ロシア国境

 黒龍江省の北、黒河(ヘイホ)市へ旅行したのは平成四年の夏だった。この時には、斉斉哈爾(チチハル)、哈爾浜(ハルピン)、大連(ターリェン)など中国東北地方、旧満州を旅行したのだが、旅行の計画を立てるために地図を見ているうちに「行ってみよう」と決めたのが、黒河だった。ここは観光地ではないが、黒龍江岸の街。対岸はロシアだ。
 ソ連が解体されたのが、この八カ月ほど前。国境からでもロシアを見てやろうと思ってのことだった。
 列車が駅に着いて、最初にすることはホテル探し。しかし、これが苦労だった。二軒、三軒とまわっても満室と断られた。最後は調子の良いタクシー運転手に、部屋ならあると言われ連れて行かれたホテルまで満室だった。
 中国では、外国人旅行者は原則としてホテルにしか泊まれない。たとえば知人の家に泊めてもらう場合には、公安局に出向きパスポートを見せて宿泊先の所在地を記入しなければならない。中国人向けには、安ホテルより安い旅館もあるがパスポートを見せた途端、断られる。仮に中国人並みに中国語ができて、中国人のふりをして泊まろうと思っても無理。中国人も宿泊の際には、身分証が必要になるからだ。
 大きな都市なら、本当に困ったら大学を訪ねれば良い。たいてい招待所という宿泊施設があり、学生でなくても泊まれる。しかし、黒河には大学もなさそうだ。困った。
 カバンをひきずり、どうしようかとトボトボ通りを歩いていると、「オーイ、旅行者か」という声がアパートの二階から聞こえてきた。「泊まるなら、ウチに泊まれよ」窓には、民宿一泊いくらという文字が貼られている。「でも、外国人だけど…」と答えると「問題ない。大丈夫」という調子の良さ。結局、ここに落ちつくことになった。
 部屋は普通のアパートで二部屋あり、一部屋を客用にしているらしい。念のため貴重品を身につけ、カバンに鍵をかけ、街の散歩に出かけた。
 街に出ると、ホテル満室のわけもわかった。自由市場の買い物客には、ロシア人が混ざっている。黒龍江、ロシア側から言うとアムール川を渡り、買い出しに来ているらしい。
 通りのわきに、布団袋ほどの袋を開け、ドサドサッと品物を出し始めた人がいた。見ると、すべて靴。これから道で商売を始めるようだ。
 こうした商人は、上海、広州から遠征して来ているようだ。ビジネスチャンスと見て、やって来たわけだ。個人営業だけでなく、会社も乗り込んで来ていることだろう。ホテルが満室なのも道理だ。
 ロシア人の乗ったバスが通りかかった。すると、中国人が品物を手にバスを囲んだ。一人のロシア女性が毛糸の帽子を見せる。バスの窓を開けて、一人の中国人が掲げていた品物と交換した。
 自由市場に並ぶ商品を見てもロシア製品らしきものが多い。武骨そうなカメラ、腕時計、ぶ厚いコート、毛皮などが並ぶ。
 黒龍江の方へ出てみた。細長い街だから、北へ北へと歩けば良い。
 黒龍江は、幅百m足らず。対岸には、こちら側とは明らかに違う、ロシア建築の建物が続いていた。夏だったから、両岸に水着の人がいたが、これも好対象。中国側の人は、水中で泳ぎ遊んでいるのに対してロシア側では、ほとんどが甲羅干しをしていた。
 遊覧船にも乗ってみた。これは、さらにロシアが近い。対岸まで十mというところまで船が近づく。手を振ると、ロシア人も手を振ってくる。申し込めば、翌日には簡易ビザが出て、日帰りのロシアの旅もできるようだ。
 かなり歩いたので、今度はタクシーに乗った。どこか見物するところはないかと聞くと、貿易中心(貿易センター)はどうかと言う。行ってみることにした。
 貿易中心という名前だったが、建物はプレハブ風、広いことは広い。入り口で入場料二元を払って入った。中は、自由市場とそれほど変わらなかったが、違うのは客。ほとんどすべてがロシア人だった。見ると中国人店員はロシア語で応待している。そのレベルはわからなかったが、会話は成立している。
 面白い、とビデオカメラで撮影していたら、トントンと肩を叩かれた。公安(警察官)だった。何をしているのかと聞かれ、ちょっと来いと、公安が待機している部屋へ連れて行かれた。
 パスポートを出し、正直に答えると、「ここは日本人は入れない。直ちに立ち去れ」と言う。入場券を買って入れたではないかと反論しても、「帰れ」。それでも大した問題にならなかったとホッとしていると、今度は「泊まっているホテルの住所を書け」と言う。
 ここは、正直に話すしかない。民宿に泊まっている。住所はわからないが、場所はわかると答えた。
 すると、相手は「外国人はホテルにしか泊まれないのを知らないのか」
 「知ってる。でも、ホテルを四軒まわってもどこも満室。仕方がない」と反論したが、公安は何か書類を作り、封をして私に渡した。書類を持って公安本局に行けと言う。
 貿易中心は出たが、大変なことになったという思いだった。このまま無視しようか。しかし、その後に捕まったら、余計恐い。結局、公安本局へ出頭した。
 公安本局では、女性の係が応待した。書類を見るとどこかに電話をかける。その会話を聞いて、いくらか安心した。女性公安は電話を切り、私にメモを渡し、「このホテルに行けば、部屋はある。ここに泊まれ」と言った。
 アパートの民宿から移ったホテルは、料金が四倍だったが、居心地ははるかに良かった。

 

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