

2007.3.27 いよいよ最後のエントリー。 書きたいことがたくさんあるが一つには寂しさ、一つには感謝としたい。 寂しいのはやはり自分がいなくなるキャンパス。 あまりに変化の早い早稲田のことをここまで書いてきたが、 それを確認するかのような発見が最近あった。 『早稲田リンクス』という、私が学部在籍中に始まった(当時としては 先駆的な)早大生のインターネットポータルがあるのだが、 そこが「その時、早稲田が動いた」なる歴史特集をしている。 おや、ようやく歴史に興味を持ってくれたか、と思ったら 逆にこちらがウツになるような内容だった。 自分の早稲田に対する心理に決定的な影響を与えた、地下部室強制撤去の 前後のことが「二学撤去」という項目に埋もれている。 当時、各建物の地下部室・サークルラウンジ・一学・二学とあるなかで、 二学はどちらかというと物静かな撤去劇だったはず。 なのにリンクスの記事は、深夜の機動隊出動、テレビ各局がニュース 報道するに及んだ「7・31事件」はじめ、地下部室や一学を巡る 学内の大変動には一言も触れず、「ニ学を使ってきたサークル員と 事務所のおじちゃんとのふれあい物語」的な記事にしてしまっている。 メディア用語で言えばこれは「ホワイトウォッシュ(漂白)」、 ある出来事を別の出来事の記録でかき消してしまう行為である。 そんなわけで、いよいよ自分の知る早稲田と、伝えられる早稲田の間の ギャップを感じる最後となった。 * しかし、最後の最後はやはり感謝の言葉だろう。 変転続きの自分の人生の中で一応一定の居場所を提供してくれた早稲田。 「早稲田の論点」の批判の本質は愛校心と(たぶん)捉えてくれ、 まともに相手をしてくれた多くの方々。 私は本来「先生っ子」で、どちらかというとどこへ行っても可愛がられ、 取り立てられるほうである。早稲田では、批判と少数意見の代弁という 役回りを務めたが、結局はいろいろな人に可愛がられた。 エクステンションセンターのアルバイトで出会った若い大学職員たちは 早稲田の職員のイメージを変えてくれたし、その中には 何気なく自分をUCLA短期留学へとプッシュし、結果的に自分の 人生を大きく変えてくれた人もいた。(これは「バークレーレポート」にも書いた) 付属の本庄高等学院時代からお世話になっていた職員が、偶然にも自分の 進学先の社会科学研究科に配属され、その人のおかげであの恐ろしく 静かな事務所にも、何とか立ち寄り会話をできる相手があった。 7・31事件前後、文学部の教務は突然訪れた自分の話をよく聞いてくれ、 お互いの姿勢に一定の理解が生まれたと思う。 こうしたつながりとは別に、本来の(?)アカデミックな 自分の生活でお世話になった教員となると枚挙に暇がない。 とにかく多くの教員から励まされて、留学を実現できた。 年に一、二回の一時帰国のたび、歓迎会を開いてくれて、時に明け方まで パーティを続け、そしてまた送り出してくれた研究室の先輩・同僚・後輩。 早稲田で知り合った人々はいまそれぞれに興味深い世界で生きていて、 日々の刺激になっている。NGO活動で先駆的な役割を果たしている人、 若くして自治体の議員になっている人、などなど。 自分と志向が合うのか、公務員や教員になっている友人が多い。 * 「早稲田の論点」を支えてくれた人たちすべてにお礼を言いたい。 1999年からこれまでに、実に多くの励ましの言葉をいただいた。 メールをくれたり、リンクをしてくれたり、ブログで紹介してくれたり、 研究で取り上げてくれたり、とにかくあちこちで、いろいろな形での応援があった。 そうした読者のエネルギーを無駄にしないよう、これからも この経験を生かした活動を、自分の立場に見合った形で続けていきたい。 (4月から日本の大学の教員になります) * いろいろと得て、また失い、変化に直面し続けて、ずいぶんと物事の動きや 移ろいには敏感になったと思う。 祖父が歌人だったこともあり、中学時代・高校時代に短歌で遊び、 自作歌集をワープロ打ちし、コピーして配ったりしていた。 最後はいまの自分の心境を三一字に要約して締めくくりにしたい。 「過ぎ去ったものの数だけ道端の花それぞれが心に唄う」 どこを歩いても、何を見ても、思い浮かぶストーリーがたくさんある キャンパスである。さようなら、ワセダ。 2007.3.22 今日退学願いを出そうと思っていたら、指導教員の印が必要なことがわかり、 週明けまでお別れがずれた。 ともあれ、どの道大学へ行き、思い出にと歩き回った。 馬場駅から都バス。 この沿線の景色はずいぶん変わった。 昔はなかったチェーンの小奇麗な喫茶店、レストランが増え、 いかにも古めかしい個人経営の古書店は消えつつある。 私はチェーン店の機械的な店員が嫌いなので、 大隈通りの学生食堂で昼食をとろうと思った。 ところが「ボンマルシェ」はつい先ごろ店をたたんだようで、 カーテンを閉じた窓の外には「ご自由にお持ちください」と プラスチック製のカレーライスの模型が(あれ何ていうんだっけ)。 2001年まで、各建物内にサークルのラウンジや部室があったころは こうした夫婦経営の食堂にも常連の客足があったが、 サークルの拠点が遠く文学部キャンパスの向こう側へ移った今では 存続は無理だったのだろう。 政治経済学部の3号館は一階の壁のペンキを塗り替えたばかり。 これも私が学部時代は今頃は壁一面のサークルのビラで 溢れんばかりだったが、いまはチラシ一つない。 建物だけはそのままだが、その中の精神とでもいうものは変わってしまった。 ついでに学部と大学院それぞれの指導教員の部屋をノックしてみたが、 今日はいなかった。 中央図書館。学部の卒業論文、大学院の修士論文、それに、 留学してからも日本で書く論文の資料を集めるためによく通った。 ここの研究書庫を自由に使えなくなるのが今となっては一番惜しい。 当てもなく書庫を徘徊した。 バークレー時代に知り合ったいろいろな人のおかげで、自分が興味が 向くテーマが広くなっている。 残念なのは、それを追及し続ける余地が当面ないこと。 最後の最後になって、今まで足の向かなかったコーナーに非常に興味深い 本が揃っていることに気づいた。 地下一階の「小寺文庫」。どうやら大正時代に大量に個人寄付された 書籍のコーナーだ。 通常、書籍は分野ごとに分散整理され、それを寄付した人の 名残などないのだが、「小寺文庫」の場合、当人の興味関心の広がりが そのままわかる形で一箇所に各分野の書籍が集約されている。 その広がり方がまるで自分の興味の広がりと一致していて、息を呑んだ。 同時代に生きていたなら、あるいは少なくともこれからも早稲田にいられたなら、 この人の「文庫」をもっと知りたかった。 最後に社学研の事務所に行ったが、これは失敗だった。 この事務所は他の箇所に先駆けて学部・研究科の事務を統合したところで、 いわば大学院生も学部生も数千人の数字の一つ、 感傷や人間性の余地はまったくないところである。 以前「日々短信」で旧政治学研究科の事務所のアットホームさと 人間的交流を描いたが、ここはその対極にあり、早稲田の今後の方向性を 思わせる居づらい空間である。 思い出が錯綜するがそれを投影する先があまりないキャンパスである。 地下部室が残っていたなら、せめてそこをたずね自分の学生時代の 名残を振り返ることもできたかもしれない。 ただ時の流れを感じさせる、無関心で何の影もとどめない人の群れ。 かえって、別れにはいいのかもしれない。 名残惜しむときは過ぎた。もう戻らなくてもいい。早く次のステップを 踏み出せ。勝手にそういうメッセージを聞きながら、 何千回目かのキャンパスを歩きすぎた。 2007.3.16 若干これまでの文章で心配をかけているようなので添えておくと、 早稲田をやめるのは何か行き詰ってということではなく、 早大の外で次のステップが見つかり、プラス志向でのことです。 それならそれで、うれしそうな文章をかけばよいのですが、 私にとって早稲田を去るということはやはり大変悲しいことです。 私は住む場所も国も一生変転してきた人間です。 過去一年だけとっても、昨年春はバークレー、夏は東京、 秋はワシントンDC、今年の春はまたバークレー、そして 間もなくまた別の場所へ。 一年の間に5箇所、しかも海を隔てるような引越しをしています。 その間に身に着けたのは、それこそ一箇所2、3ヶ月という 生活の中で、数週間で人と知り合い、仲良くなり、楽しみ学びあい、 最後の数週間で別れを惜しむというような、人間関係の術くらい。 でもそんな短い間に悲喜こもごも越えた上での安定した人間関係を 築くのは無理な話で、結局自分の核心は不安定で不連続です。 そんな自分の中で数少ない安定要素が早稲田とのつながりでした。 どこへ行っても一時戻れば、早稲田で会う人たちがいる。 遠くへいても早稲田をめぐる「言論コミュニティ」に参加できる。 国さえ何度も変わる生活の中で、1991年から16年間も自分の中で 一貫していた要素が「早稲田」です。 あと一週間ほどでその縁がついに切れます。 どんな引越し、どんな人間関係の変転にも適応してきた自分ですが、 これはそんな中でも一番大きい変化の一つです。 2007.3.11 このサイトではいろいろなことを書いてきたが、多くは大学の政策に 対する意見だった。特に学生のサークル活動に対する大学の姿勢や、 既存のサークル部室や学生会館を潰して文学部横に「新学生会館」を 作るプロセスには強い反対をした。 そうした時期は、たとえ自分の意見が少数意見であっても、誰かの心には響く、 また誰かが聞いてくれて応じてくれる、あるいは発展させてくれるという、 一縷の望みがあった。 しかしいま何よりも感じるのは、時の流れの圧倒的な強さだ。 地下部室を巡る大騒動があったのは2001年。 それから「たった」5、6年の間に、そんな事件はすっかり忘れられ、 いまの学部学生にはまったく関係のないこととなっている。 あの一時期の盛り上がり、自分の精神力を注いでの議論の拮抗も、 いまの学生には何の意味もないこと。 そして、このサイトに蓄積した膨大な量の情報も、読まれる筋合い、 使われる余地がなくなってしまった。 考えても見れば、自分も在学中、1950年や60年の大学の抗争のことは 薄々関心を持ってはいたが、さほど感情も伴わず、あまり深く追究する こともなかった。自分でさえそうなのだから、他の人は言わずもがなである。 そういうふうに時の流れに埋もれていく番を今度は自分が経験していることになる。 そして、これからますますそのことが寂しくなるだろうと思うと、怖いくらいである。 5年の経過とそれに伴う空虚さ。さらに10年、20年たって、 それこそまったく自分のことを知る人がキャンパスにいなくなったとき、 早稲田という文脈では自分は死んだのと同じことになってしまう。 自分が魂胆込めて描いてきたキャンパスに、自分がいなくなるということを 途轍もなく寂しい思いで見つめている。 2007. 2.27 このサイトは早稲田にどういう足跡を残しただろうと考えるとき、 最後は寂しさを感じる。 一時は、「言論の力」とでもいうものをささやかながら感じることができた。 1999年から2001年まで、私が大学院修士にいて、このサイトの全盛期でも あった頃は、学内の主要な学生メディアの編集者はここのことを知っていて、 それらのメディアの論調、またそもそも取り上げる話題(アジェンダ)に 一定の影響があったと思う。 自分が論説で用いた言葉遣いがそのまま他のメディアに現れたり、 指摘した問題点が学内の立て看板に登場したり、「早稲田ウィークリー」が 直接自分の記事に反論しているのではないかと思うこともあった。 このサイトに触発された、といって、インターネットベースの早稲田祭再建運動が 始まったり、個人で学部・大学を対象としたメディアを作ろうとする試みもいくつがあった。 さらには、ネット社会、学生自治など卒業論文や修士論文の一環として このサイトそのもの、あるいはサイト上の情報を取り上げる研究者もいた。 広報課のある職員には「秋葉さん有名人ですから」と言われ、 学生生活課のある職員には「秋葉さん学内で有名ですから」と言われ、 大学院の研究室では「秋葉さん有名なんですよ」と同僚が切り出したところへ 指導教授が「そうなんだよ。悪い意味で有名なんだ」と相槌を打ったことがある。 異なる事務部局や、教務主任であった指導教授を横断してこう言われるということは、 教務主任が集まる会議や事務部局の部課長が集まるような会議で 『早稲田の論点』の内容が交換されているのだろう、と推測したこともある。 いろいろなサイトからリンクされ、早稲田で「事件」があると、 アクセスが飛躍的に増えた。たとえば地下部室の強制撤去でテレビ報道がなされたとき、 また、警察への名簿提供が問題化して新聞報道、裁判沙汰へと発展したとき、 このサイトはずいぶん参照された。 そうは言っても、私はいかなる党派にも与しないことを常に意識し、 是々非々の立場、私個人の思考の展開をサイトの強みとしてきた。 それに、根底にはどう読んでもやっぱり早稲田が好きなんだろう、と 思わせるような本音の発露があったと思う。 だから、悪意の批判ではなく、良心的な批判と捉えてもらえることが多かったと感じる。 しばしば立場の異なった指導教授には、それでもかわいがってもらえたところがあるし、 特に批判の矛先を向けた文学部の管理職とは直接会ったり、メール、あるいは 一時文学部が公式サイトでやっていた「オープンカフェ」で恨みなしの意見交換もできた。 その意味で、一時、「早稲田の論点」は、大学の言論コミュニティの一員として、 割に大切にしてもらえたのではないかと思う。 でも、時の流れには叶わない。その寂しさについては、次回。 2007. 2.25 「ついに別れの季節です。 16年間の付き合いでした。 高校、学部、大学院修士。籍だけながらも、大学院博士。 1991年から2007年まで。 一つの学校とこんなに長く関われる人間はそんなにいないかもしれません。 しかし、自分の中では、長いというより、別れの日が本当にあるとは 思ってなかったのが本当のところ。 漠然と、早稲田には、ずっとそのまま残るかなぁ、という感覚がありました。 でも現実は現実ですね。 このホームページは、積もりに積もった大学への思いを発散するために、 8年前(1998年12月)思い立ってはじめました。 最初のコンテンツは一見私的な日記ながら、大学のあらゆることに対して 考えを書いていく「日々短信」でした。 まだブログという言葉もなく、個人で「社会的な」ウェブサイトを開設する 人はとても少なかったころです。 その原点に立ち戻って、最後は『お別れ日々短信』を書きます。 これから一ヶ月の、締めくくりの間。」