哲学用語集



▲あ行 ▲か行 ▲さ行 ▲た行 ▲な行 ▲は行 ▲ま行 ▲や行 ▲ら行

アウフヘーベン Aufheben
いったんは矛盾、または否定として存在した要素が、より高次の段階では矛盾、または否定ではないものとしてあらたに存在すること。ヘーゲルはテーゼがあり、それに矛盾するアンチテーゼがあり、ここで矛盾を解消する統合 (ジンテーゼ)があらわれるとした。つまり意識が変われば対象も変わるということである。止揚、揚棄ともいう。

ア・プリオリ a priori
先験的にしっているもので経験なしでわかるもの、つまり人間の感性の中に予め備わっているもののこと。例えば時間と空間の形式など。先天的認識ともいう。ア・プリオリによって人間は認識を共有できるという。

アンガージュマン Engagement
サルトルは人間はたえず実存であり続けるので、絶えず行動の選択を迫られいる存在であると考え、つまり、人間は状況のなかでなんらかの行動をするように拘束されているとした。この拘束こそアンガージュマンである。

意見
一つのテーマに関する一つの面のみから返答。テーマへの一つの観点から見ただけの考えだけなので、同じテーマを別の観点からみると別の返答があるので人によってはまったく別のものになる。例えば「よりよい人生とは?」と質問した場合はお金や人間関係、自分の時間などあらゆる観点からの返答が予想される。哲学においては質問内容を分解し定義することで普遍的な答えを模索する傾向にある。

一元論
世界には一つの原理しかないという考え方。スピノザは世界を神しかいないという汎神論で説明しようとした。

一般的常識
当然と思われることや、世界観など。哲学においては一般的常識だけにとらわれずに己の頭で考え、どんな立場からも独立的であるということが重要である。ただし、この独立性のために世間の反撥を生むこともある。

イデア
イデアは永久不滅の範型のことで、存在の真実の姿とされる。プラトンはこの世界にはさまざまなものがあるが、本当の姿は点の外側にあるイデアであるとした。この世にあるものはイデアの不完全な模造品であり、この世に住む人間の感覚も不完全であるとした。エイドス、形相(ぎょうそう)ともいう。

エロース
絶対的存在をである自体的存在を求める心のこと。エロスともいう。

演繹法 Deduction
一般的法則や前提事項から出発して、論理をできるだけ隙間なく個別の方法を導き出すこと。例えば存在は分割すると存在と非存在に分けられるが、非存在は無である、つまり非存在は無であるから存在しないので、存在は分割できない (パルメニデスの存在であるが、無は存在しないという前提があり、数字の0は無であると考えた場合は1023などは0を使用している、つまり0(無)は存在する、ゆえに無は存在しないとはいえないと反論できる)。また別の例では今私は生きているが、人はいつか死ぬので、私は人なのでいつか死ぬといったようなこと。

厭世哲学 Pessimism
世界は悪に満ちているという考え方。ペシミズム、悲観論ともいう。ショーペンハウエルらが基礎を確立したとされる。ショーペンハウエルはこの世界は盲目的な意思によって動かされ、苦痛と争いに満ちており、ここから逃れるためには意思の否定しか選択肢はないとした。

臆見
日常の感覚に頼った思考のことで、思い込みとされる。ドクサともいう。

科学哲学
時間や空間に関する興味から始める哲学。例えば年をとりたくない、年をとるということはたくさんの時間をすごしてきたことである、しかし、その時間もあっというまだった、ということは時間は伸縮するのか、ということは時間とはなんであろう、といった一連の思考。

仮言的命法
「〜ならば」という条件つきの言い方。

格率
デカルトの格率は、法律や習慣に従うこと(第一の格率)、一度それと決めたからにはどんなに疑わしい場合でも一貫してそれを行動(第二の格率)、運命よりも自分に勝つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるようにすること(第三の格率)。

仮現運動
見かけの運動のこと。実際には動いていないが、動いているように知覚してしまうような運動のことで、映画などはこれを利用している。

感性
見えている素材がいろいろな形で心に受容される能力のこと。感性は時間と空間という内なる形式に従って現象を整理し、感性が集めた無秩序で統一されていない情報を悟性(理解能力)が処理するという。受動的な直観能力とも言われる。

機械論的世界観
デカルトは物体は延長であり、縦・横・高さという空間的広がりを持つ属性であって物体は延長でしかないとし、精神は物体とは違うという前提で、精神は物体ではないので延長ではないとし、身の回りにあるもの(物体)はただの延長であって、精神はなく、また意味すらないので、あるのはただのメカニックであるという世界観。ここでのメカニックというのは力学的法則にしたがって動くということ。

貴族的評価様式
ニーチェは貴族的評価様式が本来の善悪の価値であると考えた。騎士的評価様式、君主道徳ともいう。内容は「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、あわ立ちあふれるばかりの健康、ならびにそれを保持するために必要なしゅしゅの条件、すなわち、戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、その他一般に強い自由な快活な行動を含む全てのものである」とした。ニーチェはこれに対立するものとして「僧職的評価様式」だといい、それは弱者のルサンチマンで奴隷の道徳であるとした。

帰納法 Induction
自然のさまざまな状態(個別的な事柄の集合)を観察したうえで、そこから共通した特徴(一般的法則)を導いてくる論理。例として外国人は英語を話し背が高いなどの偏見も帰納法から生み出される。

形而上学
存在や心、物質の有無に関わる興味から始める哲学。例として恋人からのメールを読むと恋人がここにいるように感じる、しかし、恋人自身が今傍にいてくれるほうがよい、ということはメールよりも恋人の存在のほうが重要である、では心よりも存在が大事なのか、心と存在は別であろうかといった一連の思考。一般哲学ともいう。

形相 けいそう
アリストテレスは物質を形相と質料に分類し、たとえば銅像でいうならば銅像の材料の銅が質料で、銅像の形が形相であるといえる。機能や働きも形相と呼ばれる。質料も形相も一方が欠ければ存在しえない。事柄に原因を与えるのは形相で、質料のみでは機能や法則を持ちえない。トマス・アクィナスは死ぬということは形相が質料からの分離であるとし、霊魂は質料を持たない完全な形相なので死という分離は生じず、霊魂は不死であると論じた。

言語ゲーム
ヴィトゲンシュタインが言ったことで、言語の意味を決定するのは事実との対応などではなく、言語の使用そのものということ。例えば、ある人が果物屋に買い物に行って、「赤いりんご5個」と書いた紙をもっていって、それを果物屋さんに見せると、果物屋さんは赤いりんご5個を取り出し、代金と引き換えるということをすると思われる、このやり取りに一切の会話はない、つまり、背後の意図を理解しといえる、それは経験・常識などによって推論をしたからといえる。このような生活のやりとりのなどを含め、社会をの中を生きるということは言語ゲームのルールに従っているといえる。ここに言語の一致があり、その一致は生活の一致であるといえる。このような生活の一致があるので文化の異なる場所でも言語ゲームが可能になる

現存在
人間のこと。そこで存在が現れる場という意味。なぜなら存在は人間によって開示されるからだという。

原信憑
フッサールによると原初的な思い込みのことで、本当のことかどうかはわからないとした。そして、思い込みの数ほど解釈が生じてしまうので、このような思い込みを除くことが大切だとフッサールは考えた。そしてその思い込みを排除することを判断中止と呼んだ。

傲慢
賢者は間違うことなく、神に等しいとしたこと。

公理
証明の前に行われる正しく自明の心理のこと。一種の約束とすることもある。例としてnの0乗は1と定めることなど。

悟性 Understanding
物事を理解する能力のこと。理解力のこと。デカルトのように悟性と理性をほぼ同義で使う場合もある。

混成体
スコラでは多くの元素からなる物質のことを意味する。

実体
アリストテレスはこの世にある個物を実体と呼び、また第一実体とも呼ばれる。第二実体とは魚類、鳥類など類や種のこと。デカルトは実体を「存在するための他に何ものも必要としないものと定義し、無限実体としての神、有限実体としての精神・物体としたが、精神も物体も実体であるとしながら、その存在を疑うべきでないものにするために完全な神は誠実だからという前提を置いており、デカルトの説では有限実体の精神・物体は神に依存しており、矛盾が指摘された。スピノザは実体は一つで、それすなわち神とする汎神論を論じた。

質料
アリストテレスは物質を形相と質料に分類し、たとえば銅像でいうならば銅像の材料の銅が質料で、銅像の形が形相であるといえる。質料も形相も一方が欠ければ存在しえない。事柄に原因を与えるのは形相で、質料のみでは機能や法則を持ちえない。トマス・アクィナスは死ぬということは形相が質料からの分離であるとし、霊魂は質料を持たない完全な形相なので死という分離は生じず、霊魂は不死であると論じた。

事物存在
道具存在(役に立つもの)として認識されず、ただ漠然として視界に移っているもののこと。ただし、事物存在は道具存在としてなることもある、例えば電話は使用しないときはただの飾りであるが、いったんベルがなると道具存在となる。逆にたとえ人間であっても事物存在となることもある。いずれにせよ、事物存在が道具存在となろうが、それを利用するのは人間であるということであってみれば、意味は人間によることになる。ハイデッガーはこのことをもって人間は意味が開示される場であるとした。

宗教的実存の段階
倫理的実存の次の段階で、キルケゴールは幾たびの絶望の果てに、自己を神に預ける段階とし、自己否定によって自己の罪を悔い改めるとした。ここで自己の内部の神的実存を受け入れるが、そこの差異により罪悪感に悩まされるという。

情欲
アウグスティヌスは悪を悪と知って悦ぶ心のことを指した。リビドーということもある。このような悪と知っていてする行動をアウグスティヌスは善の欠如が原因であるとし、情欲は自力では克服することは不可能で神の心に善が満ちるとき欠如という悪はなくなるという。また悪と知っていて心の欠如を生めるために世にさまざまなものをもとめる欲望をクピディタスと呼び、空虚を空虚で埋めるので満たされることはなく、その欲望を神に向けるときに、それはカリタス(神への愛)と呼ばれ、クピディタスを抑制してカリタスを目覚めさせることをアウグスティヌスは勧めた。

心身並行説
身体と精神は別々の属性でありながら、同時に並行しているという考え方。物心並行説ともいう。スピノザは身体と精神は別の属性でありながら合致しているのは、神は「一切の秩序と連結の原因」であるから、神において合致しているのだと論じた。たとえば円はという観念は神からきた精神(思惟)の属性であり、円という図形は神からきた延長の属性であり、円という観念も円という図形も同じソースからでてきた二つの側面でしかないとする。

信念
個人的経験から形成される信仰のようなもの。哲学と違い他者が論理的に理解できるとは限らないが、他者に押し付けることが可能。

真の知識
ソクラテスのいう真善美のことで、永久不変であって、時間や場所に左右されないという。真の知識は理性の思考によって得られる知識であるとされる。日常の感覚に頼った思考は臆見と呼ばれ、思い込みを否定することによって真の知識に近づくとされた。エピステーメーともいう。またソクラテスは真の知識を愛する人を哲学者と呼んだ。

自体的存在
絶対的な価値そのもののこと。自体的存在を求めるこころをエロース、エロスという。

自由
カントは真の自由は、欲望などに拘束されず理性が決めたことを実践することだとした。欲望のみによって行動した場合は、欲望に拘束されたこととされる。理性が要求する道徳に従った行動は因果を超えた、因果に束縛されていない行動とされる。キルケゴールは自由は自己を失う自由を含んでいると考え、これによって自己を失うかもしれないという途方もない不安が生じると考え、人間が自由によって犯される罪から救われるために、実存的存在として不安になり絶望に触れることを勧め、それにより人間的な救済の届かない絶望の中で初めて神と自己の魂を接触させることができると考えた。サルトルは「人間は自由である」とし、「人間はあるように呪われている」と言って、自由は人間を束縛するものであるとし、人間は自由以外の存在の仕方を選べないからで、それは人間は生まれたときから設計図のない実存的な存在であり、価値は人間自身の行動によって決定され、そこにたよるべき判断者はおらず、自分の選んだ行動は全て自分が責任を持たなければならないと考え、状況の中でなんらかの行動を取らねばならぬように拘束されている、それが人間の自由であるとした。

状況内存在
状況の中でしかない存在のこと。ヤスパースは人間は世界という状況の中の存在であるので世界を認識することは不可能であると考えた。

生得観念
生まれながらにもっている観念。本有観念ともいう。

世界内存在
ハイデッガーは「人間は世界内存在である」といった。ここでいう世界とは生活の場である環境世界のほかに、知性、感情、経験など過去、現在、未来を含んだ内的かつ外的な環境を指す。そこに関わることによって、人間にとって世界が形成されるという。これに従えば、人間は世界の中に埋没するのではなく、共同世界を形成しているとされる。人間が世界と関わることをハイデッガーはゾルゲ (Sorge)といった。

世界による学問
本のみの学問ではなく旅行や見学、人との交わりなどの学問のこと。
モンテーニュは『エセー』の一巻26章には次のようなことがある。「この大きな世界にこそ、・・・わたしたちが自分を正しい角度から知るために覗き込まなければならない鏡なのです。要するに、それがわたしの生徒の本であるように・・・」

総合の法則
思考の順序に従って導くことで、一番単純で認識しやすいものから始めて少しずつ複雑なものの認識にまで昇っていって、自然のままではお互いに前後のつかないものの間にさえも順序を想定してすすむこと。デカルトの第三の法則。

想像空間
スコラ哲学では有限の現実の世界の果てのむこうに想像力のみがとらえる無限の空間のこと。

ゾルゲ Sorge
ハイデッガーは生活環境や過去・現在・未来を含んだ内的かつ外的環境の世界に人間が関わることをゾルゲといった。人はいかに存在者と関わるかによって人間の存在が変わる、例えばあるものを盗んだら泥棒であるが、購入した場合は消費者となる。

存在者
何らかの意味をもって存在していること。物質や動物、人間など。人間のみを指す場合は現存在という。デカルトは「考える、故に我あり (Cogito ergo, sum)」といって思考している自分は存在しているということを疑えないとした(しかし、そのように疑えないとしたのは自分がそのように考えたからであり、そしてそれもそのように考えた結果である、そしてそれも・・もずっと続き、論理的欠陥があるうえ、他人の存在は自分ではないので、自分が考えるからということすらできない)。

存在の真理
ハイデッガーは「存在は人間によって開示される」ということを存在の真理とした。

対自
自らに対しているということで、人間は自分自身に対して意識することができるから対自存在であるとした。逆に物など自分自身について意識することができない存在を即自という。サルトルは即自存在を「あるところのものであり、あらぬところのものであらぬ」とし、対自存在を「あらぬところのものであり、あるところのものであらぬ」とした、つまり、人が何かを意識するということは、その何かを外に置くということであり、それが内にあっては意識されないということとし、そこで意識があるから意識するのではなく、そこに意識する対象があるから意識するのであってみれば意識は空疎であるということになる。またサルトルは区別する機能もあると述べ、例えば目の前に何か車がある場合は、それを車だと認識するが、それは自分が車でないという前提がある、なぜなら、自分が車なのなら、目の前にあるものが自分なのか車なのか識別できなくなるから、そこで人間は常に対象物から距離(サルトルはそれを無と言った)をとり、人間は認識される即自によってのみ認識することができるとした。

大陸合理論
17世紀のヨーロッパから現れた世界は理性で規則的に説明できるとする理性重視の合理的な哲学思潮のこと。代表的な哲学者にルネ・デカルト、バルフ・スピノザ、ライプニッツらがいる。

通常の協力
スコラ用語で、神(完全なるもの)が宇宙を奇跡などの超自然的なことによってでなく神が立てた自然法則によって通常どうりに維持するという働きのこと。

定言命法
「〜すべし」という言い方。あらゆる状況に無条件であてはまり拘束力がある。しかし、実践理性(道徳法則)は束縛できないという。「〜ならば」という言い方を仮言的命法と呼ぶ。

哲学
信念同様に経験から生じるが、論理的につじつまがあるようになっている。それゆえに矛盾を指摘したりするなどして修正が可能。他者には押し付けることはできないが、論理的に納得してもらうことはできる。哲学は人間の頭の中にしか存在しない概念であるので実際には役に立たないこともしばしばある。ヤスパースは哲学が人間を覚醒させ、本来もっているものを理解するのに役立つと考え、人間本来の自己自身に戻ることを助けるのが哲学であるとした。ヤスパースがそのように考えた理由として、機械文明と大衆社会により、人間が人間としてではなく、ただの役割でしかないことを考えたからであるといわれる。

投企
サルトルは自分は無であるという不安から逃れるために、実在ある存在となるために人間は意志的な行動(=投企)をせよといった。人間は行動することによって、未来へと自分を投げかけれることができ、実在的な人間だからこそ、未来へと自分を自由に投げかけなければならないとした。しかし、そうしたとしても、人間は常に無と対自であることを気づかされるだけで、この投企は死ぬまで続く。しかし、どのような行動をとればよいかということは、答えはない。だが、サルトルのゆうように実存的に自由であるためには職を変え続けねばならず、それではしっかりした職につくことができず、サルトルの実存主義は視野が狭いとの反論も当を得ている。

道具存在
道具としての存在。レンガをおもり代わりに使用するなど、本来の役割と違う場合でも道具存在となる。つまり存在は道具存在になったり事物存在となったり、人間存在(人間のこと)が道具存在となることもある、たとえば人間を金儲けの道具として使う場合は、その人間は道具存在であるといえる。

道徳的哲学
行動の原因や価値の由来に関する興味から始める哲学。例として、もっとお金がほしいなぁ、あの人はお金が余っているから分けてくれないかな、しかし借金はいやだ、では盗むか、しかし盗むのは犯罪である、しかしなぜ犯罪なのだろう、法律が決まっていなくても自分の心がこのように思う、すると何が罪で何が罪でないかということは人はなぜ最初から知っているのか、といった一連の流れ。

道徳律
カントは普遍的で少しも揺るがない先天的な格律のことだとした。人間に先天的に備わっているので文化が異なっても関係がないという。感性の時間・空間を越え(因果律を超え)、認識すら超え(現象を超え)、だが実践行動として表すことができるが、目的を持たず手段でもないが、それ自体が目的であるとされる。

二元論
この世界を二つの原理で説明しようとするもの。二元論の特徴はわかりやすいことだが、複雑な世界をたった二つの原理で説明することは不可能。マニ教は善と悪の二つによって世界を説明しようとした。特に善と悪の二元論のことを善悪二元論ともいう。また、デカルトはこの世界を精神と物体(自然を含む)の二つで説明しようとした。

二律背反
お互いに矛盾するのだが、お互いに反駁することができないというもの。アンチノミーともいう。例えば、世界に始まりがあるとすると、その世界の始まりの前もあるということになる。また世界が空間に囲まれているのであるならば、空間の外があることにあなる。逆に時間においても空間においても制限がないのであるならば、無制限ゆえに人間の認識を超えているということになる。ここに理性の限界が見出される。

認識
人間が世界を捉える仕方のこと。スピノザは認識を表象知、理性知、直観知の3段階にわけ、表象知とは人間の想像力のことで知覚の認識ともいい感覚的経験に基づくこの認識は物事の上っ面のみの認識で程度の低いものであるとし、理性知はより高度で概念的・推理的認識で物の仕組みや共通の性質を抽象的に知りうるとし、直観知は最高の認識で物の本質を最深部まで理解し、それが神からきていることを認識するものだとした。

能動感情
スピノザによると理性から生じる感情で、物の本質を見抜くとされ、こういった認識が善であるとした。逆に外部からの刺激による感情を受動感情と呼ぶ。

汎神論 Pantheism
万物の全ては神であり、神と世界は同一であるという考え方。スピノザなどが代表的な哲学者。人格神を頂点とするキリスト教やユダヤ教とは衝突する。

判断中止
フッサールによると思い込みを取り除くこと。フッサールはこのように思い込みを取り除くことで、人間の意識を純粋になるとした(純粋意識)。この純粋意識は指向性、志向絵師とも呼ばれる。

否定神学
否定することでしか神の存在を指し示すことができないとする神学。神とは人間の理解を大きく超えているので、神とはなんなのかという範疇を理解することは不可能で、これは神ではないという否定のでしか神を示すことができないこと。クレメンスはキリスト教の神が何であるのか知ることができず、「何ではないのか」だけを知ることができると述べた。

美的実存の段階
キルケゴールは行動や選択の理由が美や快楽になっている段階であるとし、感覚的な生を生きている段階とした。しかし、望むことを手に入れたとしても、深い倦怠感をともない、望むものを手にできない場合は激しい自己嫌悪に襲われ、挫折感が深まり絶望に達したときにだけ、次の段階である倫理的実存の段階に進めるという。

ビルドゥング
ヘーゲルは人間が知を深めていく過程のこととをビルドゥングと呼んだ。対象を視覚的情報のみでみるだけではなく、知覚の意識でその存在の特徴や使用方法などを認識し、さらに悟性の意識により存在の中に隠されているものを見通せるとした。この意味では対象は人間の本質的な知に属していることになる。

分析性の規則
検討する難問の一つ一つをできるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。デカルトの第二の法則。

包括者
神と同義で、ヤスパースは絶望の限界状況にたったとき、存在の源泉から指示を聞くとし、その存在の源泉こそ、論理を超え、矛盾が融和し、完全なる安静の場所で言葉による思考が及ばない場所で、これを包括者と呼んだ。ただし、ヤスパースは包括者の声を聞いたからといって人間は人間のままで、世界の真の全体である包括者の声に触れているというささやかな自覚だけがあるとした、だが、これにより運命を必然と捉える覚悟が与えられるとした。超越という場合もある。

枚挙の法則
完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったことを確信すること。デカルトの第四の法則。

明証性の規則
明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないということ。デカルトは第一の法則として「注意深く速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は何も私の判断のなかに含めない(*)」といった。
* デカルト『方法序説』(岩波書店、1997)p28

文字のよる学問
本による学問のこと。

唯心論 Spritualism , Idealism
主に世界は精神や心などから構成されているという考え方。

唯物論 Materialism
主に世界は物質からのみできているという考え方。

欲求
ある感覚的対象の知覚がわれわれのうちに生み出す欲望や嫌悪の動きとされる。

理性
真偽を判断する能力のこと。もともとは正しい分別を意味した。感情や本能に影響されない醒めた思考能力。良識、ボンサンス (bon sens) ともいう。この良識の有無が人間と動物との差であるとする。セネカは人間について「理性をもった動物である」といった。モンテーニュやシャロンは動物も理性を持っているが、人間よりも少ないとした。デカルトは理性を「自然(生まれながら)の光」といった。インマヌエル・カントは感性と悟性は現象を扱い、理性は現象の原理を扱うとしたし、理性が捉えることができるのは先天的なものだとした。ヘーゲルは理性を、無限の力、無限の形式、無限の素材、無限の内容であるゆる存在の根拠であり、実体ともいい、神の力また真理であった矛盾は生じないもののことで、これにより弁証法の統合(矛盾の解決)がなされるとした。

理性的動物
スコラ哲学では人間のことを意味する。

倫理的実存の段階
美的実存の次の段階で、キルケゴールによると、人間の精神性に目覚め、倫理的に生きようとする段階のことで、高い人格を持つための倫理的な人間像に自分を近づけていこうとする段階。しかし、最終的に自分の無力さに気付く、または自分は倫理的にほぼ完全であるという傲慢に陥る。ここで人間として限界に気がついて、絶望に達したら次の宗教的実存の段階にすすめるという。

ルサンチマン Ressentiment
ニーチェのいう貴族的評価様式の対立で、僧職的評価様式のことで、貧しいものがよきものなど、弱者に対して肯定的で、現実の力を持つ階級に対する無力者からの卑屈な怨みであるとし、単なる想像上の復讐によって埋め合わせる反感だとされ、例えばキリスト教徒(僧職的評価様式)は善悪基準が相手を必要として、自己完結的な理論ではないとし、最後は強者になることを望んでいるとした。


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