【序説】


 神州史における最大の謎として有名なひとつに、俗に言う第一次~第三次戦国時代にだけ存在した《竜皇》の名前が挙げられている。
 時の《天孫の帝》と《幕府》の将軍との間に産まれた《竜皇》について記された史料は山程あれど、その性別はおろか生前没後の年ですら定かではなく、今も諸説が乱立しては消えていくという有様だ。
 研究者の中には、《竜皇》など実在しなかった。時の《幕府》と朝廷が創設した、戦国時代と云うシステムのためにでっち上げりられた"名"であると云う説が、今では有力視されている。
 その信憑性はさて置き、不自然なまでに記述を欠いた三人の《竜皇》の名は、今も全く知られていない。
 この事実が一体何を物語っているのか――それこそが私を含めた研究会のメンバーが追い求めた最大にして、最後の謎である。

 ※『再生史研究月報』二〇十四年六月号・「《竜皇》の名を追って」より抜粋






「撤退だ――」

 口に出した瞬間、屈辱の汚水が口の中に流れこんでくるようだった。
 いくら相手が特例措置という反則を用いたとしても、俺達はまんまと敵の策に嵌り、その掌で滑稽に踊らされてしまった。
 ――最高だ。最高だよ朝倉義景、そして浅井長政!
 俺をここまで不愉快にさせたのは、手前らが始めてだ!

「衛生班は負傷した連中を連れて、すぐに南の口に向かえ。義元はその護衛だ」

「ええ、じゃあすぐに用意をするわ」

 ぐったりとした乱丸を抱え、衛生班の女の子が本陣を後にすると、義元がそれに続いた。

「本隊は長秀と利家が指揮しろ。殿(しんがり)は――サルと俺が務める」

「ちょ、ちょっと待ってよ信長様! 普通、殿って部下が務めるものでしょ? 
 一番危険な殿に当主がつくなんて聞いたこと無いよ!」

「うっせえ、俺は今猛烈に頭に来てんだ。
 朝倉か浅井の連中を、少しでもぶちのめさねえと気が済まねえんだよ!」

 長秀が呆れる気持ちも分かる。けれど俺は、どうしても我慢ができなかった。
 かかる屈辱を味あわせてくれた連中に、一矢報いてやらなければ気が済まない。

「了解致しました、我が主」

 誰もが俺を諌める中、ただ一人首を縦に振った者がいた。
 "策士"――竹中半兵衛。
 彼女は俺の前に立ち、恭しく膝を着く。

「では私と藤吉郎、そして小六がお供いたします。我が主の顔に泥を塗りたくった連中に、たっぷりと思い知らせてやるとしましょう」

「――言ったな、半兵衛。そこまで煽るからにはそれなりの"策"を見せてもらうぞ」

「ええ、今こそ我が知謀の全て、あますところなくお見せいたします」

 不敵に言い放つ半兵衛。その手は黒い革の手袋で覆われている。

「我が《武神技》、"混千の策糸"――どうぞご期待あれ」





 かくしてこの日――
 後に謳われる『金ヶ崎の退き口』は、その幕を開けたのである……。










第十六話 『金ヶ崎の退き口』


【1】


 林の中を往く者たちがいる。
 その数は六十を超え、何れも同じデザインの制服を着た十代の少女ばかりだが……その手には刀や槍を構え、制服の表面は甲冑を思わせる光の幕で覆われていた。
 実に奇妙な光景であるが、この時代、この土地に限れば極々日常的な光景とも言える。
 ここは神州・穢土(
えど)の地に建つ巨大学園施設・天乃華学園(あまのはながくえん)――そこが所有する広大な《合戦場》のひとつである。

 六十を超える数の《武神》を兵として従えるのは、褐色の肌を持つ同じ《武神》の少女だった。
 その名を朝倉義景(
あさくら よしかげ)といい、学園では生徒会の副会長として知られた、神州・越前国を支配する家の当主でもある。
 彼女が今、兵を率いて踏みしめる大地は、朝倉家が支配する領土――越前国を模した土地であり、今やこの地は多数の《武神》が激突する戦場として機能していた。
 領土に侵攻した敵を迎え撃つべく、朝倉義景が率いる軍は南を目指す。
 そして、その敵とは――

「お館様、浅井と六角から伝令が参りました。手筈通り東の口より進軍を開始したとのことです」

 義景に報告を行うのは同門の家臣、朝倉景鏡(
あさくら かげあきら)であった。義景の従兄弟に当たる人物で、学年も同じ高等部二年生である。朝倉家の中でも当主に次ぐ地位の人物であり、実質的に朝倉家の軍を指揮しているのは彼女と言って良い。
 その景鏡から報告を受けた義景は小さく頷くだけで、何の指示も出すことなく黙々と歩き続ける。
 彼女からの指示なり命令なりを待っていた景鏡は再度支持を仰いだが、帰ってきた答えは「織田軍の動向を確認してからね」の一言だけ。
 確かに織田軍に差し向けた偵察隊は未だに帰還していない。
 義景の指示はなるほど的確であったかもしれない。しかし戦場に挑む緊張感も、追い込んだ敵を駆り立てる高揚感も感じられず、他人事のように事態を静観している――少なくとも景鏡の目に義景はそう映っていた。

「……承知しました。機が訪れましたら何時でも号令をおかけください。
 旗下の全部隊、臨戦態勢を整えてご命令をお待ちしております」

 言外に「さっさと敵に仕掛けろ」と吐き捨てつつ、態度だけは忠実な部下を演じた景鏡は、自分が指揮する部隊へと戻っていった。
 対して義景も不遜な部下を見送ることもなく、ただ黙々と歩き続けている。
 向かう先は西の金ヶ崎城。
 つい先刻の戦闘で織田軍に奪われた朝倉家の居城――そのレプリカであった。








――金ヶ崎城・城門。

 奪取したばかりの城に別れを告げ、俺の仲間が率いる兵は一路南へ退いていく。
 それを見送るのは、総大将たる俺――織田信長(おだ のぶなが)の仕事であった。

「ねえ、殿? ホントにここに残るの?」

 見送りの最中、最後まで「一緒に行こう」と離れなかったのは前田利家(まえだ としいえ)。
 俺にとっては妹も同然の下級生なのだが、こう見えて織田軍では一、ニを争う猛将だったりして、つくづく人は見た目で測れないと云う見本でもある。

「くぉら犬千代! それがしに断りなく殿に抱きつくとは良い度胸してやがりますな! 
 やってくれた喃! この陰獣(けだもの)めッ!」

 その利家(幼名は犬千代)を口汚く罵るのが、木下藤吉郎。顔以外は全てが残念な俺の部下である。
 利家に敵意を剥き出しにするのも、発育不良の身体から来る劣等感の表れであろう。ひねくれたその心象は、持たざる者への嫉妬でどす黒く歪んでおり――

「そこまで言われるほど、それがし悪いことしたでありますか!? 
 しどい殿! それがしは殿の嫁と描いてメインヒロインと読む、普通の女の子なのに!」

「非攻略対象の分際で偉そうに。お前なんか立ち絵のないモブで充分だ」

「いつものことでありますけど、ホントに殿はそれがしに対して容赦ないですな! 最近はモブにだってちゃんと固定ファンとか、二次創作で専用ルートとか付けてくれる時代でありますぞ? だからそれがしにも殿との専用ルートを!」

「なんだお前、モブでいいのか。じゃあ今日から扱いはモブな」

「それだけはイヤーーーーー!」

 いつものように口実を見つけては藤吉郎を弄っていると……その間に利家は俺から離れ、

「サルちゃんもいっしょに行こう? こんなとこで離れるなんてボク、イヤだよ」

「うっ……! や、その、それがしには大事な任務がありやがりまして……」

 醜いエゴ丸出しで利家を詰った藤吉郎であったが、まさかその利家が自分のことまで心配してくれるとは思わなかったのだろう。
 思わぬ不意打ちに照れる姿は、周囲の笑いを買っていた。

「利家、そろそろ行くよ。気持ちはわかるけど、これも大事な任務なんだから」

 丹羽長秀(にわ ながひで)の手がそっと利家の頭を撫でる。
 優しいその手付きに、長秀の意思を汲み取ったのだろう。利家は渋々と藤吉郎から離れた。

「信長様、危ないときは何時でも呼んでね? 私も利家もまだまだ余裕があるんだからさ」

 負傷者を連れて先に退却した義元に続き、本隊を指揮する長秀と利家も城を後にする。
 その後ろ姿が見えなくなった頃、城門の外から少数の兵を伴った池田恒(いけだ つねおき)と竹中半兵衛(たけなか はんべえ)が帰参した。二人は半兵衛の指示で場外に何やら仕掛けていたそうだが、詳しいことを聞こうとしたら、半兵衛は不敵な笑みを浮かべて、

「全ての準備が整いましたなら、ご披露させていただきます。それまでどうかお待ちを」

 そう言って明かしてはくれなかった。
 自分が仕掛ける策に慎重を期す為なのか、それども単に人を驚かせてやろうと勿体付けているのか。恐らくは後者であろうと俺は踏んでいるが。

「信長、では私も先に行くぞ」

 長秀や利家に比べれば、恒興の出立はずっと淡白で簡素なものであった。
 いつもなら総大将のくせに殿(しんがり)を務めるとか言い出した俺を正座させて、有無を言わせぬ正論で小一時間は説教されそうなものだが……今回ばかりはいつもと勝手が違っている。
 逆に不安になった俺がそれとなく理由を聞いてみたところ、

「お前が決めたことだ。勝手にしろ」

 ひょっとしなくても激怒してらっしゃいましたね、恒興さん!
 愛想を尽かされるとは、正にこのことを云うのだろうか。

「……冗談だ。そんなに悲しそうな顔をするな」

「お前の冗談は分かり難いんだよ! あと悲しい顔なんてしてねぇ!」

「フフ……。まあ、そういうことにしておいてやる」

 俺が狼狽えたのがそんなにお気に召したのか、恒興はツンとすましていた表情を崩して笑う。
 我が幼馴染ながら本当に良い度胸しているな、このサド女。

「本来なら首に縄をかけてでも連行しているところだが、半兵衛がやると豪語してくれたのだ。
 信じないわけにはいくまい?」

 性格的に難があり、仲間達とも決して良好な人間関係を築いているとは思えない半兵衛だが、恒興だけは彼女の才能を高く買ってくれていた。
 それが何とも嬉しくて口元を緩めたら、『なにニヤニヤしている、気持ち悪い』とか罵られましたよ? 
 前言撤回! 性格が悪い者同士気が合ったんですね! もうそういうことにしてやる!

「じゃあ、のぶりん。ワシたちもお暇するニャ。骨は拾ってやるから、安心して無茶するといいニャ」

「じゃあな。また後で」

 援軍として参戦していた徳川の援軍も、恒興たちと共に撤退を開始した。
 縁起でもない台詞を残して去ったのは、秋葉原のメイド喫茶で出会った酒井忠次(さかい ただつぐ)。
 口調はぶっきらぼうだったが生真面目に会釈して別れたのは、榊原康政(さかきばら やすまさ)と云う名の後輩で、二人ともに徳川家の重臣だ。
 個人的には徳川きっての勇将と名高い、本多忠勝(ほんだ ただかつ)の参戦に期待していたのだが、この二人も忠勝に負けず劣らずの将であったらしい。 整然と隊を組んで撤退していく様子を眺めるだけでも、それがよく分かった。

 かくして二百名を数えた俺と家康の大軍はその八割が撤退を開始し、がらんと開けた城の敷地を眺めていると、寂寥とでも呼ぶべき感情が心の中を吹き抜けていく。
 現在、この金ヶ崎城に駐留するのは俺が直接指揮する親衛隊『母衣衆(ほろしゅう)』が10人、そして藤吉郎が率いる独立遊撃部隊の30人で、蜂須賀小六(はちすか ころく)と半兵衛は藤吉郎の部隊に所属している。
 対して、この城に向かって進軍しているであろう敵勢力は三つ。
 元々の対戦相手である朝倉家の軍。
 そして"特例措置"なる反則で援軍として加わった、浅井家・六角家の連合軍である。
 この内、浅井家と織田家は同盟を結んでいたのだが、浅井軍が敵に回ったことからして、どうやら同盟関係は一方的に破棄されてしまったらしい。まあ、最初に約束を破ったのはこちらだけどな。
 最初にその話を聞いた時は、腸が煮えくり返るほどに激怒したものだが、自分でも無茶苦茶だと思った殿の要求が通ってしまい、敵を迎え討つ準備に勤しんでいると、あの激情はいつの間にか萎んで立ち消えてしまっていた。
 とは言え、俺を裏切ってくれた浅井家に対する憎悪が薄れることはなく、劫火にも似た衝動が消えてしまっても、復讐を誓う気持ちは熾火となって燻りつつげている。

「これで見送りは終わりか。自分で決めたこととは言え、ずいぶん寂しくなっちまったもんだな」

「ご安心下され殿! それがし木下藤吉郎がエヴリタイム&フォーエバー、殿のお側に! 
 さあ殿、邪魔者もいなくなったことだし、存分にそれがしを好きにしてい・い・の・よ♥」

「だそうだ、良かったな小六」

「オイオイ、こんなときでアタシを誘うなんざ、とんだ小悪魔だな木下ァ! おう、愛しあおうぜー!」

「誰もお前には言っとらんわ! 寄るな変態ーーーーーーーーーーっ!?」

 逃げ出そうとした藤吉郎を背中から押し倒し、そのまま小六は藤吉郎に覆い被さる。
 年頃の少女が絡み合っているから「百合」――なんて生易しいものではない。一匹のスズメバチがミツバチを揉みくちゃにして肉塊に変えてしまう――そんな貪欲で無残な光景を想起させる、正に捕食と呼ぶに相応しい光景であった。
 というか他所でやってくれ。

「では信長様、城内に戻りましょう。そこで我が"策"についてご説明致します」

 織田軍では日常の風景と化した光景には特に目もくれず、半兵衛と俺は城内へと引き揚げる。
 二方を敵の大軍に囲まれたこの窮地を如何に脱するのか――廊下を歩きながら俺は、半兵衛が与えてくれる"策"を想い、ワクワクする気持ちを押えきれずにいた。





――金ヶ崎城・評定の間。

「さて、聞かせてもらおうか半兵衛」

 約二十畳ほどの広間に腰を下ろした俺と半兵衛、そして遅れてやってきた小六と藤吉郎を加えて作戦会議は始まった。真っ先に俺が説明を求めると、半兵衛は兵士が用意した紙にマジックペンで戦場の概略図を描きながら、説明を始めた。



※実際の地形とは異なります

 俺達が駐屯する金ヶ崎城を中央として、上方の北からは朝倉軍の本隊が。そして右に当たる東からは浅井・六角の連合軍が迫ってきている。先に城を後にした織田軍は下方の南――正確には南南西の南口へと撤退しているが、そこに背後からの攻撃を受ければ、大きな損害を生み出すしまうことは火を見るより明らかだ。
 そこで重要となるのが俺達が駐屯する金ヶ崎城である。
 敵からすれば織田軍を追う際の拠点となる位置にあり、俺達からすれば敵の侵攻を食い止める防壁として活用できる場所に相当する。故に殿を務める部隊はこの城に篭って、本隊が撤退する時間を稼ぐ。それが俺と半兵衛が立てた基本戦術――つまり、籠城戦であった。

「なるほど、城に篭って敵とやりあう訳か。で……その後はどうするんだ?」

 基本戦術の説明を受けたあと、小六が発した疑問は作戦の大前提となるものであった。
 敵軍の侵攻を防ぐのが殿の目的だとして、その目的を果たした後はどうするのか。
 敵の侵攻を食い止めつつ、自らも撤退すると云うのが理想であるが……そもそも敵の侵攻を食い止めること自体が困難なうえ、その上で退かせてもらおうだなんて、敵からすれば実に虫の良い話であろう。
 故に殿を務める部隊の生存率は極めて低い。それこそ身命を賭して任務に挑む必要があることから、殿は武人にとって名誉である一方で、帰還が叶わぬことも覚悟しなければならない過酷な役目である。

「やっぱりあれか? 敬愛する主の為に身をもって敵を食い止める――なんて英雄的なアタシ達!」

 たっぷりの皮肉を乗せた冗談が小六の口から飛び出すが、

「あほう。誰がそんなこと許可するか。そんときゃさっさと逃げろ」

 生憎と俺はその手の美談を好まない性質であり、玉砕が前提の作戦など兵力の無駄遣いでしか無い。
 そりゃあ俺も男だし(←ここ重要! 試験にも出るよ!)、好きな女を守って命を散らす英雄譚には惹かれなくもないですよ? だが俺が率いる兵士は皆女の子であり、彼女たちに犠牲(と言っても命を奪われる訳ではないが)を強いて、俺一人のうのうと生き残るなど恥知らずも良いところだ。
 もちろん、犠牲をゼロにすることはできない。これまでも多くの兵士が俺の野望に殉じて、この学園を退学になっていた。俺の信条も矜持も実際のところは、体の良い偽善でしかないのだろう。
 だがそれでも――俺は小六の云う英雄像には頑として否を唱え続ける。
 故に俺は全身全霊をかけて実行しよう。敵を食い止めて尚且つ華麗におさらばする――そんな虫の良い撤退戦を。

「はは、そりゃあ嬉しいことで。じゃあ、アタシはその言葉に従わせてもらうぜ」

「流石は殿! その慈愛に全それがしのハートもキャッチされたでありますぞ! 
 これはもう、それがしエンディングの前フリでありますな!」

「良かったね藤吉郎。でもそれだけは天地が逆転しても無いから安心してね」

 笑顔で言葉の短剣を突き刺す半兵衛。概ね俺も同意であるが。

「殿の冷酷無比なツッコミはいつものことだけど、てめえ半兵衛、馬に蹴られて死にたいでありますか!」

 思わぬ裏切りを受けて怒る等吉郎を無視し、半兵衛は説明を再開する。
 強引ながらも見事なスルー技能の持ち主であった。

「我が主のご意向を賜ったところで、具体的な内容に移ります。
 ああ、ですがその前にこの半兵衛、皆にお約束いたしましょう――」

手にしたマジックペンをタクトのように一振りし、半兵衛は告げた。

「この戦――ただの一人たりとて織田軍の兵士を失わせぬことを」

 最初は冗談かと思った。
 けれど笑うことはできなかった。目を合わせた瞬間に、瞳に宿す意志の輝きを見てしまったから。
 不敵にギラギラと輝く眩いそれは、絶対の自身が放つ半兵衛の覚悟でもあった。

「おお、これはこれは大きく出たでありますな半兵衛。
 でも殿の前でいいとこ見せようたって無駄無駄無駄ァ! 足引っ張ってやる!」

「お前はどっちの味方なんだサル」

「そんなの殿に決まっているでありますぞ♥ それがしは殿さえいれば他にはなんにも要らないの♥」

 つまり、目的の為には味方であっても平気で犠牲にできるということですね。
 俺、こいつに軍団を預けて本当に良かったのだろうか……?

「ま、犠牲が少ないに越したことはないな。それがゼロならば尚更だ。
 ――いいだろう、存分にやってもらうぞ半兵衛」

「は、不肖の身なれど全力を尽くさせていただきます」

 絵空事と言っても過言ではない大言壮語を放った半兵衛。
 そのくせ、本人は100%本気の発言であるらしい。
 面白い。実に面白い。最高に面白い。言い放ったからにはやってもらおうじゃないか“策士”。
 お前が奇跡を描くのであれば、俺は言い値で鑑賞料を支払おう。

「では――ご覧に入れましょう。これぞ我が策を成す秘法にして繰り糸。
 《武神技》"混千の策糸"でございます」

 両手を覆う黒の革手袋。それを胸の前で交錯させた瞬間――視界に無数の光が走った。
 見れば広間の端々に光を反射する――それは目には見えず、蜘蛛の巣を連想させるような――糸が無数に張りめぐされていた。半兵衛が指を僅かに動かすたびに糸が動き、陽を反射して輝く。《武神》が個別に持つ特殊能力を《武神技》と呼ぶが、半兵衛のそれは文字通りの“糸”であるらしい。

「へえ、糸使いか。俺知ってるぞ、それでこう、敵をバラバラに切り裂くんだな」

 実際にやったら退学どころでは済まないのでバラバラ云々は言葉の綾として、俺の脳裏には張り巡らせた糸を武器に、敵を切り裂く執事のヴィジュアルが描き出されている。あれ格好良いんだよなあ。できることなら俺も使ってみたい技なんだけど。
 しかし俺の期待をよそに、半兵衛は首を横に降った。

「申し訳ありませんが、我が《武神技》はそのような使用を意図したものではございません。
 そうですね……簡単に喩えるならば」

 両手を丸めて短い筒を作ると、半兵衛はそこに口を当てて、

「糸電話です」







 《合戦場》東口から進軍を開始した浅井・六角連合軍は、三十分後には金ヶ崎城を視界に捉える地点に迫っていた。
 率いる《武神》の数は約八十名。
 六角承禎(ろっかく じょうてい)が率いる三十名と、浅井家の重臣が率いる五十名を合わせた数である。浅井家の当主はこの時代にしては珍しく男性であったため、領土獲得の代理闘争《合戦》を指揮するのは、その家臣である三人の《武神》であった。
 その一人、赤尾清綱(あかお きよつな)は先鋒部隊を率いて、今正に金ヶ崎城へと向かう途中であった。
 彼女が率いる二十名の先鋒部隊の足取りは速く、時速に換算して50㎞/時という速度で城へと迫る。常人の数倍の身体能力を持つ《武神》ならではの行軍速度だが、清綱が足を早めたのにはまた別の利用が存在していた。
 斥候からの情報によれば、既に織田軍は金ヶ崎城を出て撤退を開始したとのことで、その迅速な動きに驚きつつも、追撃の好機を逃してはならないと清綱は判断したのである。
 北からは同盟を組んだ朝倉軍の本隊が迫ってきており、合流すれば敵に匹敵する兵数で背後から攻め立てることができる。その為に足の速い先鋒部隊が敵の位置や情報を把握し、可能ならば足止めを行うことも清綱は考えていた。
 だが――彼女の進軍を阻む情報が、偵察班より新たにもたらされた。

「――は? 織田の総大将が金ヶ崎の城に居残っているって?」

 首を傾げる清綱以上に、伝令の兵士も自らが口にした内容に困惑していた。
 無理もない。敵の本隊が撤退を行っている今、金ヶ崎城に駐留するのは殿を務める部隊の筈だ。
 その殿部隊に総大将が加わるなど、前代未聞の珍事と言っても過言ではない。破滅願望を疑われてもおかしくない事態であったが、偵察班は確かに金ヶ崎城に立つ軍旗を目撃していた。
 黄地に永楽硬貨を描いたその軍旗は、内外に織田信長の存在を知らしめるシンボルである。
 報告を受けた清綱は進軍を一時停止し、後続の本隊に伝令を飛ばした。

「ちょっとどういうことよ……意味分かんないわあの田舎者」

 混乱している間にも時間は流れ、喰らいつく背中は一歩づつ遠ざかっていく。
 決して逃してはならぬ好機に未だ届かないことを焦る清綱は、独断で部隊を先行させることにした。
 そして先行する偵察班にこう命じたのである。

「城の様子を探ってきなさい。あの軍旗自身、ブラフということも考えられるし」

 命令を受けた偵察班の部下が、心の中で「勘弁してくれ」と嘆いたのは言うまでもない。







「……糸、電話?」

「はい」

 半兵衛が頷いた瞬間、俺が肩透かしを喰らったのは言うまでもない。
 大層な名前と前フリの割に、パッとしない《武神技》だなオイ! 
 もちろん本人の前では口が裂けても言わなかったけれど、そうした周囲の反応も半兵衛は予想していのだろう。

「何分地味な能力ではありますが、これはこれで使い道の多い代物でありまして――」

 そこまで言って、ふと半兵衛は窓の外に顔を向ける。

「――では実際に見ていただくとしましょう。信長様、鼠が一匹紛れ込んだようです」

「敵か? おい半の字、なんでそんなことが分かるんだよ?」

「詳しくは省くけど、それが僕の能力(ちから)だよ小六。
 ・・・・・さて、信長様? ここは一つ鼠狩りにご協力お願いいたします」







 金ヶ崎城は低い山に建てられた山城である。
 城の内と外を隔てる金ヶ崎城の防刃壁に今、ぴたりと張り付いて動かない少女が一人。
 天乃華学園の制服を着たその少女は、左腕に所属を示す腕章を付けていたが、そこに印刷された紋章は浅井軍のそれであった。

「……はあ、これからどうしよう」

 沈んだ表情のまま吐息を漏らす少女。
 途方に暮れた顔で見上げるのは、背丈の三倍はあるかと思われる防刃壁だ。
 《武神》が《地脈》から吸い上げた《力》で精製する武器は、鉄だろうが岩だろうが蒟蒻だろうが安々と刃を通してしまう。
 ところがこの防刃壁は内部に地脈から吸い上げた《力》が走っており、《武神》が精製した武器をも防いでしまう代物であった。故に背中を預けていても壁越しに攻撃を受けることもない。そう考えて張り付いたまでは良いものの、この高い壁をどうやって超えたものかと少女は途方に暮れていた訳である。

 少女は浅井軍の偵察班に所属する、これと言って名は知られていない一兵士だった。
 この《合戦》が始まる前は神州でも一、二を争う大名家に雇われていたが、その大名家はある戦いで当主を失い、今では周辺国に領土を奪われ続けている斜陽の存在だ。
 少女はその没落の原因を作った戦いに参加していたが、思うところがあって契約を解除し、その後は学園に通う傍ら、新たなる仕官先を探していた。校内浪人とも呼べるそうした《武神》を、大規模な《合戦》の前に臨時で雇い入れることは決して珍しい話ではない。
 少女もそうした経緯で浅井家に雇われたのだが、所詮傭兵は傭兵ということで、最も危険な仕事を押し付けられたというわけだ。

「正直、浅井も待遇は良くないし……あーあ、この《合戦》が終わったら他に仕官しようかな」

 単身で敵地に潜入している癖に緊張感は皆無。
 その上独りで愚痴を零しているところを見ると、真面目に偵察を行うつもりも無い。
 同じように分かれて情報収集に当たっている仲間と合流するまで、ここで適当に時間を潰そう。
 そう考えた少女が、身を隠す場所を探していた時であった。

「よお、何やってんだ」

 突然背後から声をかけられ、飛び退くと同時に少女は身体の向きを変え、声の主を確認しようとする。
 結論から言えば、それが命取りとなった。
 着地と同時に顔を上げた瞬間――少女は信じられないものを目にすることとなる。

 少女と同じ制服を着たその人物は右手に漆黒の刀身を持つ太刀を構え、悠然とした態度で少女を見下ろしていた。
 長い睫毛に縁られた双眸はまるで宝石のように輝き、その奥では光すら飲み込む闇が渦を巻いている。
 掛け値なしの美人、だが少女が言葉を失ったのはその美貌に見惚れた訳ではない。あまりにも鮮烈な容貌が記憶の中の面影と一致した為であった。
 嵐のような土砂降りの雨の中、少女の心に焼き付いた光景が、眼前に立つ人物の顔と一致する。
 それは――少女にとって未だ忘れえぬ初恋の相手でもあった。

「の、のののののぶながひゃま!?」

 驚きのあまり噛んだことにも気づかない。腰を抜かしてその場にへたり込む。
 呆然と敵の総大将に目を奪われた少女は、すぐ側まで敵が歩み寄って来ても抵抗はおろか、逃亡する様子すら見せようとしない。

「悪いけどさ、ちょっと目をつぶってくれるかな?」

「は……はいっ!」

 驚くべきことに少女はすんなりと目を閉じた。
 頬を興奮で染めて、まるで口づけを待つ乙女そのものである。
 但し――素直に目を瞑った彼女が頂いたのは、首筋に打ち込まれたる手刀の一撃であった。

「きゅう」

 と可愛らしい悲鳴を上げて、頚動脈を強打された少女はそのまま意識を失う。
 憧れの人に再会が叶った――その喜びを顔に湛えたまま。








「……なんだったんだろうな、この子」

 半兵衛が察知した敵の斥候。果たして教えられた場所に向かえば、浅井軍の紋章を付けた女の子が一人、緊張感の欠片も無い様子で防刀壁の側を歩き回っていた。
 ちょっと驚かせてやるつもりで声をかけてみれば、逃亡するどころかその場で腰を抜かしてしまい、それどころか呆然とした顔で抵抗のひとつも見せない有様だ。随分と調子の狂う相手であったが、敵の一人をこうして生け捕りにすることができた。

「で、どうするでありますか殿? やはり尋問でありますか? いや拷問? 
 いやん殿の鬼畜♥ それがしまで裸に剥いてどうするでありますか?」

 一人妄想に耽って現実と願望の見境を無くした藤吉郎はさておき、彼女が敵方の偵察兵であれば、色々と情報を引き出したいところではある。
 これは《合戦》に勝つ為なんだし、少しくらい尋問と云う名の××をしても……イイカナ?

「捕虜への虐待は学園法で禁止されていますよ我が主。
 まあ、その手のプレイであれば、何時でも半兵衛目にお言い付けください」

「え!? いいのマジで?」

 思わぬ半兵衛の発言に、俺のオトコのコがアップを始めましたよ?
 年齢的にはストライクゾーンの外なのだが、彼女みたいにクールでガードも硬そうな娘の艶姿を想像すると、そのギャップだけでご飯六杯はいけるね!(俺基準

「ええ、その際は恒興殿が手取り足取り調教を施してくださるそうです」

「そっちかよ! あと何吹きこんでんだあのサド女!」

 返せ! それなんてエロゲなイベントを期待した俺の純情を返せよお!

「まあ、それは冗談と致しまして。藤吉郎、この糸を敵の首筋に貼りつけてもらえないかな?」

 半兵衛の要請を受けて、気絶した少女の首筋に藤吉郎が細い糸の先を当てる。
 その上から絆創膏で固定した――と思ったら、半兵衛はその絆創膏をすぐに剥がしてしまった。

「ちょ! せっかくそれがしが貼ってやったでありますのに」

「もう馴染んだから大丈夫なんだよ。ほら見てみるかい?」

 そう言って半兵衛が糸を引っ張ると、細い糸の先は少女の肌と同化しており、ピンと張った糸が光を反射して輝いた。

「元々《力》で精製したものだからね。相手が《武神》なら体内の経脈とすぐ同化するのさ。
 さて――我が主、これで仕込みは完了いたしました。城内に戻り、早速仕掛けると致しましょう」

「お、おう。だけどこの子はこのまま放置しておくのか?」

「我が策を成すに必要な駒でありますゆえ、このまま仲間に回収していっていただきましょう」

 半兵衛はそう言うが、小六がすぐに異を唱えた。

「いいのか半の字? こいつはアタシたちを嗅ぎ回っていた連中だぞ? お前にどんな策があるか知らねーが、敵にみすみす情報を渡してもいいのかよ?」

「ええ、是非あることないこと吹きこんでいただきましょう」

 小六の指摘を正面から受け止めるだけでなく、冗談を交えて半兵衛は返す。
 その余裕は絶対の自信から生じたものであるのか。
 今や半兵衛の両眼は、悪戯小僧のように期待と愉悦で爛々と輝いていた。

「我が主を陥れた罰でございます。連中には精々愉快に踊っていただきましょう」







「それ本当の話なの? いえその、別にあなたのことを疑っているわけじゃないけど……」

 帰還した偵察班よりもたらされた情報は、またしても清綱の進軍を妨げることとなった。

「でも本当なんです! 確かに私はこの目で信長さ……ああいえ、敵の総大将の姿を確認しました。天地神明に誓って間違いありましぇん!」

 噛んだことにも気づかないほどの勢いで力説する偵察班の少女。
 潜入先で気を失っている姿を仲間に救出された彼女であったが、その口よりもたらされた情報はあまりにも重く、それ故に清綱を大いに混乱させる結果を招いた。
 敵の総大将が味方を撤退させた上で、少数の兵と共に城に篭っている。
 常識的に考えてありえない事態であった。総大将は軍勢の要であり、その存在を部下は身を呈して守らなければならない――それが言葉にするまでもない常識である。従って、部下を守るために大将がその身を呈するなど、百害あって一利無しの愚行でしかない。

「これってつまり……どう考えても、敵に撤退する意志は無いってことよね」

 清綱はそう考えたが、浅井軍を率いる他の重臣も同じ結論を導き出すのは間違いない。
 否、そうとしか考えられないのだ。
 清綱は自らの結論に逡巡しながらも、先鋒部隊に命令を飛ばした。

「全軍ここで休止。後続部隊との合流を待って敵に仕掛けます」

 徒に時間を消費しては、敵の大軍を背後から追撃する、そのアドバンテージを放棄することになる――そう部下から反論されても清綱は単独での進軍を断念せざるを得なかった。
 本来真っ先に逃がすべき筈の総大将を殿に据える――その愚行から導きだされる答えはひとつ。

「敵は退くと見せかけて、我々を迎え撃つ気よ。
 少数の兵を城に残しているのは我々を釣る餌……そうとしか考えられないじゃない」

 その判断に異を唱える者は誰もいなかった。








「――と、云う訳です」

 半兵衛のその言葉に藤吉郎も小六も、そして俺自身も暫く言葉を発することができずにいた。
 再び金ヶ崎城の評定の間に集まった俺たちは、そこで遂に半兵衛の《武神技》――"混千の策糸"の真髄を目の当たりにすることになったのである。
 彼女は勿体付けるように自らの能力(ちから)を「糸電話」と例えた。
 その例えは結果的に正しかった。しかし今この時に到るまで、その糸電話なるものが果たす役割を理解していた者は多分――皆無であっただろう。半兵衛が手にしているのは小さな紙コップ。その口から聞こえてきたのはなんと、敵の将と斥候兵との一連の会話であったのだ。

「ど、どういう理屈なのでありますか?」

 幼馴染と言えど《武神技》については何も知らされていなかったのだろう。
 驚きを隠さない藤吉郎に半兵衛は微笑んで解説に応じた。

「だから言ったろう、糸電話だよ藤吉郎。僕らが発する声は全て肺から送り出した空気を、口の中で共鳴させた"音"なんだ。
 そして"音"とは振動でもあり、空気を伝播して相手の耳に届く。
 その空気の代わりに糸で振動を伝えるのが糸電話――ここまでは大丈夫かい?」

「むむ、そのくらいそれがしでも分かるであります! ばかにすんなー!」

「そうだぞ半兵衛。サルはこの年になるまで地球が丸いことを知らなかったんだ。
 いつだったか地球儀を見て、『へ? これが地球ならそれがしたちみんな下に落ちるでありますぞ?』とかボケずに言ってたんだぞ! 
 だからもっと簡単に説明してやれ。具体的には漢字禁止」

「ごめんね、とうきちろう。もっとわかりやすくはなしてあげるね」

「てめえ半兵衛! 死にたいでありますか!  
 あと殿しどい! あのことはそれがしと殿だけのスイートメモリーじゃなかったの?」

「そうだったか? 悪い、このネタ話すのもう10回目だわ」

「殿のバカーーーー!」

 いつものように藤吉郎を辱め――いや弄って気分を落ち着かせたところで、半兵衛に続きを促す。

「僕の"糸"も働きは同じなんだよ。触れた物体が振動すれば、それを伝播させて"音"として届ける。
 ……もちろんその逆も可能だけどね」

「なるほどな、だからあの時斥候を生かしておいたのか半の字」

「そういうことだよ小六。幸いにして"糸"はあくまで《力》から精製した極細のパイプラインだ。
 僕が《力》を注ぎ続けている限り、決して切れることはない。故に――」

 半兵衛は俺に向き直り、口調を改めて告げた。

「敵の出方はこれで判明致しました。しかし――これはまだ序の口。
 我々が無事に退くまでに、もう少し連中には踊っていただきましょう」

 そして俺は知る。半兵衛の手袋から伸びる"糸"がその数を何十本と増やしていたことに。

「我が主にお願い申し上げます。兵を幾人か貸していただけないでしょうか」

「別に構わねえけど、面白そうなことなら俺も付き合うぜ」

 半兵衛の表情に浮かんだ加虐的な愉悦に気づいた俺は、率先して協力することにした。
 すると半兵衛は俺が乗り気なことに喜び、

「是非に。ならばひとつ派手にいきましょうか。
 藤吉郎、手の空いている兵士を城の広場に集めてくれ。もちろん武装はさせたままでね」

「了解でありますが……一体、何をするでありますか?」

「馬鹿騒ぎだよ」







 その"音"は突如として戦場に響き渡った。
 大地を揺らす無数の足音。大地を荒々しく踏み鳴らしては、蹴り上げて前へと突き進んで行く。
 戦場に立つ者ならば、すぐにその"音"の正体に気付く筈だ。これが――無数の兵が奏でる、猛々しい行進曲であることを。

「い、今何か聞こえなかった?」

 金ヶ崎城から少し離れた丘陵にて待機する、赤尾清綱の先鋒隊。
 偵察班に所属する少女は真っ先にその"音"を知覚し――同僚に尋ねかける。

「え? 何かって何が?」

「ダダダダーッって、何かが走ってくる音だよ。ほらよく聞いて、向こうの方から段々大きくなって――」

『かかれーーーーっ!』

「「!!!???」」

 その時、耳をすませた二人の耳元に確かな人の声が轟いた。
 叫ぶように放たれた号令。それと同時に沸き起こったのは獣の咆哮にも似た喚声であった。
 二人の少女はすぐに判断を下す。これは――

「て、敵だぁーーーーーーーーーーーーー!」

 叫び、慌てふためきながら、二人の少女は味方が多数集まる本陣へと逃げていく。
 だが敵のものと思われる足音が途切れることはなく、少女は恐怖し、敵の襲来を叫びながら、本陣へと逃げ込んだ。

「敵襲ですって!?」

 その報告に肝を握りつぶされるような恐怖を味わいながら、しかし清綱は一部隊を率いる将として極めて冷静に動いていた。
 兵士を本陣に集結させ、状況の把握に務めさせると同時に抜刀を許可する。不意を突かれた恐怖と屈辱に顔を顰めた兵士たちは、本陣を囲むように円陣を組んだ。
 しかし――それからどれだけ時間が経っても、敵兵はただの一人も姿を現すことはなかった。

「……どういうことなの?」

 時間が過ぎるにつれ、清綱全身から緊張が風船の空気のように抜けていく。
 一向に姿を見せない敵軍を訝しみ、清綱は敵襲を告げた偵察班の兵士を呼び寄せた。

「確かに聞こえたんです。無数の足音と、『かかれー!』って号令が」

 偵察班の二人の少女は顔にびっしりと汗をかき、千々に乱れた前髪を肌に貼り付けたまま説明している。
 敵の襲来を受けて、命からがら逃げ延びてきたと聞けば納得してしまう、這々の体を晒していた。

「分かったわ。もう下がって良いわよ」

 彼女たちの報告は偽りではない――納得はできないもののそう判断した清綱であったが、そこにもう一人の偵察班の兵士が慌てて駆けつけてきた。

「大変です、御大将! て、敵の旗が、旗が――」

「旗がどうしたのよ、落ち着いて話しなさい」

「は、はい。えっとその……ご報告します!」

 主君に窘められた兵士は冷静さを取り戻したが、続いて告げた内容には困惑の色が色濃く滲んでいた。

「金ヶ崎城から――織田軍の軍旗が全て消えてしまいました!」

「な、なんですってーーーーーーーーーーーーー!」








 誰もが床に伏していた。
 ある者は苦しそうに身を捩り、ある者は顔を真っ赤にして口元を押さえ、またある者は手が痛むのも構わず、床や壁を叩きつけている。
 かく言う俺も床に這い蹲り、腹の奥からこみ上げる衝動に必死で耐えていた。

「は……半兵衛、もう結構であります。それ以上聞かされたらそれがし、それがし……」

 藤吉郎は喉を振り絞って声を紡いだが、それこまでが限界であった。
 一人涼しい顔をした半兵衛が、すっと腕を下ろした直後――

「それがし、お腹痛くて死んでしま――ぎゃははははははははははは!」

 藤吉郎は吹き出し、文字通り床を笑い転げる。
 それが引き金となり、一人、また一人と誰かが吹き出せば連鎖的に、五秒と絶たないうちに金ヶ崎城の広間は爆笑の渦に包まれた。
 あまりに可笑しくて、腹筋が痙攣しかかっているのが分かる。
 嗚呼、こんなに可笑しいのは、大晦日恒例の笑うと尻を叩かれる番組以来だぜ!

「ふむ――敵はどうやら、我々が城を後にしたものと考えたようです。聞きますか、我が主?」

「いや、ちょっと待ってまだ腹が痛い……つか、分かっててやってるだろ半兵衛!」

「いえ、そんなことはちっとも」

 しれっと否定しながらも、半兵衛の口元は三日月状に釣り上がっている。
 もうバレているとは思うが、半兵衛の《武神技》、"混千の策糸"を仕込まれた敵兵を通じて、周囲の音や声は逐一俺達のもとに届けられていた。
 突然の敵襲に慌てふためいた少女が本陣に逃げ込み、そこから混乱が伝播していく様子は音声だけでも十分に伝わってきた。
 既にその時点で、広間に集まった皆は口元を押さえて笑うのを堪えていたが、敵の大将格が敵の姿が見えないことに疑問を抱き、“受信器”たる少女を呼びつけた時などは、二、三人が軽く吹き出して床を転がっていたことを憶えている。
 そして金ヶ崎城から織田の軍旗が消えたことを知って叫んだ瞬間――皆は一斉に散って、広間の端々でこみ上げる笑いを堪えようと悶絶していた。あと一分でも半兵衛が中継を止めなかったら、俺達の笑い声が敵方の耳に届いていたかもしれない。

「改めて思ったけどさ、半の字って相当に人が悪いなあ。あちらさん、えらく混乱してたぜ」

「それが目的だからね。いや、僕もここまでうまくいくとは予想外だったよ。
 よっぽど小六たちの演技が迫真のものだったんだろうね」

 半兵衛の言葉に笑いがどっと巻き起こる。
 何を隠そう、この広間に集められた兵士たちこそが、姿なき襲撃者の一員であったのである。
 半兵衛が講じた“策”とは実に単純なものであった。
 自ら糸電話と評した半兵衛の"糸"は相手側の音を拾うだけでなく、逆に音を伝えることも出来る。その特性を利用した俺達は、遠く離れた金ヶ崎城の広場で奇襲を仕掛ける――その演技を行ったのである。敵に迫る無数の足音、俺が号令を放つとそれを受けて皆が喚声を上げる。
 その声は半兵衛の"糸"を通して敵方の斥候兵に届けられ、敵襲と勘違いした彼女は見事に自らの部隊を引っ掻き回してくれたという按配だ。

 しかし、半兵衛の策はそれだけにとどまらなかった。
 実体なき敵襲で敵陣を混乱させる一方で、金ヶ崎城に立てていた軍旗を全て外してしまったのである。
 これを知った清綱はまさか俺達が聞き耳を立ているとも知らず、斥候兵に聞こえるように自らの判断を口にしてしまう。
 即ちそれは――

「我々は密かに城を離れ、敵先鋒部隊に迫っていたそうですよ、我が主。
 なんとも想像力のたくましい方ですね、敵の大将は」

「全くだ。それで、あちらさんはどう動く?」

「どうやら、“受信器”には周囲を探れと命令が下されたようです。
 後続の本隊がもうすぐ到着するので、その前に伏兵を炙り出そうと云う腹積もりでしょうか」

 半兵衛は笑って言うが、後続の本隊が到着間近と聞いて、俺は笑うのをやめた。
 今でこそ半兵衛の奇策で敵部隊を混乱に陥れていたが、主力を先に退けた今、こちらの兵力は敵に圧倒的に劣っている。仮に浅井・六角連合軍と朝倉軍が合流して金ヶ崎城を包囲してしまえば、俺達は一巻の終わりであった。
 危機は未だに足元に忍び、隙あらば大口を開けてこちらを飲み込もうとしている。
 だが恐れることはない。あの底意地の悪い策士が、歌うように自らの"策"を奏でる限りは――

「では、第二幕と参りましょう」

 手にしたペンを振り、策士は高らかに告げるのだった――。





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