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七 尾 仏 壇
<七尾仏壇の起源>
 能登守護畠山氏の時代に、既に七尾城下に細工所が設けられていたことが、発掘などでわかってきました。天正9年(1582)前田利家公が能登一国を与えられて、七尾城に入城しますが、同10年(1582)、港に近い所口明神野に新たに小丸山城を築き、築城と同時に、多数の職人が呼び寄せられ、仏壇業の中心的な塗師も多く移り住んだと言われています。実際、元和2年(1616年)の加賀藩の資料によると、古くからの府中町、大手町、豆腐町、味噌屋町などの職人町とともに、「塗師町通り」の名称もみられる。よってすでにこの頃、仏壇業が成立していた証拠と考えられます。

<七尾仏壇の特徴>
 七尾仏壇の大きな特徴として、堅牢・華麗・荘厳の3点があげられます。
 能登の民家は大きいので、仏壇も200代という大きい物を注文する者が80%も占めるそうである。大きいだけでなく、漆塗りや金箔加工など石川の優れた工芸技術を駆使した華麗な装飾芸術品ということです。七尾仏壇は、典雅な雰囲気の金沢仏壇と比較すると、豪華絢爛で、かつ荘厳さを感じさせる作りとなっています。金箔を十二分に使用し、二重破風(はふ)屋根の荘厳な「中立(なかだち)(宮殿のこと)」が特色です。青貝をたっぷり使い気品のある色彩と立体感に満ちた蒔絵を施してあります。また、緻密で幽玄な趣のある障子戸の彫刻や輪島塗の流れをくむ漆塗りなどにより、圧倒的な華麗さを誇っています。 また、仏具として扱われる三卓(さんしょく)(花鋲(けびょう)、仏具を置く三つの台)を仏壇の付属品として作ることも七尾仏壇の特徴の一つです。
 次に堅牢さです。能登は山間部が多く、昔から交通が不便でした。従って、このような大きく華麗な仏壇を完成後に運ぶには、2人がかりで棒にぶら下げて担いだり、急な坂では1人で背負うなどしなくてはいけませんでした。このために、運搬に耐える堅牢に仕上げなければなりませんでした。それで鏡板(本尊、脇仏の後板)を2重にする2重鏡板(本尊、脇仏の後板)を3枚取りつけるという独自の製法を用い、組み立ては全てほぞ組(木材に彫ってある穴にはめこむために別の木材の端に作った突起)にするなど工夫を凝らし、丈夫な造りにしています。
 仏壇製造には、木地師・彫刻師・塗師・蒔絵師・金工師などの技術者が古くからいたが、これらの技師が仏壇を作成するようになったのは、能登の寺院内に仏壇が置かれるのは一部の古刹を除き元禄頃に始まったと考えられます。民家に浸透するのは化政(文化・文政)期以降ある。民家にとっても十村や肝煎クラスの大百姓であって、庶民の家に入るのは明治に入ってからであります。能登は加賀と同じく、古くから真宗王国といわれ、信仰心厚い農民や漁民によって仏壇業の重要を支えてきたと考えられます。
 石川・富山両県に七尾・金沢・美川・高岡で仏壇が製造されています。これらの町の位置からみて、七尾仏壇が今日まで七尾の伝統産業として残ってきた理由としては、昔から能登方面に、多くの顧客をもっていたと考えられます。また、七尾は古くから能登の政治、経済、文化の要所としての役割を果たしていたことから、販路拡大にも有利であり、北前船が立ち寄る港としてでも有名であり、船で遠く北海道までも運ばれています。仏壇師は仏壇のみならず、お宮の御輿も製造していて、七尾市の技師名入りの御輿や仏壇を多くみることができます。

 例えば、七尾市今町の長福寺に寛政3年(1791)の銘があり、大工水株屋亦四郎塗師久左衛門の名が見えます。また、古いものとして、山の寺の長齢寺に元文5年(1740)に大工一本杉町(現七尾市一本杉町)嶋屋五右衛門の名が知られています。
(参考図書)
「(図説)七尾の歴史文化」(七尾市)
「加賀百万石」(田中喜男・教育社)
「石川県のホームページ」の中の『七尾仏壇』