鹿島昂説の 「壬 申 の 乱」 とは万葉集の前書きによってた
以下は、「日本列島史抹殺の謎」の抜粋ですが、「万葉集」柿本人麻呂
作歌で「高市皇子尊の城上のもがりの宮の時」の高市皇子とは、九州王朝
「倭国」の白鳳王「薩夜麻」のことだと古田武彦氏が喝破されている。
大友皇子の謎
佐治: 古代史の謎の1つ、壬申の乱_大友皇子にまいりましょう。
鹿島先生の説によれば、大友皇子のくだりも韓国史の借史ということになるわけですか。鹿島: 白村江のあと、唐は百済王子余隆を熊津都督にした。熊津というのは、例の光州(公州のミスプリ?)あたりで、盆地になっている。
このとき新羅の文武王は禰軍の郭務粽即ち藤原鎌足を抑留して熊津を攻撃した。
すると唐はこれを非難して、「新羅は昔は忠臣だったが、今は逆臣だ」といった。
このときの国書のやりとりは「三国史記」の「新羅本紀」にありまして、なかなかの名文です。
ここで結局、新羅が熊津を奪った為、余隆は逃亡してしまう。
これが、弘文の近江反乱のモデルであります。
大友皇子の弘文が余隆で百済王善光だと仮定すると、彼が近江で反乱を起こして、新羅軍に討たれたということの実態は、熊津の陥落であります。
このとき文武王の天武は新羅にいたわけで、実際に新羅軍を指揮していたのは高市皇子(天武の第一王子とされる)であった。高市というのは新羅王子金霜林のことです。
このとき、余隆即ち善光の子・昌成が、早く死んだとなっているのは、戦乱で殺されたのではないか。私は施基皇子はこの昌成だと思います。佐治: 近江の乱、つまり壬申の乱も、新羅、唐、百済、日本をめぐる7世紀の国際的争乱の一部と言うことになりますが、原則的にこの事実は何人といえども否定できません。
ただ、その末尾を飾る壬申の乱も、朝鮮半島内の事件の焼き直しであったという説については、戸惑う人もすくなくないと思います。
私個人としては、この乱の主要関係者についての鹿島先生の人物比定は、ほぼ真相をついているのではないかと考えられますが、その舞台については、事件が白村江敗戦以降のものですから、やはり幾内中心ではないかと考えたいのです。もちろん、この乱が実在したとしてです。
簡単に言えば白村江に敗戦後の占領軍統治時代、連合国側の分裂(唐・新羅の関係悪化)が顕著になった時点で、占領地(日本)にもそれぞれのヘゲモニー確立をめぐって、いわゆる壬申の乱と称される事件が起こったとしても、不自然ではないでしょうね。鹿島: 私も施基皇子のほうは実際日本で殺されたかもしれないと思います。そうすると弘文は余隆とその子の合成となります。・・・・・・・中略・・・・・・・・
高市皇子は新羅人だった
佐治: 鹿島説によると、壬申の乱は高市皇子が新羅軍の指揮者であって、熊津の百済軍を率いる大友皇子の余隆を破ったと言う図式ですね。
鹿島: 高市が新羅人だということは「万葉集」にかいてあります。
柿本人麻呂というのは百済人だといいますが、その人麻呂の作歌で「高市皇子尊の城上のもがりの宮の時」というのがあります。
「ちはやぶる人をやわせと、まつろわぬ国を治めと、皇子ながら、よさし給えば、大御身に、太刀取りはかし・・・吹きなせる、小角(くだ)の音も、敵見たる、虎が吼ゆると、諸人のおびゆるまでに・・・・・・百済の原ゆ、神葬(かみはふ)り、葬りいまして・・・・・・」というのです(巻2・199)
この意味は、高市が皇子ながら剣を取って、猛虎のごとく戦った。そして百済の地で百済の王族たちを殺し続けた、と言うものです。この時代百済と倭国は連合しており、新羅がそれを破った。だから百済の王族を破ったという高市は新羅の王子でなければならないわけです。・・・・・・・・佐治: 鈴木武樹氏は「いまわれわれが万葉ぶりといっているのは、案外古代朝鮮ぶりかもしれない」といっていますね。
吾郷: 金思華(「三国遺事」の訳者)氏は万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」が似ているといっています。・・・・・・・・・・・以下略・・・・・・・・・・・・・・
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