(2006年5月6日一部追記修正改訂)

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1)3匹の猿と「しゅけん」の伝説
2)青柏祭とは
3)デカ山の起源
4)デカ山の組立て風景
5)デカ山はなぜ府中・鍛冶・魚町だけなのか
6)宵山・朝山・本山・裏山。女山など、どの時間帯の曳山をさすのか
7)デカ山の方向転換の技術
8)曳山技術を持つ人たちとは何人か、どんな仕事の役があるのか?
9)木やりは何人か、どんな人がなれるのか、唄の種類はいくつあるか?
10)デカ山人形はどのようにしてつくるのか?
11)人形宿のしきたり





上の写真は魚町のデカ山である。紋所は畠山氏の二引両である。畠山氏は足利系の守護大名であった。



上の写真府中町のデカ山である。紋所は、三つ巴である。伝説の3匹の猿と関係があるのかは、詳しいことは浅学のため、不明。



上の写真は、鍛治町のデカ山である。紋所は丸に漢字で山である。山王神社(大地主神社)の「山」と関係があるのであろうか、これも浅学なので、詳しいことは不明。


<関連ホームページのリンク>
青柏祭デカ山保存会のホームページ

府中町デカ山ファンサイト

 <3匹の猿と「しゅけん」の伝説>
 写真は青柏祭とは特に関係ない(赤蔵山拝殿横の猿の像)昔七尾の山王神社へ毎年一人の美しい娘を人身御供として差し出す習わしがあった。或年のこと、白羽の矢の立った家の主が何とかして娘の命を助ける方法がないものかと毎日思案していたが、良い方法は思い浮かばず、祭りの日は刻々とせまるばかりであった。思案尽きた父親は、深夜、草木も眠る丑三つ刻、社殿に忍び込んでみたところ、何やらつぶやく声が聞こえる。「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後の‘しゅけん’は俺がここに潜んでいることを知るまい。」と言っていた。
 そこで、娘の父親は、‘しゅけん’という名を頼りに急いで越後へ言ってみた。色々訪ねあるいて、やっと出会えたが、その‘しゅけん’とは全身真っ白な毛で覆われた狼であった。その狼の話によると、昔3匹の猿(日光東照宮に描かれている「見猿、聞か猿、言わ猿」のことだ、とも言われている)が他国(よそ)から越後のその地にやって来て人々に害を与えたため、その‘しゅけん’が2匹まで噛み殺した。他の一匹は逃がしてしまい、行方はわからなかった。その1匹が能登に隠れていたということだったのだ。
 それでは、退治してやろうと、娘の父親を背中に乗せ、海の上を鳥のように飛んで七尾へ到着、祭の日、娘の身代わりになって唐櫃(とうひつ)に入り神前に供えられた。
 その夜は暴風雨で荒れ、そして両者の格闘する物凄い物音であった。翌朝、人々が行ってみると、大きな猿が朱に染まってうち倒れ、‘しゅけん’も、また冷たい骸(むくろ)となっていた。人々は、‘しゅけん’を手厚く葬り、また、猿のたたりを恐れて、人身御供の代わりに3台の山車を奉納することになった、ということだ。
 (参考)能登の民話伝説(中能登地区-No.2)の中の「山王社の人身御供」(頁の一番下の話)

<青柏祭とは>
 青柏祭りとは、能登地方では、一番大きい祭りであり、その祭りの主役であるデカ山(山車)は、1983年(昭和58年)に国指定・重要無形民俗文化財に指定されている。高さは12mあまり、重量は日本最大の約20トンである。当市(七尾市)の山王町にある大地主(おおとこぬし)神社=旧山王神社の春祭りで、神饌を青い葉にもりにそなえ、天下太平と五穀豊穣を祈ったことから「青柏祭(せいはくさい)」と名づけられました。
 この祭りは、今から千年以上前の981年(平安時代の天元4年)に、歌人としても有名な当時の能登守護・源順(みなもとのしたごう)が、「能登の祭り」と定めたことから始まったとされる。祭りに山車が登場したと確認できるのは、今から三百数十年前となているが、一説には、室町時代に、能登に入国した能登守護3代目・畠山義統(はたけやまよしむね)の時からという話もある。
 重量が重いので、車の傷みがはげしく、近年各町は、国・市・町などの援助金で製作交換(材料はカメルーンなどアフリカの国から輸入)している。組み立てには、車の他、臍穴など組立て用に加工された木の柱(材質も決まっている)や、それらを縛りつけ固定するのに、山の森の中などにある直径2cmほどの太い蔓等使う。しかし、どの町の山車も釘を一本も使わないのが昔からのならわしというか、掟のようになっている。

<デカ山の起源>
 文献上確認できるところでは、貞享2年(1685)の「由来書上」には、「祭りは先規の如く毎年四月の申(さる)日、七尾府中町・鍛冶町・魚町より三つの山を飾る・・・」とあるので、この時点以前に、3台の山車があったと判る。享保2年(1717)に書かれた「能州紀行」には、3台の山車の様子を詳しく書きあらわしている。安永6年(1777)に書かれた「能登名跡志」には、青柏祭のことを「侍従卿より神事にて国府の大祭礼なり(中略)御預分一の大き成立物あり・・・」と記している。侍従卿は前田利政のことで、藩祖利家の次男。文録2年(1593)から慶長5年(1600)まで能登を領有した。
 「天保13年、鍛治町人形番改覚帳」には、嘉永6年(1853)の文書が収められており、その文中に「私共三町毎歳四月曳山祭礼の義は、天正年より相勤来り」とあって、天正年、つまりは、天正9年(1581)前田利家が能登に入部以来の祭礼である。と言っている。
 文化3年(1806)の「由来書上帳」には、貞享2年「由来書上上」に書き漏らしたから今回書き上げるとして、「日吉山王社は、五十九代宇多天皇の御代、寛平(889〜896)年中能登国御管領源順が再興された神社で、四月申日の祭礼(青柏祭)も、源順や畠山(能登国守護)の時代から相勤めてきた。」との趣旨を述べている。
森田平次(明治41没)は、『能登志徴』の中で、「青柏祭は利政公の時代からと言っているが、神社に保存されている利家の文書などを見ると、利家が能登へ入部する以前からの祭りである可能性が高い」とする見解を述べている。

<デカ山の組立て風景>
 下の写真は、平成16年の魚町のデカ山の組立て風景です。(御祓公民館駐車場にて)



<デカ山はなぜ府中・鍛冶・魚町だけなのか>
 山車を出す為には、多くの経費を負担せねばならないこと。また、町奉行など藩の権力と密接な関係が維持できることなどが条件であろう。そこで、山町三町の成立時の事情をみると、
魚町は、小丸山城築城の際、崇敬篤い本宮さんを明神野へ移転させることを承諾させられ、その後天政14年(1586)に、魚町以外での魚の売買は禁止された。
府中町は、天正10年に前田利家の軍が越中魚津城を攻めた時、能登宇出津の棚木城、穴水の甲山城が、越後の黒龍の長に攻められた時、府中町では船を出して利家軍に協力し、勝利に導いた。その功により、府中町は四十物(あいもの)(水産物の半加工品)の集荷取次ぎを一手に収める権利を得た。
鍛治町は、畠山氏治世の時代に、城山麓にあった鍛冶師集団が、前田氏が能登を領して後、集団移住して鍛治町がつくられ、鉄材を生産して小丸山城築城と城下町形成に貢献した。
三町とも、最も早く町の形態が整って、経済的にも力をつけた町であろう。しかし、山町単独で山車を出すのではなく、それぞれに連町といって協力する町がある。

<宵山・朝山・本山・裏山・女山など、どんな時間帯の曳山をさすのか>
 青柏祭の山車は曳行する時間帯によって、色々な呼び名がある。
5月3日午後9時頃、鍛治町の山車の清祓(きよはらい)が始まり、その後、大地主神社(おおとこぬし)へ向けて曳き出される。この鍛冶山の曳山行事を「宵山」という。
 4日午前1時頃府中町の山車が印鑰神社から出発する。この行事を「朝山」という。
 魚町の山車は、(3日夜、能登生国玉比古神社(気多本宮)で「おこもり」し清祓いを受け)4日午後8時頃曳き出して、これを「本山」と言っている。
 3台の山車が大地主神社に揃うと、午後2時から青柏祭の神事が執行され、順次山車はそれぞれの町へ帰っていくのであるが、府中町と魚町の山車は「帰えり山」とか「戻り山」とか呼ばれ、鍛治町の山車は、それらを見送る形となるので、特に「送り山」と呼ばれるのである。
 「戻り山」のうち、5日夕刻の府中町の山車は「女山」という別名がついている。近郷近在の親類・縁者の祭りの接待をすませた一家の主婦達が、夜9時すぎともなると、大勢でてきて、山車の曳綱に取り付くのである。このことから「女山」といわれている。

<デカ山の方向転換の技術>
辻回しの為に大梃子を準備しているところ 高さ12m、扇型のヒラキ13m、車輪の直径約2m。このような“デカ山”を、四辻やT字路で方向を90度変える方法を我々先人達は開発している。地元では、この方向転換を「辻まわし」と呼ぶ。
 山車の前方を持ち上げ、進行方向と直角に小車(地車又は軸車)を取り付ける。こうすると、山車の前輪は接地せず、後輪と軸車の3点で接地する。軸車の真横に回転するので、90度方向転換がしやすい。
 軸車をはめ込むのに2つの方法がある。1つは四辻などで、山車の前方に空地のある場合は、大デコ(長さ3間余り)を山車前輪の車軸へ差し込んで、持ち上げて軸車を取り付ける。
 T字路で山車前方に空地がない場合は、山車を後方からハデコを使って押しながら前輪を傾斜をもった台に押し上げる。これを「セリ上げ」と言う。
 大デコを使う時も、セリ上げの時も軸車の着脱は山車曳行時の一つの見せ場である。ある時期にジャキを使ったこともあったが、伝統的技術を墨守してもらいたいもの。
また、狭い街角で一気に90度方向を変えるのには、山車の停止位置など永年の経験と勘が必要である。山車巡行の路筋の家屋には、山車の曳行の支障にならぬよう江戸時代から続いた建築慣行が今も守られている。

<曳山技術を持つ人たちとは何人か、どんな仕事の役があるか?>
 青柏祭のデカ山の曳行にたずさわる人の役目は、山車の進行方向からあげると、1.献燈(見当の字を充てた記録もある。)2.山車のはるか前方を進む。山車の道案内、先触れといったところ。3.綱元。3本の曳綱それぞれの責任者。後見1人。テコカキに合図して、山車の進行方向を修正、又は停止させる指揮をとる。
 テコカキには、止メデコ2、高ダンデコ、中デコ、下段テコ(鍛治町の呼び名で、各町により多少異なる)があり、中デコは、テコカキの花形で、車にテコを差し込んで山車の進行方向を修正し、この左右にいる高ダン・下ダンデコはこれを補助する。止メデコは、山車を急停止させる時に用い、この他車元といって車全体の管理と、山車が90度方向転換する時に用いる地車(軸車ともいう)の係の者やテコに油をぬってすべりを良くする係の者もいる。

<木やりは何人か、どんな人がなれるのか、唄の種類はいくつあるか?>
木遣連中は5人で編成する。(最近では6人が木遣り台に上がることがある)。木遣志望の若者は、何年も前から稽古に参加して、組入りの順番を待つ。
木遣音頭には多くの歌詞があるが、その唄う場合によって分類すると、次のようになる。
1.曳き出し唄
山車を曳き出す時にだけ唄う儀式唄。
2.道中唄
山車の曳行中に唄われるもの。この中には、特定の場所だけに唄うものもある。
3.曳き込み唄
山車を大地主神社へ曳き込む際に唄う。
4.大木遣り
山車の方向転換する時唄う。唄い手は、木遣り連中でなくそのOBが唄うことになっている。時には即興の歌詞が飛び出すこともある。
5.曳き付け唄
山車を目的地まで曳き納めるとき唄う。この時デコカキは、木遣りの調子に合わせ、テコを高くかざし、これを上下させ、木遣連中、テコカキ、観衆一体となった大合唱となる。

<デカ山人形はどのようにして作るのか?>
 人形は場面に応じて毎年作り替えられる。鍛治町に残る「人形番改覚帳」には天保13年(1842)以降現在までの毎年の出し物や、時々のエピソードが記録されている。
現在、七尾には2人の人形師がおり、鍛治町・府中町・魚町のデカ山人形の制作を引き請けている。場面を歌舞伎に求め、半年以上も構想を練り、4月に入ると人形作りに取り掛かる。
人形の首、手、足首は木地があり、毎年これを利用する。胴体は藁を堅く束ねたもので、数年間利用する。芯に木や針金などは使わない。
首は、木地に胡粉を20回程塗って肉盛りをするが、下地を堅くするため、寒のうちの作業となる。絵筆で目鼻を描き入れて表情をつける。カツラやヒゲを付けて完成となる。
胴体は、すぐり藁を束ねて部位(手足)を作り、つなぎ合わせる。そして手・足首の木地を取り付け、体に布を巻きつける。適宜、綿を入れて量感を出す。手足の取り付け部位には胡粉を塗りやすくするための和紙を巻き付ける。胴体に頭部を突き出して固定する。
相手が人形のため、片手(足)ずつの衣装を付け、見映えの良いように縫いあわせる。

<人形宿のしきたり>
 デカ山に飾る人形を5月2日夜、人形宿に飾り一般に披露する。これを人形見といっている。4月中に、世話人が出物(だしもの)を決め、人形番を山町や連町(山車に協力する町)に割り当てる。昔は、人形宿にも武者人形宿、女良人形宿の階層があった。武者人形は、男の人形を飾り経費は全部自己負担。女良人形宿は、女と子供の人形を飾り、経費は5人組で負担。いずれも、人形を飾ることを一生の名誉とする気風があったが、最近では、割り当てられた町内会と人形宿とで費用負担を協議してきめるケースが多くなった。
 人形宿は、軒に長幕を張り、家名と定紋(または、山町の定紋)を付けた高張提燈を玄関に出す。座敷は庭を築いたり、鉢植・生花・置物などで飾る。一段高く拵えた飾り台の上に石臼を据え、人形は、石臼の穴を利用して止める。人形の前には、大皿に赤鯛一尾、高杯(たかつき)に赤飯一台、神酒一瓶子を備える。
現在は、一つの山車に人形が3体というのが決まりのようになっているが、昔は、7体、19体と飾られたことがあるという。


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