NOSTALGHIA

「ノスタルジア」 1983年 イタリア=ソ連合作映画 126分
出演/オーレグ・ヤンコフスキー
エルランド・ヨセフソン
ドミツィアーノ・ジョルダーノ

 タルコフスキーが祖国を離れ外国イタリアで撮った本作は、そのタルコフスキーの思いがそのまま映像になっているようです。主人公はタルコフスキーと同じ亡命芸術家。そして彼が取材するのは、トスカーナで亡くなったロシアの亡命音楽家。トスカーナは、タルコフスキーが後に居を構えた場所。心臓が悪いという設定も、タルコフスキーは癌で亡くなっていますから、当時すでに身体の変調を感じており、それを反映させたのかもしれません。イタリアに興味を持てず、エウジェニアがイタリア語訳のロシアの詩を読んでも、意味がないと言う。心ここにあらず、の茫然とした表情。そして度々挿入されるフラッシュバック。セピア色の思い出。いやでも郷愁を感じさせる映像構成。心を痛める主人公の心情が伝わってきます。しかしあまりにもゆったりとした長回しの映像構成、しかも湿っぽいので、眠くなる人も多いでしょうw しかし私はそうなることなく、段々この世界にひき込まれていく感覚を覚えました。それはこの作品でタルコフスキーという芸術家の苦悩と郷愁をひしひしと感じたからに他なりません。
 ゴルチャコフとエウジェニアとドメニコという3人の人物、この対比に興味を惹かれました。エウジェニアは自己主張が強い現代的女性で、宗教的儀礼に関心があるようですが、実はそれに時代錯誤を感じている。考え方も合理的で、ゴルチャコフに惹かれてはいるけれど彼の心情がどうしても理解できない。でもゴルチャコフはただ故郷を想っているだけ。これはとても純粋なことだと思うのですが、エウジェニアのような人から見るとただの感傷に映ってしまうのかもしれません。しかし私はそれを感傷だとは思わない。ゴルチャコフは「境界をなくせばいい」と言っていたけど、この言葉が最もタルコフスキーの心情を直接物語っているようでした。境界をなくすということは、世界が1つになるということ。それはとてつもなく大きな課題だと思います。ドメニコはそんな彼に何か通ずるところを見つけたんでしょうか。エウジェニアは相手にしなかったけど、ゴルチャコフは家に入れて、心を開き自分の話をした。そしてろうそくの火の依頼をする。ドメニコは世界の平和を訴えローマで演説をぶち、自らその魂を昇華させるために焼身自殺する。このシーンに残酷さなど一切感じませんでした。むしろ美しさを感じました。この時ドメニコが流した音楽がベートーヴェンの交響曲第九番。今更説明する必要もありませんね。歓喜の叫びとともに生命を賭した訴え、とても感動的でした。「芸術家=神への奉仕」というタルコフスキーの信念は捨てられていなかった。それが周りに悲劇的だと捉えられるにせよ、です。
 そして場面はゴルチャコフがろうそくの火を広場の端から端まで持って行くシーンに変わります。このシーンで私は涙を流している自分に気がつきました。今にも消えそうなろうそくの火をコートで覆い、なんとしても端まで渡すという彼の想い。それがとてもはかなく切ない映像となって私の心を激しく突いてきました。心臓が弱く、今の今まで死に対するおそれを抱いていたのにも関わらず、彼の姿もまたドメニコのように自分の生命を賭しているよう。これもまた「芸術家=神への奉仕」という信念が彼の動機として投影されている、とても純粋な場面ではないでしょうか。しかし足取りは決して軽くなく、今にも倒れそう。それでもなんとか端まで辿り着き、その瞬間彼は倒れる・・・
 そして画面はセピア色に変わり、ゴルチャコフとドメニコの犬が、ゴルチャコフの故郷の実家の前に腰を下ろし佇んでいる。どこからともなく聞こえてくるヴェルディの「レクイエム」・・・カメラが次第にフィードバックしていき、その家は、大きな寺院に囲まれているのだとわかる。そして雪が舞い下りてくる・・・これは現実のイタリアの風景と、ゴルチャコフの記憶にある故郷のイメージが融合したシーンであり、ゴルチャコフが言う「境界」が無くなったことを示しているのではないでしょうか。それは故郷への思いがそうさせたのでしょうが、これはあくまでもゴルチャコフの「死」が前提です。彼は死ぬことでやっと、故郷に帰ることができたのです・・・(あぁ、また涙が・・・)そしてゴルチャコフと犬はこちらをずっと見つめています。何かを訴えかけるように。それはおそらく、ゴルチャコフとドメニコが身をもって示したものでしょう。世界に平和を、境界をなくせ、と・・・ (ここで唐突にジョン・レノンの「イマジン」が・・・流れませんw)