フーゴ・バル(Hugo Ball, 1886〜1927)

ベルリン、一九一四年十一月。わたしはいまクロポトキンバクーニンメレジコフスキーを読んでいる。国境の前線に二週間いた。
その間ヒューズで最初の戦死者たちを見た。砲撃の跡も生々しいマノンヴィエールの堡塁で、瓦礫のなかにずたずたに引き裂かれた
ラブレーを見かけた。それからこちらへ、ベルリンに向かったのだ。わたしの言うことがわかってもらえるといいのだが。戦争で今
突然現れてきたものは何かというと、それは機械仕掛の全貌であり、悪魔そのものなのだ。理想的な文句はピンで留められた小さな
レッテルにすぎない。最後の地下要塞のなかまで、何もかも一切がぐらついている。
フーゴ・バル『時代からの逃走』p.21 邦訳、1975年、みすず書房



フーゴ・バルについて
文:ウツボカズラ(フロスティッドグラス)

1. フーゴ・バルの略歴

 フーゴ・バルは1886年(明治19年)2月22日、現在のドイツに生まれ、音楽好きで敬虔なカトリック信者の家庭に育った。バル家は決して
裕福ではなかったようで(兄弟がほかに5人もいた)、彼はギムナジウム卒業後、一度大学進学を断念して、皮革工場に就職している。
大学入学のとき、彼は20歳で、5年間大学に在学、ニーチェに傾倒するが、大学を辞め、1910年、ベルリンで演劇学校に入り、
4年ほどの間、ドイツ国内の小劇場で、舞台監督や演出家として活動していた。バルはやがて「第一次世界大戦中ドイツから逃れて
チューリヒのシュピーガルガッセという湖畔に近い古い街の一角に芸術・文学のキャバレー、「カバレー・ヴォルテール」を開き、
いわゆる「ダダ」運動の開祖、その精神的支柱とな」(註)る。


2. バルの1914年-青い騎士との邂逅、西部戦線従軍-

1914年以前に大人になった人々には、1914年の前と後との間の対照は劇的なものだった。彼らの多く―この20世紀史を書いている
歴史家である私の両親を含め、ともかく中央ヨーロッパの人々―は、過去との連続性がなくなってしまったと主張するほどだった。
「平和」とは「1914年以前」を意味しており、それ以後の時代は、もはや平和の名に値しなかった。(p.32)

すべては1914年に変わった。第一次世界大戦にはすべての列強が参加し、スペイン、オランダ、スカンジナヴィア三国、スイスを除く
すべてのヨーロッパ諸国が参加した。(p.34)

要するに、1914年が大量殺戮の時代の開幕を告げたのであった(Singer,1972,pp.66,131)(p.35)
エリック・ボブズボーム『20世紀の歴史―極端な時代』邦訳、上巻、1996年、三省堂

---



 バルにとっての転換期は、1914年にあった。この年、彼はミュンヘンで、晩期の「青い騎士(ブラウエ・ライター)」のメンバーと
交流し(この年カンディンスキーを中心に結成された「青い騎士」は解散する)抽象表現について大きく刺激を受けており、また11月には
齢28にして、自由志願で、西部戦線にて従軍するが、そののち、急速に反戦的態度を深めて、チューリヒへと赴くのである。藝術における
創作意欲は大いにその時代から影響を受ける。それはバルとて例外ではなく、その言語に対する取り組みを深めるきっかけになったのが、
この1914年にあろうことは想像に難くない。


---

これが『西部戦線』だった。それは、戦争の歴史の中で、おそらく以前にはけっしてなかったような虐殺の装置となった。
数百万の兵士が塹壕の中で、ねずみ、しらみとともにその両者と同じように暮らしながら、砂嚢を積み上げた胸壁を間にして互いに向かい合った(p.37)

1916年(二月から七月にかけて)にドイツ軍がヴェルダンで戦線の突破を試みたのは、200万人の会戦であり、死傷者は100万であった。
それは失敗に終わった。(p.37)

アメリカの戦死者数は一見したところ小さいが(11万6千、それにたいしてフランスは160万、イギリスは80万に近く、ドイツは180万)、
それは西部戦線‐アメリカ兵が戦ったのはこの戦線だけだった‐がいかに残酷であったかをまざまざと示している。(p.38)
エリック・ボブズボーム『20世紀の歴史―極端な時代』邦訳、上巻、1996年、三省堂


3. カバレー・ヴォルテール開店

エミー・へニングス(Emmy Hennings, 1885〜1948)


 バルはドイツ国内で反戦運動に積極的に参加し、当局に追われる身となったため、恋人のエミー・ヘニングスと共にパスポートを偽造し、
ルーマニアを経由して、スイスへと逃れた。そして1916年、先に述べたようにカバレー・ヴォルテールをスイス市内に開くのである。

 バルの藝術に対する取り組みはダダを通して一貫して情熱的であるが、彼の藝術に対して大きな影響を与えたのは、カンディンスキーである。
彼はどちらかというと美術理論、批評の分野で活躍していたのだが、1896年、齢30にして画家になる決意をした。この年、エストニアの
大学から教授職に招かれていたが、モスクワからミュンヘンへと移って画家としての活動をはじめる。19世紀末の藝術に携わる人間として
カンディンスキーも例外ではなく、ワグナーから影響を受けている。ワグナーが主張したのは「総合藝術」という考え方だ。それはどんな
ものなのだろうか。その解説を見てみよう。

彼の考える「未来の総合芸術作品」は一種のユートピア的形象であり、総合性は芸術ジャンルだけではなく、その創造に携わる
集団的協力者(芸術家)の総合でもある。超エゴイストであるワーグナーが説くと奇妙だが、人間が社会の分裂をもたらすエゴイズムを
克服して「共産主義者」(同志的結合による協同体人間を指す)になるように、個々の芸術も孤立から救い上げられて未来の芸術作品に
総合されるべきだと言うのであり、未来の詩人(つまり未来芸術の創造者)は、音楽と文学と舞踏とをドラマに奉仕させる任務を与えられるのである。
高辻知義『ワーグナー』p.90、1986年、岩波書店


 ワグナーが考えた「総合藝術」の実現は「楽劇」によって行われる、ということだろうが、カンディンスキーはワグナーの楽劇
「ローエングリン」(1847年完成)をボリショイ劇場で見て、次のように言っている。

私にとって、バイオリン、ファゴット、そして特にすべての管楽器は、黄昏のひとときがもつあらゆる力を具現していた。
私は、私のあらゆる色彩を見たように思った。私はそれを目の前にしていたのである。
アンジェロ・デ・フィオレほか『絵画の発見15 カンディンスキー/モンドリアン』p.4、邦訳、1993年、学習研究社


 カンディンスキーがワグナーにヒントを得て発想したのは「諸藝術総合」という藝術の理想で、彼の場合は、その実践を絵画において
音楽や言語を表現する試みとして行った。精力的にそれらの作品が描かれたのは1910年代から、1920年ころにかけてである。
 一方、ダダに加わる以前のバルは、大学を辞め、演劇に己の生きるべき道を見出していた。演劇に「諸藝術総合」に似た壮大な夢を託す
若き日のバルは、人生そのものの実現可能/不可能のスリルに震えるような、心熱き青年であったはずだ。ただ、バルに宿った「諸藝術総合」の夢は、
第1次大戦の勃発と共に、露と消えてしまう。戦後も、バルのなかに「抽象と具体とをどう融合させるか」という命題が常にあったように考えられる。
これはドイツロマン派的な思潮の系譜にあり、高度な藝術によって人間の世界を抜本的に変革させうる、という信念に基づいたものであり、
こんにちのわたしたちから見れば実に無邪気なある種の夢想家ゆえの命題に違いないのだが、20世紀初頭にはそういった夢想を可能にさせるような純朴さが
欧州にもまだあったのだろう。ダダにおける彼は、若き仲間にも触発され、第一次世界大戦前に思い描いた「表現主義劇場」の実現に変わる
何らかの「劇場」を打ち立てたい、という情熱も消えずにあったに違いなく、その情熱が1916年2月5日「カバレー・ヴォルテール」の開店に繋がるのである。

(註)フーゴ・バル、土肥美夫・近藤公一共訳『時代からの逃走』 p.287、1975年、みすず書房

→フーゴ・バルについて (2)へ