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常陸介・藤原実宗

 


 

藤原実宗という人物 江戸幕府が編纂し文化9年(1812年)に完成した大名・旗本の系譜集に『寛政重修緒家譜(かんせいちょうしょうしょかふ)』がある。この中の伊達系譜には、伊達氏の祖の一人とする藤原実宗(ふじわらのさねむね)の所伝として「常陸介 能登守 肥後守 侍從 從四位下 常陸国真壁郡伊佐庄中村に住す。これより伊佐と稱し、あるいは中村をもって稱號とす」と記されている。同書によると実宗は、常陸国真壁郡伊佐庄中村に住み、伊佐あるいは中村を称号としたことになる。実宗の名は藤原北家山陰流として尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』にも見えるので、実在の人物であろう。ただし、『寛政重修緒家譜』所伝の後半、つまり実宗が本当に伊達氏(伊佐氏・中村氏)の祖先にあたるかどうかについては諸説がある。

 『寛政重修緒家譜』にある常陸介や能登守、肥後守は、中央から天皇の命で各国に赴任し、その支配にあたった律令制下の地方官のことである。守(かみ)は各国の役所である国府(こくふ)の長官で、行政や司法、警察など一切をつかさどる。介(すけ)は守に次ぐ立場で次官にあたり、介の下に(じょう・ぞう)、目(もく)といった官がある。これらを総称して国司といい、また守、介、掾、目の4職をもって国司の四等官(四部官)とする。ちなみに掾と目にはそれぞれ大少があって、桓武平氏国香流として常陸に勢力を築いた常陸大掾氏の呼称の由来は、一族が代々大掾職を世襲したことにある。

 さて、藤原実宗は常陸介であったが、常陸(ひたち)と上総(かずさ)、上野(こうずけ)の3カ国は親王任国(しんのうにんごく)という特殊な支配体系の国であった。親王任国とは、親王(親王宣下をうけた男子の皇族)が国司の最高官に任ぜられる国のことで、親王任国の場合のみ守とは言わず太守(たいしゅ)と呼んだ。太守は俸給を得るが任国には赴任せず、このため介が現地の支配を担当。つまり、常陸介である実宗現地・常陸国の最高責任者であった。ちなみに親王任国は、親王家を維持する財源を捻出するために設けられた制度だという。実宗は侍従(じじゅう)の職にもあった。侍従とは、天皇のそばに近侍して奉仕するもので帯剣の職。定員は最初8人で、後に20人ほどに増えたという。天皇のそばに仕えるのであるから、当然在京したはずである。なお、尊卑分脈では単に「四下 常陸介 能登肥後守」としており、從との記述はない。『寛政重修諸家譜』の前身ともいえる系譜集に寛永20(1643年完成の寛永緒家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』があるが、同書もまた尊卑分脈』と同様の記述であ尊卑分脈と寛永緒家系図伝については、伊達氏の始祖・常陸入道念西参照】。

 実宗については、前掲書以外の史料にもその名が見える。続群書類従37『堀河院昇霞記』嘉承2年(1107年)8月23日条には、亡き帝(堀河天皇)のために各寺で経を読み供養した公家たちの中に常陸介實宗とあるのがそれである。 

 

 『堀河院昇霞記』

 「五七日依當新主御衰日、縮一日披行事」

 廿三日、丙子、明日相當五七日、而依爲新帝御衰日、縮一日今日披行本院御誦經、蓋先例也、

 攝政殿賜非時於諸?伝々、公家御誦經如例、上卿新源中納言、

  延暦寺 前駿河守俊兼、左助經良、 西院塔 散位成房、筑後守貞度、

  積善寺 前出羽守信明、前薩摩守行義、 上出雲寺 大監物説家、散位業實、

  圓教寺 縫殿頭信俊、左馬助景仲、 尊勝寺 兵庫頭邦家、散位季綱、

  香隆寺 常陸介實宗、式部少輔有元

 

 また『為房卿記』という史料にも、実宗が堀河天皇崩御の際に香隆寺・興福寺への法要の使節を務めた事が記されている(『仙台市史』通史編2古代中世)。さらに、出典は不詳だが『下館市史』が以下の実宗についての逸話を紹介している。

 

 ・天永2年(1111)朝廷から常陸に対し臨時の課税をあてられたが、国内が疲弊して支払うこ

  とができず、大蔵府の有司から厳しくとがめを受けても始末がつかず困り果てた。実宗は、

  大蔵卿大江匡房に訴えて免除を哀願し、匡房もその窮状を察してその願いを容れ、遠江に課

  した

 ・永久元年(1113)伊佐実宗は鹿島神宮造営に功労があった

 ・永久元年(1113)伊佐実宗は武蔵の横山党の乱を追討して功をあげた

 

 これについては『新編常陸国誌』に次のような記述が見え、『下館市史』の逸話のうち「臨時課役」と「鹿島神宮造営」の出典は同書であろうと思われる(『新編常陸国誌』が引用したとする『外記日記』『春日驗記』『詞歌集』について、管理人は現在未確認)。

 

 『新編常陸国誌』第九巻 藤原氏【伊佐】補

 伊佐氏ノ先ハ中納言藤原山蔭ヨリ出ヅ、山蔭ハ大職冠鎌足八世孫ナリ、子右京大夫中正、越前

 守安親ヲ生ミ、安親ノ子爲盛、爲盛ノ子定任、其子實宗、康和ノ初陸奥守トナリ鎮守府將軍ヲ

 兼ヌ〔外記日記〕、天永二年、常陸介ニ遷ル〔春日驗記、詞歌集〕、是歳朝廷臨時ノ課役ヲ本

 國ニ命ズ、本國民力衰?、之ヲ諭スコト能ハザルニ、大藏省督責急ナリ、實宗之ヲ大藏卿大江

 匡房ニ哀訴ス、匡房其情ヲ察シ、之ヲ遠江ニ課ス、實宗感喜シ、歌ヲ詠ジテ之ヲ謝ス〔詞歌集

 〕、永久二年鹿島神宮ヲ造ル〔驗記〕、實宗初真壁郡中村ニ居ル、因テ中村ヲ氏トス…

 

藤原実宗と伊佐 『寛政重修諸家譜』伊達家譜は前述のように「(実宗は)常陸国真壁郡伊佐庄中村に住す。これより伊佐と称し、あるいは中村をもって称号とする」としている。ただし、伊達氏には代々書き継いだ古系図は存在せず、同家譜における行朝以前の所伝には問題点も多いという。寛永緒家系図伝』の実宗所伝には伊佐や中村といった記述はない。『寛永諸家系図伝』完成から『寛政重修諸家譜』までの期間に仙台藩では、4代藩主伊達綱村による系図編纂事業が実施され、『伊達出自正統世次考』が編纂された。伊達家臣の落合時也らが常陸中舘(茨城県筑西市中舘)や下野中村(栃木県真岡市中村)を調査のため訪れたのは同書編纂のためであり、以降「伊佐」「中村」は伊達氏父祖の地として強く認識されるようになったようである。ここで「伊佐」についてひとつ確認しておく。「伊佐」の名は、『伊達出自正統世次考』編纂以前に成立した『吾妻鏡』や『余目旧記』(伊達家臣留守氏の一族余目氏に伝わる史料)でも言及されており、『伊達出自正統世次考』編纂事業に係る調査によって新たに作り出されたものではない。

 次に、常陸における実宗の居所について考えてみたい。実宗は常陸介であった。常陸介は現地の最高責任者であり、常陸国に係わるいっさいの政務を総裁した。彼ら国司の仕事について『官職要解』は、「その職掌はずいぶん繁多であるから、日々役所へ出勤して事務をとった」という。伊佐郡から常陸国府(現在の石岡市)までは距離があり国司日々通ったとは想像しがたいので、その在任期間中、実宗は国府またはその周辺に住んだはずである。すると「実宗が伊佐に住した」という所伝が否定される。ここは視点を変えて、常陸介時代に伊佐郡周辺に扶植した勢力を辞職後も維持し続けたとは考えられないだろうか。可能性は残るだろう。

そもそも伊達氏の祖先に対する認識は時代とともに変化している。現在一般に流布する系譜は最終的に確定したものではあっても、必ずしも全て正しいというわけではない。伊達氏の出自は藤原氏ではない可能性もあるし、実宗が伊佐・中村氏を称したという所伝は後世に付加されたものかもしれない。もしそうであっても、『吾妻鏡』に常陸入道念西と伊佐為宗の関係が見える以上、伊達氏と伊佐郡および伊佐氏の関係性を否定することはできない。

 


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