あの信長がマイッタ手力雄神社
手力雄神社尾張(今の愛知県)に生まれた織田信長は、今川義元を桶狭間の戦いで破った後、天下統一をめざしました。
信長は手始めに、各務原市のある美濃地区に攻め込んで来ました。
ねらうは斎藤氏の住む稲葉山城(岐阜城)でした。
信長は、敵を攻めるときに 神社仏閣・民家を焼き払うという方法をとりました。
これは、向かってくる敵は徹底的にやっつけることを
相手方に示すというねらいがありました。
稲葉山城を攻め落とすために各務原に攻め入った信長は、那加にある少林寺・法円寺などを焼き払い、手力雄神社に迫りました。
朝もやのなか、兵士たちが神社に火をつけようとした時でした。
不思議なことに、突然一陣の風が沸き上がるように吹き荒れ、霧が立ちこめました。
信長は、目がくらみ息が苦しくなり、手足の自由を失い馬から落ちたのです。
「神様のたたりじゃすぐにわびるのだ」と叫んだ信長は、手力雄神社に参拝し自分の罪をわびました。
すると霧はたちまちのうちに晴れ、信長ももとのように元気になりました。
これ以後、信長は厚く手力雄神社を敬うようになりました。
稲葉山城を攻め落とした信長はしばしば手力雄神社に立ち寄り、武運長久を願いました。
ある日のこと、銃先を神社に向け、「ここに神あらば答えよ」と叫びながら銃を一発放ったところ、弾は確かに堂に入り手応えがありました。
信長は、一層手厚く手力雄神社を敬い、神社から見える全ての田畑を領地として寄付しました。
信長の弓懸桜は現在、神社の境内に信長弓懸桜とよばれる桜の木があります。
これは、信長が稲葉山城の斎藤氏を滅ぼした後、神社に参拝し武運長久を祈ったときのものです。
信長は、この時境内に一つの的場をつくって弓術を試み、弓をこの桜に懸けておいたので弓懸桜と称するようになったということです。
そのころの木が枯れたので、今の木は二代目だそうです。
文・イラスト那加中学校区教育トライアングル事業で制作した絵本「なかなかの話」より