「1994年の早稲田」シリーズ・1

−コミュニケーション手段編−


はじめに 筆者が早稲田に入学したのは1994年で、今年で、実に在籍13年目となる。 このうち学部が5年、修士課程が2年、そして博士課程が今度で6年目。 現実問題として、たぶん、次年度(2006年度)が本当に最後になるだろう。 そんなわけで、今のうちに、長い年月を振り返り、入学当時(1994年)の 早稲田の光景を記しておこうと思う。 今回は、この間、特に変貌の激しい「コミュニケーション手段」の話から。 *電子メールもパソコンも携帯もなかった 1994年といえば、まだ一般には電子メールがなかった時代である。 もちろんインターネットという言葉もなかった(1996年が「インターネット 元年」と言われている)。 ただ、一足早くアメリカでは電子メール(といってもインターネットとは 異なり、あくまでも特定機関を結ぶパソコン通信網内でのことであった)が 広がっていて、早稲田でもアメリカからの留学生だけはメールを使っていた。 私は当時6号館1階にあった留学生のコモン・ルーム(談話室)に出入りして いたので、彼らから教わって「ビットネット」という早稲田が加入している 通信網で電子メールにふれることができた。 パソコンはようやく出始めていたが、主流はワープロである。 ただ、レポート等にワープロを使うのは一般的でなく、手書きで 清書するのが常だった。修正液の使用が認められない場合もあり、 一字間違うと全部書き直しという状態。 携帯電話はまだ高価で、PHSという、携帯よりは安いが通信性能が劣る システムが広がり始めていた。 しかし主流はポケットベル(「ポケベル」)。これは本来、会社が社員の 呼び出しに使うことを意図して開発されたもので、ベルがなるだけのもの から始まったが、そのうち数字を表示する機能が加わった。 すると、数字の語呂合わせを使ってメッセージをやり取りすることが 高校生を中心に広がり、街中の公衆電話で、鮮やかな早業でタンタンタンと 電話の数字ボタンをたたき、友人のポケベルにメッセージを送る高校生の 姿が見られた(このため公衆電話の数字ボタンはどんどん摩耗した)。 余談だが、早稲田を騒がせたあの広末涼子も、日常生活の様々な場面での ポケベルの応用を描いた「NTTドコモのポケベル」CMで好演していた。 *パブリックな合格発表 インターネットでいまは絶滅に近い合格発表も、当時は基本的に キャンパスに来て確認するものだった。電報サービスもあったが、 それはあくまでも補助的なものとされた。 合格発表の時期になると、本部キャンパス(当時は西早稲田キャンパス 1号館に総長室含め大学の本部機能があったので、そう呼ばれた)の 掲示板という掲示板に合格発表の掲示が並んだ。 合格発表の朝、職員数名が掲示板に寄ってきて、受験生が固唾を 飲んで見守る中、順に番号の並んだ紙を掲示していくのである。 (但し、筆者の場合は附属校だったので、高校の教室で、 担任から進学学部の書かれた紙を配られるという形だった。) 携帯電話もないわけで、みな公衆電話に長い列を作って、自宅で待つ 親に結果を報告する。歓喜や失望は、インターネット画面を見て プライベートに感じる今日と違い、大勢の目を前に、居合わせた者 同士で共有したのである。番号を見つけて思わず叫ぶ学生のところに 寄っていては胴上げをする、それだけのためのサークルまであった。 −つづく− (2006年2月20日掲載)
「1994年の早稲田」シリーズ・予定テーマ(不定期掲載です) −学生自治会・学生新聞・ミニコミ −早稲田祭・「団交」・「文連」 −サークル・ビラ・「新勧」 −地下部室・学生会館・ラウンジ −1994年の総長選挙 −大教室・科目登録・成績発表 これ以外に「1994年の早稲田」というからには取り上げるべきテーマがあったら、ぜひメールをください。 なぜ「1994年の早稲田」シリーズか? ネット上の記録は、ほとんど過去数年の話に限られています。 インターネットに依存するに従って、人間の歴史はどんどん 消えて行く不安があります(ネットにない情報は無視される傾向)。 1994年の早稲田がどんな感じだったか、たぶんネット検索しても どこにも出てきません。 なので、ささやかながら、そういう記録を載せ、「わずか 十数年前のことなのに消えかかっている話」を継承したい。 掲示板にコメント・追加情報などお願いします。 早稲田の論点に戻る