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磯砂鉱山「金ほうり(放)山」記

京都府京丹後市峰山町鱒留大成

(1)磯砂鉱山の歴史

2005年4月UP


 昭和12,3年の頃、峰山駅前の戸田梅吉氏が、大呂附近のペグマタイト中のマンガン鉱を探査したのが始まりです。その折り、フェルグソン石が発見されましたが、一塊にして350gという既知ものとは桁違いに大きいものもありました。そして、バラ輝石が発見され、戸田氏の言うマンガン鉱とは、バラ輝石の酸化分解物と考えられます。その後、このバラ輝石はパイロクスマンガン石と決定されました。
 戦時中、ここのペグマタイトが採掘されたため、フェルグソン石は著しく少くなりましたが、その代りに変種ジルコンの産出が多くなり、径3cmに達する赤褐色の晶群が多く出ました。おそらく、ここまでが大呂鉱山だったと思われます。
 その後、鉱業権者が綾部市のK氏所有となり、大成鉱山と称したようです。昭和30年頃、放射能の強烈な変種ジルコンが発見され、これを「大呂石」と呼んでいましたが、独立の鉱物ではなく、ジルコン中に閃ウラン鉱等の鉱物の微粒が包含されている物で、新鉱物とはなりませんでした。
 そして、1977年から2年間、磯砂鉱山と称して、珪石を採掘をしました。この時に、トルトベイト石などの珍しい鉱物が多産しました。




磯砂鉱山の露頭と坑口



(2)金ほうり山の意味

 2004年に市町村合併のため、中郡峰山町から京丹後市に変わりました。大呂というのは、旧地名で、現在は大路が使われています(注参照)。しかし、鉱山の所在地は、大路の奥の大成地内であり、大呂鉱山、大成鉱山とも称されました。その後、磯砂山の麓にあったため、磯砂鉱山と称しました。

 さて、この鉱山を地元では「金ほうり(放)山」と称しています。何故なら、この鉱山に資金をつぎ込んでも、誰一人儲けた者がいなかったからです。本来なら、「金堀山」とすべきところを、「金ほうり山」とは、うまく言った物です。この山で、金儲けを企んだ人々を、地元では冷めた目で見ていたのです。

(3)金ほうり記

 大成鉱山のK氏は、おそらくは採掘を目的とはせず、鉱山の転売を目論んでいたようです。そのため、出来るだけ鉱体を大きく、高品位に見せる必要があり、そのように山を削った様です。しかし、暫くは買い手が付きませんでした。その後、円が360円から100円台にまで急騰しました。つまり、鉱石の値段が1/3になった時に、不思議にも、ある政治家を通じて、買い手が付いたのです。その買い手は墓地の販売等を手掛ける、鉱山には全くずぶの素人会社でした。そして、岐阜県窯業試験場の元場長を顧問に、地元有力者を巻き込んで、開発に着手しました。この大先生の鑑定では、世界最大級のペグマタイト鉱床で、今まで、この様な大鉱床が残っていた事自体が、不思議だと言うことででした。

 さて、この根拠とは。

 大路付近には、磯砂鉱山のペグマタイト鉱床の他に、大路部落西方、大路北方等に小さなペグマタイトの露頭があります。これらは、地下に潜む巨大な鉱床が、地表に顔を出したところと言うのです。これらの露頭を線で結んで、南北に数キロ、東西に1キロ以上の面積があり、埋蔵量も何百億トンとはじき出しました。そして、現鉱山から掘り始めて、いずれ大路部落を立ち退かせ、その下をも掘る進むと言う勢いでした。
 この話を信用した会社は、1977年に開発に着手しました。地元の土木業者を雇い、鉱床の南の山を崩し始めました。何故なら、山全体が鉱床だから、何処から掘っても同じというのが理由でした。しかし、この土木業者も素人でしたから、うまく掘り進めず、あっちを掘ったり、こっちを掘ったりしていましたが、ついに、鉱床には当たらず終いでした*。業を煮やした会社は、マンガン山採掘で有名なN氏に、白羽の矢を当て、採掘を委託しました。このN氏は、知ってか知らずか、まず、選鉱場の建設を始めました。この建設費用で、ほぼ会社の資金は底をつきました。早く、鉱石の出荷を始めないと、資金繰りが出来なくなると言うので、採掘を再開し、売鉱を始めました。おそらく百トン前後出荷したときに、鉱石を売っても採算が取れない事に、やっと気付きました**。この会社、資金も底をつき、経営の意欲を無くし、倒産してしまいました。

 この山は、大きな鉱床と言うよりは、大きな夢が胚胎していたと言えるでしょう。数百トンの小さな鉱体が、何百億トンにも膨らんだのです。この山に絡んだ人は、誰一人利益を出せなかった。いや、というよりは夢を買ったのです。夢(欲)が大きいほど、その値段は高かった訳です。「金ほうり山」では、あまりに現実的ですから、これからは「夢見山」なんてのはどうでしようか。しかし、現在では「夢」もほとんどが掘り尽くされてしまいました。

* この時にトルトベイト石等の希産鉱物が出た。
** 特に、この鉱床は、丹後でも品位が悪く、小さいため、今まで誰も採掘しなかった。

 ところで、ここのトルトベイト石は、大路在住のT氏が、採掘に従事していた時に、変わった石を家に持ち帰っていた物です。他にも、フェルグソン石やジルコンなど、沢山の鉱物がありました。これらを見た私が、京都大学に鑑定を依頼し、トルトベイト石と判明したのでした。そして、京都の鉱物界へもたらしました。ここで産した良標本の多くは、T氏か、私の採集した物です。

 京大に鑑定を依頼したときに、もう一つ、変わった石を渡しました。それは、スカルンのような外観の石でした。おそらくは、この中には、多量のフルオセル石やフッ化セシウム石を含んでいた物と思われます。この石は、おそらく、ただの何の変哲もない石として処分されたことでしょう。その後、この石の小指の先ほどの欠片を拾ったF君などによって、フルオセル石やフッ化セシウム石等の、本邦初産鉱物が発見されたのでした。本当に惜しいことをしました。この経験から、鑑定を依頼するときは、資料の一部を提供することにした次第です。


 そして、ここから、これらの鉱物の争奪戦が始まったのす。T氏の家へ、鉱物マニアが押し掛けたのです。ある人は、トルトベイト石の第一発見者の証明書と引き替えに、良標本を手に入れました。他にも、ブラジル産の紫水晶やトパーズ等と交換をした人もいました。どちらにしても、数百円程度の標本を、宝物と交換する、詐欺まがいの手を使ったのです。十万円以上の値を付けた人もいましたが、その人には渡りませんでした。ついに騙されたことに気の付いたT氏は、それ以来、手放さなくなってしまいました。

 マニアは、それでも諦めません。そして、最後の手段をとったのです。T氏の留守宅にまで侵入し、残りの標本の殆どを盗み出してしまったのです。

 夢見山は鉱物マニアまでも、夢を売り付け、最後には犯罪者にまでしてしまったのです。そして、今は静かに眠りについています。結局、この山で笑った人は、鉱物マニアとN氏位でしようか。

 次ぎに夢を掘り起こす人は誰でしょうか。


注 鱒留大呂と大路

 鱒留 Masudome は古く(中世以前)は益富 Masutomi と言いました。そして、いつ頃か鱒留になったと言います。益富というと、故益富寿之助博士が頭に浮かぶでしょう。実は博士のご先祖は、この村の出で、西方の安養寺に嫁ぎ、さらに京都に出て、名字を鱒留の古名、つまり益富とされたのだそうです。

 大呂と大路は、古文書にはどちらも出てきて、昔から混在していた様です。しかし、昔は大呂の方が優勢であり、近年は大路の方が優勢になってきています。現在、行政では大路を使用しています。どちらを使っても、間違いではないようです。




参考文献、HP。
 
  長島乙吉・長島弘三,1960.日本希元素鉱物
  京都府レッドデータブック,2002.
    http://www.pref.kyoto.jp/intro/21cent/kankyo/rdb/geo/db/soi0007.html




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