
2006年7月31日
7・31から5年 −「空間独裁」をあらため、多様な利害の調整を−
2001年の7・31事件から、5年が経った。 長年多くの学生が愛し続けたキャンパス各所のサークル部室。 混沌溢れる自由な空間を、大学の教職員が、警備員多数と背後に控える機動隊を武器に 力で奪った。(詳しくはこちら) そして、学生部が一方的にサークルを選別して、「新・学生会館」という画一的な空間に押し込めた。 この事件が突きつけたキャンパスというスペースのあり方を巡る対立は、その後 さらに深まりを見せている。 「空間独裁」の先端を行く文学部 その後キャンパスでは、空間管理がさらに進み、学生が創造力を働かせる余地は 一層狭められている。 代表的なのが文学部キャンパスにおける、一握りの教員による「空間独裁」だ。 2001年7月の各キャンパスでの部室一斉撤去に至る前から、文学部キャンパスでは 先行して自治会やサークルの部室を建物から強制撤去していた。 長期休暇が明けてみると部室がなかったというような、手続きも何もない やり方がその頃から見られた。 さらに文学部当局は、学生サークルにとって一番の表現手段であるビラの配布や掲示を 大幅に規制してきた。 2005年12月にはビラを配った人間をキャンパス内に警察を招いて逮捕させるという、 前代未聞の措置に発展した。(詳しくはこちら) 大学の自治のために警察との距離を保つという、従来の日本の大学の慣行を破ってまで、 一部教員のビラに対する嫌悪が貫かれた格好だ。 そのほとぼりも冷めぬ2006年4月、文学部当局は、拡声器の使用を全面的に禁止する措置に出た。 数万人の学生が行きかう広いキャンパスで、拡声器は、学生の表現活動に欠かせない装置である。 この措置は、表現活動に時間や場所といった一定の規制をかけることを越えて、 表現活動そのものを抑圧するのに等しい。(注1) 「空間独裁」の弊害 全面禁止の理由は、研究・教育は一日中行われていて、拡声器の使用は迷惑、というものである。 この理由付けに、「空間独裁」の弊害が端的に現れている。 ひとつの場所にたくさんの人が集まる以上、その場所のあり方を巡って利害が 対立するのはやむを得ない。 肝心なのは、誰か一人が好き勝手な使い方をするのではなく、利害調整をし、 誰もが一定の満足を得られるバランスを得ることだ。 たとえば、選挙演説の音は、多くの人にとって迷惑でもある。 しかし、メッセージを伝えたいという人の要望、それに選挙が民主社会の根幹であることから、 一定のルールを設けた上でその表現活動が尊重されている。 早稲田大学、特に文学部キャンパスが異常なのは、そうした利害調整をすることなく、 一握りの人間の意向がそのままキャンパスの方針として通ってしまうことだ。 その結果が、「研究に不都合だから全面禁止」という、教員本位の結論である。 稀な独裁体制 大学の自治への深刻な影響も顧みずに警察を導入してビラを撒いた人物を逮捕させたり、 さまざまな利害関係を無視して、一方的な理由で拡声器を全面禁止にしたりするなど、 文学部では一部教職員による権力の乱用が罷り通っている。 「文学部」名で出されている数々の告示は、教務主任などの肩書きを持った一握りの 人間が起草し、教授会から形だけの(事後)了解を得たものと思われる。 学生・教職員合わせて数千人という人間の集団を、わずか数名の人間が独占的に 統制できる組織が、他にあるだろうか。市町村は議会、会社は株主総会や労働組合、 いわゆる独裁国家でさえ内部に権力バランスを抱えている。 わずか数名の強権的意思が、数千人、数万人に対しすんなり下されるのは、 大学のキャンパスくらいではないだろうか。 文学部教授会からキャンパス管理権の移管を こうした「空間独裁」を改めるため、民主的な機能の存在しない文学部から 文学部キャンパスの管理権を移管する必要があるのではないだろうか。 サークル、学生個人、教職員など、利害関係者代表からなる「文学部キャンパス管理委員会」を設置し、 公開の会議で誰もが納得のできるルールを策定し、運用していけばいいと思う。 7・31から5年、強まるばかりのキャンパスの「空間独裁」にあらためて気づき、 まずは独裁著しい文学部キャンパスから、民主的な空間運営のあり方を考えていきたいと思う。(注1)文学部は、2000年に教授会でこの措置を決定しているが、 運用上緩和されてきた。他にも、早大にはどこで決定されたのかも わからないビラや掲示物規則が存在し、学生向けの手引きなどにも掲載されている。 しかし、従来こうした規則は、学生のサークル活動の活発さを背景に 運用上緩和されてきた。 これらの規則自体、民主的な手続きを踏んで制定されておらず、正当性に欠くといえる。 ご意見・ご感想を掲示板へお願いします 早稲田の論点に戻る