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[72]3・12・土・雪・冴返る

  片隅で椿が梅を感じてゐる   林原 耒井(らいせい)

 ( 林原氏は旧制一高時代漱石門下となり、「木曜会」に出席していた。
   朝日新聞折々の歌でも有名な大岡信さんは、明治大学の教員になった時に
   皆に尊敬されている英文学の教員であるところの林原氏にお会いになった
   そうである。林原氏は旧姓を岡田といい、岡田耕三という名は漱石の小説
   の校正を任されていた漱石最後の直弟子であったことで知られている。

   大岡さんが「世間では、漱石は悪妻に非常に悩まされていたと言われるが
   本当はあの奥さんに惚れていたのじゃないですか?」と問うたところ、
  「とんでもない、冗談じゃない。そんな大切な人なら、睡眠薬を普段の二倍
   も三倍も飲ませますか!」と一笑に付されたそうである。

   漱石が眠り薬の飲み過ぎでぼーっとしていたことがあったのを鏡子夫人に
   殺されそうになったと言う人もいるが、大切な人でもあり、薬をたくさん
   飲ませてしまいたい人でもあるというあたりが夫婦というものじゃないか
   と思ったりもする。これはワタシの個人的意見。暴力ふるわれれば睡眠薬
   くらい飲ませるさ。

   大岡さんも、「林原氏は漱石を尊敬するあまり、鏡子夫人に厳しいところ
   があったのではないかと思う」と仰っている。さて、句の方は、庭の片隅
   で椿がぱっと咲いている。その椿が、近くに梅の咲いているのを感じてい
   る、というただそれだけを言っている。余裕のあるおかしさが耒井(らい
   せい)の句の特徴である。 ) 
 


[71]3・2・水・曇り

漱石と科学のこと
                    「 吾輩は猫である・三 」
( 「首くくりの力学」について )
「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を
繋(つな)いでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2……α6を縄が地
平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と見做(みな)し、
T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論(もちろん)女の体
重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」

 迷亭と主人は顔を見合せて「大抵分った」と云う。但しこの大抵と云う度合は両人
(りょうにん)が勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。

「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下(しも)のごとく十二の
方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……]」

「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴な事を云う。「実はこの式が演説
の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。

「それじゃ首脳だけは逐(お)って伺う事にしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮の
体(てい)に見受けられる。

「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」

「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。
「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙
なところで手をぱちぱちと叩く。
                       
       :::::::::::::::::::::::

たのしげな演説は、漱石の弟子にして物理学者である寺田寅彦がモデルだと言われて     
いる水島寒月氏がしています。くしゃみ先生と迷亭氏の前で理学協会での発表のリハ
ーサル風景です。「三四郎」でも野々宮理学士の「光線の圧力測定」が出てきますし、
「明暗」ではポアンカレの「科学と方法」に納められた偶然の内容が津田のセリフに
おりこまれているのはご存知でしょう。( 覚書き「明暗・2」 )

漱石は英国留学、英文学の研究に行き詰まり、そのことから文学とは対極である科学
の明晰さに魅入られたようです。そのことから漱石は文学の研究に科学の方法を適用
するという無謀な試みに挑みました。「余は下宿に立て篭もりたり。一切の文学書を
行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血
を以って血を洗うが如き手段たるを信じたればなり」と「文学論」の中にも書いてい
ます。

帰国後東大にて、その心血を注いだ「文学論」を講じました。何せ神経衰弱になるほ
ど打ち込んだ「文学論」なのです。それを聴く方の学生はというと前任のラフガディ
オ・ハーンを大変慕っており、漱石の難解な理論はまったく受け入れらることなく、
無残な結果となりました。後に「私の個人主義」のなかで、私の著した「文学論」は
「失敗の亡骸」「畸形児の亡骸」と回想しています。

漱石の無謀としか思えない科学への思い入れは、やはり明治という時代が招いたもの
ではないかと思われます。西欧文明との歴然たる力の差は科学とその応用によるもの
であることが目の前に突きつけられていたのでしょう。近代国家になるには科学の受
容しかないといった科学万能信仰といったものがまかり通っていたようです。福沢諭
吉も慶応義塾の教育に物理学重視の方針を取り入れ、科学の啓蒙書を書いています。
宗教にあっても、教団の未来を背負わされた清沢満之は進化論を学ぶために医学部に
進学したのです。( 覚書き「明暗・67」 )

文学研究に科学の方法を用いることに破れた漱石は、作品に科学の話題をとりこむこ
とで膨らみを与えることになりました。



[70]2・18・金・曇りのち雨

漱石の手紙 

 拝啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んで見ましたあなた
のものは大変面白いと思ひます落着があつて巫山戯〔ふざけ〕てゐなくつて自然其儘
の可笑味〔おかしみ〕がおつとり出てゐる所に上品な趣があります(中略)あゝいふ
ものを是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます然し「鼻」丈で
は恐らく多数の人の眼に触れないでせう触れてもみんなが黙過するでせうそんな事に
頓着しないでずんずん御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身体の薬です 
                               大正5年(1916)2月19日 芥川龍之介あて書簡

『  鼻   』
                          芥川龍之介

 禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と云えば、池(いけ)の尾(お)で知らない者はな
い。長さは五六寸あって上唇(うわくちびる)の上から顋(あご)の下まで下ってい
る。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰(ちょうづ)めのような物が、
ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。

 五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から、内道場供奉(ないどうじょうぐ
ぶ)の職に陞(のぼ)った今日(こんにち)まで、内心では始終この鼻を苦に病んで
来た。勿論(もちろん)表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすまし
ている。これは専念に当来(とうらい)の浄土(じょうど)を渇仰(かつぎょう)す
べき僧侶(そうりょ)の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。
それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったか
らである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧(おそ)
れていた。
 
 内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便
だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が
鋺(かなまり)の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐
らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事に
した。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げら
れている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童
子(ちゅうどうじ)が、嚏(くさめ)をした拍子に手がふるえて、鼻を粥(かゆ)の
中へ落した話は、当時京都まで喧伝(けんでん)された。――けれどもこれは内供に
とって、決して鼻を苦に病んだ重(おも)な理由ではない。内供は実にこの鼻によっ
て傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。

      (  青空文庫で「鼻」の続きが読めます。 )



1・19・水・晴れ

  ( 本日朝日新聞の折々のうた 
    塩辛を壷に探るや春浅し 夏目漱石  )


[69]1・7・金・曇り

 ( 録画しておいた「夏目家の食卓」を見る。20年分を2時間ドラマに
   するのだから大変だろう。脚本の筒井ともみさんは、「漱石にオトコとして
   会ってみたい、触ってみたかった」と書いていらしたけど、なるほど
   漱石先生に対する愛情が感じられる脚本だった。

   39歳で漱石と死別し、80過ぎまで生きた鏡子さん。自由闊達な
   女性だったようだ。晩年よく言っていたのは、「いろんなおとこの人を
   みてきたけど、あたしゃお父さまが一番いいねぇ」だったそうで、
   うらやましい限りだが、どんなつれあいも死なれてしまえばいいオトコ
   だったと思うかもしれない。80年の生涯のうちの4分の1の20年ほどを
   漱石と一緒に過ごし、そのうちの2年は漱石はロンドンに行っていて留守、
   そのうちの7年は妊娠中だったことになるだろう。
 
   漱石は「ひとりの女について深く知ることは、女について知ることに
   なるが、たくさん女を知ったところで女について知ることにはならない」
   と云っている。作品でも、自分に都合のいい理想の女を書くのではなく、
   一作ごとに女と格闘しているように見える。実生活でも鏡子さんと格闘
   していたに違いない。

   漱石先生はいいオトコだと思う。世に多くの漱石ファンがいるのは、
   漱石が文学者として立派であるだけでなく、人間的に漱石に魅力を
   感じているからだろう。 昨年の二兎社の「明暗」の公演がきっかけ
   となったわが漱石ブームは、その漱石の魅力ゆえに、パワーは弱めつつも
   ずっとこれからも持続していくのではないかという気がしている。 )
   
                   夏目房之介さんのブログ            
                   椿わびすけさん(noteぶっく更新されています)
 
  1月5日 「夏目家の食卓」 午後9時〜 TBS系

<ディレクターからのひとこと(久世光彦)>
 明治の文豪物語と思われるでしょうが、これは、大食いの、ちょっと変わった男と、
生れつき呑気な女が夫婦になって繰り広げる、おかしなおかしな明治のホームドラマ
です。夏目漱石は食っては書き、書いては食って死んだ変な人でした。そして奥さん
の鏡子さんは、そんな漱石を長生きさせて、少しでもたくさんの小説を書かせるよう
に、食べ物に苦労した人でした。ヘソ曲がりの亭主と、生来呑気な女房と、おかしな
子供たちが入り乱れて、夏目家はまるで〈寺内貫太郎一家〉みたいに、滑ったり転ん
だり、大騒ぎの毎日です。
 漱石の本木雅弘と、鏡子の宮沢りえは、その運動量の激しさに悲鳴を上げました。
けれどこの二人に、これほど喜劇の才があったのかと、みんな驚きました。ちょっと
心配なのは、このドラマに若き日の漱石の苦悩を期待なさる人たちを、裏切ってしま
うことです。でも、ドラマの終わりが近づくにつれ、目の裏が熱くなるのはどうして
でしょう。おかしなおかしな夫婦ですが、この二人はやっぱり愛し合っていたに違い
ありません。

<キャスト>
宮沢りえ、本木雅弘、岸部一徳、勝村政信、豊原功補、長友啓典、すまけい、
木内みどり、竹中直人、真行寺君枝、松金よね子、岸田今日子、樹木希林 

<スタッフ>
製作:カノックス、TBS
原作:夏目鏡子『漱石の思い出』(文春文庫刊)
   半藤末利子『夏目家の糠みそ』(PHP 研究所刊)
プロデューサー:三浦寛二
脚本:筒井ともみ 演出:久世光彦 音楽:都倉俊一 編成担当:寺島麻由



b>[68]1・4・火・曇り時々晴れ

金之助・鏡子夫妻のこと 

漱石先生の筆跡と鏡子夫人の筆跡が似ていると仰っているのは出久根達郎さんですが、
見れば確かによく似ているのです。また手紙の途中で差し挟む軽口も似ています。長
く生活を共にしていると好き嫌いや物の感じ方が似てくるゆえに、似たもの夫婦とい
う言葉があるのかもしれません。
     
夏目房之介さんによれば、お父上に聞いた話にこんなのがあるそうです。漱石先生が
亡くなってだいぶ後のことでしょうが、鏡子夫人は時々トンチンカンなことを言って
子供達に笑われたそうです。そんな時、「お前たちは、そうしてばかにするけど、お
父さまはちゃんとやさしく教えてくださったよ」と云っていたというのです。

今でいうドメスティック・バイオレンスなみに時折漱石先生にひどい目会っていた鏡子
夫人。別れたらいいじゃないかとかという人があったそうです。その時「そうしたら
あの人のお世話は誰がするの」と。何せ間に7人もの子供がいて、漱石の日記だった
か、こんなに子供が生まれてどうするんだろうなどと云ってもいるのですが、夫婦の
仲が良かったということでしょう。

漱石が門下生との面会の日と決めていた木曜日、いわゆる「木曜会」ですが、大抵食
事も振舞われました。松根東洋城(豊次郎・宮内省式部官)もたまに腕をふるったよ
うですが、そのことについての鏡子夫人が書いた手紙があります。漱石の手紙も、読
むと、なんと親切で魅力のある人かと思うのですが、鏡子夫人の手紙も親しみを感じ
させます。

       :::::::::::::::::::::::

明治40年10月9日  松根宛 鏡子夫人のハガキ

「明後日木曜に松竹(茸)めしなどこしらえて皆様に差上たいと思いますから一寸
 外には何もご馳走もございませんが○○○○けふお出をねがひます但松竹ももら
 ひ物ですよ くり飯ほかほかが出来ましたら私にも何か作て下さい」

明治41年 5月8日  松根宛 鏡子夫人のハガキ

「先日はおすしあ理がとう。あの後は寝て居て、お帰りに失礼いたしました。よく
 寝られたおかげで、一日いいきもちでした。松根さん寝ないで又頭がいたいとい
 つて、ふさいで居るのでしやう。今頃あたりは又あをいかほをして、家にお出に
 なるような気がしますよ。小宮さんが来て居ますよ。やつぱりあをいかほをして。
 家では主人がしつれんで、奥方がつわりで、子供は何でしやうかね」
 
        ::::::::::::::::::::::

          今日の食材・文芸春秋・「漱石夫妻の手紙」出久根達郎
                     「祖父・漱石に会う」夏目房之介 
                         



[67]12・20・月・曇り一時雨

漱石と仏教のこと
   ( 今日の食材 ・ 文芸春秋 特別版
          「 漱石と仏教 浄土真宗との関係を中心に 」 水川隆夫
                
              朝日新聞 土曜日版 ことばの旅人 12月18日  )

       :::::::::::::::::::::::::::

漱石と禅についてはよく言われているので、浄土真宗と関係があるというのは以外だ
という印象をうけました。

明治30年以降、浄土真宗の近代化をめざして、清沢満之(きよざわ まんし)らの
精神主義などの諸運動がおこりました。これらは仏教を江戸時代以来の家の宗教から
個人の宗教に変え、明治の社会における立身出世主義競争から来る不安や近代的自我
の覚醒にともなった執着や絶望を克服し、精神に安定をもたらすものとして広く知識
人や学生を中心とした人々の心をとらえたという背景があります。

清沢満之についてこの前の朝日新聞土曜日版に出ていました。「死もまた我等なり」
という見出しがついていましたが、これは満之の日記の言葉をもとにしており有名な
言葉です。満之は寺の出身ではありませんが、秀才を買われて東本願寺から東京帝国
大学に進学を援助され、哲学科を首席で卒業。フェノロサに学びました。すぐに今の
東洋大学で教鞭をとり、20代の若さで宗門校の校長として呼び戻される優秀さで、
新聞社が投票を募った京都学者三傑に選ばれたともいいます。

いわゆる名士としてのハイカラな生活は28歳のときに一変します。職を辞し、白木
綿の着物と墨染の麻衣での禁欲的な生活を自ら選び、教学の確立と研究に邁進するの
です。そんな生活の無理がたたって結核となりますが、暁烏敏(あけがらす はや)
ら20人ほどの門下生と共同生活をし、仏教の革新のために雑誌「精神界」を創刊し
ました。40歳に満たない若さで人生を終えるのですが、当時も現在も満之の精神は
とても大きな影響をもたらしています。

漱石と子規は帝国大学で満之の6年後輩にあたり、2人は満之のことを「親鸞上人」(
浄土真宗の宗祖)と呼んでいたといいます。漱石の蔵書には「清沢先生信仰座談」など
があり、新仏教のメンバーであった杉村楚人冠(すぎむら そじんかん)とは朝日新聞
の親しい同僚でもありました。新仏教の主要な人物である安藤現慶(あんどう けんぎ
ょう)は漱石宅の木曜会にも出入りしていて漱石に親鸞に関する書物を勧めたたり貸し
たりしています。

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「 吾人ハ死スルモ尚ホ吾人ハ滅セス。生ノミガ吾人ニアラス、死モ亦吾人ナリ 」