桓 武 天 皇 ご 即 位 の 謎

 

佐 治  奈良時代を記した正史に『続日本紀』がありますが、これは延暦16年、つまり桓武天皇のときに編纂されたものとされています。

この『続紀』は、『日本書紀』同様に疑史性の濃いものですが、この『続紀』を語るまえに、やはり修史を下命した桓武天皇自体が問題となります。ここでこの謎多き天皇についてアプローチしてみたいと思います。『続紀』によると、桓武は光仁が死んだとき「アイゴー・チョゲッタ」と言って泣いたとなっている。

 

鹿 島  アイゴーだけですよ。桓武と言う名は桓族の武王ということで、桓は“韓”の正字です。

 

佐 治  正確には『哀をあぐ』でしたか‥‥‥。さて、桓武天皇が百済系なのは、だれしも認めざるを得ない事実かと思われますが、ご本家の百済王家の実態といいましょうか、だいたいどの程度判っているものでしょうか。

 

吾 郷  『三国史記』や『三国異事』、それに中国の「東夷伝」関係のデータ以外に何かありますかね。やはり『桓檀古記』になりますか。

 

佐 治  『日本書紀』における「百済史」のウエイトはだれしも認めるわけですが、肝心の百済史そのものについて、日本史学者(国史学者)はほとんど読もうとしませんね。

 

鹿 島  百済史と『日本書紀』の関係は案外盲点となっています。とくに日本に渡来した百済王という一族は謎めいています。今井啓一氏は

1)『続群書類従』系図部には「原本欠く」となっている。

2)桓武の生母の高野新笠が、和氏でなくて百済王氏だとなっている。

3)天皇家の後宮内の藤原氏の女について詳しく述べているのに、高野氏や百済氏の女についてはふれない。

4)桓武時代の蝦夷征伐について、坂上田村麻呂のみが華々しく書かれていて百済王一族がその影に隠れている。

5)百済王敬福の黄金献上についても軽く書かれている。

などを指摘しています。

百済王はご承知の通り「くだらこにきし」と読みますが、「こにきし」とは百済語で並王のことです。

持統天皇のときこの名を与えられたとなっていますが、『新選姓氏録』によると、百済王一族は百済義慈王(舒明天皇)より出ずともあり、敏達天皇(武寧王)より出ずともあります。

このことからも天皇家が百済王であることが判るわけです。ところで、この一族中の出世頭はなんといっても敬福と俊哲であった。

次に桓武までの系図ですが、百済王および新羅王であることが明らかなのを併記すると、次のようになります。(図A参照)

次に天武の系統を追ってみます。(図B参照)

百済王系図と天智系図を重ねてみると、天智天皇までは合うのですが、そのあとが合わない。真相がばれないようにいろいろと手を加えたらしい。(図C参照)

問題は井上内親王の夫が遠宝、孝忠、敬福の兄弟のうちのいずれか、または敬福の子の理伯かということです。するといずれにしろ、桓武はその子または孫にあたる。

舒明が義慈王であり、天智が豊璋であることは確定的だし、昌成の施基もほぼたしかでありますが、私は一族の出世頭の敬福が光仁のモデルで、実際には称徳の死亡当時すでに死んでいて即位せず、皇后の井上が即位した。井上には理伯以下、他戸、早良の3男子がいたが、井上のあとはそのうちの早良親王が崇道天皇として即位した。そのあと理伯の子の俊哲がいわゆる10万の征夷軍をバックに即位して、桓武になったと考えたわけです。

 

佐 治  だいたい判りました。以上の経過を6国史にあてはめてパラフレーズすると、次のようになるわけですね。

まず井上内親王、のちに光仁天皇の皇后となったとされているこの女性は、もともと聖武天皇の妾の県犬養広刀自の娘です。それだけに彼女は当時皇位など望めないとされていた白壁王(天智の子の施基親王の子、つまり天智の孫ということにされている)に嫁いだ。この白壁王が百済王敬福である。だが、称徳天皇死後―道鏡失脚によって、天武系でない天智系が浮上してきたわけですが、鹿島説によると本命となるべき白壁王がすでに死亡していたことから、その皇后の井上皇女が即位した。

つまり天智系=百済系の光仁天皇のダミイです。井上皇后には他部と早良の両親王がいた。そのうち兄の他戸親王が皇太子となったが、彼は生母の井上皇后とともに光仁天皇を呪詛したという名目で殺されています。となると次の早良が皇太子となるべきなのですが、生母がこの呪詛事件の主犯の1人とされた井上皇后であるからダメ。そこで百済系の美女高野新笠を母に持つ山部王がクローズアップされてくる。この山部王が桓武となり、早良内親王は皇太子になったが、早良も長岡京遷都事件のときの藤原種継暗殺事件の黒幕という容疑で殺された。だが、親王の怨霊が桓武の次の平城天皇に祟ったため、崇道天皇と追号されたとあります。

ところが、この崇道天皇は即位していた−井上皇后(光仁のダミイ)のあとに−というのが『新羅史』の著者福田芳之助の説を踏まえた鹿島先生のご意見であります。壬申の乱の大友皇子、弘文天皇と早良皇子、崇道天皇の取り扱いは、近世まで国史学者の頭痛の種でした。なかには、崇道天皇を歴代に数えた学者もいたようです。しかし『日本書紀』や『続日本紀』を読んだだけでは、この間の消息はまさに「藪の中」ですが、鹿島先生の百済王の系譜解明によってようやくはっきりしてきたように思われます。

桓武が征夷軍の名目で動員した軍隊を背景にクーデターをおこし、崇道から皇位を奪取したという仮説はきわめて魅力的ですね。

 

吾 郷  桓武という天皇はすごいですね。藤原百川あたりの小手先の細工で皇位についたラッキーボーイといったイメージとは程遠い怪物というしかありません。それだけ桓武天皇を主題とした研究が出てこない−文部省系の村尾氏のものしか目に付きませんが−ことも納得できるわけです。

 

鹿 島  直接、現在の天皇家に結びつく皇統初代にあたるわけですからね。不敬罪がなくなっても危険な領域でしょう。村尾氏についてはあとでコメントしたいと思います。

 

佐 治  ニアミスと同じで、管制塔がチェックするわけだ。