H19.12.16作成開始 H20.1.28更新

 

伊達行朝と伊佐城

 


 

 

 

 

 

南北朝の動乱 14世紀、長く権力を掌握していた鎌倉幕府が衰退すると、日本全土を戦火に巻き込む動乱が起こった。いわゆる南北朝の動乱である。時の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、政治の実権を武家から天皇の手に奪い返そうと考えていた。正中元年(1324年)に正中の変、さらに元徳3年(元弘元年 1331年)には元弘の変と呼ばれる後醍醐天皇による倒幕の企てが発覚するが、これらは未遂に終わり天皇が隠岐に流されるという異例の事態に発展。それでも後醍醐天皇は倒幕をあきらめることなく、隠岐を脱出して鎌倉に対抗した。正慶2年(元弘3年 1333年)足利尊氏(あしかがたかうじ)新田義貞(にったよしさだ)などの活躍により遂に幕府は滅亡し、政治の実権を武家から奪い返した後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇親政を開始。しかし武家を押しやり公家を中心とする体制を目指した後醍醐の政治は、武士が大きな力を持った現実の社会と相容れなかった。武士たちの不満は高まり、足利尊氏が離反すると新政権は崩壊。建武3年(延元元年 1336年)8月に足利尊氏が光明天皇を践祚(せんそ)させ、11月には建武式目を制定し室町幕府を開く。これに対し吉野に逃れた後醍醐天皇も譲らず、朝廷が京の北朝・持明院統(じみょういんとう)と吉野の南朝・大覚寺統(だいかくじとう)に分裂し互いに争う、いわゆる南北朝時代が訪れた。暦応2年(延元4年 1339年)の後醍醐天皇が亡くなると南朝方は大きく後退するが、北朝方の室町幕府における将軍足利尊氏とその弟・足利直義(あしかがただよし)の対立なども手伝い、南北朝時代は60年の長きにわたって続くこととなる。

 

奥州式評定衆・伊達左近蔵人行朝 正慶2年(元弘3年 1333年)5月、執権・北条高時の自害をもっておよそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇は京に帰還し、「朕(ちん 天皇が自らを呼ぶ際の一人称)が新義は未来の先例」(『梅松論』)と宣して天皇親政を開始。8月には、東国経営のため当時弱冠16歳の北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守に任じる。顕家は後醍醐天皇の皇子・義良親王(のりよししんのう)を奉じ、父である北畠親房(きたばたけちかふさ)などを伴って多賀国府(宮城県多賀城市)へと下向した。

続く…

 


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