【序説】


――第三次戦国時代。

 それは神州国・天乃華学園にて、《武神》と呼ばれた少女たちが互いの覇権をかけ、領土紛争に明け暮れた戦乱の時代――その終結期である。





 松平竹千代(まつだいら たけちよ)の初恋は、彼女が6歳の頃の話である。
 三河国を支配する豪族、松平氏の嫡子であった彼女はこの歳、松平家を庇護する隣国の今川家に、人質として預けられるはこびとなっていた。ところがある家臣の裏切りにより、竹千代は今川家ではなく別の隣国である尾張の豪族の下に人質として送られてしまったのである。
 その地を支配していたのは織田家の一分家――織田弾正忠家であった。
 小勢力ながらも当主の卓越した統治能力によって繁栄していた織田家は竹千代を快く迎え入れたが、松平家は以前として今川家に臣従を誓い続けており、一方で織田家と今川家とは敵対関係にあった。
 かくして竹千代の立場は決して安全なものではなく、その境遇は一度大きな風が吹けば容易に吹き飛ばされる、木の葉の様に頼りないものでもあった。
 幼い竹千代はそうした自分の境遇について、知識は無くとも肌で感じ取っていたのであろう。
 常に周囲の顔色を伺いながら、内に籠ってただ月日が流れるのを待つ――そんな日々を送っていた。

『よお、暇そうだな』

 ある日、屋敷の片隅で何をするでもなく庭を眺めていた竹千代に、声をかけてきた者がいた。
 短いズボンを穿き、真っ赤なブルゾンを着たその少年は――十人中十人が性別を間違えてしまうほど、綺麗な顔立ちをしていた。
 だが竹千代が身を強張らせたのは、その美貌に対してでは無い。彼がこの屋敷の主人の息子であり、加えて「大うつけ」と陰口を叩かれるような素行不良の悪ガキであると知っていたからだ。分別を弁えない悪童が親の地位を傘に着て、家臣団の子息に理不尽を働くのは何も珍しい話ではない。
 《武神》として生まれながらも武芸を好まない竹千代にとって、そうした悪童は恐怖以外の何者でも無かった。
 不安に怯える一方で、竹千代はそうした態度が余計に相手を増長させることも学んでいた。だからこそ彼が手を動かした瞬間に目を閉じ、訪れるであろう暴力に身を竦めてしまった。
 延ばされたその手が、小さな頭を優しく撫でるまで。




(イラスト:わしさん)



「え――?」

 予期せぬ行動だった。人の手で髪を撫でられるくすぐったさに竹千代は驚き、その目を開ける。
 そして、彼女はこの時、生涯忘れえぬであろう光景を目の当たりにした。
 冬の陽を受けて鮮やかに描かれた微笑み。夜の闇より深い漆黒の渦から注がれる優しげな眼差し。

「はは、そんなにビビんなよ。お前――弱虫だなあ」

 「弱虫」と馬鹿にされても、その言葉にはいささかの侮蔑も感じられない。
 少年は花のたおやかさを知り、その花弁を散らさぬように心を配る者であった。

「ちょうど人数が足りなかったんだ。お前もこいよ」

「あ――」

 竹千代の返事を待たず、少年はその手を取り彼女を屋敷の外へと連れ出した。
 勝手に屋敷の外に出てしまえば、きっとお目付け役の家来に怒られてしまうことだろう。
 しかし、そうと知っていながらも、竹千代は少年の手を離すことはなかった。
 幼いながらも感じていたのであろう。彼が自分を連れて駆けていくその先に、その眼差しが見据える彼方に、不安と退屈に染まる「今」を変えてくれる何かが自分を待っているのだと。
 果たして屋敷の外には、性別も年齢も異なる子供たちが集まっていた。
 彼らは少年の姿を見ると一目散に駆け寄り、彼と彼に連れられて来た竹千代を取り囲んだ。

「吉法師さま、この子だーれー?」

 長い髪を三つ編みにした少女が、真っ先に竹千代のことを尋ねてきた。
 その後ろでは見知らぬ存在に対して、髪の短い少女が眼鏡越しに警戒の視線を送っている。他にも数人の少年少女が竹千代を見て誰何の声をあげたが、竹千代は見知らぬ子供たちに囲まれたことで不安に陥り、所在無さげに視線を落してしまう。虐められるのではないか――そんな恐れが脳裏を過ったのも、彼女のこれまでの境遇を考えれば決して有り得ぬ話ではなかった。
 そんな時、ふと少年の手が再び竹千代の頭を撫でた。
 顔を上げた彼女に、少年は大丈夫だと表情で伝え――

「ああ、こいつは――ええと、何て言ったっけ?」

「た……竹千代です」

「そう、竹千代! 今日からのオレたちの仲間になった竹千代だ! 
 ……うーん、でもなんか呼びにくいな。よし、じゃあお前は今日から「千代」な「千代」!」

「え!?」

 一方的に呼び名を決められたことよりも、何の説明も面識もなく突然仲間に加えられたことに竹千代は驚き、思わず声を挙げてしまった。友達になるのは、とても大変で時間のかかること――そう認識していた竹千代にとって、少年の一言は正に青天の霹靂であったのである。
 何の迷いも衒いもなく、見も知らぬ少女を「仲間」と呼んだ少年の度量に、竹千代はやがて気付くことになる。
 彼は人の上に立つべき存在であると。血筋でも能力でもましてや身に余る大望でもなく、ただ人としての器が違うのだと。
 それは「王」の器。人を束ね、人を導き、道を作る器。
 書物でしか知ることのできない存在が、確かに実在すると知った時、竹千代は恐らく初めての恋をした。
 そうと自覚するまでには幾許かの年月を有することになるが、竹千代の初恋はこの日この時、この場所で始まったことはだけは間違いないのだろう。やがて二人がその名を変え、互いの境遇が変化することになっても、少女が抱く想いは何一つ変わることはない。
 ――その恋がただの片思いであることもまた、何一つ変わることは無かった。







 九月上旬――その、とある放課後の話である。
 俺こと織田信長(おだ のぶなが)は配下の上級生、今川義元(いまがわ よしもと)と共にクラブハウスの一室を借り切って、大して面白くもない作業に追われていた。

「よし、次行くぞ」

 アルミ製のケースに入っていた小型のアンプルを取り出し、拳銃の様なグリップとトリガーを備えた注射器にセットする。アンプルの中身は赤い液体で満たされ、目を奪うその鮮やかさに、心の奥で不安の影が揺れ動いているのを俺は感じていた。
 注射器を義元に手渡すと、彼女は躊躇うことなく左腕の静脈にアンプルの中身を打ち込んだ。
 プシュッと音を立てて、アンプルの赤い液体は蒸発するように消えてしまう。

「じゃあ、"精製"するわ」

 義元は両手を胸の上で握り合せ、祈るように目を閉じる。
 それから時間にして一分弱――義元の体に明らかな変化が訪れた。祈りの形に組まれた両手の間から、青白い光が漏れ出ずる現象が発生したのである。
 光は段々と強さを増し、遂には窓から入り込む夕日を染め上げるほどの勢いで輝き始めた。
あまりの眩しさに目を閉じかけた直後、青白い光はいつしか跡形もなく消え失せていた。

「はい、一挺できあがり♪」

 珍しく冗談を飛ばした義元が組んでいた手を解いたとき、そこから一本の長銃が突如として出現した。
 《武神》が《地脈》の《力》を取り込んで武具を精製する――俗に《武神技》と呼ばれる超常能力の顕現である。
 一メートルもの長い銃身とそれを支える台木。僅かに湾曲した台木の端にはグリップと引き金が備わっている。"火縄銃"と呼ばれる長銃を精製した義元は、それを手にとって細部まで確認したあと、おもむろに火縄銃を構え始めた。

「うん、問題は無いと思う。あとは試射だけど……」

 自ら精製した火縄銃の出来に満足そうに頷き、そのまま窓辺に歩み寄る。
 そして黒光りする銃口を天に向け――引き金を引いた。
 パーンと小気味良い炸裂音が木霊し、銃口からは白煙が棚引く。弾丸は込められていない筈だが、未だに残響する発射音と火薬の匂いは、俺の神経を刺激して全身を警戒させた。
 「銃」――この神州では馴染みの低い兵器だが、その在り方は弓矢とは根本的に異なっている。

「充分に及第点ね。部品の精度も高いし、文句の付けようがないわ」

「そりゃどうも。まあ、決して安い買い物じゃなかったからな」

 俺としては冗談のつもりだったのだが、義元は俺の言葉にバツが悪そうに視線を逸らしてしまう。

「……そう、よね。ごめんなさい、偉そうなこと言って」

「あほう、誰もそんなこと言ってねえよ。遠慮は要らねえからちゃんと評価してくれよな」

「え、ええ……それは勿論よ」

 俺に指摘され、慌てて真面目な顔を作る義元。
 値が真面目なだけに、素直すぎる反応がなんとも可笑しかった。

「国友衆から買い付けた分は今ので最後だ。《幕府》公認の工房だけあって、質は確かだったようだが……」

「ええ、問題はそれ以外よね」

 俺と義元の視線が、壁に無造作に立てかけられた数挺の火縄銃に向けられる。それらは全て、義元の眼鏡には叶わなかった不良品であった。
 現在、織田家はその資金力に物を言わせ、全国から火縄銃を買い揃えている。。
 第二次戦国時代、九州は種子島に持ち込まれたこの銃はしかし、前時代的な構造と兵器としての馴染みの低さから、全国に波及はしても《武神》の間で普及することはなかった。
 その為、現存する火縄銃は非常に少なく、今では技術研究の対象として一部の工房が細々と製造している程度であった。そんな時代遅れの武器を俺と俺の家が大枚叩いて買い揃えていたのは、義元が立案した対武田軍用の秘策に、必要不可欠な装備であったからに他ならない。

 現在、この神州において「銃」と呼ばれる武器は前時代的な火縄銃を除いて、回転弾層を備えた小型拳銃しか存在しないとも言われている。遠い昔においては驚くほど沢山の銃器が存在し、その性能も今とはケタ違いであったと聞くが……その製造技術は今や完全に失われてしまったらしい。
 かろうじて発掘された小型拳銃と、外国よりもたらされた火縄銃以外に銃器を求める者も少なかったのであろう。織田家が買い揃えた火縄銃はその三割が不良品という有様で、その損失額を知れば恒興や長秀は顔色を失うに違いなかった。

「現在、使い物になるのは二十八挺……とてもじゃないけれど足りないわ。せめてあと二十二挺は確保したいところだけれど……」

 顎に手を当てて義元は呟くが、目的達成の為に必要な金額を考えてか言葉が続かなくなってしまう。
 だが妥協する訳にもいかない。その想いが俺への視線に如実に表れていた。

「金に糸目をかけないって云うのなら、不可能ではない数字だな。ただ……それだけで足りるのかよ?」

 そう問い詰めると、義元は素直に首を横に振った。
 やはり、余計なところで余計な気を回していたらしい。……それが少しだけ気に障った。

「本音を言えば六十挺は欲しい。少なくとも織田軍の三分の一に鉄砲を持たせたいところだけど……流石に今からでは無理よね?」

「ああ、無理だな。だが五十本なら何とかなる……かもしれない。
 ――だが義元、それで勝てるか? あの武田軍相手に」

「やりようはあるわ。いえ――何とかしてみせる」

 決意を込めて、義元は頷いた。 ならば俺も何とかしてみせるしかない。

「――分かった、来週までには揃えてみせるよ」

 逡巡の後、俺は首を縦に振った。





 さて、ここで状況を整理してみることにしよう。

 発端は九月の一日。この日、甲斐を含めた数国を支配する戦国大名、武田信玄(たけだ しんげん)が隣国の戦国大名、徳川家康(とくがわいえやす)に宣戦を布告した。……勿論それは天乃華学園で行われる代理闘争の話であるが、敗北は《武神》としての没落を意味するだけに、決して許されるものではない。
 ところが信玄率いる武田軍は戦国最強と名高い強大な軍事力を有しており、誰の目にも徳川家の敗北は明らかであった。そこで家康と同盟を結んでいた俺は共に武田の侵攻を食い止めることを決意した。
 しかし織田と徳川で連合軍を組織しても、武田軍に勝利することは極めて難しいと誰もが考えていた。
 最終的には幾つかの領土を奪われるのを覚悟した上で、消耗戦を挑むしかない――と後ろ向きに考えていたその時、「武田軍を正面から撃破する」と豪語したのは、今川義元であった。
 根拠のない大言壮語ではない。長年、武田軍との攻防を繰り広げてきた経験から生まれた秘策を掲げ 、徹底抗戦を呼びかけた彼女に、亥の一番に賛同したのは何を隠そうこの俺である。
 かくして俺と家康は義元の秘策に従い、その為に必要な火縄銃を買い揃えていたのであった。

 ちなみに俺達が買い集めていたのは、実物の火縄銃ではない。
 どれほど強力な銃器であっても、《武神甲》を展開した《武神》には傷一つ負わせることはできない。それが叶うのは《武神甲》と同じ原理で顕在化した武具に限られてくる。
 そこで俺達が欲するのは実物ではなく、実物を表す“情報”であった。
 霊子化された情報を体内に取り込み、それを元に同じ武具を精製する――これを俺達《武神》はパソコン用語に例えてインストールと、そうして体内に取り込まれる武具のことを《埋葬武装》ロスト・ガジェット と呼んでいた。

 《埋葬武装》は霊子にまで還元されたあと、ナノレベルの極小物質に変換され、人間の血液と酷似した特殊な薬品に溶かされる。
 それがアンプルの中に入っていた赤い液体の正体だ。高密度の生体情報を内包したリキッド・メディアとでも言おうか。
 静脈注射によって体内に取り込まれたリキッド・メディアは心臓を経て、やがて脳血液関門を通過して大脳に到達する。そこで情報は開示され、脳内にその情報が組み込まれた神経細胞のネットワークを構築するのである。
 《武神》には個人に固有の《武神技》が備わっているが、唯一武具の精製だけは後付けでその種類を増やすことができた。その理由がこの《埋葬武装》であった。
 ちなみにその名前の由来は、名の有る高名な武具であるほど、過去の偉人に纏わるデータバンクから《発掘》されたという事実に基づいていたのである。

「さて、今日はここまでにしようぜ。腹も減ってきたから寮に帰りたいし」

 既に午後の六時を回っていたことを知り、俺は義元に声をかけた。
 ところが義元は「え?」と意外そうな声を上げ、立ち去る気配を見せない。

「…………」

 しかも気まずそうに押し黙って、目で何かを訴えかけてくる始末。
 これはあれか? 気を遣って俺に理由を尋ねてこいとでも云う要求なのか?
 でもまあ、その物憂げな表情が綺麗だから許す! 女装はしてても俺は男なんだし!(←ここ重要)

「言えよ、何か話したいことがあるんだろ?」

 立ち上がりかけた椅子に再び着き、足を組んで義元が話し出すのを待つ。
 すると義元も近くに置いてあったパイプ椅子に腰かける。だがその顔は伏せられていて、俺とは視線を合わせようともしない。

「…………ねえ信長? ひとつ、聞いてもいい?」

 僅かな沈黙の後、義元が口を開いた。

「どうしてあんな……あんな無茶な提案を呑んでくれたの?」

 義元が言っているのは先の軍議で決定した対武田軍用の秘策――多量の火縄銃を以って武田騎馬隊を破るという戦術を指しているのだろう。
 確かに前例のない、机上の空論と呼んでも差し支えのない内容であった。
 俺も含めて不安を覚えなかったと言えば嘘になる。
 けれども俺は……

「あのなあ……何度も言わせるな。お前はそれで勝てると思っているんだろ? 
 他にこれと言った策もねえし、逆にあの提案を呑まないほうが俺は不思議だ」

 その秘策に、自身の未来も部下の安泰も家の将来も全て預けることにした。
 理由は今述べた通りで、特にこれと言った理由があった訳じゃない。
 まあその……「前代未聞の策」と云うフレーズに中二な心が刺激されたってのもあるけどね!

「いえ、そうじゃなくて…………わかった、質問を変えるわ」

 ところが義元は俺の返答が不満であったらしく、再び俺に問いかけてきた。

「どうして……そこまで私の言うことを信じてくれるの? ……私はその、かつて貴方の敵だったのに」

 「敵」と口にした瞬間、その言葉が僅かに震えていたのを俺の耳は聞き取っていた。
 桶狭間の戦いで大敗し、俺の軍門に降った東海一の弓取り。本人の意思や近しい者からの評価とは裏腹に、そうした蔑みの声は今も絶えることを知らない。
 心ないその声に鬱屈した想いを抱えていたのだろうか。
 自分を信じる理由をわざわざ尋ねてきた義元に俺は――

「あほう」

 いつもの憎まれ口を叩いてしまう。

「今のお前は俺の、俺達の仲間だ。それ以上の理由が必要なのかよ」

 言葉で装飾することなく素直に答えた俺に、義元は顔を上げ――そして、笑った。
 声を立てて可笑しそうに笑った。

「……あは、あははははははは」

 可笑しくて仕方ないと腹を抱え、目尻には涙すら浮かべている。
 少し前のシリアスな空気を吹き飛ばす反応に俺は驚き、そして途端に恥ずかしくなった。
 気付けば椅子を立ち、笑い続ける義元に歩み寄るとその頭を軽く小突いてやった。

「な、何が可笑しいんだ! 笑うなあほう!」

「ごめんなさい。でも、だって……あまりに予想通り過ぎて……あは、あははははは」

 頭を小突いてやっても笑いを止めない義元を見て、俺は自身の言動を顧みるが……べ、別に変な事言ってないですよね俺?

「だから笑うなって言ってんだろ! 仲間を信じることの何処が可笑しい! じょ、常識だろうが!」

「ええ、そうね常識よね……男の子だもんね、それくらい平気で言えちゃうもんね……うぷぷっ」

「笑うなってんだろ! 今すぐ止めねえと口を塞ぐぞオラ!」

 何が義元のツボに触れたのか、それすら分からなかったが、とにかく自分が馬鹿にされていることだけは分かる。格好付けて滑ったというのであればまだ納得できるが、生憎と先の発言は素直な気持ちから出たものである。それをここまで笑われてしまっては、どんな堪忍袋でも尾を斬られること間違いなし。
 こうなれば実力行使しかない。
 そう決意した俺は義元の肩を掴んで、力任せに上半身を起こし――次の瞬間、音も無く立ち上がっていた義元の顔が、息がかかるほど近くにあることを知った。

「え――」

 突然、自身のパーソナスペースに踏み込まれていた驚きに反応は遅れ、そっと顔を挟みこんで冷たい掌に意識を奪われた。

「じやあ、塞いで――くれる?」

 熱を孕んだ声が鼓膜を振るわせると同時に、とてつもなく柔らかい何かが、俺の口を塞いでいた。
 別に初めてだった訳じゃない。
 酔っぱらった母さんに、両手の指では足りないくらい頻繁にされた記憶がある。
 だけど、これは違う。同じなのに全く違う。
 唇だけでなく全身で感じる、圧倒的な熱量。何かを伝えてくるかのように、密着する体。
 互いの唇が離れた時、俺の目の前には義元の顔があった。

「初めて、なんだからね?」

 その発言が持つ意味に気付けないほど、俺は莫迦じゃない。
 しかしあまりに突然過ぎて、俺は――言葉を発することさえ忘れてしまっていた。

「ごめんなさい。貴方ならきっと、そう言うと思っていたの。仲間だから信じるのが当たり前だなんて言われて……私、本当に嬉しかった」

 溢れる涙は笑いの所為ではなかった。
 先程とは別の恥ずかしさが胸に込み上げ、益々俺は言葉を封じてしまう。

「だから、今なら言えると思う」

 先程の情熱的な接触とは打って変わり、小鳥が啄ばむような優しいキスを俺達は交わした。

「私、貴方のことが――」

 言葉で告げなくとも分かることはある。重ねた唇の感触は何よりも雄弁だった。
 鼓動を速める心臓。全身を沸かす熱に意識が蕩けそうになるけれども、俺は意識を集中させて続く言葉を待っていた。
 甲高い金属音が、互いにかけられた魔法を解いてしまうまでは。

「あ、あの……」

 クラブハウスの入り口。
 開け放たれた薄いドアの前に立っていたのは――ゆるやかに波打つ、青い髪の少女。
 中等部の制服を着て、その胸に大きな紙袋を抱えていた彼女の顔を、俺達はよく知っていた。

「ノック、したんです。だから、でも……お邪魔して。本当にごめん、な……」

 「ごめんなさい」と言い終える前に、青い髪の少女はその場から走り去った。
 「徳川さん、待って!」と呼び止める義元の声も届かない。
 甘やかな時間に終わらせたのは、床に落ちた銀色のペンケース。散らばったその中身が、まるで何かを暗示しているように見えて、俺はつい視線を逸らしてしまった。
 義元は入口に立って、走り去った少女の――徳川家康の姿を探している。
 しかし例え見つかったとしても、俺は彼女に何をどう説明すれば良いのだろう。

「……ごめんなさい。先に、帰るから」

 家康を探すことを諦めた義元は荷物を手にし、俺とは顔を合わせることなくクラブハウスを立ち去った。
 見送ることはしなかった。
 言いようのない後ろめたさが胸の奥に沈殿し、俺の体を重くさせている。

「……妹みたいなもんだって、思っていたんだけどな」

 ふと呟いた言葉はしかし、今となっては何の弁明にもならないだろう。
 走り去る直前に見せた家康の涙の意味に、俺はやっと気付かされて――そして後悔して。

「救いようのねえ、あほうだな」

 鏡に映る己に、言葉通りの罵倒を浴びせかけるのだった。









第二十五話 『三方ヶ原の戦い〈上〉』


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