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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 049 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(829) 『古代大阪湾の新しい地図に-灘波(津)は上町台地になかった-というが…はて・さて?』 2011年12月14日(水)




 わたしの

【 『 大和朝廷「日本国」出生秘話 』
〔大和王朝は難波副都で天下立評した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ〕 】

説に、重大な影響を及ぼしかねない投稿記事があったので、ご紹介します。




 何故かと言うと、詳しくは追って書きますが、投稿記事の途中に、


「灘波浦」は神崎川の河口、現在の豊中市から尼崎市域にかけての当時の海岸部にあるとされています。

 中世の尼崎の史料に「灘波」地名が記載されており、
現在も尼崎市に
「灘波」
地名があります。

 また、この地域は中世の淀川から瀬戸内海につながる海運の拠点で、たくさんの港湾遺構が見つかっています。

 とあるからです。


 若し、ここに、九州王朝「倭国」の「灘波副都」があったとすれば…、

● 「大宰府」から「葦屋駅」の次の「灘波副都」が終点だったと考えられ、『(続)古代の道:木下良監修・武部健一著』p64で言う、山陽道が “唯一の大路” であったことも、頷けるわけですし、

● 「秦国」が今の奈良県「飛鳥」にあったとすれば、 “淀川をはさんで、対峙できた” わけです。

 ただし、当面は「灘波副都」を偲ばせる遺構は、残念ながら、見つかっていない模様ですが…。


◇◆◇◆◇◆


 投稿記事のご紹介、その前に、下記をクリックして見てください。


②(新しい地図例):【 淀川の成り立ちと人とのかかわり : 淀川河川事務所 】《魚拓》

『日本の政治・経済・文化の中心として栄えてきた淀川流域。その下流に位置する大阪平野は、川の働きによって長い歳月をかけて造られたものです。
淀川流域の発展の過程においては、幾多もの、人々と水害との戦いの歴史がありました。

■海と湖の底にあった大阪平野(古代)

約7000~6000年前の縄文時代前期の大阪平野は、海水面の上昇(縄文海進)によって、河内湾と呼ばれた海の底にあり、現在の上町台地は半島のように突き出ていました。縄文時代中期、河内湾は、海面の後退とともに、北東から流れ込む淀川や南東から流れ込む大和川などが運ぶ土砂の堆積により徐々に埋まっていきました。やがて、河内湾は大阪湾と切り離されて河内潟へ、約2000年前以降の弥生時代中期には、淡水化し河内湖となりました。その後も堆積は続き、河内湖の陸地化は進み、長い歳月をかけて沖積平野が形成されたのです。

 ●⇒ 右横に2枚の『松田順一郎氏提供の原図』


とあります。

 画面が小さくてわかりづらいのですが…、これが淀川・淀川デルタ・河内湖・上町台地の新らしい地図のようです。




《ご注意》: やっと、見つけました。ネットで掲載のほとんどが、いわゆる、古い地図の〔例えば、下記〕でした。

①(古い従来の地図例):【 大阪湾環境データベース 『∥大阪湾の歴史』 : 国土交通省近畿地方整備局 】《魚拓》


◇◆◇◆◇◆


『古田史学会報』no.107(2011年12月10日)に、寄稿の

『古代大阪湾の新しい地図-灘波(津)は上町台地になかった-:豊中市 大下隆司投稿』

以下は、その抜粋・転載ですので、悪しからず。




 今まで古代大阪湾の地図として「大阪平野の発達史」一九七二年、梶山彦太郎・市原実著の地図①が使われてきましたが、これに代わる新しい地図②が二〇〇三年の日本第四紀学会において趙哲済、松田順一郎氏により発表されました。

 この地図はその後、大阪市文化財協会発行の『大阪遺跡』二〇〇八年出版にも掲載され、最近の古代大阪に関する講演会で多く使われています。


【 ①(上:古い従来の地図)&、②(下:新しい地図)大阪遺跡p007「河内湖」】



 ①(古い従来の地図)は、梶山氏が大阪市域で行われていた工事現場をくまなく訪れて、淡水に棲む貝と海水に棲む貝の化石・痕跡を詳しく観察し、そのデータを基に知悉学者の市原氏と共同で作成されたものです。

 ただしこの地図はその後出土した遺跡が水域の中にあるなど、 “発掘と地図とがマッチせずに” 問題が起きていました。


 ②(新しい地図)の方は、大阪市域を中心に二万本以上掘られたボーリングによる地質調査に基づいて作成されたもので、 “より一層古代の正確な” 大阪の地形を示していると考えられます。

 ただ、何故か大阪歴史博物館のパネルには古い地図が今も使われ、従来どおりの説明がなされています。新しい地図を使うと、従来の古代大阪の説明を大きく変えざるを得ないためと考えています。

 古代大阪湾岸の状況につき、昨年から「古田史学の会」関西例会で発表し皆さんの意見を聞いてきました。全体をまとめて報告します。


一、古地図と「灘波の堀江」


(古い従来の地図①)

 弥生時代、「上町台地」の北に「長柄砂州」が続き、河内湖の水は、現在の新大阪駅の北にあった水路から大阪湾に流れていました。

 そして、古墳時代になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の大阪城の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となた、としています。

 このストーリーが『日本書紀』仁徳紀の “水害が多いので、宮の北の野を掘り、南の水を導いて西の海にいれた、これを堀江と呼ぶ(古事記では「灘波の堀江」)” と合致する。

 まさに “考古学的事実と文献の合致” ということで、仁徳紀の舞台をこの地としてきました。

 古代に「上町台地」が「灘波」と呼ばれていた “証拠とされてきた” 、ものです。




    【 ②(新しい地図)大阪遺跡p006「大阪平野の古地理変遷」】






    【 ②(新しい地図)大阪遺跡p007「河内湖」時系列生成過程】






(新しい地図②)

 近年の地質調査、また古代遺跡の発掘状況から、つくられたのが
(新しい地図例②)
です。


 弥生時代において、上町台地の北端、現在の大阪城の北端には、 “すでに” 水路が通り、河内湖の水はそこから大阪湾に流れ出ています。  そして、この地図によると、河内湖から大阪湾への水路は “自然に出来た” もので、 “「堀江」を掘削した” ものではありません。


   仁徳紀にある“「灘波の堀江」は「上町台地」での話ではなかった” ことになります。

 「仁徳紀」の舞台を「上町台地」とするために作られた “架空のストーリー” だったと分るのです。




二、「灘波津」の場所


(「灘波津」=「高麗橋」説)

 梶山・市原氏の地図、仁徳紀「灘波の堀江」記事、また地質学者としての知見などから日下雅義氏が「灘波津=高麗橋周辺説」を提唱しました。「灘波津」の場所については、千田稔氏の「心斎橋筋・三津寺説」など多くの説がだされましたが、すべて否定され最後に残ったのが、この「高麗橋周辺説」です。


 多くの考古学者の支持を得て、現在では「定説のように」扱われています。


   【 地図③(古い従来の地図①からアレンジ型)『古代景観の復元:日下雅義』】


 地図③(古い従来の地図①からアレンジ型)『古代景観の復元:日下雅義』

   が、梶山・市原氏作成の河内湖の時代(一八〇〇~一六〇〇年前)をベースに日下氏が六・七世紀の「摂津、河内、和泉の景観」として作成したものです。

 「上町台地」の北から西側にかけて「天満砂州」が形成され、その「砂州」には南北の方向に「ラグーン(=潟)」があった。「上町台地」の北の所で、その「砂州」を横切り、東西の方向に「灘波の堀江」がつくられたために、「堀江」「ラグーン(=潟)」が交差する所に「入江」が出来た。
 この「入江」は現在の「高麗橋」周辺にあり、ここに「灘波津」と呼ばれる港が作られた。平安時代に「渡辺津」があったところがその場所である。との説明がなされました。


(古墳時代末の「高麗橋」周辺)
 近年、大阪市文化財協会により、「上町台地」北端・「道修町」「高麗橋」周辺の詳しい地質調査が行われています。地図③において、日下雅義氏によって「灘波津」があったとされた所をです。




   【 地図④(新しい地図②からの渡辺津)『古田史学会報no107』写し】


 地図④(新しい地図②からの渡辺津)『古田史学会報no107』写し】

   が、新しく発表された古墳時代末の「上町台地」西北部の地形図です。

、現在と同じようにその北側に「大川」があり「河内湖」の水が流れています。

「大川」の南側は東に「A:上町台地」があり、その西側に「B:灘波砂州」があります。その間に「C:湿地帯のトラフ」がありました。

、古墳時代末になって、「大川」の上流から運ばれた土砂により「上町台地」の北側に、「D:砂州」が形成され始めます。

、このために、「A:上町台地」「B:灘波砂州」の間にあった「C:湿地帯のトラフ」「大川」と遮断されます。

、出口を失った「C:湿地帯のトラフ」の水はかさが増え、最後には、「D:砂州」を乗り越えて、再び、「大川」と繋がるようになります。

「E:入江」が出来、そして人が住むようになり、「津」が形成されました。この辺りが、平安時代に「渡辺津」と呼ばれていた港があった所と考えられます。




 日下氏はこの「E:入江」が古くから形成されていたものとし、この地に「灘波津」があったとされていましたが、最近の地質調査では七世紀にまだ「E:入江」は出来ておらず、この説は成り立たないことがわかってきました。

 またこの場所から、奈良時代以前の遺物は出土していません。「灘波津=高麗橋説」は完全に「否定された」と考えます。

 「上町台地」では、「灘波津」を探して、長年にわたり大阪の考古学者による調査が行われてきましたが、その痕跡はまったく見つかっていません。  「灘波津」は「上町台地」に「無かった」と考えるべきと思います。


  ■


三、『書紀』の灘波


(記紀の灘波地名)

 『書紀・神武即位前紀』には、神武が瀬戸内海を経由し、たどり着いた所は、 “今は「灘波」としているが、昔は「浪速国・浪速(なみはや)」だった” と書いてあります。
 『古事記』にもこの土地は、「浪速(なみはや)」としています。「灘波」ではありません。

 また、通説では『書紀』に多く書かれている「灘波」にあった宮や、多くの外交関係の記事について、その舞台を「上町台地」としていますが、仁徳紀「灘波の堀江」記事を根拠として、なんとか、それらを「大阪・灘波」に結び付けようとしているものです。

 仁徳紀「灘波の堀江」記事以外に、古代に「上町台地」が「灘波」と呼ばれていた確たる証拠は記紀からは見えてきません。
 「灘波の堀江=上町台地」が否定されたことにより、これらの説明は根拠が非常に弱くなってくるものと考えます。

 そして、長年の調査に関わらず、「上町台地」とその周辺には、それらの宮や外交館の遺構はまだ見つかっていません。また外国との交流を示す遺構・土器なども出土していません。


(「上町台地」の地名)

 古代に「上町台地」にあった地名d中世以降も続いているのが「味原郷」です。和名称にあり、近世では『摂津名所図会』にも描かれ、現在も「上本町6丁目」近くに「味原」の地名が残っています。

 万葉集巻六の一〇六二番歌は田辺福麻呂が聖武天皇の灘波京を歌ったものとされています。この歌において、聖武天皇の宮を、「灘波宮=味原宮」と二つの名前で呼んでいます。 “「味原(=地名)」にある「灘波宮」” と呼ばれていた可能性が考えられます。

 「灘波宮」の名称は地名からではなく、「孝徳の灘波長柄豊崎宮、斉明の灘波朝(いずれも九州王朝の博多湾岸の宮都か)」から由来したものではないかと考えます。


 「上町台地」の南に四天王寺があります。古代、近くに阿倍氏の本拠地のあったところです。ここも「灘波」と呼ばれていた痕跡はありません。中世になり、それまで湿地帯であった四天王寺西側の土地開発が行われ、始めて「灘波荘」が出来ます。それが現在の大阪のミナミの地名「灘波(ナンバ)」の起こりです。


 「二中歴」に、「倭京二年(六一九)灘波に四天王寺をつくる」の記述がありますが、この記事も大阪・灘波ではないと考えます。七世紀初頭に「大阪・灘波」は、まだ海岸にありました。


 これらのことから、古代「上町台地」周辺に「灘波」と呼ばれた地名はなく、聖武天皇の時に始めて、宮名として「灘波」が使われた、と考えます。


(前期灘波宮遺構)

 孝徳紀・灘波長柄豊崎宮=前期灘波宮遺構が白雉年間(六五〇~六五四)のものとする見解が定説化しています。
 古賀氏の前期灘波宮遺構=九州王朝副都説もこの立場に立っています。


 前期灘波宮遺構については、七世紀後半説も多くあったのですが、「戊申年(六四八)」木簡が傍らの谷間から出土したことから、これが決定的証拠とされ、七世紀中葉建設説が確定的となりました。


 はたして、傍らの谷間のゴミ捨て場にあった木簡が前期灘波宮建設時代の確実な根拠となるのか、また、発見されている木簡の多くは六七二年以降の天武・持統の時代以降のものではないのか。この前期灘波宮遺構の七世紀中葉建設説については疑問を感じます。


 また、古代の宮都遺跡を研究している京都の考古学者から、前期灘波宮整地層の下層遺跡から出土している土器に七世紀後半のものが含まれている。その上層遺跡である前期灘波宮遺構はそれ以降のものではないかとの指摘がされています。(参考:『京から出土する土器の編年的研究』小森俊寛、2005年、京都編年工房出版)


 さらに、この論文には“前期灘波宮下層遺跡から出土物を分析すると、兵站に関するものがあり、当時、「白村江の戦場」に送るための物資を「上町台地」に集めたのではないか”という興味深い記述があります。




   【 地図⑤『博多古図』(JR博多駅西隣の住吉神社にある)】

(「書紀・灘波」は博多湾)

 六世紀頃から『書紀』の外交関係の記事に「灘波」が多く現れます。七世紀「白村江」に向けて、中国・朝鮮との関係が緊張してゆく時期です。この時代、大陸と関係をもっていたのは「九州王朝」で首都は「大宰府」です。当然、中国・朝鮮の外交使節の来る場所は博多湾です。

 鴻臚館では外国との交流を示す遺構・土器が大量に出土しています。博多の住吉神社にある古地図⑤によると、古代には鴻臚館のそばに大きな入江(草香江)が存在し、そこには明治時代に字「灘波」という地名がありました。現在でも「灘波」と呼ばれている池があります。また鴻臚館から太宰府へ通ずる古代の官道遺跡も出土しています。


 これらのことから、『日本書紀』の外交記事などに描かれた「灘波」は、九州博多湾のものと考えます。
(参照:古田武彦講演録 二〇〇〇年四月堺市泉北考古資料館、
「古田史学の会」HP〔 新古代学の扉 〕
掲載)


 聖武天皇の上町台地の「灘波宮」、中世になっての上町台地西側に出来た「灘波村」、また『書紀』の「博多湾・灘波」記事が混同され、古代から「灘波」地名が、上町台地にあったかのように扱われてきたと考えます。


四、摂津・灘波と物流


(『神代記』の灘波浦)

 奈良時代末から平安時代ごろに書かれたとされる『住吉大社神代記』があります。
 この『神代記』に住吉神社社領の記載があり、その中に「長柄」と「灘波浦」の場所が書かれています。その位置と大阪湾岸で見つかっている古代の津の遺構(上津島、住吉津、桑津)、五世紀の大倉庫群(蛍池、法円坂)の遺構の場所を地図⑥に記入しました。


【 地図⑥『古代攝津の津・大型倉庫』(「住吉大社神代記」の長柄・灘波を加筆)】


 「長柄」は現在の大阪市北区の長柄・豊崎でなく、大川を越えた東側の豊島区から鶴見区・守口市のところとされています。上町台地から遠く離れています。


 「灘波浦」は神崎川の河口、現在の豊中市から尼崎市域にかけての当時の海岸部にあるとされています。中世の尼崎の史料に「灘波」地名が記載されており、現在も尼崎市に「灘波」地名があります。また、この地域は中世の淀川から瀬戸内海につながる海運の拠点で、たくさんの港湾遺構が見つかっています。

              ↓ (拡大) ↓


 灘波と長柄また上町台地はまったく別のところにあったのです。「灘波 長柄 豊崎宮=上町台地説」はまったく成り立たないことになります。


(古代攝津の港まち・豊中)

 豊中市の「上津島」に弥生終末から平安時代にかけての遺跡群があり、海を越えた交流を示す土器、物流の主体となる倉庫・建物跡などが出土しています。また、この場所で「神崎川」の旧河床が確認され、北から流れてくる「猪名川」と、東からの「神崎川」の合流点であったことがわかってきました。

 当時、「上津島」は「猪名川」流域と「神崎川」・「淀川」水系を結び、「瀬戸内海」から北九州に繋がる水運の拠点であったことが伺われます。
 この地域の港湾活動は平安時代には衰退に向かい、水運の中心は下流の椋橋庄・庄本、神崎、そして尼崎のほうに移ってゆきました。
(参照:『中世土器研究』一二六号、「はたして灘波津はどこにあったのか?」二〇一〇年、橘田正徳著)


(古代大阪湾の物流)

 豊中市の北にある「蛍池」遺跡で五世紀に作られた大型倉庫群が見つかっています。この地は西国街道のすぐ南にあり、東は高槻・茨木、山背につながっています。

 また、傍らに「猪名川」が流れ、その上流が「能勢」地域dす。港のあった「上津島」まで「千里川」の水運があります。北摂・能勢・山背の産物がここにあつまり、それらを一旦保管し、「上津島」から船で瀬戸内海、北九州へ運び出していたと考えられます。

 当時は倭の五王が朝鮮半島で軍事作戦を展開していました。朝鮮半島で必要な物資を北九州から輸送していた可能性も考えられます。


 同じころ、上町台地の北側、「法円坂」に「蛍池」と同じような大倉庫群が作られています。

 この近くの港として、河内湖側に「桑津」、大阪湾側に「住吉津」があります。大和川で運ばれ「玉造」のちかくにあった津で陸揚げされた物資は、「法円坂」倉庫に保管され、「住吉津」から九州へ運びだれたと考えます。同じように、朝鮮半島への兵站の役割をはたしていたのではないでしょうか。


五、まとめ

 弥生時代から古墳時代にかけての古代大阪湾の地形が明らかになり、従来の「大阪・灘波」を説明する根拠がなくなってきました。また『書紀』の「灘波」記事も多くは「博多・灘波」のものであると考えられます。


 古代遺跡についても、生駒山麓西側の中河内地区に弥生の遺跡が密集し、高度な土器が生産されています。また、北摂の「豊中」から「尼崎」にかけても、たくさんの弥生の遺跡があります。


 五世紀になると、柏原市「大県遺跡」で大規模な鉄生産が行われ、当時の古墳から出土する大量の鉄製武具を供給しています。北河内には牧があり、「蔀屋北遺跡」からはたくさんの馬の遺骸が出土しています。


 「蛍池」・「法円坂」の大型倉庫群と、その近くの港遺構から古代大阪湾の物の流れは、
● 北部の猪名川、淀川・神岬川の物資は「豊中」・「上津島」の港。
● また、南部の大和川流域・和泉の物資は「住吉津」。
 二つの主要拠点を通じて瀬戸内い繋がっていたことが見えてきます。


 中世において、それらは近くの「尼崎」・「堺」の港に移ってゆきましたが、物の流れは基本的に古代から中世にかけて、ほぼ同じ構図であったことが分ります。この間、上町台地が物流を含めて摂河泉の中心になった痕跡は見当たりません。


 大阪の歴史については、『日本書紀』の灘波(津)の記事、また、聖武天皇の後期灘波宮遺跡に影響されてか、古代から近代まで常に上町台地が中心に組み立てられ、古代にはあたかも、この地で華々しい外交活動が行われていたようにまで語られています。本当に、そうであったのか?


 上町台地が重要な土地となってくるのは、近世の秀吉の大阪築城と、徳川幕府の大阪城下町の整備・発展からです。それまでの大阪の中心地域は河内・摂津、ではなかったのか?
 「灘波=上町台地説」の呪縛を解き放ち、大阪の歴史を根本から見直す必要があると思います。


 本件に関し、関西の会員、石川邦一氏から新しい地図や京都考古学会の情報など貴重なデータをいただき、また例会での発表において先輩諸氏より多くの助言をいただきました。お礼を申し上げます。


 (参考文献)⇒省略




上記、『古田史学会報』no.107(2011年12月10日)に、寄稿の

『古代大阪湾の新しい地図-灘波(津)は上町台地になかった-:豊中市 大下隆司投稿』

の「抜粋・転載」以上ですが…、いかがでしょう。




 ここで、一言。

 【 (新しい地図②)大阪遺跡p007「河内湖」時系列生成過程 】
は、大阪市域を中心に「二万本以上掘られたボーリング」による地質調査で作成されたというじゃないか、当然 “より一層正確な古代の” 大阪の地形を示しているはずだ。

 この記事を抜粋・転載するにおいて、(新しい地図②)をネットで探したが…、ネットで取上げているのは、いわゆる、(古い地図①)がほとんどだった。

 唯一、「淀川河川事務所」ホームページの上図が(新しい地図②)であったのだ、「流石・あっぱれ」である。

 やはり、プロなのだろう。(これで、大阪市民は「河川の管理」において安全である)よかったね。

 \(^o^)/


 逆に言えることは、(古い地図①)を、ホームページでアップしてる方は、「何をかいわんや」である。

即刻、「退場」…「退場」・「退場」・「退場」あるのみ。。。


なんだかネー、平松前大阪市長になってもーた。




 ◆ 「まとめ」の、「まとめ」

【Ⅳ・①
『大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』】

 の文中にある『日本書紀』の抜粋、




 『天武天皇の詔(複都制683年:天武12年:白鳳23年)で、12月17日、また詔して、

「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」

と詔した』  の〔造複都難波京〕683年時期です。


 なお、加えて、 『飛鳥ともに難波京を都とした』 と前後の記事の状況から書くものがいるが、複都制(=両都制、両京制)採用は、広大な領土を有する国に多く採用されるので、これでは近すぎて複都の意味をなさない、あるとすれば 『大宰府ともに難波京を都とした』 だろう。


 更に、上記の天武天皇・詔は、正木裕氏の上記に記載の34年遡上説に従うと、これこそが、34年前の649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)の出来事〔造複都難波京〕となる。』




 であり、中でも特に注目すべきは、下記の「詔そのもの」ではないだろうか、


『(天武12年12月17日)また詔して、
「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」
と詔した』




 要するに、『書紀』の言う683年か、あるいは、正木裕氏の「34年遡上説」での649年か、の“いずれかの”年に、 『 「複都」としての「難波京」を造れ。』
と命じたことは、史実だろう。

 更に、この詔が、九州王朝「倭国」史書の「切り貼り」である、とすれば、「複都」である以上、大宰府のすぐ近くの、 『 博多駅近くの「灘波」ではない。』
ことも確かだろう。




 ということは、

 ● 古賀達也氏の前期灘波宮遺構「上町台地・灘波説」が、白雉年間(六五〇~六五四)孝徳紀の「灘波長柄豊崎宮」であり、「九州王朝副都」であったとする説も、

 ● 大下隆司氏の上記「尼崎市・灘波説」も、

これから先、充分に、注目・検討すべき課題であると、私は考えます。




すなわち、

 ● 古賀達也氏の前期灘波宮遺構「上町台地・灘波説」が、「九州王朝副都」であったとする説は、「遺構の成立年代」を再検証・再確認する必要がある、と考えるし、

 ● 大下隆司氏の上記「尼崎市・灘波説」は、「九州王朝副都」としての「前期灘波宮遺構」が、「尼崎市・灘波」付近に存在しないか? を、早急に、調査・検証する必要がある、と考えます。




 ところで、この「尼崎市・灘波」の「尼崎」って、
ひょっとして、元々は、「 尼崎 」 ⇒ 「 天崎 」だったのでは、ないだろうか?  (^_^;)


 この最初に書いたように、

『若し、ここに、九州王朝「倭国」の「灘波副都」があったとすれば…、

● 「大宰府」から「葦屋駅」の次の「灘波副都」が終点だったと考えられ、『(続)古代の道:木下良監修・武部健一著』p64で言う、山陽道が “唯一の大路” であったことも、頷けるわけですし、

● 「秦国」が今の奈良県「飛鳥」にあったとすれば、 “淀川をはさんで、対峙できた” わけです。

 ただ、当面は「灘波副都」を偲ばせる遺構は、残念ながら、見つかっていないということだ。』


おーいッ 日本に、ハインリッヒ・シュリーマンは、いないのかーッ?




お・お、そうだ。書き忘れるところだった。

上記の、

『 三、『書紀』の灘波
(記紀の灘波地名)
 『書紀・神武即位前紀』<途中略>
 仁徳紀「灘波の堀江」記事以外に、古代に「上町台地」が「灘波」と呼ばれていた確たる証拠は記紀からは見えてきません。
 「灘波の堀江=上町台地」が否定されたことにより、これらの説明は根拠が非常に弱くなってくるものと考えます。云々』

については、詳しく『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』
第三章 博多論 … p83
1 おおささぎの帝
1 法隆寺五重塔の落書き
2 仁徳天皇
3 博多古図
4 大土木工事
に詳しく記載されているので、ぜひ、ご一読されますよう、お勧めします。




《 ①(古い従来の地図)と、②(新しい地図)との、“大きな違い”とは、何んなのか? 》




【 ①(上:古い従来の地図)&、②(下:新しい地図)大阪遺跡p007「河内湖」】



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最初“ぱっと見”には、①(古い従来の地図)と、②(新しい地図)との、“大きな違い”とは、何んなのか? “さっぱり”わかりませんでした。


 “つまるところ”
(古い従来の地図①)
が、『「上町台地」の北に「長柄砂州」が、”水没せず”陸続きしていた。』としたことでしょうか。


 そうしたが為に、以下の 「堀江の掘削」という“作文”を、結果的に、“でっちあげてしまった” ということでしょうか。


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『河内湖の水は、現在の新大阪駅の北にあった水路から大阪湾に流れていました。

 そして、古墳時代になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために「上町台地」の北端、現在の大阪城の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となた、としています。

 このストーリーが『日本書紀』仁徳紀の “水害が多いので、宮の北の野を掘り、南の水を導いて西の海にいれた、これを堀江と呼ぶ(古事記では「灘波の堀江」)” と合致する。

 まさに “考古学的事実と文献の合致” ということで、仁徳紀の舞台をこの地としてきました。

 古代に「上町台地」が「灘波」と呼ばれていた “証拠とされてきた” 、ものです。』


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 が、実際には、

『弥生時代において、「上町台地」の北端、現在の大阪城の北端には、 “すでに” 水路が通り、河内湖の水はそこから大阪湾に流れ出ていた。』

ということでしょう。


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『そして、この
(新しい地図②)
によると、河内湖から大阪湾への水路は “自然に出来た” もので、 “「堀江」を掘削した” ものではありません。


   仁徳紀にある“「灘波の堀江」は「上町台地」での話ではなかった” ことになります。

 「仁徳紀」の舞台を「上町台地」とするために作られた “架空のストーリー” だったと分るのです。』

と、続くわけです。


 なお、ここで、 “注意” しなければならないのは、 「上町台地」 は何時も、 “変わらずに、水没していない” ということだ。

 ということは、 “ひょっとして” だが、 「灘波(津)」 は、 「上町台地」 周辺に、発見されていないだけで、 「存在しているかもしれない」 のだ。


    【 ②(新しい地図)大阪遺跡p006「大阪平野の古地理変遷」】






    【 ②(新しい地図)大阪遺跡p007「河内湖」時系列生成過程】






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(830) 『続7) では、魏晋朝が邪馬壹(=壱)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?』 2011年12月21日(水)




先日のブログ、

【2011年12月8日(木)
続2) では、魏晋朝が邪馬壹(=壱)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?】

で、私の姓「山本」について少し触れていますが…、その際、書棚を捜したが、見つからなかった『山本さんの本:姓氏研究会編』が見つかり、その一部を抜粋・転載します。


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《途中略》


 この上記いずれも、『“山本”は“山麓”の意味である。』としています。

 古田武彦氏が、『俾弥呼の国名は、「邪馬国」である。の「邪馬」を「山(=mountain)」と、解釈した。』と、同じです。

…が、同時に、「神主」に多い名前と聞いています。「神主」とは、いってみれば、「聖職者」ということではないでしょうか。

 言い換えれば、「神主」 “山本” とは、“や”に仕える者、「聖職者」ということになります。




 一方、目を転じて、地図から、地名の “山本” を探すと、この “山本” の近く、付近には、不思議と、神社・大社があります。


【高良山・高良大社の付近に、「久留米市山本町」】


【倭国の聖地・倭薈王最後の地「小倉山」の麓にある山本】


【『椿大神社』の近くの山本】


探すと、きっと、一杯あるでしょう。

「神社・大社」の麓(=ふもと)にある “山本” とは、聖地“やま”の麓(=ふもと)の場所 となります。




 上記以外の九州にある地名 “山本” を地図上に拾ってみました。


【熊本県鹿本郡植木町山本】


【福岡県築上郡椎田町山本】


【福岡県北九州市小倉南区山本】


【佐賀県唐津市山本】


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『山本さんの本:姓氏研究会編』の一部を、下記に抜粋・転載します。


第一章 山本さんの祖先と系譜 吉田大洋 p18

なぜ天下の大姓になったのか


「山本」姓は、朝日生命調べでは9位になっているが、大姓のナンバー4である。「全国で約九十万人にのぼる」とは、先般なくなった、お名前博士こと佐久間英氏の話だ。発祥地は京都府らしく、近畿・中国地方を中心に、石川県~三重県以南で伸び、四国では高知県、九州では福岡県に多い。

 県別のベスト5(調査者・佐久間英氏)にランクされているのは、次の各地である。第一位、和歌山県、岡山県、山口県、島根県、鳥取県。第二位、石川県、福井県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県。第三位、三重県。第四位、広島県、福岡県。第五位、奈良県。
 岐阜県以北では、一県も顔を出していない。

 さて、山本さんはなぜこうも増えたのだろうか。後世の苗字が地名から起こったことは、前に述べたとおりである。そして、大姓の苗字と同じ地名を、平凡社版の『日本地図』で調べると「山本」が三十一と、中村の三十三に次いで多い。これが大姓となった、第一の原因である。

 第二には、上古の大族だったカモ族から山本氏を出したこと。カモ族には、スサノオノ命の子コトシロヌシノ命の後裔(スサノオの十一世の孫)大鴨積(おおかもつみ)命を租とするもんの(加茂君)や、神武天皇の功臣・ヤタガラス武津之身(たけつのみ)命の後というもの(鴨県主:かものあがたぬし)などあるが、同じ神を祀っているところを見ると、本来は同族だろう。




 このカモ族は各地に赴き、加茂社を建て、繁栄していった。

『延喜式』には、山城、河内、摂津、伊勢(二)、備前(三)、阿波、讃岐の鴨神社。上野、加賀、淡路、土佐の賀茂神社。伊勢の賀毛神社。伊豆、美濃の加毛神社。山城の賀茂御租神社、同賀茂別雷(わけいかずち)神社、同賀茂波爾神社、同賀茂山口神社、同賀茂岡本神社、大和の鴨都味波八重事代主神社、高市御県座鴨事代主神社、鴨山口神社、河内の鴨習太神社、鴨高田神社、常陸の鴨大神御子神玉神社、などが記されている。

 中でも、京都市北区の賀茂別雷神社(祭神は別雷神)と、左京区の賀茂御租神社(祭神は別雷神の妻の玉依姫と賀茂建角身命=ヤタガラス命)は有名である。


 この加茂社の神官に、山本氏がいた。当然、布教のため各地に乗り込み、子孫を増やしていったものと思われる。大姓ベスト10に入っている、鈴木、高橋、小林、斎藤などの各氏もそうだが、上古からの神官系には、大族となったものが多いのである。その理由は-


① 知識人として歓迎されたこと。
 当時の神官は、インテリであった。地方へ行くと、すぐに庶民から指導者として仰がれ、豪族や武士も知識を買って、政治的に結びついた。こうして次第に「山本さん」とゆかりの者が増え、彼らはすすんでその苗字を名乗った。


② 宗教的セックス。
 上古の宗教はセックスと切り離せない。その歓喜のうちに、神々の境地へと達するのである。古代バビロニアの神につかえる女の多くは、信者と「神聖なるセックス」を行なう役目を持っていたし、上古におけるわが国の巫女や比丘尼(びくに)にもそうした姿がうかがえる。怪僧ラスプーチンの日本版、弓削道鏡と孝謙女帝(在位七四九~七七〇)の関係も、こう考えると不自然ではない。

 日本の男根(リンガ)信仰(道祖神、塞(さえ)の神、田の神、金精様、道鏡様など多い)は、いまでこそ子孫繁栄、五穀豊穣を願うものだとされているが、元は宗教的セックスが根本にあったはずだ。東京都府中市大国魂神社の「くらやみ祭り」、石川県羽咋郡富木八幡の「ぐじり祭り」、各地のお田植え祭りなどにも、その面影が残っている。また、昭和初期まで、神官や僧侶に初夜権を与えたり、彼等から子種をもらう風習の地方もあった。山本さんの祖先は、うらやましいような宗教的義務の遂行によっても、一族を増やしていったのである。


③賀茂神が、朝廷、貴族から武士、庶民にいたるまでの篤い尊崇を受けていたこと。
 京都賀茂神社の「葵祭り」は、三大勅祭(ほかに石清水祭、春日祭)の一つに数えられ、その起源は欽明天皇(五四〇~五七一)の時代に遡るという。『続日本紀』では、文武天皇の二年(六九八)、大宝二年(七〇二)、和銅四年(七一一)と連続三回にわたり、朝廷が山城国司に命じて、賀茂の祭りを執り行なわせたと述べている。

 また、朝廷は平安京に遷都して(七九四)以降、この神社を優遇するすること篤く、平城天皇の大同元年(八〇六)の時に、神祭としての賀茂祭が始まり、嵯峨天皇(八〇九~八二三)の時から伊勢神宮と同じように、皇女をその斎主に任命し、さらに白河天皇(一〇七二~一〇八六)の時から、賀茂祭には行幸の儀が恒例となった。

 こうした由緒ある神社の神官だったことも、山本さんが大族となるのにプラスしたものと思われる。なおカモの語源は「神」で、それがカミ→カム→カモとなまったものといわれる。
 徳川家康を生んだ松平氏は、後世、清和源氏新田氏流を名乗ったが、元をただせばカモ族だ。


山本さんの発祥地と苗字の由来

『和名称』から、郡、郷以上の「山本」という古地名を拾ってみよう。
●山城国(京都府)綴喜郡山本郷(『続日本紀』に山本駅とある地だ)
●摂津国(兵庫県と大阪府の一部)河辺郡山本郷(也万毛止との註がある)
●美濃国(岐阜県)不破郡山本郷
●羽後国(秋田県)山本(也万毛止)郡山本郷
●讃岐国(香川県)河野郡山本(也万毛止)郷
●讃岐国(香川県)刈田郡山本郷
●筑後国(福岡県)山本(也末毛止)郷
●肥後国(熊本県)山本(夜末毛止)郡山本郷

 地名は、一般的に南から北へと上っていく。しかし、「山本」の場合は、カモ族との関連を考えると、その繁栄した地域、つまり大阪、兵庫、京都~岐阜間に起こり、それがカモ族の移動とともに地方へ広まったとすべきだろう。そして、山本さん発祥の地も、山城、あるいは摂津(両方に山本荘がある)のいずれかであると思われる。

 山本さんの苗字が「山の麓(=ふもと)」を意味するものでないことは前述したとおりだ。例えば、大阪府の
「山本」
は、平坦な八尾市にある。前頁の地名にも、也万毛止、也末毛止、夜末毛止の字を当てている。いいかえれば、ヤマモトと呼んでいた地名を、漢字で也万毛止→山本と音写したに過ぎないのである。

 それでは、「山本」は何を意味しているのか。
明治大学教授の鈴木武樹氏は、山本、山形、山口などは、中国の歴史書『三国志』魏書東夷伝に出てくる「邪馬(=やま)」系の地名ではないかとしている。


 ヤマは、シュメール語でLam(=ヤマ)「神饌(=しんせん)」モトはMul(=モト)「支配者」を表わし、ヤマモトで「神饌を献じる支配者」を意味する が、これが正解であるかどうかは確信が持てない。


◆◆◆◆


 以上が、『山本さんの本:姓氏研究会編』の一部抜粋ですが、




   【 十和田湖の途中で “ひとやすみ” 】






 この説で、「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?」と聞けば…、

 『ヤマとは、シュメール語でLam(=ヤマ)「神饌(=しんせん)」を意味する。』となって、

 『やまゐ国=山倭(=委)国=也万(=也末・夜末)倭(=委)国=「神饌」の倭(=委)国=神聖な「鬼道(≒神道)」を祀る倭(=委)国』と、解釈できようか。


◆◆◆◆


 『では、魏晋朝が邪馬壹(=壱)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?』と、私に、改めて聞かれたら、




女王「俾弥呼」の都する「やまゐ国」とは、「神饌」の倭(=委)国=神聖な「鬼道(≒神道)」を祀る倭(=委)国』で、「高良山・高良大社」である。と答えるだろう。
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【南至邪馬壹国。女王之所都。水行十日、陸行一月の『高良山・高良大社』】


【南至投馬国水行二十日の『都萬神社』】




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(832) 『『 らん展 』 の “きれいどころ” 天は、「2物を、与えている」のだ』 2011年12月27日(火)




☆ ☆ ☆☆ ☆☆☆☆☆☆

      ● あなたの パソコンの 「背景画像」 にどうかなー、

                  すこーし “派手” かも…      (=^・^=)   

                                   ☆ ☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆☆




   【 らん展 “1” (=^・^=) 】






   【 らん展 “2” (=^・^=) 】






   【 らん展 “3” (=^・^=) 】






   【 らん展 “4” (=^・^=) 】






   【 らん展 “5” (=^・^=) 】






   【 らん展 “6” (=^・^=) 】






   【 らん展 “7” (=^・^=) 】






   【 らん展 “8” (=^・^=) 】






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