書評(平成17年09月08日)

『秀吉の知恵袋 曾呂利新左衛門
(童門冬ニ著:実業之日本社)

  いきなりこの本の話ではないことを書くが、ちょっと前に読んだ戸部新十郎の『風盗』の主人公は、秀吉配下の忍びの曾呂利党の首領・曾呂利新左衛門であった。

 私はこれまでに何度か曾呂利新左衛門という名は聞いたことがあったが、あまり注目していなかった。それがこの『風盗』の本では、曾呂利党という忍びの一派と書かれていて、少し興味が湧いた。それでもうちょっと知りたい気になっていた。

 『風盗』を読んだ後、新しい本を捜しに図書館へ行ったところ、童門冬ニ氏の『曾呂利新左衛門』という本が目に付いた。まさかこんなに早く関連本が見つかるとは思っていなかったので、早速借りてきて読んでみることにしたのだ。
 ということで、まずは、いつものように粗筋を書こう。

 小説の当初は、この主人公である曾呂利新左衛門は、人間でなく、幽霊というか、もう死んでしまった霊で、あの世の入口で地獄へ落すか天国へ昇らせるか決める役人という設定になっていた。

 その彼が、(後に豊臣秀吉となる)日吉に、現世から「曾呂利のおっちゃん」と呼びかけられると、仏に命じられ日吉の相談相手になってやるということをしていた。それは仏の、日吉を天下人にするのも面白いという意向もあったからだった。曾呂利を相談相手とした木下藤吉郎は着々と功を成し、出世していった。

 日吉から木下藤吉郎となった彼が、織田信長公に仕えてからのことだが、ある日彼が新左衛門と話しているところを、信長に見られてしまった。しかし新左衛門は霊だから見えるはずはないのだが、藤吉郎は信長に不審な点を詰問され、それで“天と話していた”、“独り言だ”と説明したが、信長は何かを嗅ぎつけたようであった。

 ある日堺の今井宗久の茶室に信長と一緒に招かれた藤吉郎は、そこで宗久に三人の曾呂利新左衛門を紹介され、そのうちの一人を自分の相談役にするよう言われた。自分と同じ名の三人が藤吉郎の前に現れたことを、神様の企みだと思い、霊の新左衛門は、神様の以前からの意向もあり、人間界に降りて、3人の新左衛門の一人の人間の頭の中に乗り移る(入り込む)ことになった。

 霊の新左衛門は三人の頭の中を調べ、その中の一人の鞘師の曾呂利新左衛門に乗り移つることを決めた。そしてその後、藤吉郎にそのことを告げた。三人の新左衛門のもとに現れた藤吉郎は、相談相手を鞘師の新左衛門と宣言すると、以後常にその新左衛門を自分の側に控えさせ、相談相手とした。

 その後も藤吉郎は曾呂利の知恵を借り、次々成功をおさめ、信長亡き後は、ついに天下をとってしまう。太閤殿下、関白太政大臣となった秀吉は、ついには度を越え、朝鮮出兵の挙に出てしまう。

 戦役の途中亡くなった秀吉は、多くの人々を苦しめたことから地獄行きとなった。一方霊の新左衛門は、また昔の地獄行き天国行きの判定役をやる万人となる。そして秀吉が地獄で少し懲りたら、閻魔様に頼んで天国へ移そうと考えるのだった。

 この小説では、最後まで曾呂利新左衛門は、全然忍者とは関係ない。ということは忍者としたのは戸部新十郎が創作した『風盗』だけの話なのだろうか。ただこの小説の中で“曾呂利”とか“しゅろり”とは尾張地方の盗賊の方言だと出ていた。そこから戸部氏は想像を膨らましあのような話を作ったのであろうか。

 ということは伝説上の人物なのだろうか。それとも堺出身の実在の鞘師なのだろうか。結局この本の最後まで読んでも、疑問は解決しなかった。

 仕方なくインターネットなどで調べてみると、色々史料や逸話もあるようだから実在の可能性もかなりある人物のようだ。伝説的部分の話ばかり肥大してしまった役行者のような存在なのかな?それともやはり猿飛佐助のような架空の人物?。。。謎の人物であることだけ、これでよくわかった。

 私としては、この本の中では、特に最後の方の、ふざけた歌の会の話が面白かった。曾呂利の発案のもと、秀吉に招かれた大名たちが、大きい歌、小さい歌、どんな上の句にもつく下の句、というお題のもと、次々と自分の歌を詠むのである。次第に細川幽斎と徳川家康の歌比べのようになり、争うのである。

 自分の負けを認めた家康が、会の解散退場する際、意趣返しに幽斎を後ろからを押し倒し、その直後幽斎に歌を強要。そこで即興で作った幽斎の歌がまた良かった。家康もその巧みな歌に感服するしかないのであった。

 曹操亡き後、後を継いだ曹丕が曹植に命じた歌の話を想起させるような話だった。それで今度は細川幽斎についてもっと知りたくなった(笑)。

 インターネットで調べてみると、曾呂利新左衛門というと、頓知話なども結構あるようだが、この小説ではほとんどなかったように思う。ただ堅苦しい息を詰めるような場面でも、突飛な返事をしたりして、人の緊張を和らげるような、話芸をもっていたことはこの本でも時々描かれてはいたが。

 少なくともこの小説は伝記的小説として読むよりも、歴史を舞台として取り入れたユーモア娯楽小説として読むのがいいのだろう。著者の童門冬ニは、緊張の連続の現代社会では、このようなユーモアある生き方が必要だよ、とでも言いたいのかもしれない。

 私は、童門冬ニ氏の歴史小説は、実は、はっきり言ってあまり好きではない。短期間に多作するためだろう。一冊の本を仕上げるために、かなり他人の作品を盗用ギリギリまで転用していたり、歴史小説なのに時代考証などすっ飛ばして書いている作品が多かったりする上に、ビジネスマン向けに受けようとするのか、かなりノウハウ的に強引に話を纏めようとする傾向があるからだ。

 だが、繰り返すようだが、この小説を歴史的観点から意義を問うのではなく、伝奇的娯楽小説として読むなら何の問題もないだろう。読者は曾呂利新左衛門という歴史的謎の人物の生き様を、ただ楽しめばいいのだから。それに歴史にできるだけ忠実な小説だけが、ためになる本ではない。フィクションでも、いい本は幾らでもある。この本を参考に色々な生き方を考えるのもいいことかもしれない。