用語解説

阿波根昌鴻と島ぐるみ闘争

非暴力の抵抗

 新基地建設に反対する辺野古のテント村にやさしいまなざしで空を見上げる老人の写真パネルがある。2002年、101歳で亡くなった阿波根昌鴻だ。阿波根は伊江島に農民学校をつくるため求めた土地を米軍に奪われた。阿波根はじめ米軍に土地を奪われた島の住民は土地を取り戻すため非暴力で米軍に立ち向かっていった。阿波根は闘いの中で、中心的な役割を果たすようになり、いつしか「沖縄のガンジー」と呼ばれるようになる。阿波根は亡くなる直前まで土地を取り戻し農民学校をつくる夢を捨てなかった。
 2005年、防衛施設局は辺野古の新基地建設をすすめるため実力行使に出る様相を見せ始めた。それを阻止しようと辺野古の海岸にテント村が建てられた。阿波根のパネルはそのころからテント村に置かれるようになった。

阿波根昌鴻

 阿波根昌鴻は1901年旧本部村(現在町)で生まれた。生家は貧しかったが父親を説得し、県立嘉手納農林学校に入学した。数ヶ月後、健康を害しやむなく退学、大分県別府で療養した。病気回復後、東京で進学する夢をもっていたが、関東大震災が起き、東京行きを断念した。帰沖して伊江島に渡り商業を営む。1925年、24歳の時、島で見初めた喜代と結婚した。間もなく移民募集に応じ、身重の妻を残してキューバへ出稼ぎに行く。その年の10月、長男昌健が誕生した。阿波根は稼ぎの悪いキューバからペルーへ渡った。阿波根は細めに仕送りと手紙を妻と息子の元へ送ってきた。1934年、33歳のとき、帰沖する。
 その後、静岡県沼津市にあった興農学園で農業を学び伊江島に帰る。阿波根には夢があった。デンマーク式の農場をつくることだった。喜代と共に働き、島の西側に土地を求めていった。息子の昌健は農民学校の先生になるため、八重山農林学校へ進学した。
 1944年5月、島に東洋一と呼ばれる飛行場建設が開始され、最愛の一人息子昌健も徴兵された。
 1945年4月16日、米軍が島に上陸、一週間に渡る激しい攻防戦が展開され、島の住民1,500人が犠牲になった。阿波根夫婦を含め、生き残った2,500人は米軍によって慶良間諸島へ強制移住させられた。最愛の息子昌健は沖縄本島で戦死し、還らぬ人となった。
阿波根らの帰島が許されたのは2年後だった。破壊しつくされた島に新たに米軍の滑走路が完成していた。

陳情規定

 1954年6月、米軍は真謝区と西崎区の住民四戸の農民に立ち退くよう命令してきた。米軍は「農耕は自由にさせる、補償もする」と言っていたが、射撃演習の目標を作るため作物はブルドーザーで潰され、植え付けしたばかりの畑は焼き払われた。しかも、補償はわずかだった。9月にはさらに152戸に立ち退き命令が出された。中止の陳情を琉球政府へ何度も行ったが、まるで無力であった。米軍はあらゆる手段を使って住民に圧力をかけてきた。そこで、住民は11項目からなる陳情規定を作った。
「陳情規定」
一、反米的にならないこと
一、会談のときは必ず坐ること
一、集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと
一、耳より上に手をあげないこと(米軍はわれわれが手をあげると暴力を振るったといって写真をとる)
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること
 (中略)
右誓約いたします。
1954年11月23日
      真謝、西崎全地主一同
 その後も米軍は何度も来島し、立ち退きを迫ってきたが住民は米軍との話し合いを続けていった。
 1955年3月、とうとう米軍は実力行使に出た。完全武装した米兵約300人が上陸、村長は軟禁され、止めようとした住民が拘束され嘉手納の軍事裁判所に連行された。米軍は力づくで住民を家から引きずり出し、ブルドーザーで家を破壊し、焼き払い、土地を奪った。阿波根の土地も奪われた。
 米軍が決めた立入り禁止区域に入り農耕した農民が米軍に捕らえられ軍法会議にかけられた。家を破壊されテント生活を強いられた妊婦が餓死した。

「乞食行進」

 1955年7月、真謝区民大会が開かれ、この惨状を全県民に訴えることを決定した。「乞食をするのはずかしい。しかし、我々の土地を取り上げ、われわれに乞食をさせる米軍はもっと恥ずかしい」とプラカードに書いて「乞食行進」を始めた。はじめは乞食、托鉢をするということであり、後に「乞食行進」と呼ばれるようになった。琉球政府前を出発し、国際通り、安里、開南を通って糸満へ向かった。そこからさらに北上し、北部へ。行進は年が開けて二月まで続いた。
 島では土地を奪われた住民と米軍のせめぎ合いが続いた。住民は柵内耕作を強行し、耕作地への通行証の受け取りを拒否した。通行証を受け取れば土地明渡しを認めるとになる。米軍が立てた「立ち入り禁止」の立て看板を引き抜き、「地主以外の立ち入り禁止」の看板を立てた。米軍が張り巡らした金網も撤去した。住民の逮捕、投獄は続き、米軍による蛮行や事故による犠牲者も出たが、住民はひるまなかった。米軍は徐々に立ち入り禁止区域を後退させていった。

「銃剣とブルドーザー」

 1945年4月1日、沖縄本島中部西海岸から上陸した米軍は戦闘を展開しながら基地建設を進めていった。世界の冷戦構造が明確になってくると、米軍は住民に解放した土地の再接収を始めた。身も心も戦争で傷ついた人々は「戦争に負けたのだから仕方がない」と米軍の力の前に抵抗することができず土地を離れる人々がいた。
 1952年、サンフランシスコ平和条約発効。沖縄は日本から分離され米軍に統治されることになった。日本本土にあった海兵隊基地が沖縄に移ってくることになり、強制土地接収はますます強化されていった。
 1953年になると、人々の生活は徐々に落ち着ついてきていた。米軍の明渡し命令に対し、住民の抵抗が現れ始めた。そこで米軍は布令109号「土地収用令」を発効し、強制接収を合法化していった。布令・布告は米軍が一方的に発効するのだが、法的効力をもつというのが米軍の解釈だった。
 1953年4月、米軍はすでに明渡しを通告していた旧真和志村(現在那覇市)銘苅に、9月には読谷村渡具知に「土地収用令」を適用した。両区民はやむなく立ち退きに応じた。同年12月には旧小禄村(現在那覇市)具志に装甲車や機関銃で武装した米軍が現れ、土地を守るため集まってきた住民に殴る蹴るの暴行を加え住民を排除し、ブルドーザーでしきならして土地を奪った。一九五四年四月、米軍は旧宜野湾村(現在市)伊佐浜に水稲植付け禁止命令を出し、座り込みをして抵抗する住民を銃床で殴り、田んぼに突き落とし、住宅と広大な田園を接収した。伊江島でも強制接収が実行された。

「島ぐるみ闘争」

 一九五四年米国大統領は沖縄基地の無期限使用を宣言し、強奪した土地使用料を安い価格で「一括払い」する方針を打ち出した。それは接収された土地が恒久的に米軍のものになるということに等しかった。
 それに反対し、琉球政府立法院で「土地を守る四原則(@一括払い反対A軍用地料の適正補償B米軍が住民に与えた損害の賠償C新規土地接収反対)」が可決された。
 米軍に対して訴えても効果がない、直接米本国に要請に行くべきということになり、代表団が渡米した。それを受けて1955年10月、米国議会のプライス調査団が来県した。翌年6月発表された「プライス勧告」の内容は「琉球列島において…我々は長期にわたって…基地を持つことができる」と一括払い、新規接収を米国政府に勧める内容だった。
 比嘉首席はこの問題に取り組むことにし、四者協議会(行政府、立法院、軍用地連合会、市町村町会)を結成した。四原則が認められなければ四者協議会全員が総辞職するという重大決意が決定された。1956年6月20日には全市町村で四原則貫徹住民大会が開催され、全県で15万5,000人が結集した。当時、沖縄県の人口は約80万人であった。7月18日、16団体からなる「全沖縄土地を守る会」が結成された。会長は屋良朝苗、事務局長には阿波根が就いた。7月28日には四原則貫徹県民大会が那覇高校グラウンドで開催され十万人が結集し、「島ぐるみ闘争」は最高潮に達した。
 その後、米軍は総辞職をすれば直接統治もやむなし、と圧力をかけてきた。比嘉首席は姿勢をあいまいにし、当間那覇市長は「一括払い必ずしも反対ではない」と表明、「全沖縄土地を守る会」でも米国への同調者が現れ8ヶ月で解散した。
 1958年8月、一括払い反対と適正補償に米軍は合意し、軍用地問題は一応の決着を迎えた。

非暴力の抵抗が大きな力に

 辺野古の新基地建設阻止運動は事実上、非暴力で建設を断念させた。その闘いは伊江島の闘いを彷彿させた。そして、非暴力の阻止運動がいかに大きな力になりうるかを証明する闘いでもあった。辺野古岬を埋め立てV字型滑走路を建設する新沿岸案を島袋名護市長は合意した。それでも、新基地建設を白紙撤回させるまで阻止運動を続ける気迫がテント村には満ちている。阿波根は新基地建設断念を勝ち取るまでテント村の人々を支え見守ってくれるであろう。

【参考文献】
阿波根昌鴻著 『米軍と農民』 1973年 岩波書店
沖縄県教育委員会 『銃剣とブルドーザー 戦後@』 1998年
伊江村教育委員会 『証言資料集成 伊江島の戦中戦後体験記録 ―イーハッチャー魂で苦難を越えて―』 1999年


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