H19.8.11作成開始 H19.10.8更新

 

南北朝期以降の伊佐郡

 


 

 

 

 

 

小山義政の乱 興国4年(康永2年 1343年)、長く北朝方の猛攻に耐え続けた関城・大宝城が攻略されると、次いで伊佐城も落城。やがて南朝方緒勢力もすべて陥落し、常陸における南北朝の対立は終結するに至った。南朝方の拠点・伊佐城を擁した伊佐郡のその後は、果たしてどのような運命をたどったのであろうか。常陸国伊佐郡の西北にあり下野国南部に位置する小山荘には、秀郷流藤原氏の小山氏があった。小山氏は、平安時代末期に小山政光(おやま まさみつ)が小山郷に入って小山荘を開いたのがその始まりだという。政光の子・朝光(結城朝光 ゆうきともみつ)は源頼朝挙兵の際にこれに従い、伊佐郡の西に隣接する下総国結城を領し結城氏の祖となっている。鎌倉時代を通じて代々下野国守護職(しゅごしき)を世襲してきた小山氏であったが、南北朝時代の建武4年(延元2年 1337年)、小山朝郷(おやま ともさと)北畠顕家(きたばたけ あきいえ)率いる奥州南朝勢に敗れ小山城は陥落。小山氏は一時衰退し、下野守護職も宇都宮氏に奪われる。その後小山氏には、前関白近衛忠常による反北畠親房運動である藤氏一揆に同調し坂東管領に就任しようとする企てがあったという。また康永2年(1343年)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の孫・興良親王(おきよししんのう)を小山に迎えるなど、独自の動きもみせた。最終的に小山氏は北朝方に立ち南朝方と戦い、小山義政(おやま よしまさ)の代に再び下野守護職を手にする。復権を遂げ勢力を更に拡大しようとする小山義政は、半国守護といわれ下野国を二分していた最大のライバルである宇都宮基綱(うつのみや もとつな)と、領地をめぐる争いをおこす。鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏満(あしかが うじみつ)武力衝突を制止したが、康暦2年(1380年)小山義政は宇都宮領に攻め込み、下野国裳原(栃木県宇都宮市茂原)で戦闘におよんだ。宇都宮方は基綱以下80余名、小山方は二百数十人が討ち死にしたという。これを私戦とみた足利氏満は、軍勢催促状を下し関東諸勢を動員し義政討伐に乗り出す。いわゆる小山義政の乱である。永徳2年(1382年)4月13日、鎌倉公方勢に攻められた小山義政は自害。その子・若犬丸は応永4年(1397年)まで各地で抗戦を続け、会津で自害した

 

伊佐郡平塚郷をめぐる対立 勢力拡大をはかる小山氏が、鎌倉府および室町幕府と対立することは必然だったのかもしれない。小山義政の乱にさかのぼること十数年前、両者の対立の発端を示す一例として、平安時代後期から鎌倉時代初期には伊佐氏の所領であったと推定される常陸国伊佐郡平塚郷(いさのこおり ひらつかごう)の帰属をめぐる文書が残されている。応安元年(1368年)閏6月12日、室町幕府の執事(管領)細川頼之(ほそかわ よりゆき)が、伊佐郡平塚郷を常陸国一宮・鹿島神宮に寄進した(『鹿島神宮文書』)。寄進状自体は細川頼之によるものであるが、当時は3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)がまだ幼少であり、将軍に代わり幕府の意思を代表して発給したものと考えられる。しかしこの伊佐郡平塚郷の所有を主張する人物が他にもいた。下野守護の小山義政である。義政が伊佐郡平塚郷を実行支配していたのかどうかは不明であるが、伊佐郡平塚郷の帰属が同年中に鹿島神宮側に移ることはなかったようで、応安2年(1369年)に細川頼之は関東管領上杉能憲(うえすぎ よしのり)あてに「伊佐郡平塚郷を鹿島社に打ち渡すよう」御教書(みぎょうしょ)を発給している。更に翌年の応安3年(1370年)、今度は小山義政が伊佐郡平塚郷を、あらためて鹿島神宮に寄進している。

 

  鹿島社宛小山義政寄進状案(鹿島神宮文書)

   常陸国伊佐郡平塚郷事

  右当郡者、先年以一円御下文拝領之訖、而去々年応安元閏六月十二日、

  有公方御寄進之由、社家被申之伝々、前後甚令参差之間、雖可申子細、

  依有崇敬之志、所奉寄附之状如件、

   応安三年六月廿五日             下野守義政 花押 

 

  【要旨】

   常陸国伊佐郡平塚郷について

  右の伊佐郡は、以前にその全てを幕府からの下文によって拝領しました。

  しかし、一昨年の応元元年閏6月12日に、公方(将軍・足利義満)から、

  平塚郷の寄進を受けたと鹿島神宮の神職が申しています。

  これは甚だしい取り違えで、ここで詳細について説明すべきところですが、

  神を崇め敬う志をもって、この寄進状のとおり鹿島神宮に寄進いたします。

   応安3年6月25日               下野守小山義政

 

 これらの文書によって、幕府と小山氏の両者が、伊佐郡平塚郷の領有権を主張していたことがわかる。特に小山氏は伊佐郡一円の支配権を主張している。ただし、小山氏の伊佐郡拝領を認める下文の存在は確認できていないようである。小山氏が本当に伊佐郡拝領を認められていたのなら、前述の寄進状のような玉虫色の決着ではなく、証拠の下文を提出して強行に訴えることもできたのではないだろうか。一方で、小山氏が何の根拠もなく伊佐郡の所有権を主張するとも考えにくい。あるいは強大な幕府権力の前に遠慮があったのだろうか。実際に小山氏の拝領が事実であったにもかかわらず、幕府側が小山氏への挑発行為を行った可能性もあるかもしれない。なお鹿島神宮側では、平塚郷は足利義満によって寄進されたとしているという。

 

平塚郷のこと

 

続く…

 


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