畠 山 文 芸


2006年1月28日一部加筆修正

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<三代・義統(よしむね)の時代>
 義統が三代目の守護となったのは、寛正2年(1461)です。城主となって後まもなく、国をあげて東西に分かれて戦った応仁の乱(1467)が起こりました。畠山宗家の義就が山名宗全と結び西軍に、畠山政長が細川勝元と結び東軍に分かれて全国的に戦争が勃発した時、 義統は弟・政国が義就の猶子となっていることもあり、『応仁記』によれば能登の軍兵3000人を引き連れ、西軍の山名(幕府の侍所の長官)方に味方して戦いました。しかし、その行動は将軍義政に反対することとなり義政を怒らせる結果となりました。義統は何とか将軍の許しを得たいと思い、贈り物を幾度もしています。鳥目(銭)・太刀・馬などのほか、鯖・鰤・イリコ・サバセワタなど沢山の贈り物をしたことが、『親元(ちかもと)日記』に書かれています。なかでもコノワタはは、文明13年(1481)から同14年までに1,680桶も贈っていますから、七尾の名産で、当時の上流階級の人々の間で好物であったことがわかります。

 また畠山義就との間が不仲になり、さらに文明3年(1470)2月10日、弟・政国が越前で朝倉孝景に殺害されると、義統は次第に戦意を喪失したようです。文明4年(1472)、義統は西軍から東軍に鞍替えし、その後、将軍の許しを得たのか、文明5年(1473)には管領に就いています。応仁の乱の混乱で京都は焼け野原と化し、文明9年(1477)11月11日に義統は長年住み慣れた京都の館に火を放って、足利義視らと出京し、しばらく美濃に滞在した後、能登国鹿島郡八田郷(やたごう)の府中(現・七尾市)に下向しました。

 文明10年(1478)7月10日に将軍義政と義視との和睦が成立し、義統にも赦免と和与を内容とする御内書が出されたため、8月21日には義統は使者を上洛させ、足利義政、日野富子、足利義尚や幕府の関係者への礼物を持参しました。こののち、義政・義尚との対面や贈答のやりとりがあり、和睦の儀礼が行われ、正式な講和が成立しました。その時、義政は寺社本所領の返府を命じられ、体制秩序の回復と将軍権力の再建を任されました。
 
 11年間も続いた応仁の乱で、京都は焼け野原となりました。京都にすむ人達は、戦乱を逃れ地方の守護を頼って、逃げ延びてきました。その中には高い教養と文化を持つ人達もいました。
 能登守護畠山義統を頼って、七尾にやって来た文化人もいました。
 連歌で有名な
飯尾宗祇(連歌会最高の名誉宗匠を与えられた人)が訪れたのは文明10年(1478)のことです。次の句が残されています。
  
言(こと)の葉も この輪を超えよ 御祓川(みそぎがわ) (宗祇句集)
 ただし後に行なった連歌の会で、七尾の冬の寒さが身に相当こたえたのか
  
能登の七尾の冬は住み憂き
という句を残しています。昔の七尾はそんなに寒かったのかなー? (^^;;

 連歌は5・7・5の上の句と7・7の下の句で詠まれ、百句続けて詠む百韻が普通でした。義統は、例えば文明15年(1483)京都から歌人を招き、15名で連歌会を府中の館で開催しています。
  
松風は 雪におさまる あした哉(かな) (義統)
  
いはほ(いわお)のかげも 水こほるころ (直盛)
  
峰たかみ 晴行月(はれいくつき)の なほ寒て (忠俊)
義統が発句を詠み、百韻が詠まれました。この時の連歌会の歌は
「賦何船(ふすなにぶね)連歌」百韻として残されています。次に同じ連歌師・招月庵正広をみていきましょう。

 文明12年(1480)、一人の禅僧・
招月庵正広(しょうげつあんしょうこう)が、七尾にやってきています。招月庵正広は、室町歌壇の代表的歌人として知られた清巌正徹(せいがんしょうてつ)の高弟で、彼自身もまた、当代の著名な歌人の一人に数えられた臨済宗の僧でした。正広は、風雅の友であり今は能登で守護として分国支配を勧めている畠山義統に招かれやってきたのでした。その動機は、能登国の「瀬良志(せらし)」というところに、万葉歌人で和歌の祖といわれる柿本人麻呂の木像が祀られており、付近の浦々も景勝の地であるから、是非とも遊びにこないかという、義統の誘いに心惹かれてのものだったといいます。

 正広は翌年13年(1481)まで能登の府中に滞在し、いったん帰国しましたが、文明44年再び訪れるなど以後もたびたび能登に来住しました。この間、一宮気多大社の法楽(ほうらく)の和歌を献じたりしている。正広を歌道の師匠として迎えた能登の府中では、守護館を中心に、義統とその近臣たちによる和歌の会が盛んに催されました。正広の歌集『松下集(しょうかしゅう)』は、この間の状況を伝えています。
 『松下集(しょうかしゅう)』によれば、府中滞在の正広は、守護館(畠山義統家)以外で、三宅忠俊(みやけただとし)遊佐統秀(ゆさむねひで)・飯川光助(いがわみつすけ)の居館での和歌の会にも出向いており、他に寺岡経春(てらおかつねはる)や義統の子息・弥次郎慶致・禅声喝食(ぜんせいかつじき)らとの交流も知られます。

 その頃のエピソードであるが、文明12年(1480)9月のある日、正広は能登守護代の遊佐統秀に誘われ、七尾南湾に面した津向(つむぎ)浦の北の磯山で開かれた歌会におもむき、「古寺残燈(こじのざんとう)」と題し、
 
此浦に南の小島補陀羅具(ふだらく)のはしめはこれか残るともし火
と詠んでいます。それには「小島の観音とてましますをよめり」と詞書がありますから、正広は、磯伝いに舟で津向(七尾市)に向かう途中、南湾の海端の巌山に立つ小島村の観音堂(七尾市妙観院)の傍らを通ったものと思われます。そこは当時、常夜灯が灯され、周辺の景勝地ともあいまって七尾湾内の名所となっていました。また同じ頃、正広は守護の畠山義統にしたがって、「能登の入海(いりうみ)(七尾湾内)」を磯伝いに舟を漕がせ、浮舟の宴の和歌会を楽しみました。この時、正広は、各浦の心を詠んだが、その中に
 
いま一(ひとつ)君にすすめよ磯つたひさかなもとむるけふの長舟
の一首が知られます。
のどかな小春日和の一時、舟釣りでとれた新鮮な魚を船上で料理し、これを肴に一献かたむけながら和歌を楽しむ風情は、まさに一幅のの絵として映ったに間違いない。波静かな七尾南湾から西岸にかけての海は、箱庭状の景観をなしており、都人を楽しませるには十分でした。

 ところで、先程招月庵正広が能登に下向する動機となった柿本人麻呂の木像が祀られている瀬良志(せらし)の地は、現在の七尾西湾の北に奥まった浦の中島町瀬嵐付近と考えられています。当地はかつて村の産土神(うぶすなかみ)として人丸社(ひとまるしゃ)が鎮座していましたが、近年同じ村内の三島社に合祀され、今は旧社地で僅かに小さな祠を残すのみとなっています。中世歌論の注釈書である『賢答鈔(けんとうしょう)』の写本(国立公文書館)によれば、奥書の部分に、世良師(瀬良志)の人丸像についての興味深い記事が見えています。

 戦国時代前期の明応5年(1496)10月、能登に来遊して瀬良志を訪ねた、加賀の国金剣宮(きんけんぐう)の社僧であった堯恵(ぎょうえ)は、現地で「いさ(磯)うべ(辺)たる翁(おきな)」なるものと会い、人丸の木像にまつわる伝承を聞いています。それによれば、木像は浦の綱人が海から引き揚げたもので、御櫛には烏帽子を額の上に添え、木賊(とくさ)色の装束を着て、左手に筆をささげ、右手に短冊を持ち、顔は嘯き(とぼけた)たる表情であったといいます。

 そこで人々は、不審に思い、御髪の間にあった少し剥離した部分から像の体内を覗くと、なかに舎利が籠められていて「柿本の太夫」の文字があったので、一同は大いに驚き、社祠を建ててそれを祀ったとしています。堯恵によれば、人丸の祠は荒廃していたが、当地の眺望は、人麻呂死没の地である石見国の高津浦(島根県益田市)に似て、前方に海が満々として水を湛え、後方には森林が鬱蒼と繁茂し、まさに瀬戸内の須磨・明石に比肩すべき景勝であったとされています。堯恵は、一両日周辺を徘徊し、人丸の祠に法楽の和歌を献じました。

 他にも、文明18年(1486)には、藤原房嗣の息子、大僧正道興准后が能登を訪れ数首の歌を残しています。
 義統の時代には、こうした文学のみならず、例えば能の観世大夫氏重が、文明16年(1484)に京都より扶持を求めて七尾に来ています。また酒井永光寺を祈願寺として寺領を安堵させるなど、領国の神社仏閣の造営にも心をもちいたりしました。 

 このように能登では守護職・能登畠山家の直接統治が軌道に乗り出し、文化の興隆も見られましたが、一方、加賀では、長享2年(1488)一向宗の一揆で守護・富樫政親(とがしまさちか)が攻め滅ぼされたのでした。義統は将軍義尚の命で救援の軍を出しましたが途中一揆軍に迎撃されて敗れ、引き上げるなど、能登も戦いの影響を深く受けました。

 ところで、このように能登畠山家の基礎を創ったともいえる畠山義統は明応6年(1497)8月、能登鹿島郡八田郷(やたごう)府中の居館で生涯を閉じました。かわって守護の地位に就いたのは嫡男の左馬助義元(さまのすけよしもと)です。義統自身は、三男義智を幼少の頃から性質英敏であったので愛していたが、文明6年(1474)珠洲郡松波郷に北の鎮台としての松波城を築かせて義智を置きました。余談ですが、彼は松波畠山氏の祖となり、この家の当主は代々常陸介を名乗り、5代義龍の時に、松波氏に改称しました。

(人物注)
 
飯尾宗祇(1421〜1502):室町末期の連歌師。号は自然斎・種玉庵。俗に姓を飯尾とする。和歌は東常縁(とうつねより)より古今集の伝授を受け、また連歌を心敬らに修め、称号「花の本(もと)」を許され、当時連歌の中心指導者。地方大名の招きで旅に出ることが多く、全国に連歌を広めた。編著「竹林抄」「新撰菟玖波(つくば)集」「萱草(わすれぐさ)」など。

<畠山義統以降義総まで>

能登に下向した主要文化人
身分 人 名
公卿 冷泉為広、冷泉為和、持明院基規(じみょういんもとのり)、
持明院基春、勧修寺尚顕(かんじゅうじひさあき)、
勧修寺尹豊(ただとよ)、舟橋宜賢(ふなばしのぶかた)、
転法輪三条公頼(てんぽうりんきんより)、
甘露寺伊長(かんろじこれなが)など
僧侶 上乗院僧正、永俊、虎伯(こはく)、彭叔守仙など
連歌師 飯尾宗祇、月村斎宗碩、寿慶、永閑、宗牧、
宗ザン(王ヘンに賛)など
歌人 岩山道堅、正韵、圭純など
猿楽大夫 日吉(ひえ)大夫
「(図説)石川県の歴史」P125の表を転記した。
 義統の後をついだ4代城主畠山義元は、義統と同じく足利義稙(よしたね)に仕えました。

 ところが、幕府の管領として力のある細川政元が、将軍に
足利義澄(よしずみ)をたて、義稙を追放しました。この時、義元も守護職を奪われて(弟・弥次郎義統との確執などもあり)、弟の弥二郎(畠山慶致(よしむね))が守護となりました。義元は越後に逃れ、大内氏(山口県)とはかり、足利義稙の将軍復帰に努力しました。

 永正3年(1506)能登で一向一揆と結ぶ国人・土豪の反乱が起きると、危機感が高まり、義元・慶致両派の争いなどやっている場合ではない、と講和が成立し、再び能登の守護となりました(参考「永正の乱と戦国大名」)。

 畠山義元はその後は将軍・足利義稙からの信任もあつく(永正4年(1507)細川政元が子の細川澄之に暗殺されると義稙は再び将軍職となった。)相伴衆(しょうばんしゅう)として政治に参加しました。したがって義元は四代・六代ということになります。こういった武事や政治に奔走した義元であったが、彼もまた、文雅の道を愛する武士でした。

 義元は、宗祇の高弟であった三条西実隆とも親交があり、またその宗祇門下の月村斎宗碩(そうせき)を能登に招き寄せ、連歌の会を催したりした。七尾湾内の机島の風光明媚な景色を愛で、明石の浦の景色になぞらえて、万葉の大歌人柿本人麻呂廟を建立したりしている。

 宗碩の異母弟は小幡永閑と言われているが、母が能登の人であったので、幼少時代能登で育てられることになったという。彼は宗碩の門に学び、源氏物語の注釈書「万水一露」を著しており、この時代の代表的な能登ゆかりの文化人として挙げることができる。義元は、永正12年(1515)9月に没し、弟・徳宗の子義総がその後を継ぎました。
 
<七代・畠山義総(よしふさ)の時代>
 戦国時代中期の能登国では、大名(守護)
畠山義総(よしふさ)が7代城主となりました永正12年(1515)から、天文14年(1545)55才で亡くなる30年間にわたり、領国の安定がはかられました。義総は、永正の乱を通して築城された七尾城の整備拡充をはかり、やがては七尾湾と富山湾の生産・流通の掌握や、羽咋郡宝達金山の開発などに努めました。このような畠山義総の領国経営には、地域的権力の自立に向けて、積極的姿勢が見られました。また、義総政権の政治支配組織は、従来からの守護−守護代体制を基軸とし、目新しいものではなかったが、義総の巧妙な政治手腕に支えられ、きわめて安定したものであった。おそらく七尾の歴史の中でも現在までも含めて一番輝かしい時代は、この義総の時代といえるであろう。

 義総は、守護代には、世襲の守護代であった遊佐氏の嫡家を避けて、その庶流の遊佐秀盛・秀頼父子を登用する一方、温井総貞(ぬくいふささだ)・半陰斎宗春(はんいんさいそうしゅん)(飯川氏)らの近臣団を育てて守護代を牽制させるなど、有力家臣の台頭を押さえることに心をくばりました。

 この頃、幕府の力も弱く、下克上の気風が強く、世の中が乱れていまし。北陸屈指の都市として賑わう戦国城下町七尾に、義総の勢威を頼って、公家歌人の冷泉為広(れいぜいためひろ)・為和(ためかず)父子や、歌人・岩村道堅、連歌師の月村斎宗碩(げっそんさいそうせき)、禅僧の彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)など多くの文化人が京都から相次いで下向しました。能登への下向の中には、義総の招請による文芸活動のほか、能登における年貢の督促のためのものなどもありましたが、ほとんどは義総とその家臣たちの文芸愛好熱にかかわるものがありました。

 ところで、彭叔守仙は、前東福寺住持であり、天文9年(1540)に能登に来遊しています。後に「独楽亭記」と題した漢文の中で、能登の景勝地としての七尾湾を賛辞した文章を書いています。
 「北に海のほとりを望むに、或いは熊来(くまき)、湧浦(わくら)と号し、或いは松百(まっとう)、石崎(いざき)と号し、或いは屏風崎・瀬良志と号す。村々じゃくりゅう(ジャクは、クサカンムリに若という字、りゅうは笠)を傾け、浦々に槎竿
(さかん)を舞(ぶ)すは、漁村の夕照遠浦(ゆうしょうえんぽ)の帰帆なり、・・・・・・府の東北に島あり、能登島と称す」
 七尾湾の夕暮れ時の景観が彷彿として目に浮かぶ文章ですが、この詩文に見える地名は、いずれも南湾・西湾の要地であり、現在の和倉温泉の地は、鎌倉時代には「湯浦(ゆのうら)」とされ、戦国期には「湧浦(わくら)」とみえ、まさに海辺に湧く温泉を地名に表現していたのでした。守仙は詩文の中で、七尾湾の風景を中国湖南省の名勝である瀟相八景になぞらえて描写し、能登の思い出を賦したのでした。

 義総自身非常に文化を好む城主であったので、この時期畠山文化の最盛期を迎えました。「太守の恵(え)によって、山下は家を移すに千門万戸をなし、城府と相連(あいつら)なること、殆ど一余里(約4km)」と彭叔守仙が先に紹介した「独楽亭記」に載せています。
 義総は、若くから当代古典研究(和学)の第1人者として著名な、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に深く師事し、『源氏物語』『古今和歌集』『伊勢物語』などの研究に励む一方で、実隆から古今伝授(『古今集』に関する故実の秘事口伝を師から弟子に授けられること)を受けていました。また『弄花集(ろうかしゅう)』『細流抄』といった源氏物語の注釈書や、『武田本伊勢物語』及び『古今和歌集』をはじめとする勅撰集の蒐集に努め、七尾城内の書庫に納められた義総の蔵書は、長持三万棹におよんだといいます。
 
 勘違いしないことである。三万冊ではなく、一棹数百冊(小さい箱だったとしても10冊は入ろう)は入ると思われる長持が三万あったのです。現在でも、ちょっとした自治体の図書館では太刀打ちできない蔵書数である。江戸時代、加賀藩は「天下の書府」と言われたと俗に言われているが、この戦国期の能登畠山氏の七尾城は、まさに天下混乱の当時にあっては「能登は天下の書府」であったのです。

 ちなみに、加賀藩で文化に力を入れた藩主は利常と綱紀(つなのり)が有名ですが、それ以外の藩主は凡庸な藩主だったようです。書籍数は約10万点あったらしいことがわかっています。また先ほども述べた「加州は天下の書府」という言葉ですが、加賀に招かれたこともある新井白石が述べた言葉として知られていますが、実際には新井白石の文章や当時の書類などにこの言葉は一切見ることはできません。この言葉の最初の使用は、近藤磐雄の『加賀松霊公』(明治42年刊)の序にあるもので、どうも近藤氏の造語のようです。

 ところで、話は義総時代の畠山文化に戻りますが、七尾城内の義総邸ではたびたび和歌や連歌の会が催され、多くの作品が詠まれました。
 大永5年(1525)元旦、七尾城内にいた宗碩(そうせき)が、眼下に広がる七尾湾とその彼方に霞む富山湾・奥能登を遠望して
  「
鈴の海や春や神代(かみよ)の朝ひらき」と発句しています。

また同年、城中で11人の歌人を集め連歌会を開いています。義総が十四句、永閑が十七句、実詮が十四句詠み、まとめられた連歌は「賦何人(ふすなびと)連歌」百として有名です。義統(よしむね)の「賦何船(ふすなにぶね)連歌」とともに畠山文化の代表的なものです。

  くるるまの けふや久堅(ひさかた)の 天津風(あまつかぜ) (永閑)
  月はまだきに はるる秋霧 (義総)
  吹く風に なびく尾花の末みえて (しんせい)
  つまとう鹿のかすかなる声 (秀倫)
 発句を詠んでいる
永閑は、能登永閑と呼ばれ、能登に育った人です。宗祇(そうぎ)の弟子であった宗碩(そうせき)とは、異母弟にあたることから、永閑は宗碩の弟子となって、和歌・古典等を勉強した。また、『源氏物語』の注釈書を著わすなど、畠山文化の向上につとめた人です。

 和歌に優れた冷泉為広・為和の父子も大永6年(1526)5月に七尾城をたずねて、義総と千句の連歌を詠んでいます。冷泉為広が七尾城で詠んだ「庭ひろみ苔のみとりはかたよりてあつき日影に白きまこち」の和歌は、当時城内の義総邸に苔庭があったことを知らせてくれます。父の為広はこの年の7月23日に七尾城中で亡くなりました。為広は、これ以前永正14年(1517)にも七尾を訪れており、同15年の正月に、次のように詠んでいます。
  六十あまり 八嶋の外も世の波の のどけき春にあふがうれしき

 また、義総は
清原宣賢(のぶかた)から「孟子」の教えを受け七尾城の火事で「源氏物語細流抄(さいりゅうしょう)」が焼失した時も、京都の三条西実隆に頼んで、細流抄を手に入れるなど、義総は、幅広い文化人でした。
この他、義総は、東福寺栗棘門派(臨済宗)の宗勢を維持する為に下向してきた
彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)から、『黄山谷詩集』の講義を受けるなど、儒学や漢詩文に深い関心を示す一方、『史記』や「貞永式目」を読むなど、守護としての政治的資質の研鑚にも努めていました。

 こうした義総の文芸への関心は、能登畠山氏歴代の風雅な伝統を受け継ぐものでありました。 それは、和歌をこよなく愛し、早歌(そうか)の名手とされた室町期の2代義忠(よしただ)や、能登府中の守護館に京都から招月庵正広らを招き、七尾湾に舟を浮かべて和歌の会を楽しんだ3代義統(よしむね)の時代を通して、育まれてきたものでありました。

 能登畠山文芸の高揚は、当然ながら有力被官の間にも、大きな影響を及ぼしました。漢詩文や臨済禅に造詣の深い温井総貞(ぬくいふさただ)をはじめ、歌道・連歌に執心した半陰斎宗春(はんいんさいそうしゅん)(飯川氏)、能書家として著名で和歌にも関心が高い井上総英(いのうえふさひで)、名物茶器を多く所持する円山梅雪(まるやまばいせつ)、冷泉為和の歌道の門弟となった後藤総員(ごとうふさかず)・飯川光誠(みつのぶ)・神保総誠(ふさのぶ)・遊佐大法師(おおぼうし)・伊丹八郎四郎、神保与一、温井千松丸(せんしょうまる)など、高い文化的教養をそなえた武士たちも少なくありませんでした。

 そして、七尾に生まれた偉大な
画家・長谷川等伯も、この文化に恵まれた時代に七尾で育った人です。1999年の長谷川等伯を紹介するNHKの番組では、能登の僻地(七尾)から、京都へ絵の野望に燃えた若者が挑戦していく過程を描くようなスタイルで、放送されていましたが、あれは大きな間違いです。当時七尾は全国的に見ても非常に文化的な都市であったことは、上記からでも分かるでしょう。また、他で項で述べるが都市としても、七尾は全国的に見ても大きな町であり、北陸有数の都市であったのです。少なくとも福井の朝倉氏の一乗谷に勝とも劣らない位の規模はあったと思われます。現代の状況で昔を判断しては大きく歴史を見誤ることをNHKは理解すべきであります。

 最後に、義総は文化の中心の地であった京都の地、大徳寺の境内に自分の菩提寺を大永年間に建てました。菩提寺興隆院(こうりゅういん)の名は、義総の法号の興隆院をそのままとって付けられています。興隆院の本堂には、畠山氏の位牌が安置され、本堂の裏には、義総以降の城主の墓が並んでいます。
円山梅雪については、七尾市の本行寺・小崎住職のHPがありますので、よかったら見てください
文化人の能登下向表(戦国期)
年代(西暦) 公家・
地下人
僧侶 文化・
芸能人
目的A 目的B
永正13年〜永正15年(1516〜18)
永正16年〜大永元年(1519〜21)
大永2年〜大永4年(1522〜24)
大永5年〜大永7年(1525〜27) 14
享禄元年〜享禄3年(1528〜30) 11
享禄4年〜天文2年(1531〜33)
天文3年〜天文5年(1534〜36)
天文6年〜天文8年(1537〜39)
天文9年〜天文11年(1540〜42)
天文12年〜天文14年(1543〜45)
18 27 54 11 26
この表は「(図説)石川県の歴史」のp125の表を転記した。その説明によると、米原正義氏の
「畠山氏の文化」(七尾市史)所収)に掲載された「中央文化人能登在国表」をもとに、一応の
目安として便宜的に作成したものだそうである。「階層」欄の「文化・芸能人」とは、具体的には
連歌師・歌人・猿楽大夫などをさす。「目的A」の欄は、荘園所領年貢督促・直接支配・困窮によ
る下向、「目的B」の欄は、畠山氏の招請、文化活動であり、米原氏の分類による。

(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)、「広辞苑」、
「能登畠山氏七尾の歴史」(畠山義綱氏のHP)、「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)
「石川県の歴史」(山川出版社)、「能登の古城 七尾城」(笠師昇・北国出版社)他