揚 輝 荘  
     名古屋市千種区法王町2−5−12
  お問い合わせ рO52−759−4450
   
   この地方で、比較的興味深く取り上げられたニュースに、名古屋市千種区の都心に、昭和初期の閑静な別荘が公開されている事を知り、緑区からは近いので行ってみる事にしました。別荘を持つ事は考えも及ばないし、自分の性格からして別荘を持ち優雅な時間を楽しむ事は出来ないだろうと思われる。
その別荘の名前は揚輝荘で、場所は有名な覚王山日泰寺に隣接した東隣に有ります。日泰寺の縁日は毎月21日で、この日は、日泰寺に向かう数百メートルの道路の両側には立錐の余地もなく店が並び、道路は歩く事さえ困難な状態です。
揚輝荘には駐車場が無いので近くの有料駐車場を利用する事をお勧めします。しかし日泰寺には広大な駐車場が有りますが、無断駐車の場合1万円を請求しますという看板が立てられています。この駐車場は参拝者の方のものなので参拝をすれば無断駐車とはならないのです。
公開されているのは、北園の庭園と、伴華楼、南園と聴松閣が公開されています。
 
   
 聴松閣等が市の文化財に指定されました。(中日新聞H20.5.28付け)
松坂屋初代代表の伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)氏(1878〜1940)が建てた市内を代表する別荘建築、揚輝荘が市の有形文化財に指定されたので、名古屋市の指定文化財は110件成りました。
揚輝荘は覚王山の丘陵地にあり、伊藤次郎左衛門祐民氏が1918(大正7)年から20年を費やし、3万5千uの広大な敷地に、大小三十の建物を移築や新築をしたものです。センスが良く、斬新なゼザインや考え方にグローバルな所がある伊藤次郎左衛門祐民氏は、揚輝荘に皇族や文化人、政財界の要人を招待する社交家でもあり、園遊会などを開催し「名古屋の迎賓館」と呼ばれました。戦前はアジアの留学生の寄宿舎にも使われたり、戦後は進駐軍に接収される歴史も有りましたが、昨年、不動産会社が北園と南園の敷地計7千5百uと建物を市に寄贈されました。
今回、名古屋市の有形文化財に指定されたのは、この広大な敷地の中に建設されている聴松閣(ちょうしょうかく)で、木造地下一階、地上三階建ての山荘風の迎賓館で、地下にインド様式の舞踏室もある。次に和洋折衷で2階建ての伴華楼(ばんがろう)。この名前は英語のバンガローからもじったもので、尾張徳川家の伝統的な邸宅に、東海の建築界の巨匠、鈴木禎次氏が設計した洋間を建て増ししたものです。そして北園に掛かる白雲橋(はくうんきょう)、屋根が有るので一見して橋には見えないのですが、これは京都の修学院離宮の千歳橋を模したものとされています。
名古屋市は指定した理由として、近代名古屋を象徴し、文化的に価値が高く、和洋の優れた意匠と技術が駆使され建設史上貴重なものと判断したそうです。今後も揚輝荘に限らず老朽化した建物を復元する構想も進め、当時の姿を保存活用していく予定である。
この揚輝荘は、都心にありながら静寂と文化、それに広大な敷地に建てられた建造物は歴史と巧みに感動させられます。そして何よりも、その財力には羨ましいものがあります。入口の受付にはNPO法人「揚輝荘の会」のメンバーが親切丁寧にボランティアでガイドもしてくれます。春夏秋冬、建物を取り囲む草木が変化するので季節感を味わってみるのも一興かと考えます。
   
 揚輝荘」一般公開始まる。
今年(H19)3月末、名古屋市が敷地と建物の寄贈を受け建物の応急修繕工事を行っていたものがほぼ完成され、限られた曜日に限り、H19年10月20日から一般公開されました。見学コースは南園にある聴松閣のほか、北園の和洋館「伴華楼」や庭園を見る事が出来ます。その際同荘の保全や活用のために活動しているNPO法人「揚輝荘の会」のメンバーらがガイドしてくれるので、歴史やいわれ等より理解出来ます。
1937年築の聴松閣は山荘風の外観と、各国の様式が溶け合った重厚な内装の迎賓館。地上3階建てで、地下には演奏会などができるホールもある。戦前からアジアの留学生を迎える寄宿舎としても利用され、国際交流の場にもなってきた。地下にはインド留学生が残したヒンズー女神の壁画もあり、是非見ておきたいものです。
伴華楼の建物見学と南庭園の聴松閣(ちょうしょうかく)、は毎週土曜日と第2、4水曜日。無料。1日4回、各回定員16人。
希望日(一日のみ)に、午前・午後の別、人数(はがき1枚で4人まで)を記入し1カ月前までに往復はがきで揚輝荘=千種区法王町2の5の21=へ申し込む。       問い合わせは電052(759)4450へ
 
   
     
揚輝荘正門の表札
豪華な鉄平石張りの門柱に「揚輝荘」掘られた表札がかかっています。語源は中国の漢詩の五言絶句にあります。
「かがやく」という字には、火偏が使われており、これには諸説が有るようです。
 
 揚輝荘とは・・・・
松坂屋の初代社長伊藤次郎左衛門祐民氏によって覚王山日泰寺の東南に隣接する1万坪の森を切り拓いて築かれた別邸です。
完成時(昭和14年頃)には、広大な庭園の中に30数棟の移築・新築された各種建造物が立ち並び、池泉回遊式庭園とともに、覚王山の高台に威容を誇っていました。それらは、どれ一つとっても建築的・歴史的な価値の高いものばかりで、現在の明治村にも比較されるようなものでした。別邸とはいうものの、ここには戦前から皇族・政・官・財・郡の要人や文化人が往来し、さながら迎賓館・社交場の様子を呈しておりました。また、祐民氏の支援により、アジアの留学生が寄宿生活を送り、国際的なコミュニティを形成しておりました。
戦時の空襲を受けたり、松坂屋の独身寮になったり、一部マンション開発が行われたりして数奇な運命を辿り、かつての面影は失われつつあります。しかし、残された近代建築は地域の文化遺産として、庭園緑地は都会のオアシスとして今なお、訪れる人の心を引き付け、癒してくれる魅力を放っています。現在は北園と南園に分断される形で計約9千2百uが残っています。H19年3月末に名古屋市が敷地と建物の寄贈を受け、建物の応急修繕工事を進めていますが完成には至っていません。
   
 
揚輝荘入口は広々としています。そしてその先には
マンションがありますが、駐車はしないで下さい。
 
揚輝荘入口には受付があり「揚輝荘の会」
会員の方が豊富な知識で案内してくれます。
   
 揚輝荘の建築
揚輝荘の構築は大正7年(1918)、茶屋町本家から、三賞亭を移築改修したときから始まり、20年間で完成しております。最盛期には、移築・新築された建物30数棟が威容を誇っていました。90年に及ぶ風雪を経て、その数も減ってきましたが、今なお、その風格、魅力は失われておらず、更に後世代に引き継いで行くべき地域の資産です。

揚輝荘と建築家
鈴木禎次氏(1870〜1941)

鈴木禎次氏は、近代、名古屋の建築界の巨匠です。鶴舞公園内の噴水塔、奏楽堂や広小路通りには、旧東海銀行、旧松坂屋など彼が手がけた近代建築が10棟ほどありました。松坂屋各店の他、茶屋町の伊藤銀行本店揚輝荘・伴華楼の洋室などの設計を行っており、伊藤次郎左衛門祐民氏とは深い親交がありました。彼は、夏目漱石の義弟にあたり、雑司ヶ谷霊園の漱石の墓碑は、禎次設計の大きな安楽椅子を型どったユニークなものです。
竹中藤兵衛正高は、神社仏閣の造営を業として、慶長15年(1610)、伊藤家の呉服商と同年に名古屋で創業しております。その15代目が竹中藤右衛門氏で明治32年(1909)神戸に進出、昭和12年(1937)(株)竹中工務店を設立。この年には、聴松閣が竣工しており、3階にはその棟札が残されています。修学院離宮は藤右衛門氏が調査したとされ、そのコンセプトが揚輝荘の池泉回遊式庭園に結実しているといわれています。祐民氏との交流は深く、現在の松坂屋と竹中工務店に繋がっています。祐民氏没後の昭和17年、竹中工務店が手がけた伊藤家関係の建築物の写真・資料集「揚輝荘主人遺構」の序文では、藤右衛門氏が祐民氏を偲んで、「多芸多能の質は自ら書画をよくし、その良き理解者として保護奨励と肯綮なる指導を与えられた」と著しています。


揚輝荘の地理
揚輝荘の地は、近世末森村の谷地に有り、標高30〜40mの落葉樹林せ、姫ヶ池・放生池に囲まれていました。1万坪の敷地内には、何本の小川が流れ込み、山崎川の源流となっています。回遊式の池泉は新田を囲いこんだものと思われます。また、ここは尾張名所図会にも残る、古来からの月の名所で、今も月見坂・観月町の地名が残っています。 
   公開日・・・・・・北庭園の暫定公開
 
五色石の洒落た門を潜ると伴華楼東側に出て暖炉の煙突が見えます。 
  揚輝荘の北園にある庭園は、池を中心とした回遊式の庭園で、白雲橋、伴華楼、三賞亭などの建物が、庭園内に残されています。(申込不要)月曜日を除く毎日、(月曜祭日の場合は火曜日休園。)

揚輝荘を代表する建物である聴松閣(ちょうしょうかく)、伴華楼(ばんがろう)と南庭園、北庭園のガイド付き見学を希望される方を募集します。毎週土曜日と第2、第4水曜日。見学希望日の1ヶ月前までに往復ハガキでお申込下さい。


公開時間・・・・9:30〜16:30
入場料・・・・・・無料
駐車場・・・・・・有りません。
交通機関・・・・市営地下鉄東山線覚王山駅1番出入口より
                   徒歩約10分
 
   
 
北庭園は、池泉回遊式庭園です。
公開されているのは白雲橋と三賞亭の周りです。

南庭園は茶人の松尾流家元の十世松尾
宗吾宗匠の指導によるものだそうです。
 
   
 国際交流の歴史
揚輝荘は、伊藤次郎左衛門祐民氏が茶屋町(現中区丸の内二丁目)の本宅の別宅として建てたもので、初めは身内の行事などに使われていましたが、15代伊藤次郎左衛門を襲名した大正13年(1924)ころから各界のビップが頻繁に訪れ、園遊会・茶会・観月会などが開催される迎賓館・社交場となってきました。普請道楽といわれた祐民氏の好みにより、移築・新築された建物も次第に増えて行きました。
祐民氏は、明治43年(1910)(株)いとう呉服店(名古屋初の近代百貨店)を創立しましたが、その開店の日にビルマ(現在のミャンマー)の独立の父と言われる僧侶オッタマ師に出会い、その縁でビルマから最初の留学生6人を預かり、中区老松町に「ビルマ園」を作りました。揚輝荘では、昭和8年(1933)にインドからハリハラン氏が來荘、昭和11年(1936)にはシャム(現在のタイ)から、その後、朝鮮・支那・満州・内蒙古などからの留学生が増え、日本人の寄宿生も加え、数十名の国際的な教育コミュニティを形成しました。
祐民氏は昭和15年に亡くなり、戦中・戦後は日米軍に接収されたり、松坂屋の独身寮となったり、マンション開発が行われたり、揚輝荘は数奇な運命を辿り、建物数や敷地面積は減少しましたが、この貴重な歴史文化遺産を保全していきたいという動きが大きくなってきています。
   
 伊藤次郎左衛門祐民氏とは・・・
伊藤次郎左衛門家のルーツは、始祖祐広、初代祐道とも織田信長の家臣で、蘭丸を名乗る武士でした。その後、清洲越し以来の呉服商となり、その15代が揚輝荘の主人・祐民氏です。伊藤次郎左衛門祐民氏(1878〜1940)は、松坂屋の前身・(株)いとう呉服店の初代社長となり、明治43年(1910)、ビジネス・商業の中心になりつつあった、名古屋栄町角に近代百貨店を開店しました。前年アメリカのデパートを視察した成果であり、名古屋城下・茶屋町で250年以上続いた呉服商からの転進でした。その後、大正14年(1925)名古屋大津町の現在地に屋号を松坂屋に変更して大百貨店を開店しました。また、大正12年(1923)、関東大震災の際には名古屋から生活物資の供給に努め、復旧に貢献したり、その後、名古屋商工会議所の初代会頭になるなど名古屋財界のリーダーとして活躍しました。
昭和8年(1933)、自ら設けた55歳定年制に従い、全ての公職から引退。(財)衆善会を設立して保育・医療・授産・青少年のリクリェーションなどの社会事業に貢献しました。また。揚輝荘に隣接する唯一、釈迦の真骨を祀る覚王山日泰寺の構築に貢献し、昭和12年には名古屋日暹協会を設立したり、アジアの若い世代を留学生として世話するなど国際親善にも貢献しました。
昭和9年(1934)、釈迦誕生2500年にちなみ、インド佛跡の旅に出ました。この時のイメージが揚輝荘・聴松閣に投影されております。インド様式の地階石壁・柱、南窓にあったヒマラヤ・カンチェンジュガ雪嶺のガラス彫刻、この旅に同行した留学生・P・ハリハランの残したヒンズーの女神の壁画などがあります。
揚輝荘は、普請道楽と言われた祐民氏の才能・趣向が凝結したものでありますが、茶道・能・書画・俳句・和歌などにもその才能を発揮しており、更に、家伝文書の整理、家史・伝記編さんにも実績を残しています。交友関係は広く、尾張茶道松尾流10世・松尾宗吾、15代竹中藤右衛門、寅年生まれの戌寅会の各界名士、聴松閣の玄関で撮った横綱双葉山や宝塚歌劇団との写真も残されています。
   
 
   
暖炉煙突の下は五色石で
造られその上は市松模様と
和室と違和感無く接合しています。
   
 伴華楼東側に有る暖炉の煙突は市松模様と斬新なゼザインになっています。1階と2階は共通の煙突です。 暖炉煙突の下は五色石で造られその上は市松模様と和室と違和感無く接合しています。  伴華楼2階の洋室の外壁は珍しいうろこ壁が貼られています。 
   
尾張徳川家から移築された茶室(四畳半)付きの和室ですが、その際、近代建築の巨匠・鈴木禎次氏(名古屋の近代建築の巨匠、夏目漱石の義弟であり、名工大教授)の設計で地階と1階の洋室が増築されました。傾斜地の為、南面する玄関は一階、和室は2階のレベルになっています。英語のバンガロー「Bungalow」をもじって「ばんがろう」と呼んでいます。
茶室の小こて仕上げの壁に、にじり口に見立てた障子と竹製のさん、屋久杉,千年杉の張り合わせ欄間、廊下の無双窓など見所が沢山あります。
この和室では、1月のお帳綴じ、五月の大般若経転読など毎年伊藤家の伝統行事が行われています。
洋室では、古代の飛鳥時代のものなどの瓦が埋め込まれた暖炉、木口の寄木細工の床、きれいな節模様の板、網代天井等々、素材の面白さがふんだんに使われています。1階の応接の壁には餅つきウサギのリレーフが付いていますが、この地が月見の名所であることの遊び心からでしょうか。洋室外壁のサワラのうろこ状の板は、和室と違和感無く手作りの銅釘が浮いている。また、暖炉の煙突の市松模様は、今でも斬新なイメージがしますが、和室の奥の襖の柄と関連させているのかも・・・・・。
 
   
       
 北庭園の池の数箇所で池の水を排水していました。これは堆積している土砂を取り除く工事を行う下準備なのですが、名古屋市の予算が無いのか工事が行われていません。 池は堆積した土砂を排除する為に水を抜いているので、池の面影は有りませんが、残っている僅かな水溜りに水生虫がいるのか、コサギがエサを足で探りながら歩いていました。この池にはシラサギ・アオ
サギ・カルガモが飛来し、この回りにタヌキの親子が棲んでいたことも有るそうです。
 
円形の橋は庭園に趣を感じさせます。風流な昔を想像する事が出来ます。 
   
   揚輝荘座敷
現在の大津道りの松坂屋本館の地(当時は矢場町五ノ切)にあった座敷をここに移築したものです。ここへ移築する前には、川上貞奴が一時住んでいたといわれております(東区撞木町に再構築された二葉館はその後建てられたもの)。

当初は、茶室、暮雪庵と渡りでつながっており、二つの土蔵・坪庭・サンルームもあり、当主が住んでいたこともあるハイレベルの座敷だった名残が各所に見られます。戦後、進駐軍が接収していた時に建てた製パン所が残されています。その後独身寮用に改装した為に往年の面影が薄くなったのは残念ですが、ベンガラ色の壁や聴松閣をつなぐ渡り廊下などに独特の雰囲気が残っています。二階から眺める石庭と夕日はいいものです。
 
   
     揚輝荘の社交

皇族をはじめ、政、官、財、軍の要人や文化人が頻繁に訪れる一方で、タイ、ミャンマー、インドなどのアジアの留学生が寄宿していました。戦後は米軍指令官宿舎として接収され、返還後は松坂屋の独身寮などに使用されていました。


揚輝荘の文化
揚輝荘は茶道のメッカでもあり昔は十棟もの茶室があった。戦前、ここに寄宿していたアジア
の留学生が残した壁画も残されている。
 白雲橋は屋根のある橋(亭橋)であり、修学院離宮の千歳橋を模したといわれ、二基の切石の石垣に架けられていて千歳橋より大きい。白雲橋の屋根は緑袖瓦で、一部銅版葺ですが、千歳橋は茅葺。天井の木組み、白木の手彫りの擬宝珠、無双窓が美しい。北側の天井には、15代祐民氏の描く龍の絵があり、東の青龍水に龍とマッチしている。最近では、橋の上を舞台に、東側を客席にして音楽、舞踏等のイベントを開催している。 
* 千歳橋(京都修学院離宮)
浴龍池の中島に架かる宝形造の屋根を有する橋廊。正六位上の官位を取得していた「竹中氏」は禁裏御用を努め、修学院庭園の調査をしたと思われる。
   
 
白雲橋を正面から見た所です。
この橋は立ち入り禁止になって
いて渡る事は出来ません。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 豊彦稲荷               
北側の高台に、目に鮮やかな朱門は両脇をキツネが守る豊彦稲荷の社が鎮座しています。上り坂の参道には朱塗りの鳥居が林立し、周囲の緑とのコントラストが見事です。手水鉢の石には沢山の寄進者の名が刻まれています。昭和2年に松坂屋京都店(松坂屋本店屋上の豊彦稲荷と同時期)から勧請されたものですが、その時の3千2百余名にも昇る勧進帳が残されています。このお稲荷さんのルーツは、京都仙洞御所にあった御所稲荷(豊春稲荷)であったことが最近判明しております。毎年4月頃、初午祭が行われ、多くの人が集い、園遊会茶会が催されます 
   
   三賞亭

茶屋町の伊藤家本宅に有ったものを、1918年(大正7年)9月に揚輝荘に改修移築したもので、揚輝荘最初の建物である。6畳の土間、3畳の次の間、8畳の間、水屋、便所などがある。池に面しており、4枚引きの障子戸を開けると、全面に池の眺めが目に入り、床脇に大きな丸窓をあけたのも、池への眺めを意識したものである。壁は砂壁塗り、天井は杉柾板となっている。最近でも茶会があり、抹茶・菓子付きで500円、台湾茶は350円で現世から遊離した精神の癒しの空間を楽しむ事が出来ます。
 

三賞亭 
   
 
三賞亭の内部。
この部屋で昔を偲びながら茶会を楽しむ事が出来ます。

 
三賞亭
   

北庭園入口付近に残るトンネルの一部。
五色石アーチ橋,トンネル入口、聴泉窟。
 
   
公開されたトンネルの写真。
  五色の石がきれいに配置されたアーチ橋で、昔は両側に有ったが現在は東側部分が残っています。H19年3月に発見されたトンネル、東側入口「聴泉窟」も同じ造りです。南北のトンネルはマンション工事で取壊されましたが貴重な建造物として残る予定です。     中は想像を絶する高さと広さに驚きました。謎のトンネル。聴松閣と友芳軒を結ぶトンネルが有りました。東へもT字で延びており、総延長は170mにもなり、中には大金庫やインド・イスラムリレーフや色あざやかなタイルの装飾も残っていますが、その用途は謎のままです。
   
 
   
覚王山日泰寺の山門
 
     
  今から百年余前、タイ国から釈尊の真骨を日本に分与するということで、日本仏教会全体が動いた。安置する覚王殿(釈迦の称号)をどこにと、各地から建設構想案が出て協議を重ねた。
名古屋地方でも積極的な誘致運動が起き当時の田代村村長(加藤慶二氏)が莫大な土地を寄進することを提議し仏教会・財界も立ち上がった。投票の結果、圧勝して当地に決められ「覚王山日泰寺」が創建された。明治37年のことであった。
 日泰寺の寺号は、日本とタイの結びつきを表す国際寺院であり、またどの宗派にも属さない唯一の全仏教寺院である。昭和59年に新本堂、翌年に新しく鐘桜、次いで山門が落慶、さらに平成9年には美しい五重塔が姿を現した。
毎月21日、弘法大師の縁日には大勢の参詣者が訪れ賑わう。最近、参道に若者向きの店も出来、日泰寺周辺は新しい魅力が生まれている。
 
     
 
日泰寺本殿
 
見事な五重塔
タイ(シャム国)国王から寄贈された釈迦の舎利(遺骨)をまつるため、明治三十七年(1904年)建立された我が国唯一の超宗派の国際的寺院である。山号は釈迦を表す”覚王”寺号は日タイの友好を願い”日泰寺”と名付けられた。ガンダーラ式奉安塔は、全国でも稀な一大石造塔です。 
   
   
境内は広大なのですが平日は閑散としていました。