんだな」と感じた程度でしたが。。。)
1995年(精神保健法が改正され「精神保健及び精神障害者の福祉に関する法」となる。『G-men』創刊 ・浪人生活を送る。
1996年(南アフリカ共和国憲法で「性的指向によって人を差別してはいけない」という条項が織り込まれた。札幌で第1回目のパレードが行われる。東京のゲイパレード会場で運営のあり方をめぐって紛糾 ・大学(経済学部)に入学。部活・サークルについてどこに入るか迷い、一応、陸上に入る。
・20歳になる。ネットの知人に誘ってもらって初めて夜間の新宿2丁目に行く。タックスノットなどに月1くらいの頻度で飲みに行ったり、クラブイベントに行ったりした。UpperCampのイベントやBLENDでドラァグクィーンを何回か体験する。
・ゲイの医療・福祉等の専門家グループAGPの会員となる
1997年(香港の中国返還の年、東京でレズビアンによるダイクマーチが行われる。府中青年の家事件について同性愛者団体側が東京高等裁判所にて勝訴し、判決が確定。 ・大学の部活・サークル活動からは手を引き、生活のメインを大学から、学外でのゲイグループの活動に軸足を移す。友達とゲイのジョギングサークルFrontRunnersの立ち上げに参加。
・4年前からネット友達だったEと恋人づきあいを始め、その後約3年間つきあうこととなる。
1998年(長野オリンピック、精神保健福祉士法成立、10月16日埼玉医科大学にて、日本初の女性から男性への正式な性転換手術。) ・同性愛者の世界規模のスポーツイベント(ゲイ・レズビアンであれば実力に関係なく誰でも参加できるイベント)であるゲイゲームズアムステルダム大会に参加(1500m走とハーフマラソンに出場。)、開会式には世界各国からの各競技の参加者が集まり、スタジアムで何万人もの歓声のなか日本チームのメンバーとして入場をした時には感激のあまり目に涙があふれてしまいました。
札幌のゲイパレードに当時の恋人Eと一緒に初参加。
1999年(ガイドライン関連法成立の年) ・一般の教育系学生の大会で、顔出しをしつつも本名は伏せるという形で、セクシャルマイノリティについての分科会を初担当する。同性愛者、性同一性障害者、半陰陽者、その他のセクシャルマイノリティの児童・生徒がどんな問題を学校生活で抱え、いかに悩んでいるかと言うことを自分の体験も含めて話す。参加者からは「カルチャーショックだった」、「今まで自分がホモねた的な冗談をしていたことに対して反省するきっかけとなった」などという反応。
・ゲイのスクェアダンスサークルEdo8のメンバー(二期生)になる。
2000年(東京レズビアン・ゲイパレード復活、東京都人権施策推進指針に人権問題としての同性愛者が取り上げられる。 米バーモント州が米国で唯一、同性婚を法制化(シビル・ユニオン制度。ただし、他の州に行ったら法的効力はない。新木場にて同性愛者を狙った強盗殺人事件が起こる。) 文部省特殊教育課が文部科学省特別支援教育課となる。精神保健及び精神障害者の福祉に関する法改正、成年後見制度施行の年。) ・大学卒業後進学。
・学費を稼ぐために足掛け3ヶ月、某ゲイバーで働く。(お酒を作って出したり、カウンター越しにお客さんと話をするという、全く初めての経験でしたが、今まで話をする機会のなかった層の人たちと話をすることができてとてもいい経験になりました。)その後、パートタイムで小児精神科クリニックでの療法補助兼医療事務の仕事をする。
・Edo8のメンバーとしてアメリカのボルチモアでのゲイのスクエァダンスの大会に参加。(ゲイゲームズよりも親密な交流ができた半面、同じゲイでも、ごく一部ながらも、中には有色人種を避ける白人のゲイの存在を肌で感じました。)
・mash東京のHIV検査前相談員の研修を受ける。その関係で、厚生労働省のHIV関係の研究会に参加。HIV行政について、若者のHIVに対する意識の低さの原因の一つに、厚生労働省がどんなに若者へのHIV教育の大切さを訴えても、文部科学省が待ったを掛けてしまう現実を知ることとなった。mash大阪が企画・運営、厚生労働省疫学研究班が試験的にバックアップしていた、HIV検査イベント&予防啓発イベントであるswitch2000にmash東京から派遣されるスタッフとして参加。楽しめるイベントと真面目な予防啓発と実際の検査を結びつけることの凄さを肌で感じることができました。 
2001年(東京都で石原都知事再選。9月11日に世界貿易センタービルのテロ。オランダで同性婚が認められる。同性夫夫で養子を取ることも可能 ・現在のパートナーのNOVくんとの交際が始まる。
・NOVくん、NOVくんのお母さん、うちの母と4人で食事をする。
・NOVくんと二人で東京メトロポリタンゲイフォーラムを結成。
・小学校で病弱児教育(非常勤)の仕事をする。
・性教協の横浜セミナーで「セクシャリティはいろいろ」という発表を行なう。
2002年(アフガニスタンの足り板政権が崩壊。ベルギーで同性婚が認められる。同性夫夫で養子を取ることは不可 正規の(常勤の)教員となる。
・初めてNOVくんの実家に泊めてもらい、札幌のパレードに参加(NOV君の妹さん、お父さんとは初対面)。
2003年(イラク戦争勃発。戦後復興の名目で自衛隊のイラク派兵。東京都立七尾養護学校で性教育の教材が没収され、都立養護学校の教員の大量処分がなされた。性同一性障害者の上川さんが世田谷区議に当選。性同一性障害特例法制定。札幌レインボー・マーチ(ゲイパレード)のプライド集会に札幌市長が出席し応援スピーチを行う。宮崎県都城市議会が同性愛者や性同一性障害者などの性的少数者の人権擁護を含む男女共同参画社会づくり条例を制定。 ”人間と性”教育研究協議会(性教協)季刊セクシュアリティにゲイの若者の日常生活というようなテーマで原稿執筆。(<no.11 2003年4月15日発行 に掲載された。>およその内容としては、職場ではゲイであろうがなかろうが同じような生活を送っているはずだけれど、恋愛関係の話をふられる度に黙秘をしたり、つじつま合わせをすることについて精神的な意外な負担や嘘をつくことの罪悪感について書いた。)
恋人であるNOV君との間でパートナーシップに関する公正証書を公証役場での作成
 (作成の顛末について、にじ書房の雑誌「にじ」の6号、7号に掲載される。<写真あり・仮名>S区で作成を断られたり、M市で登記をしてもらえた顛末について書かれました。)
・札幌パレード及び、札幌「親の語る会」に、わたる、わたるの母、NOV君、NOV君の母の4人で一緒に半ばスタッフとして参加。
・テラ出版のゲイ雑誌『Badi』の企画「Lovenavi 次世代アイカタモード」のインタビューをパートナーのNOVくんと二人で受ける。「テーマは同性婚制度」(2004年2月号に掲載される<仮名・写真あり>)。
2004年(国連が、オランダやベルギーが同性同士の結婚を認めているほか、未婚のカップルの権利を認める動きが北欧諸国に広がっているのを受け、国連で働く同性愛や未婚のカップルに対し、出身国の法律が認めている場合に限り、配偶者手当の受け取りなど通常の夫婦としての権利を認めることをアナン事務総長が決めた。アメリカ合衆国の11州で同性婚を禁止する憲法修正案が住民投票の結果可決。英国で同性市民パートナーシップ法が成立。 テラ出版のゲイ雑誌『Badi』の取材を母と二人で受ける。テーマは「家族へのカミングアウト」(2004年7月号に掲載される。<仮名・写真あり>)
同性パートナーシップについて、Herald朝日(朝日新聞社の英字新聞)の取材を受ける。
公正証書を作ったときの話、婚姻できないことの不便さ、東京メトロポリタンゲイフォーラムで行った議員(候補)へのアンケート調査についてなどの話しが8/28-29版のWeekendBeatのページに掲載された。<仮名・背面からの写真あり>)
職場で一部の同僚にカミングアウトをする。
・大阪で行われた「セクシャルマイノリティの家族のサポート」をテーマとした人権に関する講習会にゲストスピーカーとして、僕、僕の母モモと、GIDのいつきさんと参加。僕と母は僕の両親へのカミングアウトから今日に至るまでの話や、よりよいサポートのあり方について参加者に向けて話をした。
2005年(スペイン、カナダで同性婚法が可決、 米国カリフォルニア州ではシュワルツェネッガー知事が州議会を通過した同性間での結婚を認める法案に対し拒否権を発動した。ポーランドで総選挙の結果、同性愛者が教職につくことを禁止することを公約に掲げていた政党「法と正義」が第1党となり、同党のマルチンキェヴィッチ下院議員が首相に就任。また、「法と正義」のレフ・カチンスキー氏(「法と正義」党首の双子の弟でもある。)が選挙の結果大統領に就任。レフ・カチンスキー氏はワルシャワ市長時代に寛容を求める同性愛者のデモを禁止した経歴を持つ。避妊や妊娠中絶、同性愛の否定や女性聖職者を認めないとするベネディクト16世がローマカトリックの教皇となる。英国で前年成立した同性市民パートナーシップ法が成立<エルトン・ジョン、ジョージ・マイケル相次いでパートナーシップ登録表明>、12月南アフリカの最高裁判所[憲法裁判所]は、同性カップルに結婚する権利を与えないのは憲法違反である、という判決を下した。最高裁は議会に対し、12ヶ月以内に婚姻法を改正するように命じ、それまでに議会が改正をなしえない場合、自動的に最高裁主導で法律が改正される。)

横浜エイズ文化フォーラムで「学校でのHIV教育と同性愛」をテーマにとする発表の企画・運営・司会
東京レズビアン&ゲイパレードにボランティアスタッフとして参加。
・Aktaにて、現職の保健体育の教員を招いての学習会の企画・運営・司会をする。(職場の同僚2名が参加をしてくれた。)
2006年(新木場にて同性愛者を狙った強盗障害事件が起こる。

 


2007年

 

 

・Aktaにて、現職の養護教諭(保健室の先生)の教員を招いての学習会の企画・運営・司会をする。
・同性パートナーの法的保障を考える全国リレーシンポジウムRainbow TALK2006の東京第1回で、「公正証書」「男性同性間のパートナーシップ」「養育家庭制度の利用可能性」などについて話をする。
・新木場事件の加害者が高校生だったということもあり、事件の再発を防ぐための要望書を東京都の教育委員会や総務局人権部などに提出をする。
 

・中野区政への挑戦について、東京新聞(3/18)、週刊SPA!(3/20号)にて掲載される。
・4/20発売のゲイ雑誌「badi」にて記事が掲載される予定。

 

 

 過去に受けた主な取材など:

にじ6号、7号 (パートナーのNOVくんとの間でのパートナーシップに関する公正証書作成・登記について、NOVくんと共に同行取材を受けました。)

「なぜ、同性間のパートナーシップ保障に関心があるのでしょう。
  わたる『二人が存在していることが安定していて、外部から脅かされない状態でいたいからですね。借家でどちらかが死亡しても、そのまま住み続けられるかとか、片一方が障害を持っても、共同生活を継続できるかとか、高齢になっても二人で家が借りられるのかとか……』」
「日本で同性婚は百年先?……生き死にに関わることを公正証書で取り決める間柄である、ということで、両人の関係を準公的なものと主張する戦略が考えられてきました。」
(S区公証人談)「おっしゃられることは分かります。それが10年先そういう考えが一般的になるかもしれません。しかし、現段階では……作っても役に立たないかもしれない公正証書は私としては作れない。」
(M市公証人談)「結婚届の代わりみたいなものか。……財産となると直ちに権利義務関係が発生しますから、公証役場は、むしろそういうことのためにある」
  (以上、にじ書房のにじ6号の記事「公正証書こうすればできる」【にじ書房編集部 取材・文】より一部抜粋)
*左の画像はにじ7号の記事「同性カップルとローン・生保」【にじ書房編集部 取材・文】より一部抜粋
badi 2004年7月号 (母のモモと一緒に親へのカミングアウトをテーマについて取材を受けました。)
「わたる君を変えるきっかけになったのは、本屋に並んでいた、別冊宝島三部作の1冊。そこに載っていた情報を元に、ゲイのパソコン通信『UC−GALOP』にアクセスし、オフ会に出たり、二丁目に出てゲイ雑誌を買うようになった。しかし、買って部屋においてあったゲイ雑誌をモモさんに発見され大騒ぎに。」
「●言いっぱなしじゃなく、フォローを
 行ってすっきりするだけじゃなく、ボールを投げ続けることが大事。最初は感情的になりがちだけど、理解してくれるまで根気よく話し合いを続けていったり、色々な情報を与えて分かってもらうこと。」(ワタル)」
 (以上、テラ出版のbadi当該号の記事「はなまるゲイライフ 第7回 親へのカミングアウト」【テラ出版badi編集部 取材・文】より一部抜粋)
朝日新聞社の英字新聞「ヘラルドアサヒ」のweekend Beat 2004年8月28-29日付け「Marriage is not the top priority for gays in Japan」という記事 (パートナーのNOVと同性パートナーシップについて取材を受けました。取材のやり取りはもちろん日本語で行ないました。(^^; )

"I feel we have taken our relationship to the next stage."says 27-years-old Wataru …… "Unlike heterosexual couples there is no tangible action we can take to support our emotional commitment."
After they picked up the document, Akasugi and Wataru neither sent out announcements to their friends or held a celebration. Unless something serious happens, their relationship may never significantly change, they say. But they feel relief and a sense that now, more than ever, they can rely on their partner when times get tough.
(以上、ヘラルドアサヒの当該記事【CHIE MATSUMOTO 取材・文】 より一部抜粋)