
| 能登の社・寺・祠
鹿島郡南部3町の神社

註1:表中の祭神の欄で書いてないところは、未調査のため、不明ということで、勿論、無いという意味ではありません。
註2:祭神の推定未確認というのは、神社名からの祭神の推測でまだ、未確認ということである。
| 名称 | 住所 | 祭神 | 備考 | |
| ●鹿西町● | ||||
| 1 | 白山神社 | 鹿西町上後山 | 菊理姫命(推定未確認) | |
| 2 | 神明神社 | 鹿西町下後山 | 天照大神(推定未確認) | |
| 3 | 鎌宮諏訪神社 | 鹿西町金丸(正部谷) | 建御名方神(たけみなかたのかみ) とそのお妃(きさき)の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)(推定未確認) |
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| 4 | 宿那彦神像石神社 (すくなひこのかみかたいし) |
鹿西町金丸(宮地) | 少彦名命 | 式内社 旧郷社 |
| 眉丈山麓の宮地谷に南東に面して鎮座する。「延喜式」神名帳に載る能登郡の同名社 に比定されるが、七尾市黒埼の同名社に比定する説もある。 気多大社境外摂社の 宿那彦神像石神社。 神体は総丈一尺七寸余の薄緑石の真石と 伝わる。 祭神の少彦名命は、※大己貴命とともに当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治し、国土を 平定して、この地の石に神霊を留めたのに始まるといいます。 承応2年(1653)の「三州式内等旧社記」に、今は金丸明神と称し、一宮気多社の摂社と 記される。文政11年(1828)の社号書上帳(金丸村史)には「当社少那彦名命は大己貴命 と相伴の神ゆえ、毎年2月中の申日、一宮の神輿、所口本宮へ御御幸の節、当社少那 彦名命も御榊に御同行有之(中略)旧例の神事に御座候」とあって、両者が密接な関係 にあることは気多神社の平国祭の神幸神事にもうかがわれる。 明治6年(1873)には、金丸神社と改称、同10年気多神社の摂社とされ、再び旧社名に 復した。 ※大己貴命とは、大国主命のこと。 |
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| 5 | 白山神社 | 鹿西町金丸(沢) | 菊理姫命(推定未確認) | 天平寺隣 |
| 6 | 能登生国玉比古神社 (のといくくにたまひこじんじゃ) |
鹿西町金丸(沢) | 多氣倉長命、 市杵嶋姫命 |
旧村社 |
| 「延喜式」神名帳に載る能登郡の同名社に比定する説もあるが、七尾市所口の同名社 や、当町能登部上の能登部神社に比定する説もあり。 眉丈山麓の沢の高台、通称仏性(ぶっしょう)山に南東に面して鎮座する。 承応2年(1653)の縁起(金丸村史)によれば、多気倉長命は能登の国魂神で、大己貴命 と少彦名命の2神に協力して国土を平定し、その女伊豆目比売と少彦名命との間に生 まれた菅根彦命は、金鋺翁(かなまりおう)と呼ばれて金丸村村主の遠祖となったと伝え られます。金丸の地名も金鋺翁由来するといいます。 天平年間(729-749)には仏性山天平寺と称する別当寺があり、中世金丸保の惣鎮守で あったが、享禄-天文(1528-55)の頃には、石動山天平寺の衆徒と本末を争って戦い、 兵火によって消滅したと伝える(「三州志」など)。谷内の白山社は、別当寺坊の鎮守堂で あったとも考えられ、沢の観音と呼ばれて能登国三十三所観音霊場の第十八番札所。 承応2年(1653)の「三州式内等旧社記」に「能登生国玉比古神社、式内一座、金丸保金 丸村鎮座」とありますが、近世を通じて多気倉(たけくら)社とよばれており、宝暦10年 (1760)の能登国大小神社帳(清水文書)には「多気倉大明神」、文政12年(1829)の社号書 上帳(清水文書)に「多気倉社」とあります。明治13年(1880)能登生国玉比古神社と改称。 |
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| 7 | 貴布禰神社 | 鹿西町(谷内) | 高おかみの神 ・闇おかみの神 (推定未確認) |
参考:京都・貴船のHP |
| 高おかみの神・闇おかみは、水の神であり、祈雨社と思われる。 | ||||
| 8 | 八幡神社 | 鹿西町(杉谷) | 誉田別命(推定未確認) | |
| 9 | 能登比盗_社 | 鹿西町能登部下 | 能登比盗_、 沼名木入比賣命 (↑淳名城入比当ス =崇神天皇の皇女) |
式内社 旧県社 |
| 祭神は、能登上布の祖と称される能登比盗_と淳名城入比当ス。 仲町の山麓に南東に面して鎮座する。 承応2年(1653)の「三州式内等旧社記」に「古来妙天神或云妙天神三穂天神之誤、旧伝 云、比古比痘シ神鎮座、故往昔称邑名兄村妹村也」とあり、「延喜式」神名帳に載る能登 郡の同名社にあてられる。 社伝によれば、大己貴命が当地に巡行した折、乙女が濁酒と稗粥(団子とも)を献じたとこ ろ、命はこれを賞して「わが苗裔たれ」といい、乙女はこれに答えて「あわれに兄神あり、 ともに苗裔たらしめよ」といった。乙女の名を能登比当ュ天神といい、郷民に機織の技を 教えたと伝える。 その後、崇神天皇の皇女・淳名城入比当スが兄の大入杵命とともに能登比唐フ偉業を 興したが、この地で没したため遺骸を当社背後の御稜山(姫塚ともいう)に埋葬し、その 霊を当社に祀ったといいます。こうした故事により、能登部上(のとべかみ)の能登部神社 を兄宮といい、当社を妹宮ともいいます(「能登志徴」など)。 中世には別当寺として専願寺・東明専(ひがしみょうせん)寺・西明専寺などがありました (能登部町誌)。 4月22日の春祭に三番叟と乙女神楽の神事舞が奉納される。神事舞はもとは9月20日 (旧暦8月20日)の秋祭に行われていた。 |
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| 10 | 能登貴船神社 | 鹿西町徳丸 | 高おかみの神 ・闇おかみの神 (推定未確認) |
旧村社 参考:京都・貴船のHP |
| 12月16日の祭礼は、俗にあだけ祭と呼ばれ、前夜に村人たちが集まって薪や藁を山積 みにして火を放つ篝火神事がある。境内に市の守護神であった市姫社と能登上布中興 の祖と称される小坂藤吉の碑が立つ。 高おかみの神・闇おかみは、水の神であり、祈雨社と思われる。 |
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| 11 | 能登部神社 | 鹿西町能登部(堂前) | 能登比古神、 大入杵命(崇神天皇の皇子) |
式内社。 旧県社 |
| 宝暦10年(1760)の能登国大小神社帳(清水文書)に兄宮・能登比古神社、旧号能登生国 玉比古神社とあって、「延喜式」神名帳に載る能登郡の能登生国玉比古神社にあてられ るが、七尾市所口や当町金丸の同社名に比定する説もある。江戸時代には、能登比古 神社・上宮とも称された(能登志徴)。 祭神は能登国造の祖神と称される能登比古神と能登臣の祖神と称される大入杵命。 社伝によれば、大己貴命が当地を巡行した折、乙女が濁酒と稗粥を献じたところ、命は これを賞して「わが苗裔たれ」といい、乙女はこれに答えて「あわれに兄神あり、ともに苗 裔たらしめよ」といった。乙女の名を能登比当ュ天神といい、郷民に機織の技を教えたと 伝える。その後、崇神天皇の皇子・大入杵命が妹の淳名城入比当スとともに当地に来て、 国土を開拓したが、この地で没したため霊を当社に祀り、遺骸を小田中村(現鹿島町)の 親王塚に埋葬した。塚への道筋にある冠塚(かんむりつか)・太刀塚は祭神由縁の塚とい います。 中世には別当寺として常光寺・蓮光寺・愛染(あいぜん)院・花渓(かけい)院などがあった が、廃絶となった。 明治4年(1871)能登比古神社から現社名に改称した。 例祭は苗裔祭(バッコ祭とも)といい、11月19日(旧暦10月19日)の深夜子刻に神迎えを する特殊祭事がある。 |
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| 12 | 愛宕神社 | 鹿西町能登部(森宮) | 加具土命? 何かしらの火に関係した 神様と 思われる。 |
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| 13 | 天日陰比盗_社 | 鹿西町西馬場 | 水波能賣命 | 式内社。 旧村社 |
| 眉丈山(びじょうざん)山頂の雷ヶ峰(188m)に南東に面して鎮座する。祭神は、水波能 賣命を主神として高おかみの神・闇おかみの神を祀る。 「おかみ」の字は、靈の字の巫を龍に替えた字→ 旧村社で雨の宮と通称されており、「延喜式」神名帳に載る能登郡の同社名に比定さ れるが、鹿島町二宮の同社名に比定する説もある。 社伝によれば、もとは能登一国の祈雨社であったといい、天禄年間(970-973)国守・ 源順が神田1700歩を寄進したと伝える(能登部町誌)。中世には、能登郡一円の総雨乞 社であったが、江戸時代初期に下浅井・上浅井・矢田・甘田の4組の雨乞社になったと伝 え、寛政2年(1790)6月の神璽箱書によれば、能登部・芹川・高田・笠師4組の雨乞社とな っている。幕末頃に下浅井組16ヶ村の雨乞社となり、明治維新によって能登部上・西馬 場(にしばんば)・東馬場(現鹿島町)3ヶ村の崇敬社となった。 山頂には、天真名井(あめのまない)と称する清水が湧いており、境内地は雨の宮古 墳群で、社殿は1号墳(前方後方墳)の上にある。 |
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| ●鹿島町● | ||||
| 14 | 神明神社 | 鹿島町西 | 天照大御神 | 天保12年(1841)に社殿を建立 したのに始まる。 明治6年村社に列する。 |
| 在江、西、坪川、久乃木の神社は、鹿島郡羽坂(鳥屋町)の高木家が兼帯してきた。 | ||||
| 15 | 白山神社 | 鹿島町坪川 | 久久理姫命(菊理姫命) | 境内に鎌倉期・室町期の板碑 ・石仏などがある。 明治6年村社に列する。 |
| 在江、西、坪川、久乃木の神社は、鹿島郡羽坂(鳥屋町)の高木家が兼帯してきた。 | ||||
| 16 | 火宮神社 | 鹿島町在江 | 軻遇突智命(加具土命) (かぐつちのみこと) |
明治6年村社に列した。 |
| 祭神については、「社号書上帳」高木文書に書かれている。 なお在江、西、坪川、久乃木の神社は、鹿島郡羽坂(鳥屋町)の高木家が兼帯してきた。 |
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| 17 | 素盞鳴神社 | 鹿島町東馬場 | 素盞鳴命、
菊理姫命 天照大神、豊受大神 |
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| 素盞鳴神社は、馬場村が東西に分かれた時、東馬場の産土社として祀られ、後、菊理姫 命を相殿とした。明治8年に村社に列し、明治40年に神明宮(天照大神・豊受大神)を合 祀し、明治41年に神饌幣帛供進神社に指定された。 |
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| 18 | 天神社 | 鹿島町最勝講(さいすこ) | 少名彦命 | 旧村社 |
| 少名彦命を祀り、薬師あるいは天神宮と呼ばれた。飛地境内社となっている府戸神社は 埴安比売命(はにやすひめのみこと)を祀る(神社明細帳)。 もと最勝講の氏神は、天神社と井田および東馬場に分かれていたのを、明治8年、本社 をもって一村の氏神とした。なお拝殿(3間社入母屋造、瓦葺)は石動山の行者堂、神輿 ならびに道具一式も石動山五社権現のもので、明治7、8年頃にもとめたものである。 |
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| 19 | 久乃木神社 | 鹿島町久乃木 | 菊理姫命(久久理姫命) 伊邪那美命 伊邪那岐命 |
明治6年村社に列する。 古くは白山神社と号した。 |
| 在江、西、坪川、久乃木の神社は、鹿島郡羽坂(鳥屋町)の高木家が兼帯してきた。 明治41年神饌幣帛供進神社に指定された。 伝承によれば、文武天皇の御母柏妃にゆかりの神社だといわれる。 |
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| 20 | 奈鹿曽彦神社 (ながそひこじんじゃ) |
鹿島町曽祢 | 奈鹿曽彦命、 味(金へん+且)高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)、 事代主命 |
旧村社 |
| 奈鹿曽彦命は、下曽祢の産土(うぶすな)社奈鹿曽姫命の兄で大己貴命の子と伝える。 旧伝によれば、神代の昔、能登一の宮の大己貴命が御子神の奈鹿曽彦・奈鹿曽姫の 2神を長曽川に流し給うたのを抓津比当ス(つまつひめのみこと)が拾いあげ養育された、こ の彦・姫の2神が、それぞれ上曽祢・下曽祢に祀られたのだといわれる。 万治3年(1660)の建立棟札類がある。明治になって村社に列し、同40年に石座神社(事 代主命・抓津比当ス)を合併、翌年に神饌幣帛供進神社に指定された。本社を神職梶 井家(鹿西町金丸)が兼帯する。 |
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| 21 | 木賀(こが)神社 | 鹿島町小金森 | 五十猛命(いたけるのみこと) | 旧村社 |
| 享保6年2月の神社書上に木賀大明神と春日大明神とみえるが、それが今日合祀され 木賀神社となっている。明治初年に村社に列し、明治40年に春日神社(天児屋根命) を合併、昭和19年に神饌幣帛供進神社に指定されている。 3月21日の気多神社神輿の巡幸(平国祭)の折には地獄谷川にかかる小金森橋の橋下 へ弓射の神事が行われてきた。現在は木賀神社境内の銀杏の大木に向かって矢が放 たれる。本社を、鹿西町能登部下の能登部(宮田)家が兼帯する。 木賀神社がある小金森の名は、中世の頃から見える。古い記録をみると木加祢森とも 書かれてもいるが、木賀の森などと言っていたのであろう。木賀神社の鎮守の森のあた りという意味と思われる。 |
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| 22 | 住吉神社 | 鹿島町高畠 | 表筒男命、
大山咋神
事代主命、国常立尊 倉稲魂命 |
旧村社 |
| 邑知潟水上守護神を祀る、古くから山王日吉神社(大山咋神)を同殿に祀り、後に、西 宮神社(事代主命)・不動社(常盤神社とも称して国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る)・ 稲荷神社(倉稲魂命(うがのみたまのみこと))を合祀した。明治初年に村社となり、同39年に 神饌幣帛供進神社に指定された。本社を鹿西町能登部下の能登部(宮田)家が兼帯す る。 境内に正応6年(1293)銘の弥陀三尊碑がある。 |
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| 23 | 菅原神社 | 鹿島町藤井 | 菅原道真(天満天神) | 旧村社 |
| 天満天神を祀り、八幡神社(誉田別命)を同殿とする。明治の初年に村社となる。 本社を鹿西町能登部下の能登部(宮田)家が兼帯する。 |
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| 24 | 住吉神社 | 鹿島町藤井 | 中筒男命、大己貴命 大山咋命、建御名方命 天照大神 |
旧村社 |
| 邑知潟水上守護神として奉斎された古社だという。明治41年に日吉神社(大山咋命)・ 神明神社(天照大神)・諏訪神社(建御名方命) 山王(日吉)・住吉・諏訪の3社があったが、合祀されて住吉神社となった。 明治前は、本社を神職梶井家(鹿西町金丸)が兼帯していた。 |
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| 25 | 白久志山御祖神社 (しらくしやまみおやじんじゃ) |
鹿島町小田中 | 久志稲田姫命 大入杵命、菊理姫命 伊弉冉命、伊弉諾命 |
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| 本社は、もと神代社・児玉社・久志稲田姫神社等と呼ばれた郷社の久志伊奈太妓比 神社(奇稲田姫命を祀る)で、通称モリの宮といわれる。明治41年に小田中の村社能登 臣祖神社(大入杵命)・同白山神社(菊理姫命、伊弉冉命、伊弉諾命)を合併して現社名 に改称したのである。久志伊奈太妓比盗_社は式内社とも伝えるが明らかでない。しか し地方の古社である。また能登臣祖神社は、もと親王社と呼ばれ、小田中の親王塚上に 社殿があった。この塚が明治8年に、能登臣の遠祖と言われる大入杵命(崇神天皇の皇 子)の御墓だと治定されてから社殿を塚の傍らに移したのである。 出土の鏡・勾玉は御神体となっている。次に白山神社は、もと長谷観音と呼ばれたもの。 本社は大正8年に神饌幣帛供進神社に指定された。なお小田中・福田・高畠・小金森・井 田(中野)の神社は、鹿西町能登部下の能登部(宮田)家が兼帯してきた。 気多神社の平国祭の3月21日の献上の祭は、別名薙俵(投俵)の神事ともいう。 |
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| 26 | 久テ比古神社 (テ=「氏」の下に「一」の字) |
鹿島町久江ヘ66 | 久延毘古神、天目一箇神 加具土命(軻遇突智命) |
式内社。 |
| 久江川左岸に沿った剣山(宮山ともいう)に西面して鎮座。 「延喜式」神名帳に載る能登郡同名社に比定される。社伝によれば、祭神の久延毘古神 は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、 久延の谷内に神霊を留めたという。「古事記伝」「神社覈録(じんじゃかくろく)」「神祗志料」 は社名の久テは久延の誤りかとする。延宝5年の社蔵棟札や貞享2年寺社由緒書上に は剣明神または剣大明神とあり、享保18年(1733)の神道裁許状や文政11年の社号祭神 書上帳(今井文書)には久テ比古神社と記される。明治になって郷社に列し、明治31年、 県社に昇格した。 4月(旧3月)11日・12日の春祭には、氏子が剣社方(谷内兵衛組)と愛宕社方(道閑組) に分かれて白朮餅(おけらもち)の神事が行われていた(鹿島郡誌)。これをオケラ餅神 事という。 なお貴船神社(祭神:罔象女命)、諏訪神社(祭神:建御名方命)、櫛神社(太玉命)が境 内の社務所内に合祀されている。櫛神社の祭日は12月23日で、俗にダイスコと呼ばれ る。神職の今井家は久江および久江原山の神社に奉仕してきたので、これらの神社に 関する近世中期以後の文書・記録類を伝来する。 |
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| 27 | 八幡神社 | 鹿島町水白(みじろ) | 誉田別命、気長足姫命 比女大神 |
誉田別命とは仁徳天皇のこと 旧村社。 |
| 往古は、沼名城の社と称して、崇神天皇の御代に大入杵命とともに地方の開発に尽くし た沼名城之入日売(ぬまなきのいりひめ)を祀り、社前の鍋山塚は命の御墓だといいます。 また寿永年間、木曽義仲が水白にに布陣の時、八幡宮として尊崇したという伝えもある。 明治になってから村社となり、明治39年神饌幣帛供進神社に指定された。 |
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| 28 | 八幡社 | 鹿島町尾崎 | 応神天皇、神功皇后 比淘蜷_ |
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| 尾崎は水白の出村だった関係で、祭礼は水白の八幡神社を招請して神事を行ってきた。 明治以降は、神社の創立が許されなかったので、明治34年に、石川県能美郡久常村字 徳久(現辰口町)の神社の移転の形式をもって本社を創立したものだという(鹿島郡誌)。 |
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| 29 | 能登神明神社 | 鹿島町徳前 | 天照大神 豊受大神 事代主命 彦狭島命他6神を祀る |
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| 徳前の産土社であった神明宮と能登河中(かわなか)社が(東庄組村鑑)で、合祀して 神明宮となった。 |
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| 30 | 建部神社 | 鹿島町武部 | 祭神:少彦名命、 倭建命(やまとたけるのみこと) ・薬師大明神 |
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| 武部には、手次宮(祭神:少彦名命・薬師大明神、合祀社は神明社・滝祭宮)と諏訪神 社、都智久良社があったが(「由来書上帳」船木文書)、明治になってから手次宮が村 社に列し、さらに明治39年に神饌幣帛供進神社となり、明治41年、残りの諏訪社(建御 名方命)と都智久良神社(猿田彦命)を合併して武部神社とした。 |
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| 31 | 小竹神社 | 鹿島町小竹 | 底筒男命、中筒男命 表筒男命、軻遇突智命 |
旧村社 |
| 小竹には小竹の産土社と仰がれてきた同地の加具土命を祀る火宮神社と住吉神社 (三筒男命を祀る)があったが、明治40年に両社を現地に移転合祀して現社名に改称 、明治41年に神饌幣帛供進神社指定された。小竹神社となる。 |
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| 32 | 熊野神社 | 鹿島町井田 | 伊弉冉命、伊弉諾命 速玉男命、事解男命 菊理媛尊、建御名方命 船塚大明神、他1神を祀る |
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| 熊野神社は、明治前は熊野社・熊野権現と称して神職梶井家(鹿西町金丸)と熊野神社 別当の真言宗の円光寺とが奉仕した。明治になってから神仏分離して村社となり、明治 39年に神饌幣帛供進神社に指定され、同45年(大正元年)(1912)に、諏訪神社・若宮神 社・船塚(ふなづか)大明神・折戸の白山神社、堂ノ前白山神社を合祀した。 熊野神社は、大正元年(1912)諏訪社・船塚(ふなづか)大明神・若宮社・折戸白山社・堂 ノ前白山社・原山分の原山神社を合祀した(熊野神社棟札)。 熊野神社横を流れる熊野川の上流にある不動滝は、泰澄の開創、石動修験者の水行 道場と伝え、熊野神社の別当・円光寺(現高野山真言宗)が支配した。 またこの社には、江戸中期作の十一面観音がある。 |
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| 33 | 朝日神社 | 鹿島町芹川 | ||
| 明治41年(1908)当地諏訪社・梅神社・浅井の朝日神社を合祀し、朝日神社となった。 |
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| 34 | 天日陰比盗_社
(あめひかげひめじんじゃ) |
鹿島町二宮 | 祭神:屋船久久能智命、 二宮神社を相殿として 大己貴命、應神天皇を祀る |
崇神天皇の御宇に創祀。 式内社。旧郷社。 |
| 石動山の登り口に南西に面して鎮座します。 「延喜式」神名帳に載る能登部の同名社に比定されるが、現鹿西町の同名社に比定する 説もある。承応2年(1653)の「三州式内等旧社記」は、もと芹川の勝山にあって峰の社と 呼ばれていたと伝えますが、由緒・所伝と混乱していて判然としません。中古に二宮神社 に遷宮、あわせて二宮大明神と呼ばれてきました。すなわち能登二の宮で、一の宮の気 多神社につぐ名社である。 文化3年の由来書(鹿島町史)によれば上日(あさひ)庄18ヶ村の雨乞社であったといい ます。一方、天日陰比盗_社はもと石動山の伊須流伎比古神社で、後に芹川の天日陰 比盗_社を相殿としたが、さらに下ると天日陰比唐主神とし、伊須流伎比古神を相殿 二宮と称するようになったとする説もあります(加能郷土辞彙)。 船木家が歴代神職として奉仕、現在、二宮のほか、武部、芹川、原山、徳前、井田、最勝 講の神社を兼帯する。 |
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| 35 | 伊須流伎比古神社 (いするぎひこじんじゃ) |
鹿島町石動山 | 伊須流支比古神、 伊弉諾命、伊弉册命、 天目一箇命、迦具土命、 素盞嗚命、水波能賣命 |
崇神天皇六年。能登二ノ宮の 石動山頂に鎮座。式内社。 |
| 古縁起
によれば、太古万物の生命を司どる星が流れ落ちてこの山に留まり、三千世界 を護りたもうた ので、この石の名[動字]によって山名を[いするぎ]と称するようになり、 この石の護命の徳を 護るため天目一箇尊が当山に鎮まった。 |
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| 36 | 伊須流伎比古神社 | 鹿島町井田 鹿島アルプラザ駐車場内 |
伊須流支比古神 (推定未確認) |
石動山の社を勧請? |
| 37 | 剱神社 | 鹿島町久江原山 | 素盞嗚命、大己貴命 | |
| 古来、久江原山分の産土神と仰がれ、明治になってから村社に列し、同39年神饌幣帛 供進神社に指定された。明治37年の大地滑り以来、戸数を減じ、現在は大原地区に一 戸残すだけとなった。昭和37年秋に社殿(明治38年新築)修理の為、鎮座地の中原から 大原の向田家に遷座したが、翌年の豪雪に社殿が倒壊したため、向田家の床の間に奉 斎されたままとなっている。 |
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| ●鳥屋町● | ||||
| 38 | 火の宮神社 | 鳥屋町花見月 | 祭神:迦具土命ほか三神 | |
| 入母屋造りの古風素朴な造作で、恐らくは戦国期ないしは江戸初期の建造と推定される。 当社は、以前は現在耕作地となっている大坊宮台地にあったが、中古に現在地へ奉還し たと伝えられる。 当社拝殿の壁間に掲げられる絵馬3点のうち、「幽鬼図」と「桜下武者図」は何れも江戸期 の奉納であり、図柄も秀逸である。 |
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| 39 | 瀬戸比古神社 | 鳥屋町瀬戸 | 祭神:速秋津比古命、 應神天皇、軻遇突智命 |
崇神天皇御宇に創祀。 式内社。 旧郷社 |
| 社伝によれば、当社は、元は志賀町との境界線に近い眉丈山上の「雨池」と称する地点 にあり、瀬戸一郷の惣社であったという。中古に現在地・大谷川を挟む山間へ奉還したも のと伝える。南面して鎮座する。 「延喜式」神名帳に載る羽咋(羽喰)郡の同社名にあてられるが、羽咋郡志賀町直海(の うみ)の同名社、河北郡高松町瀬戸(昭和29年まで羽咋郡)の瀬戸菅原神社を比定する説 もある。ただし直海の神社や瀬戸菅原神社とは祭神の由来は全く別である。 当町山間部落と志賀町山間部落とは往古(縄文時代からずっと)には同一の生活文化圏 であり鎮守祭神を同じくした。元の神社の位置は、郡境からわずかに羽咋側に入っている ので羽喰郡の項に入っても不思議ではない。 承応2年(1653)の「三州式内等旧社記」には、瀬戸村に鎮座して古くは黒川明神・荒魂社 と呼ばれたと伝える。明治40年(1907)瀬戸の若狭見(わかさみ)にあった八幡社、同万原 (まんばら)の黒川明神を合祀。 例祭・春祭は4月11日。神輿の渡御があり、宮入り後祭礼に供奉した者のわらじを神木に 投げかける風習があり、豊作の祈念と伝える。 |
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| 40 | 白山神社 | 鳥屋町末坂 | 菊理姫命(推定未確認) 高おかみの神 ・闇おかみの神 (推定未確認) |
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| 張間家の鎮守白山社と四位家の鎮守貴船神社が明治40年(1907)合祀されて成立。 | ||||
| 41 | 鳥屋比古神社 | 鳥屋町春木ナ87 | 祭神:鳥屋比古神、 相殿に大穴牟遲命(大己貴命) 埴安命、句句廼遲命、 迦具土命、金山比古命、 水波能賣命を祀る。 |
式内社。 旧郷社。 |
| 旧西往来に沿った山麓に東面して鎮座する。 社地は、春木・末坂(すえざか)・羽坂(はざか)の入会地。 「延喜式」神名帳に載る能登郡十七座の1つに掲出されている社の同名社に比定される。 祭神も、古墳期以前の古神と考えられ、恐らくは弥生期以降に二宮川左岸平野の墾田 開発に当たった豪族と推測される。通称「六所の宮」あるいは「六所明神」と呼ばれ、承応 2年(1653)の「三州式内等旧社記」に一青庄内10村の惣社とある。この「六所・・」の別称 が生まれた理由は黒氏、一青、末坂、春木、羽坂、今羽坂の六村が氏子に編入された時 にできたのであって、六種の諸神が合祀されている訳ではない。 「鳥屋」は万葉語「とや」に対する当て字であり、平野を意味する枕詞であって、鳥の止宿 する塒屋(とや)でも鳥を扱う商売屋でもない、という。よって鳥屋比古は、野原を支配する 男という意味と考えられ、万葉語としては「等夜比古」であったろうと推測できる。 当社の文化3年(1806)の由来書上帳によれば、鳥屋比古神が鹿島路の湖水に住む毒蛇 を射殺して当地一帯を平定したと伝える。「鹿島郡誌」はこの時の蛇の屍を社地南端の丘 陵に埋めたとする。一青庄に含まれる羽坂・春木・末坂・一青・黒氏・花見月・瀬戸・今羽坂 ・大槻・久乃木(くのぎ)・西・坪川・在江(あるえ:現鹿島町)の13ヶ村の惣社であったが(能 登志徴)、明治以後は、羽坂・春木・末坂の3集落の崇敬社となった。 明治初年の神仏分離により、安置していた仏像6体は、羽坂の弘願寺に預けられた。「能 登名跡志」には「御神体は金の鶏の由(中略)、一宮御神輿所の口より御帰座の時、一宮 神主上指の鏑矢一筋北の方へ放つ也」とあり、こうした故事に起源を持つ神事が、今も気 多神社平国祭の3月21日(旧2月申日)鳥居前で行われる。 |
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| 42 | 天神社 | 鳥屋町春木 | 少毘古那命 応神天皇 木花開耶姫命 |
藤原期の薬師如来立像がある が、天正の戦火に罹災し、全 身焼損している。 |
| 鎮座地を薬師山といい、薬師十二神・天神宮・少彦名社ともいいます。飛地境内社の白山 社は、古来飛地奥の坊一円で崇敬される。明治40年(1907)天神社に合祀されたが、昭和 26年(1951)復旧。 |
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| 43 | 日霊女神社 (ひるめじんじゃ) |
鳥屋町廿九目(ひずめ) | 祭神:天照大神 |
「ひるめ」の「る」という字は、実 際には雨冠の下に口が3つ並 び、その下に女と書く字 |
| この社はもと東方に数町(数百m)離れたシンメの森にあったという。文政12年(1829)の社 号帳(鳥屋町史)に神明宮とあり、後現在地に移転し、明治7年(1874)に現社号に改称。 第二次大戦後、新しく改修されて、境内も整地された。社殿内に絵馬として「日清戦争風 俗図」が掲げられており、新しいが、極彩色で日本将兵や清国人が描かれてり、当時を偲 ぶ風俗史の参考となる。 |
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| 44 | 大日霊女神社
(おおひるめじんじゃ) |
鳥屋町大槻 | 祭神:天照大神 相殿に比留古命・応神天皇を 祀る |
「ひるめ」の「る」という字は、実 際には雨冠の下に口が3つ並 び、その下に女と書く字 |
| 谷内の西之宮神社とともに大槻の産土社として崇敬を受けてきた。 明治40年(1907)に同社及び新庄の八幡神社の副神体を合祀。この副神体は、もと同社 の氏子であった大槻村川端地区の住民が、同26年に西之宮神社へ氏子替えをして移し たもの。 「頼政鵺退治図」など多くの絵馬類がある。 |
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| 45 | 八幡神社 | 鳥屋町新庄 | 誉田別命(推定未確認) | |
| 46 | 白山神社 | 鳥屋町川田(大池の近く) | 菊理姫命(推定未確認) | |
| 47 | 白比古神社 | 鳥屋町良川 | 主神:白比古神 相殿の神として 大己貴命、菊理媛命 伊弉諾命を祀る |
式内社。 旧村社。 社地から神剣と神鏡が出土。 |
| 「延喜式」神名帳に載る能登郡の同名社にあてられるが、田鶴浜町白浜にも式内社に 比定される同名社がある。社伝によれば、白比古神社は気多神社の祭神・大己貴命の 子神で、気多神社の鵜祭の鵜が当社に一泊し、また気多神社の平国祭の折に豆団子を 21串供えるのは、こうした由緒によると伝える(能登名跡志)。21の数は大己貴命の国土 経営の時に供奉した者の数という。この他にも放矢神事があるという。 また田鶴浜の白比古神社とこの鳥屋町の神社が同名とは言え、系統は全く別である。 田鶴浜町のが三引の赤蔵神社や熊木の久麻加夫等阿良加志比古神社の祭神と同じく、 弥生期開拓の後には船用材としての森林保全や造船事業に尽瘁した朝鮮系列の神様と 推定されるのに対して、鳥屋町の方は、気多神社の祭神・大己貴命の子神で、弥生式 農耕開拓に尽瘁した産土神と伝えられ、出雲系列の神様と推定される。 白比古神社は、康和5年(1103)6月10日の神祗官奏(朝野群載)により中臣祓を課せられ ている。戦国時代以前は、現在地よりも奥の山の上にあったと言われ、祭神を良川山上 に葬ったという社伝は残るが、その古墳は確認されていない。しかし明治45年に社地から 神鏡と神剣が出土して保存されており、何れも(鉄製で)腐食してしまっており、神鏡の方 は周辺の輪環部を残すだけで見る影もないが、古墳期様式の円鏡であった事が推定され 、更に神剣の方は3個の切片であるが、反りのない直刀で明らかに上代以前の様式であ る。 当社は、中世以来領主や加賀藩主によって神楽田・油田などを寄進され、別当寺に金剛 寺・山田寺など16坊があり、天平寺(現鹿島町)に属したが、天正の兵火にあって社殿は 焼失したと伝えられる。藩主前田利常は神田と紋所を寄進し、長連竜が鹿島半郡を領し た折に、当地に地頭代を置いたので、彼らの信仰を集めたという。 本地仏は、十一面観音で、かつて白山観音・白山神社とも称された(畠山軍記・貞享2年 寺社由緒書上・鳥屋町史)。 明治6年(1873)気多神社の摂社に指定された。 |
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| 48 | 手間神社 | 鳥屋町羽坂 | 祭神:少毘古那命 相殿に市姫宮を祀る。 |
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| 49 | 八幡神社 | 鳥屋町黒氏 | 誉田別命(推定未確認) 相殿に迦具土命を祀る。 |
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| 一青(ひとと)庄が、山城石清水八幡宮寺領となった時に勧請したと伝える。 | ||||
| 50 | 松尾神社 | 鳥屋町一青(ひとと) | 祭神:大山咋命 相殿に香取社、八幡社を祀る |
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| 旧一青村の枝村だった深沢(ふかそ)の諏訪・荒魂・稲荷の三社は島畠・三野・深沢の 各氏の守護神であったが、明治41年(1908)松尾神社に合祀した。 |
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(参考図書)
●「鳥屋町の史跡と文化財めぐり」(鳥屋町・昭和51年刊)
●「石川県の地名」(平凡社)
●鹿島町史・資料編(鹿島町)
●石川県大百科事典(北国出版社)
●「日本の神々の事典」(薗田稔・茂木栄監修・学研)