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★★★★★太平洋戦争への道の章(3)★★★★★

5−69 近衛首相

10月13日、近衛首相は最後の努力をします。豊田外相を通じて野村大使に日米交渉の見込みを尋ねます。返事は、「日本が駐兵問題に色をつければ米国の態度は手応えのあるものになるであろうが、4原則はあくまでも突っ張るものとみられ、交渉の一般的見通しは悲観的だ」というものです。10月14日、閣議前に近衛・東条会談が開かれますが、物別れです。この日、武藤軍務局長は富田書記官長に「どうしても総理の腹が決まらないのは海軍の腹が決まらないからである。海軍が本当に戦争を欲しないのなら、陸軍も考えねばならぬ。海軍が本当の事を言ってくれれば部下を抑えるにも抑えやすい。何とか海軍に仕向けてもらえないか」と申し入れます。和戦決定という重大な局面に立たされて、海軍ばかりか陸軍までもが責任を回避し始めています。誰も決め手がないので、ついに皇族内閣論が飛び出して来ます。

5−70 皇族内閣論

10月14日の近衛・東条会談の時から、東条陸相は東久邇宮内閣論を唱えていましたが、15日には近衛の辞意が固まったので、正式に提案します。「海軍がそういうように腹が決まらないならば、9月6日の御前会議は根本的に覆る。この際は全部辞職して今までのことを御破算にして、もう一度案を練り直すということ以外にないと思う。それには陸海軍を抑えてもう一度この案を練り直すという力のある者は、今臣下にはない。だからどうしても後継内閣の首班には宮様に出ていただくより以外は途はないと思う。」これを受けて近衛は木戸内大臣に申し入れますが、木戸は、「事前に陸海軍一致の方針、すなわち自重的の方針」が決定されなければ皇族内閣には反対である、と主張します。つまり、皇室が和戦の決定に責任を負うべきではないこと、陸海軍が和平の線で一致すれば皇族内閣も必要ないこと、の両面からの反対です。10月16日、木戸内大臣は東条陸相と会談し、東条と国策再検討の考え方で一致できると判断します。ここから木戸内大臣の後継内閣構想が生まれます。

5−71 国策白紙還元

10月17日、後継首班推薦のための重臣会議で木戸内大臣は、海軍は戦争に乗り気でないため現状では9月6日の御前会議決定のまま開戦決意をすることが不可能、との認識を持っているという理由から、東条陸相を後継首班として推薦します。つまり、陸軍中枢や統帥部が切り札としている9月6日の国策を白紙還元し再検討できるのは、今までそれを主張して来た東条陸相しかいないという、苦肉の策です。大命降下と同時に陸海両相に対して木戸内大臣から9月6日の御前会議の決定にとらわるる処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を要す」という天皇陛下の意思が伝えられます。木戸内大臣は10月20日に拝謁した際、「今回の内閣の更迭は真に一歩を誤れば不用意に戦争に突入する恐れがありその唯一の打開策として東条を奏請した」と述べます。

5−72 昭和16年の国策

この時期は国際情勢の変化が激しく、国策が何度も練り直されています。その基礎となるのが7月2日の御前会議です。援蒋ルート遮断、自存自衛のための南方進出、結果としての英米戦の覚悟、独ソ戦不介入と対ソ武力発動準備が決定されています。これを受けて実際に南部仏印に進駐したところ、手痛いシッペ返しを食い、一方で独ソ戦も長期化の様相を見せ始めたので、陸軍は北から南に大きくシフトします。一方、海軍は死活問題である石油を禁輸されたため、ジリ貧論が優勢です。海軍側から提示された「帝国国策遂行方針」をベースに9月6日、御前会議が開かれます。天皇陛下はこの時点で外交優先主義であることを確認しています。しかし、外交・戦争併用を軽率に決定してしまったことは否めません。海軍に対英米戦の自信がなく、天皇陛下にも開戦の決意がありません。立憲君主制の忠実なる僕を演じていた天皇陛下が、「白紙撤回、再検討」の御諚を降すということは、よくよくのことです。

5−73 東条内閣

昭和16年10月18日、東条内閣が発足します。海相は海軍が推薦する豊田副武を蹴って島田繁太郎大将。外相兼拓相は、本格的外交官で反枢軸派の東郷茂徳。蔵相は賀屋興宣。企画院総裁は鈴木貞一の留任。東条首相は承詔必謹の精神ですから、従来の主張である即時開戦決意を翻し9月6日の御前会議の決定を覆しにかかります。このため、陸軍省・参謀本部の主戦論を抑えるために陸相を兼務し、さらに臥薪嘗胆の結論に至った場合の右翼クーデターに備えて、内相までも兼務します。こうして10月23日から30日まで国策再検討のための会議が始まります。従来ひたすら主戦論で走って来た武藤軍務局長以下の軍務局は、180度の路線転換を迫られますが、田中新一作戦部長を中心とする参謀本部は主戦論に固執します。

5−74 国策再検討のポイント

7日間で再検討された議論の対象としてポイントとなったのは、

・対英米戦争の初期及び数年にわたる場合の作戦

・戦争発起を明年3月頃とする場合の利害

・対米交渉を続行して9月6日御前会議決定の「我最小限度要求」を短期間に貫徹する見込み

白紙撤回と言いながら、日米交渉の条件をその時のままで固執しています。中国・仏印からの撤兵問題について保障駐兵を求める態度を変えずそれを「我最小限度要求」としているのですから、前提条件を全く変えずに議論だけを繰り返していることになります。石油の備蓄量は減少して行きますし、アメリカの戦備は整ってきますから、再検討をすればするほど、早期開戦有利という結論に近づきます。しかし白紙撤回命令を受けた形の東条首相としては、天皇陛下の意図を汲んで妥協案にするしか方法がなく、次の3つの選択肢を用意します。

1 戦争は極力避け、臥薪嘗胆する。

2 開戦を直ちに決意し、政戦略の諸施策をこの方針に集中する。

3 戦争決意のもとに作戦準備を完成するとともに、外交施策を続行して、妥協に努める。

5−75 杉山メモ

杉山参謀総長は、国策再検討会議のメモを残しています。

伊藤軍令部次長「海軍としては11月20日まで外交をやっても良い。」

塚田参謀次長「陸軍としては11月13日まではよろしいがそれ以上は困る」

東郷「外交には期日を必要とす。期日も条件もそれで外交が成功の見込みがなければ外交はやれぬ。そして戦争は当然やめねばならぬ。」

東条「外交と作戦と併行してやるのであるから、外交が成功したら戦争発起を止めることを請合うてくれねば困る。」

塚田「それは不可なり。11月13日まではよろしいがそれ以後は統帥を紊す。」

嶋田「発起の二昼夜くらい前までは良いだろう。」

塚田「黙っていて下さい。そんなことは駄目です。」

参謀次長が海軍大臣を「黙れ」と叱りつける場面が印象的です。戦機を捉えそこなうという軍事上の危機を前にして、国策はどこかへ行ってしまったようです。

1 戦争を決意す。

2 戦争発起は12月初頭とす。

3 外交は12月1日零時までとし、これまでに外交成功せば戦争を中止す。

外交の成功を解除条件とするものの、戦争を決定する国策となります。

5−76 日米交渉案審議

外交期限を12月1日午前零時までに絞った以上、外交面での多少の妥協が必要になります。東郷外相から従来案と並列する乙案として提示されます。これは幣原喜重郎と吉田茂がグルー米大使、リンゼイ英大使の意向を打診して原案を作成したものです。

1 日米両国は仏印以外の東南アジア及び南太平洋に武力進出せず。

2 日米両国は蘭印の物資獲得につき協力す。

3 日米両国は通商関係を資産凍結前に戻す。

4 アメリカは日華和平努力に支障を与えない。

という諒解成立とともに日本が南部仏印から撤兵するというものです。東郷は更に中国の保障駐兵の範囲を華北、蒙古、海南島に限定し、それ以外の地域からは2年以内に撤兵するという条件を加えます。参謀本部は一時的に姑息な手段として猛反対します。日米の歩み寄りにより交渉が長引いてしまうのを懸念しています。

5−77 思惑の交錯

乙案の提示を受けた東条首相、杉山総長、塚田参謀次長、武藤軍務局長は、「支那を条件に加えたる以上は乙案による外交は成立せずと判断せらる。南仏印よりの移駐を拒否すれば外相の辞職即政変をも考えざるべからず。若し然る場合次期内閣の性格は非戦の公算多かるべく、また開戦決意までに時日を要すべし。此際政変並びに時日遷延を許さざるものあり。」という意見でまとまり、どの道成功しない案として乙案を了承します。一方、帝国国策要領は東郷、賀屋の両文官大臣が反対している中で、

「1 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際対米英蘭戦争を決意し、左記措置を採る。

2 対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば、武力発動を中止す。」

という戦争決意国策が多数意見となります。反対している東郷外相、賀屋蔵相は、1日間の猶予期間を申し出ます。この間に何かするのではないか、との緊張が走ります。

5−78 東郷外相

東郷外相は、次のように書き残しています。「米国が本件交渉につき、非妥協的態度を持する関係もあり、交渉成立は楽観できないが、これが不成立となった暁に日本が石油飢饉となるのは明瞭であり、之に乗じて米が圧迫を加え来るだろうとの軍の懸念は全然杞憂とは言えないものがあった。他方国際状況よりの議論は既に出し尽くされた。即ち予は米英の強大なる生産力及び精神力を指摘した。即ち戦争の見通しに対する軍部の見解に就いては此れ以上反駁し否認し得る状況にないので、之を信用するより仕方がないとの結論に達した。」そこで、開戦決意の国策決定に関与したくない東郷外相は辞職を決意して、広田弘毅に相談します。広田は「もし辞職したら、ただちに戦争を支持する人が外相に任命されることは明瞭だから、残って交渉に全力を尽くすべきだ」と諭します。陸軍側が外相辞任=内閣倒閣=非戦内閣と受け止めたのとは、まるで反対の解釈です。今まで陸相辞任による無血クーデターの経験がある陸軍と、政治には関与していない外務省との落差が出ました。

5−79 御前会議

昭和16年11月5日、御前会議が開かれ、「帝国国策施行要領」を正式決定します。

「1 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、対米英蘭戦争を決意し、左記措置を採る。

(1)武力の発動の時機を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を実施す。

(2)対米交渉は別紙要領により之を行う。

(3)独伊との提携強化を図る。

(4)武力発動の直前タイとの間に軍事的緊密関係を確立す。

2 対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば、武力発動を中止す。」

9月6日の御前会議決定は、「外交交渉と期限までに要求貫徹の目途が立たない場合の戦争決意」でした。白紙撤回、再検討の末に出てきたものは、「戦争決意と期限までに外交交渉成功の場合の武力発動中止」です。つまり戦争と外交の優先順位が逆転してしまったわけです。

5−80 野村大使

11月5日、東郷外相は野村大使に訓電します。「本交渉は諸般の関係上遅くとも本月25日までには調印も完了する必要ある処、右本交渉は至難を強いるが如きも四囲の情勢上絶対に致し方なき儀に付き右篤と御了承の上日米国交の破綻を救うの大決意を以って充分の御努力あらむことを懇願す。右厳に貴大使限りの御含み迄。」なぜ11月25日までに調印を完了する必要があるのか理由は示されてはいませんが、東郷外相の緊迫感が伝わって来ます。11月13日、野村大使はアメリカ側の態度を報告します。「戦争に対する準備は着々と進め居れり。日本が南進又は北進する場合に対し作戦その他万般の準備をなし、米国の信条たる政治的根本的原則を譲り妥協する位ならば寧ろ戦争を辞せざる覚悟にして殊に最近は独全盛の峠も見えたりと認め一層然るべしと思料せらる。米国政府は国内問題よりして対独戦に対しては若干の異論あるに対し、今日にては太平洋戦に世論の反対少なきを見て、この方面より参戦することも充分あり得べしと見込みおくを要す。」

5−81 野村大使の緊張緩和策

11月18日、野村大使と来栖大使はハル国務長官に対して、当面の緊張緩和のために、

「1 日本は南部仏印から撤兵する。

2 アメリカは資産凍結令を解除する。」

という提案を行います。ハル国務長官は一時的な解決は無駄であると冷淡ですが、検討を約します。11月20日、報告を受けた東郷外相から野村大使宛てに「我が国内情勢は南部仏印撤兵を条件として単に凍結前の状態に復帰すと云うが如き保障のみにては到底現下の切迫せる局面を収拾し難く少なくとも乙案程度の解決案を必要とする次第なり。かたがた貴大使が当方と事前の打ち合わせなく貴電私案を提示せられたるは国内の機微なる事情に鑑み遺憾とする所にして却って交渉の遷延乃至不成立に導くものと云うの外なし。」という叱責電が届きます。期限に迫られ陸軍に押されている外相と、米国の強い態度を目の当たりにしている現地大使館との温度差が大きくなってきます。

5−82 コーデル・ハル

周知の事実ですが、アメリカ国務省は日本側の暗号電報を全て解読しており来栖大使の派遣目的が全力で日本側条件を受諾させることと、それが失敗に終った場合に日本側の攻撃準備が整うまで欺瞞交渉を続けることであると、認識しています。さらに東郷→野村電から、11月25日までに日本の要求を呑まない場合、日本がアメリカと戦争を辞さない決意にあることも気付いています。11月22日、ハルは米陸海軍の戦備の時間を稼ぐために、乙案に対するアメリカ側の対案を準備し、英国、中国、豪州、オランダの各国大使と協議します。骨子は日米両国の太平洋での武力不行使、南部仏印からの撤退、日米貿易の再開、ハル4原則の承認です。11月5日の御前会議決定さえなければ、すぐにでも呑める案ですが、最早時計を逆に回すことは出来ません。統帥部は乙案での妥協すら拒む考えです。

5−83 南方占領地行政実施要領

11月20日、大本営政府連絡会議は、作戦対象として占領する予定の南方諸国について「南方占領地行政実施要領」を決定します。乙案による外交交渉継続中ですが、既に戦争を決意した以上、占領地行政も決めておく必要があります。骨子は、

「1 治安の回復

2 重要国防資源の急速獲得

3 作戦軍の自活確保」

であり、その手段として軍政を敷くことにします。「原住土民に対しては皇軍に対する信倚の観念を助長せしむるが如く施策し其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とあります。アジア民族の解放が後から取ってつけた虚構であることがよく分かります。

5−84 乙案とハル案の相違

東郷外相が自信を持って進めている乙案は、次のような内容です。

「1 日米両国は仏印以外の東南アジア及び南太平洋に武力進出せず。

2 日米両国は蘭印の物資獲得につき協力す。

3 日米両国は通商関係を資産凍結前に戻す。

4 アメリカは日華和平努力に干渉せず。

5 日本は南部仏印から撤退す。

6 通商無差別問題は全世界に適用されるなら支那にも適用す。

7 三国軍事同盟は日本が自主的に参戦を決定す。

8 中国撤兵は華北・蒙古・海南島を除き2年以内に実施す。」

ハルが英・中・豪・蘭の大使と協議していた暫定案は、次のとおりです。

「1 日米両国は太平洋地域で武力を使用せず。

2 日本は南部仏印から撤退す。

3 日米両国は通商関係を資産凍結前に戻す。

4 すべての国家の領土保全と主権の尊重

5 内政不干渉

6 通商機会均等

7 平和的手段を除く太平洋現状変更の禁止」

つまり、不一致の点は中国大陸での通商機会均等の取扱だけです。

5−85 中国大使の反対

11月25日、中国大使の胡適は、「そんなことをして、日本に石油を売るつもりですか。蒋介石総統も言ったではないですか。日本に石油を一滴売れば中国人兵士の血を1ガロン流す事になると。」と暫定案に反対します。この段階で日本と現実に戦争をしているのは中国だけですから、アメリカも中国の意向を無視できません。しかし、アメリカの戦備はまだ完全ではなく、ここで乙案を呑むかあるいは妥協的な対案を示さなければ、11月29日以降に日本が動き出すことは、暗号電報の解読によって分かっています。できることならもう暫く準備のための外交が必要です。そこへ飛び込んで来たのが米国陸軍情報です。11月26日、1万トン級の10〜13隻の船団が台湾南方で目撃された、という情報は、日本軍が隠密裏に作戦行動を開始したものと取られます。最早、暫定的な妥協をしても、日本軍が先制攻撃を仕掛けてくる可能性が出てきました。日本側の、戦争準備をしながら外交交渉を続ける矛盾が露呈しました。

5−86 ハル・ノート

11月26日、ハル国務長官は乙案への対案として25日まで検討していた暫定案ではなく、いわゆるハル・ノートを提示します。

「第1項 政策に関する相互宣言案

1 あらゆる国の領土保全と主権の尊重

2 内政不干渉

3 通商機会の平等

4 平和的手段によらない太平洋現状変更の禁止

第2項 日米の採るべき措置(抄)

・日本の支那、仏印からの全面撤退

・日本の蒋介石政権の承認と他の政権(含む満州国)の否認

・日独伊三国同盟の空文化

・英蘭支ソ泰と多辺的条約締結(連合国への組み込み)」

つまり、4月16日の日米諒解案そのものを否認した、最後通告です。日本の戦争準備行動を察知した応戦決意の表明とも言えます。

5−87 マーシャル参謀総長

11月26日、ルーズベルト大統領の命を受けたマーシャル参謀総長は、サンフランシスコ、マニラ、ハワイ、カリブ海の各司令部に警告します。「日本との交渉はあらゆる具体的な問題について終結してものと見られる。残るところは日本政府が回答し交渉継続を申し出ることだが、これは極めてかすかな可能性があるにすぎない。日本の将来の行動は予想し難いが、敵対行動はいつでも予期できる。もし敵対行動を避けることが出来なければ米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している。この政策は、貴下の行動を、貴下の有効な防衛を阻害するような方向に限定するものであってはならない。日本の敵対行動に先だって、貴下は貴下が必要と思われる偵察及びその他の措置を取ることを命令される。敵対行動が発生した場合は貴下に伝達されたレインボー第五修正計画に基き任務を遂行されたい。」日本軍は待ち構えている米軍の罠に飛び込むことになります。

5−88 破局

11月27日、ハル・ノートの提示を知った東京では、東郷外相が「戦争を避けるために眼をつむって呑み込もうとしてみたが、喉につかえて亳も通らなかった」と交渉を断念します。東条首相も「残念ながらまったく受け入れるわけにはいかない。こちらの要求は一顧だにされていない。アメリカの真意を疑う。ルーズベルトの精神を疑う。支那・仏印からの全面撤兵、汪政権の否認、三国同盟離脱に近い要求。これでは何のための日米交渉だったのか、まったく理解に苦しむ。もしこれを受け入れればどういう結果になるか。帝国は一時小康を得るかも知れない。だがそれでも英米に死命を制せられていることには変りはない。この小康は重症患者に対するモルヒネの小康でしかない。英米の意思によって振りまわされるのでは最早国家ではない。」と言いきります。

5−89 大本営政府連絡会議

11月27日、大本営政府連絡会議が開催され、アメリカ側の提案を審議します。「米国の回答は日本への最後通牒であり、日本がこれを受諾しないのを知って通知して来た。この回答に至るまでに関係諸国との打ち合わせも済んでいるようだし、つまりこれは米国、英国、オランダ、豪州、支那の意見でもある。もしこの案を受け入れたら、日本は日清戦争以前に逆戻りを覚悟しなければならない。それでは先人に申し訳ない。」という意見が支配的です。この会議では12月1日の御前会議で開戦を決意すること、11月29日に重臣と懇談することが決定されます。翌28日、東郷外相が参内し米国の対案を説明します。宮中の和平勢力も、最早なすすべがありません。

5−90 重臣懇談会

11月29日、重臣との懇談会が開かれます。出席したのは、若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎、近衛文麿、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政という元首相たちです。昭和になって内閣総理大臣を勤めた者のうち、ここに出席していないのは、田中義一(病没)、浜口雄幸(テロ)、犬養毅(テロ)、斎藤実(テロ)の4人です。広田、林、阿部の3人は政府の決断に賛成します。若槻は、「この戦争が自存自衛のためであるなら、敗戦を覚悟しても開戦はやむを得ないが、そうでない目的のために戦争に訴えるというなら危険千万だ。」と反対します。満州事変・支那事変の失敗を取り戻そうとする、陸軍の陰謀との見方をしています。米内は、「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないように」と釘を刺します。しかし、重臣たちが結束して和平に動くことはありませんでした。この日、大本営政府連絡会議は予定どおり開戦決意のための御前会議開催を決定します。

5−91 高松宮

11月30日、天皇陛下は弟宮の高松宮殿下と会見します。その時に出た話として、「どうも海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたいような気持ちだが、一体どうなんだろうね」と木戸内大臣に確認します。つまり、海軍内ではまだ和平派が高松宮を通じて工作していた模様です。岡田も米内も重臣懇談会では政府の決断に反対でした。直ちに嶋田海相と永野軍令部総長が呼ばれます。彼等は既に戦争を決意し、行動を開始していますから、後には引けません。日米戦争に相当の確信あり、と答えます。天皇陛下は「予定の通り進めるよう首相に伝えよ」と木戸に命じます。賽は投げられました。

5−92 御前会議

昭和16年12月1日、御前会議が開催され、「対米英蘭開戦の件11月5日決定の「帝国国策遂行要領」に基く対米交渉は遂に成立するに至らず。帝国は米英蘭に対し開戦す。」と最終決定します。この允裁直後、両総長から陸海軍の作戦発動命令につき大元帥陛下の允裁が得られます。12月2日、作戦開始日が12月8日に決定されます。山本連合艦隊長官から南雲機動部隊に、予定通り8日決行が発信されます。「ニイタカヤマノボレ1208」です。外交の時代は終りました。しかし外交官の仕事はまだ残っています。

5−93 野村大使

12月1日マニラ発AP電は、「比島市民はハル国務長官の通告に対する日本の回答を熱心に見守っているが戦争の危険は週末になってますます濃くなった。信頼すべき情報によれば1日比島軍の将校全員に部隊帰還が命ぜられ、陸海軍は警戒体制に入った。恐らく来るべき7日間に爆弾は点火されるものと見られ、消息筋は、日本はタイに対し行動を開始するものと見ている。」と伝えます。12月2日、ハルは南部仏印の日本軍集結を知ると、「斯かる侵略は比島、蘭印諸島、ビルマ、馬来半島を目的とし又は強制もしくは武力行使の何れかにより泰国占領企図を目的とするものと想像し得べし。右の如く最近の急速なる軍隊集結により示されたる日本国政府の政策が如何なるものと考ふべきかに付至急日本国政府に照会ありたし。」と野村大使に申し入れます。野村大使には開戦決意も12月8日の作戦開始予定も知らされていません。但し、あれほど交渉妥結を焦っていた政府がハルノート提示以来、静まりかえったことに感づいており、日米代表による会談の方策を模索します。

5−94 ハル国務長官

12月3日、ハル国務長官は記者会見に応じます。4月からの日米交渉の推移をすべて明らかにします。そして、ハル・ノートの内容も明確にした上で、これを日本が受け入れれば、太平洋の問題は解決する、とします。交渉のネックは日本側が交渉の基本原則を受け入れないことにあると、非難します。最後通牒という意識で切り札を出しておきながら、呑まない日本側に問題があることと、アメリカが和平努力を続けていることをアピールします。同じ12月3日、マイルズ陸軍諜報部長から在日大使館武官に暗号破棄に関する指示が届きます。「すでに急速な対日関係決裂は明らかである。大使に通告されたし。」

5−95 大本営政府連絡会議

12月4日の大本営政府連絡会議で東郷外相は最後通牒の通告を提案します。「最後通告には米国の態度、これに対する日本の外交交渉打ち切りの決意、宣戦の詔書の内容等を織り込んだものにしたい」と提案します。これに対して統帥部は、ハワイ攻撃は絶対に奇襲でなければならないから、最後通告をあまり早く渡して準備されては困る、と主張します。ハーグ条約では「締約国は理由を付したる開戦宣言の形式又は条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且つ事前の通告なくして其の相互間に戦争の開始すべからざることを承認す。」とあり、日本も加入しています。東郷外相は、国際法に則った堂々たる戦争をすべきだと主張します。ハワイでの攻撃開始予定時刻ワシントン時間午後1時半の1時間前での最後通告文書手交が決定されます。

5−96 軍令部

軍令部の伊藤次長はこの決定に不満です。「艦隊の行動はたいてい30分くらい遅れる。」と指摘し、通告時間の繰り下げを申し入れます。つまり、午後1時半の作戦開始が2時になってしまった場合に、午後0時半に通告していたのでは、ハワイで待ち伏せを食う恐れがあります。この申し入れを受けて12月6日の大本営政府連絡会議では、奇襲作戦である真珠湾攻撃を生かすために、通告時刻がワシントン時間の午後1時に繰り下げられます。そして、作戦開始時刻を察知されないため、通告時刻を知らせる電文は、最後通告文の発信後に発信されることになります。作戦行動を優先させた結果が、思わぬ失態につながります。一方、同じ12月6日、ルーズベルトが動き出します。

5−97 ルーズベルトの親電

12月6日の夜、ルーズベルト大統領から駐日大使グルー宛に電報が発信されます。「日米両国は一世紀前から交渉を始め、友好と平和を保って来た。今こそ太平洋の暗雲を払うために、お互いに協力しなければならないとき」とのメッセージを天皇に伝えよ、という命令電です。ルーズベルトが国務省から得ていた情報では、この時点で南部仏印には八万北部仏印には二万五千の日本軍が集結しています。サイゴンの沖合いには12隻の潜水艦がいることまで把握されています。ここまで作戦準備を整えた日本軍が反転する筈はないと読みきった上での「最後の平和努力」をアピールするための親電です。一方、参謀本部は12月1日から、外電の配達を15時間遅らせています。作戦準備が漏洩することを防ぐために外国との送受信とも遅らせています。グルー大使の手許に配達されたのは、12月7日の夜遅い時間でした。グルー大使が東郷外相を訪問したのは真珠湾攻撃の3時間前です。当然ながら天皇陛下に伝達されることはありませんでした。残ったのはルーズベルトの「努力」でした。

5−98 東京電

最後通告文を含んだ東京電は、東京時間6日の午後9時(ワシントン時間の6日午前7時)から発信され、第13部が7日午前1時半(同午前11時半)に発信し終わりました。ワシントンでの受信時間は、6日午前8時から12時前までです。最後の14部を残して、6日午前中に受信されています。アメリカ海軍は全てこれを傍受し、解読に回しています。一方日本大使館では、「申すまでもなきことながら、本件覚書を準備するに当りてはタイピスト等は絶対に使用せざるよう機密保持にはこの上とも慎重を期せられたし」という指示により、書記官自らがタイプら向かいます。6日夜遅くまでかかってタイプしましたが、14部はまだ入電しません。14部が発信されたのは東京時間7日午後4時半(ワシントン午前2時半)、ちょうど真夜中であり、配達は7日の朝になります。午後1時に手交せよという電文は東京午後6時(ワシントン午前4時)過ぎですが、野村大使がこの指令を見たのは午前10時半でした。

5−99 トトトトトトトト

野村大使は直ちにハル国務長官に午後1時の会見を申し込みます。しかし肝心の第14部が長文でタイプに時間がかかります。結局野村大使がハル国務長官に最後通告文を手交したのは、午後2時20分でした。真珠湾上空で突撃指令が出されたのは、現地時間午前7時55分、ワシントン時間午後1時25分です。遅れが懸念された作戦行動はほぼ予定どおり、5分早く実行されました。最後通告文は作戦行動よりも55分遅れて手交されました。正々堂々と宣戦布告するとした東郷外相の意図はまったく無駄になりました。もちろん、暗号を解読していたアメリカ側にとって実質的には無意味ですが「宣戦布告前の卑怯な不意打ち」と非難する恰好の材料を与えました。日本外交の特質である、目的と手段の不整合がここにも顔をのぞかせます。

5−100 ハル回想録

「1941年12月7日は日曜日だったが、わたくしは朝から登庁した。午前中わたくしは長い傍受電報を受け取ったが、これは東郷外相から野村・来栖にあてた14部からなる長文の電報だった。この他に両大使あての短い電報があり、それはその日の午後1時にこれを米国政府に、できれば私に渡すよう指示していた。これが行動開始の時刻だ。」ハル回想録です。最後通告文は作戦行動よりも55分遅れて手交されました。しかし、真珠湾攻撃より1時間20分前、ワシントン時間の12時すぎに、山下奉文中将率いる第25軍の一部はマレー半島への上陸を敢行しています。イギリスへの最後通告というのは、あまり話題になりませんね。そして、この12月8日、ドイツ軍がモスクワを目前に撤退を開始しました。日本は2年間遅れてナチスドイツのピークアウトの瞬間に参戦し、三国同盟の目的であったアメリカの参戦防止を果たせずに、却ってアメリカを欧州の戦線にも導入してしまいました。

5−101 昭和16年の外交

昭和16年には外務大臣が2回交代します。第二次近衛内閣の松岡洋右から第三次近衛内閣の豊田貞次郎、東条内閣の東郷茂徳です。松岡外交は、極力日本を大きく見せ、実態は支那事変で困り果てていながら独伊、ソ連、米州と対等な大東亜共栄圏構想で勝負します。これが外交上の戦術であったことは、彼が南部仏印進駐に反対し続けたことで明白です。しかし、彼が作り出した幻影に嵌り込んだ軍部に追われてしまいます。豊田外交は実質的に近衛外交であり、ルーズベルトとの巨頭会談だけを骨格とした、実質的には内容のないものです。8月1日の石油禁輸によって急速に台頭した強硬論に押されて自滅します。東郷外交は、天皇陛下の国策見直し指令の中で奮闘しますが、中国の駐兵権を譲らない軍部との間で乙案にたどりつくのがやっとです。外交と言いながら、実はアメリカとの外交ではなく、統帥部との外交です。外務大臣の精力が国内で消費されたところに、大きな特徴があります。外交を国内問題でしか捉えられない悪弊は現在につながっているようです。

5−102 昭和16年の外交(2)

昭和16年は、太平洋戦争開戦の年として、まず12月8日の真珠湾攻撃が想起されますが、実質的なターニングポイントは、南部仏印進駐とこれへの報復措置としての在米資産凍結・石油禁輸です。熱戦には至っていなくても、日米冷戦構造は厳然と存在していたわけで、熱戦に至るレールは南部仏印への不用意な進駐で確定しました。いくら国策を見直して見ても、石油禁輸の状況では物乞いに似た妥協策しかありえず、第一次大戦後に世界の一等国になったと自負していた当時の指導層にとって、取り得る選択肢ではありません。ではなぜ南部仏印に進駐したのか。援蒋ルート遮断というより、南方への前進基地としての意味合いが強い。近衛の書簡にあるように「蘭印ならばともかく、仏印なれば大した故障なかるべし」という見通しです。ドイツがアジア植民地の宗主国を次々に降伏させていく中、第一次大戦の時と同じように漁夫の利、悪く言えば火事場泥棒を狙ったわけです。これをアジア解放と勘違いしている論者が多いのは驚きです。