
1.浮島ヶ原の歴史
沼や湖の多くは火山の噴火や川が堰き止められてできますが、浮島沼は、海が川や山麓からの砂礫の流入・堆積で塞がれてできた沼です。図1は、浮島沼の成因を模式的に示しています。1)
沖積世(約一万年以上前)の駿河湾海岸線は愛鷹山麓にありましたが、長い年月の間の、富士川、狩野川、黄瀬川、や愛鷹山からの砂礫の流入と堆積により、海底が浅くなり浅瀬ができ、その中のいくつかは田子の浦砂丘や千本砂丘などの砂洲となりました。(図1(A))
縄文時代前・中期(約四〜五千年位前)には、それらの砂洲はほぼ完全に繋がって駿河湾を塞いだため、愛鷹山麓との間に広大な潟湖が形成されました。(図1(B))
潟湖は、弥生時代中・後期(約二千年位前)には、愛鷹山の多くの小河川から土砂の流入・堆積で埋立てられ規模が縮小するとともに沼沢化し、浮島沼が形成されました。(図1(C))
浮島沼(*1)は、その後長い時間をかけてさらに規模を縮小するとともに、湿地帯へ変わっていきました。こうしてできた浮島沼を含む湿地帯が浮島ヶ原です。富士市東部から沼津市西部までの、東西約13km、南北は愛鷹山と、駿河湾とその海岸砂丘に挟まれた約2kmと、細長い地域に広がっています。
浮島沼は、富士山を眺望できる風光明媚な場所として旅人の疲れを癒し、文人墨客や歌人の歌、歌川廣重等の浮世絵師の絵によって人々に広く世に知られ、幕末・明治初期には現在の冨士五湖と共に冨士八湖の一つとして絵葉書などで全国に知られていました。図2と図3はその例です。
浮島沼周辺には古くから多くの人々が住み、低湿地帯では稲作農耕が行われていました。江戸時代前期に、幕府の東海道整備、五十三次宿駅の設置、新田開発などの政策によって、浮島沼周辺に新田集落が形成されました。こうして、浮島ヶ原は、山間のような原生的自然地域ではなく、東海道の交通の要所となって発展していきました。当時、その周辺の水田は、洪水や逆潮に悩まされ、また泥深い水田に腰までつかりながら田植えや稲刈り、田舟で苗や稲を運搬しなければならないなど、水との苦しい戦いが続きました。そこで治水・排水工事が必要でした。治水・排水工事は江戸時代から始まりました(*2)。本格的には1850年からでしたが2)、成功せず、長い間湿田として残されました。湿田が姿を消し始めたのは、1966年に完成した田子の浦港の開港による沼川排水工事の改善からでした。これ以降乾田化が進みました。乾田化が進むとともに、かっての美しかった浮島ヶ原の湿性草原の姿は次第に失われていきました。
現在では、農地基盤整備のための各種事業導入、宅地化、商業地化、工場用地化などが進み、もはや湿原はほとんど失われてしまいました。
文 望月宏充(本会理事,郷土史家)
(注1)浮島沼という呼び方は、明治以降になって一般化したもので、江戸時代には、「富士沼」や「廣沼」と呼ばれていました。また浮島沼は、「柏原沼(または柏原湖)」「須津沼(または須津湖)」「廣沼」「富士の大沼」、などと地域で呼名が違っていました。
(注2)筆者は最近、原一本松(沼津市)にある掘割跡が宝永時代の古文書の中から宝永5-6年(1708-1709)頃の治水・排水工事跡であることを発見しました。
引用文献
1)加藤芳明著:浮島沼前史,史話と伝説
富士山麓の巻 浮島沼前史(松尾書店発行,1968)p.216.
2)富士市立博物館編:浮島沼と米づくり(富士市立博物館発行,1974).
2.浮島ヶ原の植物
本格的な乾田化が進む以前の浮島ヶ原は多様な湿原環境を持っていました。浮島ヶ原には、浮島沼、水田や水路、葦原などの湿性草地、少し乾燥した草地などの多様な環境が構成され、独自の多様な湿原生態系が形成されていました。
浮島沼には、マコモ、スイレン、ヒツジグサ、ヨシ、ガマ、イグサ、オオアカウキクサ、マツモ、ミズバショウなどの水性植物が生育していました。1) 一方、水田の水を調節する水路のそばや土手には、様々な浮島ヶ原固有の湿地性植物が普通に見られました。また稲刈りの終わった水田では、稲の根元で生育していた植物や新しく発芽した植物が見られました。水田が深く稲作に不適当なところは一面ヨシ原でしたが、ヨシ原もまた湿地性植物の生育環境を提供していたのです。ヨシは刈りとって葦簾の材料や堆肥や敷き草に活用されていました。そのため、ヨシが刈り取られることにより、地表に太陽の光が届き、背の低い植物が生育できたのです。また水田の周辺に生えたススキもまた同様でした。ススキは、屋根の材料に使われました。こうして、浮島ヶ原の湿地性植物は、稲作の作業サイクルやそこに住む人々の生活スタイルにうまく適合し、共生しつつその多様性が保全されたのです。
以上の浮島ヶ原の湿原環境は、ゆっくりと長い時をかけて変化していったのですが、20-30年前まではまだ多様な湿地として残されていました。そのため多くの種類の水性・湿地性植物が生息していました。現在では絶滅したかほとんど見られないミズバショウ、マルバオモダカ、アギナシ、などが見られました。2)
環境の急激な変化が生じたのは、田子の浦港が開港した1966年以降でした。乾田化とともに、除草剤や化学肥料の大量使用ならびに土地改良などの近代的農法の導入、また生活廃水など汚水の流入などが原因です。また宅地化、商工業化などの土地利用も進みました。かくして、富士市域の浮島ヶ原で1976年頃から本格的に始まった植生調査記録2)によると、かっての水性・湿地性植物の多くが姿を消していました。(*1)
しかし、現在でもわずかに残された湿地には、まだ多くの植物がひっそりと生息しています。静岡県は、浮島沼を、県内でここにしか見られない種を含めレッドリスト種が7種(サワトラノオ、ヒキノカサ、ヒメハッカ、オニナルコスゲ、ノウルシ、ミツガシワ、テツホシダ)3)も生息する“今守りたい大切な自然10ケ所”の一つとして選定しました。
筆者は、最近、沼津市域の浮島ヶ原で、レッドリストに挙げられている、全国的に数ケ所しかないサワトラノオ(写真1:トップページ左)、県内では浮島沼などしか見られないノウルシ(写真2)、オニナルコスゲ、ヒキノカサ(写真3)、ミツガシワ(写真4)の他、ミズタガラシ(写真5:トップページの中)、ナヨナヨワスレナグサ(写真6:トップページの右)、ヌマトラノオ(写真7)、オギノツメなどの珍しい植物の生息を確認しました。(*2)
英知を集め、農業との両立による多様な野生植物の保全を再び取り戻すことが求められています。
文 鈴木昌宙(本会副理事長,植物愛好家)
(注1)これまで、沼津市域の浮島ヶ原での植物相や植物に関する調査記録はありません。
(注2)写真1〜写真7は、筆者が撮影したものです。
引用文献
1)沼津市史編集委員会編:旧村地誌二 浮島村誌 郷土の研究(沼津市教育委員会発行,平成15年)p.133.
2)富士市都市整備部みどりの課編:富士市の自然 富士市域自然調査報告書(富士市発行,昭和61年発行年)p.762.
3)静岡県自然環境調査委員会編:まもりたい静岡県の野生生物-県版レッドデータブック- 普及版(羽衣出版発行,平成16年)p.162.
3.野鳥にとっての浮島ヶ原
浮島ヶ原は太平洋岸側で本州のほぼ中央にあり、海岸線に沿って渡りをする鳥たちがよく通過する場所です。背景に見える富士山は、有視界飛行する鳥たちの重要な目印になりそうです。そして緑の愛鷹山の南に広がるヨシ原を含む農地や川の流れは、鳥たちに安心できる環境として見えることでしょう。このような条件から、野鳥たちはこの場所を次のように利用しています。
<夏鳥たちの繁殖地> オオヨシキリ(写真1)やコヨシキリ、セッカ、タマシギ等が繁殖していますが、ヨシ原の減少に伴い個体数は減少しています。
<夏鳥のねぐら> 7月から9月にはツバメの大群がヨシをねぐらにします。
<旅鳥の休み場> 春と秋に通過していくシギ類やチドリ類、ノビタキ、ノゴマ等々の鳥たちが採餌したり休んだりしていきます。
<冬鳥たちの越冬地> カモ類、タゲリ(写真2)、オオジュリン(写真3:トップページ)、コジュリン、カシラダカ等が越冬します。オオタカやチョウゲンボウ、コミミズクも来ます。しかし、オオジュリンやコジュリンはヨシ原に依存している度合いが高いので、個体数が減少しています。
<留鳥の生息場所> スズメやヒバリ、サギ類が餌を採ったり繁殖したりしています。
浮島ヶ原では近年200種類以上の野鳥が観察されていますが、この数字は国道1号がヨシ原を埋め立てて作られた後の数字ですので、それ以前はもっともっと多かったのではないでしょうか。
浮島ヶ原における圃場整備や埋め立てによる環境の変化はヨシ原の減少につながり、湿地に生息する鳥たちの減少を招いています。また自然をレジャーに利用しようとしてこの場所に踏み込む人の数が多くなって来たことも鳥たちには厳しい状況です。これらの人為的な変化は人間にとってはやむを得ないと割り切れることかもしれません。しかし、日本全体で開発が進む中、鳥たちにとって他に行く場がないのも事実です。たくさんの野鳥が安心して生息できる環境は、人にとっても潤いある環境といえます。開発や利用の中に鳥たちへの配慮があれば、不必要に自然の潤いをなくすことがなくなります。
沼津市ではこの地域の一角にビオトープを作ることになりました。このような野鳥保護につながることが浮島ヶ原で今後ますます増えることを期待します。
文 神谷芳郎(本会理事,(財)日本野鳥の会沼津支部 支部長)
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