戦争を記録する

 

わたしの終戦記念日

― あの時の生活の記憶 ―

 

早稲田9条の会

もくじ

       M.Yさん (教師として終戦を迎える)・・・1

       Y.K さん (当時の小学校) ・・・2

       M.Tさん (月月火水木金金)・・・4

       S.Kさん (東京大空襲)・・・5

       H.Yさん (学童疎開と買い出し)・・・6

       T.Iさん (家族のこと)・7

       T.Hさん (平和の歌と食糧難)・・・・・8

       S.Sさん (中学生時代に終戦を迎える)・・・・・・9

       武藤 徹さん (キリスト教信者として)・・・・11


 

1.教師として終戦を迎える(佐渡)

M.Y 

8月は夏休み。勤務(教師)がなかったので実家に帰りました。実家は農家で、天気の良い日でしたから全員作業に出掛け、私は留守番役。昼ごろラジオから聞きなれない放送と声が聞こえました。「何事?」と聞くと、天皇陛下の「終戦」を伝える放送でした。びっくり、驚くばかり。どうしよう、と暫らく考え、何はともあれ学校へ行かねば、と思いました。

私の家と学校とは大変遠く、6時間余りかかります。仲間を誘うにも電話もありません。食料も持たねばなりません。やっと準備ができて、家の人たちに置手紙をして出発しました。ひと山越えてやっと辿り着いた時は夕方でした。まず校長先生のお宅に、次に教頭先生のお宅に伺って到着の報告をしましたが、「今日は終わり、明日から」、ということになり、下宿に帰りました。

 

翌日、学校へ行き奉安殿を見ると中は空っぽでした。奉安殿は学校の大事なお蔵ですが、昨日のうちにすっかり整理されてしまったのです。私たちは中を見るのがその日が初めてでした。学校は小高い所にありましたから、石段を登り切ったら、そこで一度立ち止まり、姿勢を正して奉安殿の方向を向いて最敬礼をし、それから校舎に入るのです。子どもも教師もそうしていました。その目標の土蔵が空っぽとは。これが終戦なのか。

 

まだ夏休み中ですから、昨日までの仕事の作業が残っています。食料不足を補うために、さつま芋を薄く切り、乾燥させて保存食とする乾燥芋の作りかけです。出来上がれば必要とされていた所へ送っていたようです。これは女生徒の仕事、男子は松の木の根を掘り出し、油を作る松根油作りでした。その他に、高等科生徒は天気が良ければ農家へ農作業の手伝いに行きました。私は高学年の担任でしたから、生徒の作業の様子を見廻る仕事がありました。お昼になると農家の用意された食事をいただきました。農家のお昼は白いご飯がお椀に山盛りでした。佐渡島はB29の通過地点でしたから、焼夷弾の心配もなく終戦を迎えました。

 

しかし、いくさがあった為、人生が台無しになり、いまだに苦しい生活をしている人がいるのです。私たちは全世界の人が平和な生活が送れるように9条をしっかり守りましょう。

M.Yさんは20103月に逝去されました)

 

 

 

 

2.当時の小学校

H.K (埼玉県・入曽小学校)

 

私と同じ年の清水さんと言う方のご主人で、戦争中の小学校は文京区の小学校だったそうです。その小学校の時に「大きくなったら何になるか」と聞かれて、男の子は軍人になる、とみな言っていたところ、彼だけは「絵描きになりたい」と言ったら、ものすごく怒られて、怒られただけでなく、手足を縛られて、昼休みに学校の階段を引き摺られて上がり降りされ終戦までやられたと言うのです。

 

これは清水さん(亡くなった清水さんのお連れ合いさん)自身に語ってほしいぐらいですが、とにかくびっくりしました。私も文京区の千駄木小学校にいたんです。同じ文京区で教師が、軍人になると言わないからといって、子どもを引き摺り上げて、しばってですよ、毎日昼休みにそれをやられた。だけど彼は最後まで頑張った(当時6年生だった)

「まあ、下手で絵描きにはなれなかったけど」って彼女が言っていましたけど、私としてはすごいショックでね・・・。戦争中の教育ってひどい。何も教えてくれなかったというのは事実ですが、こんなひどいことがあったというのは初めて知りました。叩かれたり、怒られたりはしょっちゅうで、私もよく立たされていました。

 

小学校3年の時に国史という教科が始まって、本をもらって、先生が「いざなぎ、いざなみ」(古事記の国生み神話)から始めてずっとしゃべってから、「何か質問がありますか」と最後に言うので、「歴史というのは本当にあったことを歴史というお勉強で、これは子どもが喜ぶように神話から始めたんでしょう?どこの国にも神話があるので、そこから始めたんですか?」「立ってなさい!」「天皇陛下は神の子孫だと言うけど、人間はサルから生まれたと中学の叔父ちゃんの本に書いてありました」「立っていなさい!!」もう、いつもそれなんですね。中学校や女学生ならいず知らず、小学校ですよ?

私が戦争が終わった日を迎えた学校は、埼玉県の所沢のお隣の入曽(いりそ)小学校だったんですが、私が転校する直前に、そこの校長先生が米軍機の機銃掃射で死んだことが新聞に出ていたんですよ。奉安殿に天皇の写真があるので燃えたり損なったりしたら大変だというので、P51という飛行機が編隊で来ているにも関わらず、校庭を突っ切って奉安殿にむかって走ったということでした。そりゃあ狙い撃ちされますよね。自殺と同じですよね。それが載った新聞を読んでから学校に行ったので、とんでもない学校にきたな、と思いました。その学校に通ったのはほんの数カ月ですが、具合が悪くて一日休んで、次の日に学校に行ったら、朝礼でどこに並べばいいか分からないんですよ。どうしたのだろうかと思ったら、前の日に編成替えしてしまったらしく、誰も教えてくれない。コラー!!!って先生は怒鳴るだけ。いやんなっちゃって、お祖母さんに学校に行きたくない、と言ったら、行かなくても良いよって言われて、また学校に行かなくなった覚えがあるんですが、戦争が終わってもそんなでしたよ。

だから教育って今だって先生が独壇場でやっている訳でしょ?

しかも小学校の時からきちんと子どもに応答させないで、上から命令しているような教育の仕方がずっと続いていてすごく問題だと思う。

 

 

 


 

3.二度と戦争はさせません:月月火水木金金

M.T

 

人も燃えると炭になっちゃうんですよ。隅田川で身内をさがしたのですが、死体が何層にもなっていて、棒でつつくと次々に下にある死体が出てくるんです。そんな体験もしましたが、今日お話しするのは少し違った話です。

 

「欲しがりません勝つまでは、月月火水木金金」知っていますか?

二言目には「なんですか、戦地の兵隊さんを思えば、こんなことぐらい」と先生に言われて、青春時代を、この言葉を信じて頑張り通してきました。

 

学徒動員先、軍需工場ですね、私は日立製作所で働きました。素敵な軍人出身の課長さんがいらして、「君たちが一生けん命がんばってくれるので日本は勝ち進んでいるんだよ」とおだてられてみんなで課長さんのため、日本のためと夢中で働いてきました。

そして敗戦でした。課長さん夫婦は自殺したんです。多感な娘時代(18歳)のこと、「課長さんはなんて責任感のつよい人なのだろう、私たちの力が足りなかった」と当時みんな嘆き、泣きました。

ところが、課長さんが預けていた荷物を見る機会があり、見て大変驚きました。なんと荷物の中身は日ごろ私たちが喉から手が出るほど欲しかったものがびっしりと入っているではありませんか。軍人は不自由していなかったのです。「欲しがりません勝つまでは」は善良な国民だけだったのです、信じていたのは。

 

青春時代の苦い経験です。二度と戦争はさせません。

 

 

 


 

4.東京大空襲

E.Kさん (東京)

予てからこの話をしたかったんです。

65年前、3月10日の東京下町大空襲の時、雨あられに落ちてくる焼夷弾で逃げ場がなく、あの日は風があり、火の粉が渦を巻いて落ちてきて逃げ場がありませんでした。逃げるために隅田川へ飛び込む人、焼夷弾の直撃を受けて、いつの間にか首がなくなっている人がいました。母は「見ちゃダメ、見ちゃダメ」といいました。私たちがどうやって逃げたのか思い出せないことも多いのですが、本当に言葉で表せないほどに悲惨でした。

大空襲はその後の5月にもありました。疎開は草加にいきました。5月の山の手の大空襲も大変だったようですが、埼玉の方たちのはなしでは、下町の空襲の方が真っ赤で大変だったようです。とにかく、戦争はだめです。

戦争では、「欲しがりません勝つまでは」ということで、食べ物、着るもので大変苦労しました。母の苦労は大変だったろうと思っています。戦争に翻弄されて生きてきた、戦争は人間を残酷にしてしまうといことをつくづくいろんな経験から感じました。

終戦になったときに、これで自由になったとうれしかったのですが、食べ物が大変でした。お米を探さなければならないような薄い雑炊、あの時は7銭でした。何度もならんで、ようやく兄弟で食べました。あの時は兄弟が多かったので、母の苦労を思います。

長崎、広島も大変でしたが、下町の大空襲の話をあまりみなさんしない。もっと話してほしいです。

あの時、私は小学校6年生でした。3月10日は、集団疎開から帰ってくる日だったので、両親が生きている人は迎えに来ましたが、亡くなられた方も多かったようです。

いろいろな苦しいことがありましたが、先輩たちがもっと元気にプラス思考で行こうよ、と教えてくれた歌があります。

 

♪幸せはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが 流れる汗に未来を込めて 明るい社会を創るため みんなと歌おう 幸せの歌を ひびくこだまを追って行こう♪

この歌を歌いながらみんな元気で生きて行こうよ、と先輩たちに励まされました。

 

 

 

 

 


 

5.学童疎開と買い出し

H.Yさん (福島県・母畑温泉)

終戦のときは中学1年生でした。疎開先では、毎日、切ってある一尺ぐらいの材木に一本ずつひもをつけて山からひっぱてくるのが仕事で、体力的には何とかなりました。8月15日は天皇の話を聞くということで、ラジオの前に集まったのですが、日本語らしくない発音の「耐えがたきを耐え、忍びがたき・・・」ということがなんとなく聴けたので何か大変なことになったとは感じました。戦争が終わったことが分かったのは2、3日してからでした。

 

集団疎開についてお話しします。小学校3年生から高学年は次期の戦力として死なせてはいけないということで学校から地方への学童疎開があったようです。私は荒川区にいたので、福島の温泉(母畑温泉)に疎開して、地域ごとに旅館に配置されました。食事の時、木の器の中にこそっとしかご飯が入っていないのです。「えっ、これがご飯?」と驚きました。3年生から親元から離れましたので、掃除、洗濯も自分でするんです。洗濯は2m程の幅の川に入って洗いました。あれは子供にとって大変でした。私は途中から病気で帰ってきてしまいましたので経験していませんが、冬は辛かったと思います。親から離れた淋しさから、3日目を過ぎたころから夕方になると隅の方で誰かがしくしく泣き出しました。私は6年で「班長だから」と気張っていたのですが、みんなが泣き出して、私もついに我慢できずに大声で泣いてしまいました。部屋中がわんわんと泣いていました。あれは忘れられません。

小学校6年生で3月25日に卒業式があるので、あの3月9日に帰ってきて、大空襲で亡くなった子がいたことを聞いています。下級生の中にも家に帰ってきたら親はなくなっていた人が何人かいました。

 

食糧がないので、買い出しは東武電車に乗って、春日部の方に行きました。そのころは戦争も最後の方だったので、母、姉とわたしの3人でいきました。何軒行っても断られっぱなしでした。最後は、何かを持って帰らなければ、と林の中を通った時に燃料の足しにと枯れ枝を3人で拾ってリュックに詰めて帰ることになりました。ところが駅まで行くと電車が止まっていて、帰ることができません。そのうち雪が降ってきて大変心細かったことを覚えています。大分遅くなってから、電車が復旧して、電車がきましたが満員で乗れないんです。子どもは窓からみんなの頭越しに入れさせてもらう状況でした。

 

私は子供だったのであまり大変さが分かりませんでしたが、食糧をどうやって手に入れるか、親は大変だったろうと、つくづく感じています。

 

 

 

 

 


 

 

 

6.家族のこと

T.Iさん(山梨県日居村) 

 

大正11年6月、山梨県春日居村農家の家の六女として生まれました。兄弟は男5人、女2人、計7人の仲の良い兄弟でした。

 

私は学校を出て、東京で看護婦となり働く毎日でした。長男は結婚して幸せな毎日でしたが、戦争がはじまると同時に兄3人は召集令状で入隊、弟とすぐ上の兄は志願して海軍に入隊しました。「お国のために頑張る」と皆出て行ってしまいました。村の中も若者は殆どいなくなり、残っているのは老人と女、子どものみとなりました。家の仕事をするために私は田舎に戻りました。その頃の東京はもう敵の飛行機が時々飛んで来ていました。

 

戦争も激しくなり、毎日毎日空襲警報が発令され、山梨甲府は昭和20年7月6日の空襲で殆ど全滅となりました。同じ日の夕方に私たちの部落の15軒も雨の様に降る焼夷弾の直撃を受けました。老人、女、子どもだけではどうすることもできませんでした。頭に直撃を受けた人もいました。こんな村はずれの部落までが空襲を受けるとは。

まもなく終戦になり、飛行機から「戦争が終わった、日本は負けた」とのビラがまかれました。しばらくして春日居村に進駐軍が入ってくるから、女、子どもは顔を黒くして隠れるようにとの連絡が入りました。

村では戦死者が次々と国防夫人の方たちの手で家に帰ってきました。大変な数だったことを覚えています。私の兄弟も志願した二人が戦死し、小さな石ころとなって帰ってきました。長男は終戦と同時に帰ってきましたが、シベリアに連れて行かれた兄は何年か帰ることができませんでした。

人間同士の殺し合いが二度とない事を自分たちの手で守りたいです。

 

 

 

 

 


 

7.「平和の歌」・食糧難

T.Hさん (長野県小諸市)

終戦の時は小学校6年でした。

父は無教会主義のクリスチャンで、無教会派の内村鑑三の弟子でした。1937年に始まった日中戦争の年に生まれた私の弟には「和彦」と名づけ「平山」の平と「和彦」の「和」に「平和」への願いを託したのです。

 鳥取県米子市に藤沢武義といわれる、父と同じ無教会派のクリスチャンで熱心な反戦主義の方がおられましたが、藤沢氏が発行された雑誌「求道」は1933年から12回発禁処分を受け、ご本人は不敬罪で3ヶ月留置所に入れられました。父がこの方の仲人だったこともあり、熱烈な激励の手紙を送ったために、藤沢宅の家宅捜査によりそれが発見され、東京にいた父の家に刑事が2度来たそうです。いろいろな事が幸いして父が逮捕されなかったことは不幸中の幸いでした。戦後、藤沢氏については196869年に「みすず書房」発行の『戦時下抵抗の研究』の中と、19843月の「朝日新聞」の「新人国記」で紹介されています。

私は人々がまだ疎開しないうち(終戦の一年半前)に母の実家のある長野県小諸町に疎開しました。母の両親をはじめ親戚三所帯十余人が一緒でした。食糧難で動物性蛋白質が皆無でご飯のなか、味噌汁の具すべてが野草でした。伯母が全員の食事を作ってくれましたが、その苦労は一通りではなかったと思います。

皆が空腹でしたので、一緒に住んでいた家族で三年生の姉が一年生の弟のお弁当を半分食べてしまった悲しいこともありました。

終戦の日の天皇の放送を聞き父は興奮して“これで戦争は終わりだ”と言い、私たちは讃美歌の中の「平和の歌」を歌ったのでした。終戦の翌年、東京に帰りましたが、私の家は525日に空襲で焼けてしまったので私はミッション・スクール(中学)の寮に入りました。家にいればサツマイモやトウモロコシの粉にしろ、空腹は何とか凌げましたが、寮生活の空腹は酷いものでした。クラスの友人が同情して差し入れてくれたこともありました。終戦後、昭和一桁の男性は早死にすると言われたものです。男性ならぬ私としてからが血管が細くて採血の時、何時も苦労しています。

とにかく、戦争ほど醜く、愚かなものはありません。二度と戦争を起こさぬよう、戦争に加担する政策に反対して行かねばなりません。


 

8.中学時代に終戦を迎える

S.S (新潟県)

 

終戦の年、私は12歳、中学2年生でした。東京は空襲がはげしくなる一方で、このままでは危ないと母の実家がある新潟県の海沿いの小さな町に姉と一緒に縁故疎開しました。妹はすでに学童疎開で埼玉県の寺におり、両親だけが東京に残りました。

玉音放送の時、私は魚釣りをしていました。帰ってから徹底抗戦を唱えた阿南陸相が自刃したことを知りました。戦時中は灯火管制で電灯に黒い布をかぶせていましたが、「もうこれからは黒い布をかけなくていいね」と言っていました。当時、国民多数の思いではなかったでしょうか。

中学1年の時東京の中学にいましたが、この学校は関東大震災後に建てられ、イギリスのパブリック・スクールをモデルにした新しいタイプの公立学校でした。「自主、自律、責任」をモットーにしていましたが、校長はじめ教師の誰もが、尽忠報国、戦意高揚的なことは話しませんでした。戦前『教育勅語』による教育という枠はあったが、学校の理念を守ろうという教師たちの意志が見られます。

学校の屋上には米軍機の攻撃から宮城を守るため高射機関砲が据えられ、兵士が常駐していました。学校は焼夷弾攻撃をうけましたが、ほとんど損害はありませんでした。

疎開先の中学校には約1時間の汽車通学、生徒たちは男女別で乗る車両が違いました。軍事教練はありましたが、授業は普通に行なわれました。英語の教師は「こんな敵性語が判らないのか」と答えられない生徒をよく殴りました。「野蛮な学校だ」とあきれました。

米や食糧に不自由を感じたことはありませんでした。米どころ新潟では配給制はありましたが、自由米もあり、比較的容易に手に入りました。海沿い数キロにわたって防風林がありましたが、ところどころで松林が切り倒され、石油の代用として根を燃やして油をとっていました。

終戦で目立って替わったのは下校時の通学列車の混雑です。中国や朝鮮からの引揚者や復員兵で超満員、客車に乗れず、よく機関車の石炭庫に乗ったものです。

秋深くなったころ焼け野原の東京に帰ってきました。幸い我が家は焼失を免れました。

「必ず帰ってこいよ」と送り出してくれた担任教師や級友たちと再会しました。戦後の生活で最大の問題は生きるための食糧の確保でした。両親は子どもたちを守るため必死でした。タケノコ生活でした。父は食糧を求めて遠く群馬県まで自転車で買い出しに行き、食糧を積んで夜遅く帰宅したのを記憶しています。このような生活が戦後しばらくつづきました。

 

(註)パブリック・スクールの生活を綴ったものに池田潔『自由と規律』(岩波新書)があり、戦後間もなく出版され、ベストセラーになった。

 

 


 

9.キリスト教の信者として

T.Mさん 

私はカトリックというキリスト教の信者でしたから、天皇は現人神であると信じ込まされた人たちとは違う経験をしました。

戦争が始まると、伝道師までが「戦争では、人を殺しても罪にならない」というので、神父に、教義に反するのではないかと問い詰めると、「そういう場に立たないように、神に祈りましょう」といいました。さすがに、人を殺してもよいとはいいませんでした。

日独伊の「防共協定」が締結されると、小学生が動員されて、奉祝マスゲームをやらされました。小学6年の4月に総選挙があり、小学生の私たちも、選挙粛正の街頭行進に駆り出されました。解散地点が戸山が原の近衛騎兵連隊でしたから、おそらく軍の命令だったのでしょう。

この選挙は、戦争か、戦争反対かが問われる選挙で、反戦連合が圧勝したのですが、盧溝橋事件で、一気に戦争になりました。

13年の4月に、聖学院中学というミッションスクールに進学しましたが、ある日、全校生徒が集められて、上海帰りの帰還兵から「大陸における日本軍人の暴状について」と題する講演を聴かされました。2年生になると、担任が佐藤正義という理科の先生になりましたが、私たちが「怪談をやって」とせがんだのに応えて、「歩哨をやっていると、新聞紙を巻いたようなものが、風に吹かれて飛んできた。よくみると、昼間に処刑した捕虜の中国兵であった。おい、どうしたときくと、郷里に帰って、日本軍と戦うんだと言って、また、風に吹かれて飛んで行った」という話をしました。中国人は、祖国のために日本軍と戦っているのだということを、中学生の私たちに教えたかったのでしょう。

ここには、隠れ共産党のような先生が何人かいて、その一人は、二葉亭四迷が訳した『四人共産団』の話をして、共産主義は人類の理想だが、この『四人共産団』のように、書記長が悪いと瓦解する。ソ連も。書記長が悪いからだめだ、と話しました。中学生には、本当のことを伝えたいという教育方針だったのでしょう。

その後、大阪の中学に転校するのですが、太平洋戦争の始まる昭和16年になると、朝鮮人のクラスメイト姜君が、神本と姓を変えました。兵隊が足りなくなって、朝鮮人も「皇民」として兵隊にしようという「皇民化政策」が、内地でも始まったのです。中学生も、日曜まで軍事教練に駆り立てられ、教会にいけなくなりました。神父に伝えると、小林有方というその神父は、「日本も、いよいよ、ナチスドイツのようなファシズムになりましたね」と答えました。カトリックは、戦争協力の「日本基督教団」に参加していませんでしたが、はっきり、反ファッシズムを聞いたのは、初めてでした。

いよいよ開戦になり、報国団として動員されると、警察署長が、「朝鮮人が、独立を求めて、暴動を起こした。憲兵隊は鎮圧に動員され、大阪の治安が空白となっている。諸君ら中学生は、憲兵隊に代わって、大阪の治安を守る」といって、1時間ほど、交通整理をやらされました。当時、日本はインドやビルマなどの独立を約束していましたから、それなら、真っ先に朝鮮を独立させればよいのに、と思いました。後年、同窓会で聞くと、みんなそう思ったそうです。この署長も、わざとこんな作り話を、中学生に聞かせたのでしょう。

敗戦の前年の昭和19年の暮に、「敗戦後に備えて、良質のジュラルミン、スフの隠匿が始まっている」という衝撃的な情報を聞きました。たまたま、東海道線で乗り合わせた佐々木と名乗る零戦の航空兵も、良質のジュラルミンが隠匿され、翼が折損する事故が多発している、と嘆いていました。年が改まり、2月には「アメリカは天皇制を護持する」との近衛情報に基づいて敗戦受諾が内定され、4月に鈴木貫太郎を首相に据えて、世界に対して、敗戦受諾の意思ありとのアドバルーンをあげました。