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2004/9/23修正

ジェイン・オースティン  ラフカディオ・ハーンと夏目漱石の称賛



 2004年はラフカディオ・ハーン(ヘルン、小泉八雲)没後100年。ちなみに2000年で生誕150年を迎えている。
 ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)を日本に紹介した人物としてよく挙げられるのは、夏目金之助。千円札に肖像が印刷されている(2004年9月現在)、かの『吾輩は猫である』をはじめとする名作群の作家・夏目漱石である。
 ところが、彼よりも早くに紹介した人物がいた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。(大島一彦『ジェイン・オースティン「世界一平凡な大作家」の肖像』にも書かれている)
ハーンは今から100年前の20世紀初頭、こんなふうに語った。

この期の女流作家の場合には、ただ第一級の人のことだけを扱っておけばよいのではないかと思う。
(略)

(ヴィクトリア時代)になると、数百と言わず、数千の女性作家があらわれる。けれどもそれ以前には目ぼしい人は半ダースといない。またそれらの中でも、本当に重要だと思われるのはさらにその半分くらいしかいない。
(略)

(ミス・バーニーに続く女流作家は)エッジワス、フェリアー、オースティンである。この中ではオースティンがいちばん大きい。
話のついでに言っておくが、彼女はけっして二流の作家ではない。シェイクスピアにも比すべき存在である。少なくともフィールディングには匹敵する、生活のようすや経験の範囲は彼よりずっと狭いものであったけれども。
(略)

世間のことはほんのわずかしか知らなかった。また見聞も少なかった。
彼女自身、自分の作品のことを二インチ四方ほどの小さな象牙板に施されたきれいな彫刻だと言っている。これは実にうまい比喩だ。
なるほど、その象牙の板は小さいかもしれない。だがそれを彫った職人は、古今の人間の描き手のうちでも最大の一人だった。前も言ったが、オースティンがフィールデングやサッカレイに劣っているのは、ただ、彼女の人生が狭かったというだけのことである。
(略)

さらに女だてらに小説を書くことに対する偏見が家族の中にさえあった。
(略 デビューが遅かったことや、「最後の三つの小説も死後にならないと本にならなかった」のはそのせいだ、という説がある)
  だが、この小説を委嘱された本屋が出版をためらっていたことも事実である。それはあまりに繊細すぎた。
今日でさえ、文学的教養が十分でないと彼女の小説の並はずれた長所を理解することはできない。ありふれた人たちには理解が届かないのである。表面的にはともかく、その内面の意味の理解は。
(略 6つの長編を提示)

このうちどれが一番よいかとなると、(サッカレイの小説同様)難しい。すべてよい。が、『高慢と偏見』がいろいろな人の意見では一番よいということになっている。それは一人の若い娘が貴族の求婚をしりぞけるが、それは相手が自分の家族に失礼なことをしていたからだったという話。それだけのことである。これだけではずいぶん面白味のない話のような印象を受けるかもしれないが、面白くないどころか、シェイクスピアの芝居のあるもののように面白い。実際、人物たちの劇的な真実といきいきしたようすは、シェイクスピア的と言っていいくらいだ。あなたがたにはむしろ『分別と多感』の方が適当かもしれない。
(あらすじの説明略)
『説得』もまたおもしろい。
(あらすじの説明略)

それでも私はやはり、あなたがたにはオースティンのよさは本当には理解できないのではないかと思う。少なくとも彼女の作品は一つは読んでおかなければならないが、そこで描かれているような生活、人々、悩みや愚行などは、あなたがたの多くには奇妙に思われるのではないだろうか。作中人物に共感を感じられなければそれを読んでもあまり益にはならない。
もしオースティンを好きになれたとしたら、それは、ところどころにちょっと日本の娘を思わせるようなやさしい人物が描かれているからではないかと思う。オースティンはとりわけ若い娘の作家だった。何も少女小説の作者だったというつもりはないが、彼女は若い娘を驚くほど理解し、彼女らの性格の描き方や、ある状況のもとで彼女たちがどういう行動に出るかなどの提示の仕方をよく心得ていた。
(略)
彼女は行動させ、話させることによってその人間を描く。
(略)
本当によい娘、やさしい娘というのは世界じゅういたるところで大体同じだ。だからオースティンの作中人物がイギリス的であると言っても、それらはまたときに日本人のように見えることもあるだろう。

『英文学史』
章「宗〜哀凜クトリア時代の散文――小説」の節[女流作家]より
野中涼・野中恵子訳『ラフカディオ・ハーン著作集 第十二巻』
(恒文社、1982年12月発行)
( )内はわたしが書いたもの、また適宜改行した

 この激賞を読んでください。たびたびシェイクスピアが引き合いに出されている。「シェイクスピアにも比すべき存在」とは、天才である、ということではないだろうか。
 ハーンの称賛は、オースティンの日本への紹介としては、漱石の「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入る」ではじまる文章に匹敵するだろう。
 実は、引用したものは講義録で、しかも後年になって、受講生のノートを「元に編集したものだという」(野中恵子)
 ハーンが東京帝国大学の教室で、オースティンを激賞したのは1901(明治34)年1月から、いわゆるお雇い外国人を減らす方針によってリストラされた03年3月まで、と考えられる。
 突然解雇されたハーンは失意に陥ったが、早稲田大学で講義することになった。しかし、まもなく死去。54歳だった。

 ハーンが東京帝国大学で教えていたころ、漱石はどこにいたか?
ハーンの講義をじかに聴いて、「よーし、自分はオースティンの良さがわかるようになるぞ」と決意したのであったら、おもしろい(、とわたしは思った)。しかし、漱石はとっくに東大を卒業していた。
 大英帝国の首都・ロンドンにいた。エリートの国費留学、ではあったものの極貧で、精神的にも追いつめられた日々にあった。1901年、ヴィクトリア女王の葬列を見た。1902年帰国。
 ハーンの後任の講師に選ばれる。イギリス文学の講義を引き継がされたのだった。ちなみに、熊本第五高等学校でも漱石はハーンの後任だった。
 東大では学生が、一方的なハーン解雇への反対運動を起こしていた。しかも、ハーンの情緒豊かな講義とはちがう漱石の理論的な講義に対して、ものすごいブーイングが起こったのだった。たとえば、“老いらくの恋”でも有名な川田順とその仲間は授業をボイコット。
 学生に嫌われるというのは、つらいことだろう。漱石は長いあいだストレスに苦しんだ。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』にも、学校の先生が嫌な仕事だということが描かれている。
ただ、講義は退任(朝日新聞社への転職)前には好評を博すようになったそうだ(よかったよかった)

 ハーンの『英文学史』は1927年刊行だそうなので、漱石は読んでもいない(1916年死去)。漱石がオースティンを激賞している『文学論』(文學論)の構想は、ロンドンで日本人の科学者と出会って生まれたという。
 しかししかし、漱石はハーンのオースティン評というか、オースティンに関する日本人観を知っていたのではないか、と思いたい。そうすると『文学論』でのオースティン激賞の片面、あるいは日本のインテリの成長が見えてくるようなのだ。

 ハーンは、オースティンを称賛しただけではない。オースティンのある小説を薦めた。そのイチオシの作品は、世界の多くの人が代表作とみとめている『高慢と偏見』(自負と偏見)ではない。
欠点がやや目立ち、生硬なところのある『分別と多感(知性と感性)』。小説の最後は、慎重さと節度をもったヒロインが正しかった、という内容である(わたしは好きな小説である)
『高慢と偏見』は、機知と明るさに富んで、軽快。
 それよりも引っかかる点がある。ハーンはオースティンを高く評価しながら、「それでも私はやはり、あなたがたにはオースティンのよさは本当には理解できないのではないかと思う」と述べたこと。

 日本の松江(島根県)、熊本県や東京などに、ハーンは欧米にはない情緒を見いだした。熱愛していた彼には、日本が倫理的で繊細な、線の細い国、欧米とは異なる神秘的な国に思えたのだろうか。
 前置きに「文学的教養が十分でないと彼女の小説の並はずれた長所を理解することはできない」と語っていることは無視できない。
 もしかしたら差別、ちがう言い方をすれば、「自分とは違う」という強烈な自己認識、あるいは「恋は盲目」という言葉にあらわされるような無理解に近いものがあったろうか。

 一方、“オースティンを理解できないだろう宣告”をされたのは、極東のせまい島国の、しかも、そこから出たことがなくて、ある程度裕福な中流以上(もしかしたら地主階級?)の家庭に育った男子学生たち。
 たしかにイギリスの都市と田園に生きて、対等に話し、恋愛する紳士や、地主・男爵の娘たちとは、人生経験が異なる。「田舎に3つか4つの家族があれば、小説になる」というようなオースティンの描いた“日常、平凡な人生”は、未知の世界だろう。
 ハーンは、彼らにオースティン入門をほどこしてはいる。それは、ヒロインに日本人の若い娘らしさを見出すこと。

 対して、漱石の激賞はどうだろう。「余云ふ。Austenを賞翫する能はざるものは遂に写実の妙味を解し能はざるものなりと。」  『文学論』でオースティンの写実のすばらしさを論じ、その雄として『高慢と偏見』を挙げた。漱石はオースティンを対等に評価している。
 おなじく明治時代の日本人にオースティンを紹介しながら、この点でハーンとは対極だ。100年後に生きているわたしからすると、ハーンに確信できなかった日本人のものの見方の確かさを、漱石がはっきりと打ち出してくれたように感じる。
 もちろん、漱石は自分の資質や志向から、オースティンを尊敬していたと思う。オースティンの描くふつうでいて妙味のある生活、人生は、「則天去私」の世界につながるのだろう。
 しかし、それだけではないのでは、と、ヤジ馬のわたしは思うのである。
 漱石は情感豊かな人物でもあった。前述したように、ハーンの後任に選ばれ、苦労したのだった。
 漱石のオースティン論は、イギリス文学のひとつの高峰・オースティン作品を理解し、自分の文学観に適うものとして沈潜し、練り上げた考察だ。それを織りこんだ『文学論』を発表したとき、もしかしたら研究者としても小説家としても、そして日本人としても、ハーンを克服したような反駁し得たような、俗っぽく人間くさい思いが漱石、いや夏目金之助の胸にチラリともよぎらなかっただろうか?
 わたしは、漱石のオースティン激賞と、小説『坊っちゃん』への織りこみ(とわたしが思っている)の裏にはハーンの影が・・・と邪推している。

 ・・・などと書いた後、こんな言葉を見つけた。
「漱石は自分の前の東大講師で優れた文学者だったハーンにコンプレックスを感じ、一矢を報いようと文学的な腕前を同じ主題で披露したのが『夢十夜』ではなかったか」
平川祐弘氏(96くまもと漱石博の国際シンポジウム「世界と漱石」)こちら
 『文学論』は、夏目金之助のイギリス文学研究への「さよならの書」ではないか。しかし、夏目漱石のハーンに対する思いは続いたようだ。

 ハーンは、ヨーロッパの島に生まれ育ち、物書きになりたいという強い思いを抱いて、いくつもの海を渡った。学歴は大したことないけれど、オースティンの評にも見られるように、独学ですばらしい教養を培った。その隻眼の人は日本に来て、滞在わずか14年で亡くなった。彼はその間、日本の民間に伝わる話・伝承や、急激に開化が進んで工業国となりつつある日本社会について、欧米へ書き送った。欧米の地で、母語・英語による自分の本が出版されることを喜んだだろう。
 彼にとって日本は、エキゾチックな異国であり、基本・ベースは欧米にあったのではないか。日本への思いは恋にも似ていて、しばらくしたら熱狂は醒め、現実が目に入って、幻滅するようになったのではないか、とも聞く。
 彼については、奥さん小泉節子(セツ)さんの回想『思い出の記』もすばらしい。(青空文庫にもあります。こちら

Jane Austen  (1775-1817)
Lafcadio Hearn  ヘルン 小泉八雲  (1850-1904)
2004/8/12up


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