2009.9.13〜15. 錦 帯 橋 岩国市観光協会
    山口県岩国市岩国1−5−10
    п@0827−41−2037
以前テレビで見た番組で「初めてのお使い」の一シーンが妙に鮮明な形で脳裏に焼き付いている。それはメガネの形をした丸い橋の中央で、子供がお使いの途中みちくさをしているものでした。
後からその橋は錦帯橋と言う木で造られた五連式でアーチ橋の事だと分かりました。何時かはその橋を渡りたいという願望が何時までも忘れられない存在になっていると思われる。場所は山口県の岩国市なので簡単に行ける距離では無いので殆ど諦めていました。
ところが、夏休みに何も予定が無い事から、行ってみたいとの思いが強烈に行動へと走らせた。ネットで名古屋市緑区からの距離を検索すると、片道550km程度ある。さすがこの長距離には躊躇したのですが、お盆や正月等に九州へ車で帰る人が沢山居る事から、九州の手前の岩国市なら自分でも行けると確信して実行へと計画を進めました。
高速道路の混雑を避ける為、出発したのは日曜日の夜でした。夜はETCの深夜割引の30%を利用出来る時間帯に合わせ途中で仮眠する予定でした。
名神高速の京都を過ぎる頃から睡魔がチラチラと襲い掛かってきたので、PAかSAを探したのですが、桂川PAから西宮名塩SAまでの50km以上の区間に休憩する所が無かったのでこれには閉口した。
仮眠は吉備SAでとりました。

 河川敷に有る駐車場
 
  朝、岩国ICを出て錦帯橋まで5〜6kmの距離を渋滞も無く橋近くまで来たのですが、町の中に駐車場らしきものが無いので右往左往していると、客待ちしていたタクシーの運転手さんが道路の下の方を指差し、駐車場はこの下に有るから!と此方の行動を見透かして駐車場を教えてくれました。
河川敷に有る駐車場は、普通車以下は無料でバスは1,000円必要です。

河川敷から見た錦帯橋、後方には岩国城がかすかに見えます。
橋の入場料は300円ですが、別料金で岩国城見学やロープウェイに乗る事が出来ます。
錦帯橋
錦帯橋は山口県最大の河川である錦川(川幅200m)に架かっている5連の木造橋であり、今から約330年前の1673年(延宝元)第三代岩国藩主吉川広嘉(
きっかわひろよし)によって創建されました。
岩国藩の悲願である流れない橋として誕生したこの橋は、創建翌年1674(延宝2)年5月の梅雨の洪水によりあえなく流出してしまいましたが原因を徹底的に究明し、同年10月末に二代目錦帯橋が完成しています。
それから、276年間不落を誇った錦帯橋でしたが昭和25年9月に岩国地方を襲ったキジア台風によって2度目の流出をしてしまいます。しかし、岩国市では橋脚に近代工法を取り入れるなどして直ちに再建工事に着手し、三代目錦帯橋は昭和28年に完成しました。以来、半世紀にわたって人々を渡し続けてきた錦帯橋ですが、木造橋の宿命である腐朽による傷みが見られるようになったため、平成13年度から平成15年度にかけて50年ぶりの「平成の架替」に取り組み、総事業費約26億をかけた大事業は、平成16年3月20日に完成しました。
人の噂によると、心無い者がこの橋に車を乗り入れ壊した事件も有ったそうです。

錦川の水面に錦帯橋の影が写り奇橋が感動を与えました。

橋桁と岩国城

丸い橋は階段に成っているので景色に見とれて足を踏み外さ無い様に!

岩国城

厳 島 神 社 宮島観光協会
    広島県廿日市市宮島町1162−18
    п@0829−44−0066
錦帯橋から30km程の所に宮島が有るので、そこの厳島神社に寄ることにしました。宮島に行くにはフェリーに乗ります。駐車場はフェリー発着場の近くに有り1回1,000円で駐車出来ますが、駅から遠くなるほど駐車料金は安くなっていました。フェリーには人や車それにペットも乗せることが出来ます。宮島桟橋から厳島神社までは10分程で着きます。フェリー料金は170円で、厳島神社の入場料は300円でした。宮島には厳島神社だけが有るものと思っていたのですが、島の面積は30kuもあり神社は島の入江の一部だけのものでした。この島は94%も国有林が占めていて、産業は無く(しゃもじが有名)観光客の収入で生計を立てています。人口は何十年間もの間3,000人程度で宮島千軒と言う諺まであるそうです。

宮島駅前には人力車が人待ちをしていました。
 宮島駅前に着き驚いたことは、鹿が沢山いて人に非常に慣れている事でした。ここで気をつけたい事は、子供が鹿のエサを持っている事を鹿が知ると数匹でエサを食べに来るので倒されてエサを取られる事故が有るので注意が必要です。町内に居る鹿は夜に成ると林に帰るようですが最近は帰らず町内で寝る鹿も居るようです。
 
干潮時には歩いて鳥居を潜る事ができます。この日も数人の家族連れが子供達と海水浴を楽しんでいましたが、神社の足元での海水浴は場違いな感じがしました。

鳥居に書かれた厳島神社の文字。鳥居は上の横木に石を入れ、下の4本の立て木でバランスをとって砂の上に立てて有るそうです。
 
朱色に彩られ複雑な回廊に成っていました。庭は海水の満ち干で草や砂利は無かったのですが、庭に降りて散歩をしたい気持ちには成りませんでした。それは水分を多量に含んだ沼の様に見え、歩くと砂の中に足が沈んでしまうのでは無いかと思ったからです。これから、平和記念公園へ行く予定をしています。駆け足観光では上辺だけに成りそうです。
 
厳島神社として思い浮かべるのは、海の中に立つ朱の鳥居と、朱の神殿です。この島の人口は(H24年現在)1,800人が暮す世界遺産になっています。そして他にも謎の巨石群や、愛の灯が消えないと言う恋人の聖地まであり、広島市の沖にある宮島の厳島神社への参拝はフェリーに乗って10分程です。
世界でも類を見ないと言われる海上社殿厳島神社は床の高さは潮の干満を計算して作られており、干潮時の姿はまさに竜宮城に見えます。神社を訪れる人は1日当たり1万人程で、商売繁盛や家内安全を願って全国から参拝客訪れています。
古くから信仰を集めてきた厳島神社は、その秘密の一旦は神社が建つ島自体にも有ります。山頂に広がる謎の巨石群、弘法大師(空海)が起こしたと言われ、1200年もの間守り続けて来た”消えずの灯”宮島の知れれざる神秘が有ります。歴史上のヒーロー達にも大きな影響を与えた厳島神社、厚く信仰した平清盛は異例の大出世を遂げ、戦国大名毛利元就は神社へ祈りをささげた事で、人生最大のピンチを脱しました。
宮島に着くと見えて来るのが参道の商店街や、名物の紅葉饅頭を始めとして、みやげもののお店等が立ち並びとても賑やかです。普通はここを抜けて神社にお参りし、それでお終いと思いがちですが、実は商店街を北に向かうと、もう一つのスポットが有ります。ロープウエイに乗って15分程昇った後、さらに徒歩で30分程かけて頂上に向かうと、現れるのは奇妙な巨石の数々が有ります。
現在の厳島神社は、平清盛が平安時代の終わりに改築したものが原型です。しかし神社自体はそれより600年もさかのぼる1400年前の飛鳥時代から存在していました。それでは元祖厳島神社はどのように生まれたのでしょうか?
厳島神社の誕生に深く関わっている動物は、参詣口でも見る事が出来るカラスです。言い伝えによると、1400年前、島のとある漁師が神社を祀る場所を探していた。ところが気に入った場所が中々見つからず困っていたところ、カラスがやって来た。当時カラスは神の使いと信じられていた存在で、神のお告げととらえられ、この場所が厳島神社となりました。厳島神社とカラスの関係は今も大変深く、”御鳥喰式”(オトリグイシキ)と言う神事が毎年行われている。この御鳥喰式とは、厳島神社の神官が船でダンゴを捧げます。見事カラスがダンゴを食べれば、良い事が有ると信じられています。
カラスが厳島神社を建てる為に選んだ場所にはもう一つ理由が有りました。それは引潮で神社の境内から海の水が引くと、池が現れます。この池は鏡池(かがみいけ)で、海水が残った水溜りではなく、地下から真水が湧き出て出来るものなのです。境内には同じような池が3つ有り、引潮の時はそこから溢れた水が川を作り海に流れ込んでいます。つまりこの地では潮が満ちると海と川の水が1つになります。こうした場所は神道の世界ではとても神聖な場所と考えられています。川が海に流れ込んでいるこの場所は、水の霊力、あるいは潮水の霊力、それによって汚れ、罪が清められる神聖な場所で、そこに神社が立地しているのは神が最も降りて来易い場所なのです。
厳島神社は聖なる場所を厳選して建てられた。その他にも神社の有る宮島自体も神秘の島と言われている。それを証明するのが、厳島神社の後ろにそびえる弥山(みせん)(標高535m)は宮島では一番高い山で、弥山の頂きには何故か数多くの大きな石が有る。巨大の物では高さが5mの石も有り、巨石文明で有名なイースター島を思わせる不思議な光景になっている。厳かな雰囲気を漂わせる巨大な石を見た古の人は、ここに仏像を置き修行の場にしたと言われている。そして弥山が見下ろす宮島全体も神々しい力を帯びた場所として人々に信じられていました。
古くから修業の地と成っていた宮島、弥山の頂上には平安時代の修験者が開いたと言われている寺が有る。人々が熱心に手を合わせるその先に有るものは仏像では無く火で「消えずの火」と呼ばれている。その名の通りなんと1200年前の平安時代から一度も消えて居ないと言われています。伝説によれば、火を起こしたのは弘法大師(空海)で、宮島で修業をしたさいにたいた火だと言う。最新の考古学調査では、これまで考えられていたよりも多くの人が訪れていた事が明らかに成り、聖地として広く知られていたと分かって来た。
奈良時代の終わりから平安時代にかけての焼き物(弥山で)、大きな岩が林立している辺りから見つかっているので、沢山の方が修業していた事が確かだと分かって来た。なんらかの形で宮島全体が、御まつりの対象とする扱いが有った事が分かって来た。
空海ゆかりの”きえずの火”は一度も消えて居ないと言う事にちなんで、恋の火も消えないと、信じられるように成り、今では恋人達の名所”恋人の聖地”になっている。
 
 現在世界遺産に登録されている厳島神社は、実は神社だけでなく、社殿を取り囲む海、そして神社の背後に広がる山、(弥山)の原始林も世界遺産に登録されているのです。昔から宮島は”神の島”として、人々に崇められていた為、土地を耕したり、木を切ったりする事は禁じられていました。その為、昔ながらの自然が今も残されています。その事が世界遺産として評価されたのです。宮島全体では今700種類以上の植物が自生し、その中には不思議な現象をみせるものもあります。山中に咲く山ザクラは、通常の山ザクラは二週間程しか咲いていませんが、宮島では二カ月近く咲き続けます。さらに樹木の中にも、暖かい場所に見れれるミミズバイと寒い場所を好むモミノ木が並んで生息しています。人の手がほとんど入らず独自に育まれた自然環境によっておきたものと考えられていますが、詳しい事は分かっていません。こういう所も”神の島”と考えられた理由の一つであるのかも知れません。

神の導きによって1400年前に生まれたという厳島神社・・・。この神社を現在の豪華な社殿に建て替えたのが平清盛です。清盛といえば、当時低い身分だった武士から、国のトップの太政大臣にまで異例の出世を果たした男です。そんな奇跡の背景には厳島神社の改築と、そこに祀られていたある仏像の存在が有ったと言われている。神社に仏像とはミスマッチなのですが。
話は清盛が30代(平安時代後期)の頃にまで遡ります。
当時清盛は現在の広島安芸の国の管理を任されていたものの、国の政治に参加が許されない低い役職でした。「このままでは所詮、わしは高い位の貴族に仕えるだけの立場の弱い武士に過ぎぬ、なんとかしてもっと出世したい。」この思いは、平家物語によれば、この頃清盛の身にある不思議な事が起こります。清盛は朝廷から高野山の塔の修理を命ぜられた。6年もの歳月をかけて立派な塔を完成させます。修理が終わった後、清盛の元にどこからともなく一人の老人が現れ言いました。「あなた様ゆかりの安芸の国にある厳島神社は、御仏が御姿を現わされる場所です。故に神社が栄える様にお力添えを下され、さすれば大変御出世されます。」そう告げると突然消えてしまいました。清盛は我にかえります。「もしや今の御老人は、高野山を開かれた、弘法大師では!」このお告げをきっかけに始めたと言われるのが、厳島神社の大改築でした。私財をつぎ込んで目指したのは、これまで誰も見た事が無い様な豪華絢爛な海のお社でした。この時生まれたのが長さ300m近い廻廊でした。今も日本一の規模と言われる巨大な本殿です。これも清盛が繁栄を願って設計したものと言われています。
しかし、清盛が造った当時の厳島神社には、今とは異る、ある意外なものが存在していました。それが江戸時代の絵図に描かれています。本殿の奥にあった”観音”という建物ですが、これは観音つまり仏様を祀る為のものですが、しかし神社に仏像とは現在では考え難いものです。だがそれは全く変ではなかった。当時神道の神様と仏教の仏様は、本来は同じものであるという考え方が広まっていた。これを難しい言葉で「本地垂」(ほんじすいじゃく)と言う。この考えの元は、厳島神社のさらなる繁栄を願う為、神様に加え仏様を祀ったようです。当時神社に祀られていたと言う仏像は今も宮島の大聖院に残されています。これは清盛が持ち込んだと言われる十一面観音像(県重要文化財)です。頭の上に付いているのは幾つもの顔で、全部で十一有り、あらゆる方向に向いていて、人々の願いを聞き届けてくれると言う慈悲深い仏と言われています。
奈良の大仏造りにも関わった名僧の行基が自ら制作したとも伝わる有り難い仏様です。清盛の最高のものを用意しようと言う意気込みが伺えます。それは「全ての人々の願いを聞き届けられると言う十一面観音様ならばキットわしの願いも叶えて下さるであろう。」との読みも有りました。お告げに従って厳島神社を盛り立てて居た清盛に、不思議な事に次々と幸運な出来事が起こるように成りました。
仁安二年(1167)清盛五十歳の時、国のトップにあたる太政大臣に昇進し、さらには娘が時の天皇の妻と成り、天皇家と親戚関係になった。清盛を初めとする平家一門は朝廷の実権を握るまでに急成長したのです。しかしそんな清盛にも一つの大きな悩みが有りました。それは天皇と娘の間に六年経っても一向に子供が生まれない事です。「孫が生まれてさえくれれば、我が孫を天皇の位につけ平家一門の安泰を図れるものを、子が授かる良い方法は無いものか?」そこで清盛が行ったのが、都から遠く離れた厳島神社まで、毎月参拝する事でした。新幹線も無い時代、清盛は300km離れた宮島まで片道一週間の船旅を繰り返す決心でした。すると、なんと参拝を始めて僅か二カ月後、娘が懐妊したとの知らせが届きました。後の安徳天皇の誕生でした。冶承二年(1178)この時清盛六十一歳。
神社に祈りを捧げる度に幸運をつかんでいた清盛。厳島神社には清盛が感謝を示したものが残されています。国宝「平家納経(へいけのうきょう)」です。金や銀をあしらった高価な紙に清盛はじめ平家一門が写経をし、神社に奉納したものです。ここにも清盛が帰依した十一面観音への感謝が綴られています。「今生の願望すでに満ち、この世でわしの願いを観音様は全て叶えてくださった。」清盛の願いをことごとく叶え平家の繁栄を支えた厳島神社。奇跡の神社としての名声を益々高めてゆきました。

清盛が亡なって間もなく平家は滅亡します。しかし厳島神社に厚い信仰を寄せる人は絶える事が有りませんでした。清盛のライバルだった源頼朝もその一人です。頼朝は奥州藤原氏との合戦の前に、厳島神社に戦勝を祈願しています。後に、室町幕府を開いた足利尊氏や、戦国の乱世を統一した豊臣秀吉も厳島神社を信仰しました。又、江戸時代以降、全国各地に厳島神社が造られるようになりました。なんとその数530社にもなり、北は北海道、南は鹿児島まで43都道府県に厳島神社が建てられています。
厳島神社に向かう途中に必ず出会う動物と言えば”鹿”です。現在およそ500頭が生息し、神社の参道から住宅地まで、島の至ところで見られます。宮島での鹿は神の使いで、決して無下に扱う事は出来ません。多くの鹿対策に、島の彼方此方に作られているのが、”鹿戸”です。これは鹿を追い払わなくても良い様に、優しく侵入を阻む様に工夫されています。
この宮島の鹿のお陰で幸運を掴んだと言われるのが戦国大名の毛利元就です。鹿伝説に秘められた神社と元就の意外な関係があるのです。
清盛の時代から400年後の戦国時代に宮島がある中国地方を制覇したのは毛利元就です。元就が生まれた時、毛利家は広島県北部の小さな領主に過ぎませんでした。しかし、毛利家は大変信仰心が厚く、地元の神である厳島神社を崇め、代々太刀や馬などを奉納し帰依していました。元就が当主になって(天文9(1540)年、元就43歳)16年後、未曾有の危機が襲います。隣の出雲の国の尼子氏が、3万の兵で元就の城を攻めて来たのです。元就の兵力は僅か3000しかいなく、毛利家は存亡の危機でした。この時、厳島神社は、普段から信仰の厚い元就の為に戦勝祈願をしてくれました。その神社の使者が祈願した印を持って元就のもとを訪れた丁度その時、なんと敵を撃退したと言う報告が元就の元へ届きました。「この度の勝ち戦は正に厳島神社の御加護じゃ。」と元就は土地を寄進する等、神社への信仰をさらに深めて行きました。
厳島神社の御加護か、近隣の武将を次々傘下に治める元就。遂に安芸の国、備後の2カ国を治める大名に成長してゆきます。そんな時元就に再びピンチが訪れます。それが隣の国の戦国大名、大内氏の最高実力者、陶晴賢(すえはるたか)との対立です。陶が仕える大内氏は中国地方を始め九州ににまで影響力をもつ西国一の大大名です。まともに戦っては歯が立たぬ元就は悩んだ末、宮島の小高い丘に城(宮尾城跡)を築く事を思いつきます。多人数では動き難い島に誘い込めば、劣勢でも万に一つの勝機が有ると考えたのです。宮島は元々陶が支配下に置いていた場所だったので、陶は宮島を支配している元就を好ましく思っていなかったのです。陶軍は元就の城を攻める為8000の兵で宮島に上陸した。対して毛利の城にたてこもる兵は僅かに数百で、一見すると毛利軍に極めて不利な状況に見えますが、実はこれも元就の作戦でした。陶が城に気を取られている隙に、深夜5000の兵を連れて島の裏側の包ヶ浦から上陸し、密かに山を超えて背後から陶を奇襲する計画だったのです。しかし、この作戦には非常に困難な問題が有りました。それは元就が超えなければならないのは、原始林が覆う山々です。この険しい入り組んだ山を深夜明りを消したまま迷わずに進むのは至難の業です。この時元就の危機を救ったと言われるのが鹿です。江戸時代の記録(陰徳太平記)によれば、山中を進む元就達の目の前に突如鹿が現れ道案内をしてくれました。しかしこの鹿、実は人間だったのではという説が最近の研究から浮かび上がってきました。厳島神社の神官である棚守房顕(たなもりふさあき)が元就に提案したとも考えられています。当時の厳島神社の棚守房顕が神社にまつわる事を書き遺した覚書には、この合戦の50年前、瀬戸の武将が五重塔周辺の町を襲った事件が有り、この記録の中に「博打尾(ばくちお)」という尾根を通る秘密の山越えルートが有る事が記録されています。その事を知っていた房顕は、元就に陶を奇襲する作戦として、包ヶ浦への上陸に博打尾越えの作戦を提案したようです。神社の協力があり、見事険しい博打尾を越える事が出来た元就は、陶の本陣がある五重塔が見下ろせる場所に辿り着いた。弘治元年(1555)、元就58歳、10月1日早朝、元就は一気に陶の陣営に襲いかかりました。まさか険しい山から襲って来るとは思いもしなかった陶は、なすすべも無く自害して果てた。
元就は厳島での戦いの勝利をきっかけに大きく戦国大名として成長していった。元就に幸運をもたらしてくれた厳島神社。その感謝の気持ちを記したものが残っています。それは「三子教訓状」で兄弟三人が力を合わせよと言う、有名な三本の矢の教えが書かれた書状で、その中にこう記されています。「厳島神社を大切にせよ!今の毛利家が有るのは、厳島神社のお陰であると言う事を決して忘れるな。」
慶長5(1600)年、元就の死から29年後、天下を分けた関ヶ原の合戦が起こり、不運にも毛利家がついた西軍が敗れます。毛利家は厳島神社が有った安芸の国を奪われ、領土は今の山口県だけになってしまいます。新たに毛利家の本拠地になった山口県萩市の広い池の傍に、元就の子孫が建てた神社が有りその名は厳島神社。宮島の厳島神社を再現したもので、池に居るのはなんと!フグやエイなどの海の魚達、海に面する厳島神社を忠実に真似る為わざわざ海の水が流れ来む池を探して建設したものです。元就の子孫達は遠く離れた厳島神社への感謝の思いと祈りを決して忘れる事はなかったのです。
武将達に数々の奇跡をもたらしてきた厳島神社。その後江戸時代に成ると多くの庶民も神社の有る宮島を訪れる様になります。その為、旅人のお土産として今も残る宮島名物が幾つも生まれました。その一つが「シャモジ」で、かって厳島神社に有った弁天様が持っていた「ビワ」それに似た縁起物として作られたというのが宮島のシャモジです。巨大なシャモジは長さ7.7m重さ2.5t世界最大で、宮島の職人さん達がおよそ三年かけて作り上げました。そして宮島の「もみじまんしゅう」も宮島にちなんだものです。明治時代島の紅葉をヒントに生まれたお菓子と言われています。
長きに渡って神の島と信じられてきた宮島は、江戸時代以降には島にも多くの人が住むようになります。島で暮らす人々の家に見られるのが、厳島の神を祀る神棚です。神棚の上は何故か遮るものが無く、広々とした吹き抜けになっています。吹き抜けにする訳は、神棚の上を人が歩か無い様にする為です。宮島の人々は厳島神社を大事にすると言う事を第一に考えているのです。
毎年夏には、宮島で地域の人々が一つに成る神事が開かれています。それは「管絃祭」(かんげんさい)で、厳島の神を船に乗せて島内や対岸の町を巡り、その御加護が広く行き渡る様に祈る祭りです。この神事が最初にもようされたのは、平安時代神社に深く帰依した平清盛が始めたものと伝えられています。その後戦国の騒乱で途絶えていたというこの神事を復活させたのは、同じく神社を拠り所に繁栄をつかんだ毛利元就です。心から祈る者に奇跡と幸運をもたらすと信じられてきた厳島の神。神秘に満ちた海の神に対する厚い思いは、1400年経った今なお人々の中に息づいています。
 

平 和 記 念 公 園 広島県広島市中区中島町・大手町1丁目
日本で世界に通用する地名は”ヒロシマ”で、過去の苦い経験を礎にして戦争に対してその抑止の一端を担っている。
戦争を知らない世代にこそ、その悲惨な状況を克明に知ってもらい、未来永劫人類の平和を維持する意義を理解して、人類の殺戮戦を繰り返すのは無駄な事だと心底悟って、明るい社会の維持保守に努めて頂きたい。それは多数の犠牲者に対する供養でも有るように思える。
この美しい公園からは、原爆投下で荒廃された爆心地で有る事を想像出来なかった。しかし慰霊に訪れる各国の慰霊者を目の当たりにした時、被害国の一人として平和に対する考え方も、生半可なものから本格的なものへと変心しました。

原爆死没者慰霊碑
建立年月日 1952(昭和27)年8月6日
原爆犠牲者を雨から守りたいという気持ちから、屋根の部分がはにわの家型をしています。
には、「安らかにって下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれており、中央の石室には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者の名前を記帳した原爆死没者名簿められています。
名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2002(平成14)年8月6日現在で、79冊(さつ)(226,870人)になっています。
この後方には原爆ドームが見えます。

原爆ドーム
広島県物産陳列館は、広島県物産品の販売促進を図る拠点として1915(大正4)年に建設されたもので、大胆なヨーロッパ風の建物として評判をびました。その後、広島県商品陳列所、広島県産業奨励館改称し、戦争がしくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの統制会社の事務所として使用されていました。
原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火をいて全焼、中にいた人は全員死亡したと伝えられています。爆風がほとんど真上から働いたため、の一部は倒壊れ、ドームの鉄枠とともに象徴的姿をさらしました。そして、その形からいつしか「原爆ドーム」とばれるようになりました。
至近距離からの爆風にも有る程度の形を残している事から、強固な建築物であった事が推察されます。
 
                   原爆の子の像
2の時被爆し、10年後に白血病を発病してくなった佐々木禎子さんの慰霊碑。
 
原爆ドームの下には瓦礫が残され
たままになっていました。

倉 敷 美 観 地 区 倉敷館観光案内所 
     倉敷市中央・本町
     п@(086)422-0542
岡山県の名所である倉敷美観地区は、江戸時代の面影を残す白壁と黒本瓦の鮮やかなコントラストが強く印象に残りました。そしてメインストリートの倉敷川沿いを彩る柳並木。落ち着いた雰囲気が往時を思わせ、朝の散歩を楽しむ人が行き交い、いつしかゆるやかな時間が流れだす。近くには大原美術館や日本郷土玩具館が並び、足をのばせばアイビースクエアにたどり着く。赴くままに路地裏へ入れば蔵を改装したモダンなカフェやギャラリーが有りタイムスリップできます。  

倉敷川に架かる中橋と柳並木。

美観地区の中心部ですが御覧のように道が曲がり
くねっているので景観に見とれていると迷子になります。

名古屋市緑区の有松街道
を思わせる古風な建物です。

岡 山 後 楽 園 岡山後楽園
   岡山県岡山市後楽園1−5
   п@086−272−1148
江戸時代に岡山藩主・池田綱政によって造られた「大名庭園」で、日本三名園の一つ。
14年の歳月をかけ1700年に一応の完成を見た「林泉回遊式庭園」で、日本で唯一、築庭当時の姿をほぼ残すと言われる。
広大な芝生の合間にきらりと輝く池には、中島が浮かぶ。そしてしっとりと佇む延養亭。ここから、優雅に流れる曲水(きょくすい)や見事な造形の唯心山を望めば五感が研ぎ澄まされる。四季催事や花木の表情の変化もまた魅力のひとつ。
 
 
                     岡山後楽園の広大な無料駐車場。
この日も大変暑い日でした。駐車場の係員にペットの持ち込みは出来るのか聞いた所、持ち込みは出来ないので橋の下の太陽の当たらない所へ止めてはどうですか?と言われ橋の下の河川敷に駐車し、安心して散策しました。

     
     
 岡山後楽園は、江戸時代を代表する大名庭園の一つです。廷養亭や能舞台を中心とした亭舎、園内各所に置かれた茶室や祠には歴代藩主の思いが込められています。
広い芝生地や池、築山、茶室が園路や水路で結ばれ、歩きながら移り変わる景色を眺めることができるように工夫された回遊式庭園です。上の写真は園内の築山である、唯心山から下を見たものです。後方の樹林は景観を損ねるマンション等の高層建設物を遮るために造られたものです。この公園から旭川の橋を渡ると岡山城へ入城することができます。

岡 山 城 岡山観光協会
   岡山県岡山市丸の内2−3−1
   п@086−225−2096
 

慶長2年(1597)、豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が築城した岡山城。三重六階の堂々たる天守閣は織田信長の安土城天主閣を模して築かれたと伝えられ、全国的にも珍しい不等辺五角形の天守台をしています。関ヶ原合戦以前の古式を伝える貴重な天守です。また、当時は築城技術の発達が著しい時期で、岡山城は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城と並んで近世城郭の魁となりました。その建築は8年にわたる大事業で、旭川の流れを変えて本丸の北面〜東面を巡らせ、堀の役割を持たせました。黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう」)と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、「金烏城」の名もある名城です。

 

岡山城の入口に向かう途中の地面に部屋の間取りが書いてあった。
不思議に思い帰りにボランティアの方がいたので聞いてみると、これは実際の間取りで地下にこの部屋が有ったと説明してくれました。
 
 
月見櫓
 
隠し銃眼
  本丸内で戦火を免れた唯一の建物で、国指定重要文化財である。これは岡山城第5代藩主、池田忠勝によって、元和・寛永年間(1615〜1632)に建てられたものである。この名称ある建物は、全国的にも極めて数が少なく珍しい遺構である。    この櫓は、文字通り「月見」という風流を楽しむ為にも用いられたようだが、本来の目的は表書院の北西を防衛するためのもので、櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、隠し銃眼(鉄砲を撃つ為の狭間)や中世的な石落としの装置などが設けられている。
しかし、これらの防衛機構は使用される事はなかった。
 
  不等辺五角形の岡崎城に感嘆した後は、その姿の美しさに別名
                      「白鷺城」と言われる姫路城を見る事にしました。

姫 路 城

姫路城管理事務所
     姫路市本町68地 姫路城内
     п@079-285-1146
  岡山後楽園から姫路城までは80km前後の距離が有り、山陽姫路西ICで降り10km弱の国道を走り、午後3時前に大手門駐車場に到着した。この広い駐車場は城の前に位置し3時間まで500円と手頃な時間と値段でした。広い道路を横断し芝生が貼られた前庭は、野球場が2〜3個出来る程の広さが有りそこに美しい姫路城が輝いていた。自分が住んでいる名古屋の名古屋城も素晴らしいのですが、この城には及ばないと感じた。
入場料は600円で天守閣に昇る事が出来ました。
 

姫路城入口

姫路城
姫路城は・・・・・・
播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えた事に始まり、その後小寺氏、黒田氏が據っていました。最近の研究では築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆のときとする説もあります。黒田官兵衛孝高のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の根拠地として入城し、翌9年3層の天守閣を完成させました。
その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関が原の役後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封し、慶長6年(1601)から8年の歳月を費やして南の外濠を現在のJR山陽付近とする程の大きな規模に城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築きました。池田氏3代の後入封した本多忠政<15万石)は、長男忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、元和四年(1618)今日に見る姫路城の全容を整えました。その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が寛永2年(1749)入封して明治維新を迎えました。
現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓、をはじめ、化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1,000mの建造物と、内濠、中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に指定されています。姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務めましたが、これだけ城主が変わるのは稀有な事で、戦塵にまみれることなく今日にいたっています。

お菊井戸

手摺の付いた急階段。
屋外の明るい場所から城内に入り1つ目の階段を昇る時、余りの暗さに思わず手摺をつかんでしまった。昔の侍はこんな暗い階段を日常使用していたかと思うと、現在社会の便利さを痛感した。しかし、後から知った事ですが、この日もコンピュータの不具合で照明が点かなかったので大変申し訳ないと係りの方が話していたそうですが、その事を入城口で知らせるべきだと思う。 
  お菊井戸とは・・・・・・
城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。永正年間のこと、城主・小寺則職の執権・青山鉄山が城の乗っ取りを計画していました。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀をさぐらせました。しかし、努力のかいもなく、青山鉄山の勢力の方が強く、則職は元信に守られて逃げ出すのが精一杯でした。それでもお菊は青山家に残り、家島に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、これを盾に結婚を迫られます。しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。