H19.7.13作成開始 H20.1.8更新

 

新治国と常陸国新治郡

 


 

新治国 仙台藩伊達氏の源流の地である常陸国伊佐郡(ひたちのくにいさのこおり)は、下野国、下総国と境を接し、もともとは新治国(にひばりのくに にいばりのくに)の一部であった。往古の伊佐郡のほぼ全域が、現在の茨城県筑西市(平成17年3月、下館市・関城町・明野町・協和町が合併して誕生)に含まれる。和銅6年(713年)の詔(みことのり)を受けて常陸国司が撰進したとされる『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には、「古は相模国足柄の岳坂(さがみのくにあしがらのさか)より以東の諸県、惣べて我姫国(あづまのくに)と称ひき。是時、常陸と言はず」とあり、その昔は相模国足柄坂から東の地域をすべて我姫国と総称していたという。常陸国成立以前、その域内には新治国のほかに筑波、茨城、那賀、久慈、多珂という6つの国があり、それぞれ国造(くにのみやつこ)が治めていた。『常陸国風土記』には、新治国造祖として比奈良珠命(ひならすのみこと)が見え、『国造本紀』には比奈羅布命を国造としたとある。新治国造支配領域で最大の古墳は、筑西市徳持にある前方後円墳の葦間山古墳(あしまやまこふん)で、『筑波大学先史学・考古学研究調査報告5古墳測量調査報告書』によれば、現存後円部の直径82m、高さ10.5m。前方部全長30m、高さ3m。一部は開発などにより削られており、欠落部分を復元すると、古墳全長141mと推定されるという。被葬者が国造級の権力者であったことは間違いないであろう 

 

  

常陸国の成立と新治郡 

大化元年(645年)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)らによる大化の改新以降、律令制国家建設のために様々な改革が行われ、地方の行政組織も再編された。大化2年(646年)には新たな行政単位として常陸国が成立。それまでの新治ほか6国はこれ以降、常陸国を構成する郡という扱いとなり、それぞれ新治郡、筑波郡などという名称で呼ばれるようになる。その後、大化5年(649年)には那賀郡の一部と下総国海上郡の一部をもって香島(鹿島)郡を新設、新治郡から白壁郡(延暦4年の詔により真壁郡と改称)を分離新設するなどの改変が進み、『常陸国風土記』には新治、白壁(真壁)、筑波、河内(こうち)、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀、久慈、多珂の11郡が記されている。なお、ここに現れる新治郡(元の新治国)の領域は、後に誕生し、平成の大合併で消滅した茨城県新治郡とは全くの別の領域。茨城県新治郡は平成17年、郡内で最後に残った玉里村が東茨城郡小川町・美野里町と合併し小美玉市となったため消滅した。

 

 

新皇平将門 9世紀になると東国では、天変地異や俘囚(ふしゅう)の反乱、しゅう馬の党の出現などにより治安が乱れ始め、律令制に動揺があらわれる。寛平元年(889年)事態を重く見た畿内の政権は、東国の治安維持のため、鎮守府将軍兼上総介として平高望たいらのたかもち 桓武天皇の曾孫・高望王)を下向させた。高望の長男・平国香(たいらのくにか)は常陸大掾に、その弟・良兼(よしかね)は下総介となるなど、兄弟たちはそれぞれ東国に土着。私有地を開発し、常陸・下総を中心に桓武平氏による支配を拡大していった。やがて高望の孫にあたる平将門(たいらのまさかど)が、父・平良将(たいらのよしまさ)の遺領をめぐり一族と対立し、承平5年(935年)おじ・平国香を討つ。この時、国香の館があった石田(現在の茨城県筑西市東石田)をはじめ、与力の人々の館までがここごとく焼かれ、新治郡も戦火に巻き込まれた。その様子を『将門記(しょうもんき)』は、「千年之貯伴於一時炎 又筑波真壁新治三箇郡伴類之舎宅五百余家 如員焼掃(千年の貯え、一時の炎に伴えり。また筑波、真壁、新治三箇郡の伴類の舎宅五百余家、員(かず)の如くに焼き掃う)」と伝えている。平氏一族の抗争に端を発した乱はやがて関東諸国を巻き込み、天慶2年(939)、ついには将門による常陸国府襲撃に至る。国府を焼き払った将門は国印を奪い、続いて下野国府、上野国府を襲撃。京の天皇に対抗して自ら新皇を称し、東国国家樹立に乗り出したのである。 将門が新皇を称し、東国に新たな支配を確立しようとしているという情報は、すぐさま京に及んだ。朝廷は神仏に朝敵調伏を祈願させるとともに、天慶3年(940年)藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征東大将軍に任命。さらに東海・東山諸国に太政官符を下し、朝敵を倒した者には官位5位以上と田地を与えることを約束した。将門を追討することになる藤原秀郷(ふじわらのひでさと 俵藤太)が下野押領使(しもつけおうりょうし)に抜擢されたのも、この時のことであろうといわれている。結果から言うと将門は、征東大将軍の藤原忠文ではなく、この藤原秀郷と、国香の子である平貞盛(たいらのさだもり)によって滅ぼされる。彼が果たそうとした東国国家樹立の夢は、後に源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を開くことにより実現する。

  

 

 


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