トップページ
市長のお部屋
ゆーけーTOWN大学
CSR研究所
歴史人物資料館
メールマガジン
資格・自己啓発あれこれ
ゆーけーTOWN図書館
管理人ブログ
意見交換サイト
リンク集
サイトポリシー


バックナンバー

創刊号 石田三成
第2号 諸葛孔明
第3号 大石内蔵助
第4号 武田信玄
第5号 盛田昭夫
第6号 野口英世①
第7号 野口英世②
第8号 野口英世③
第9号

織田信長①

第10号 織田信長②
第11号 織田信長③
第12号 伊達政宗①
第13号 伊達政宗②
第14号 レオナルド・ダ・ビンチ
第15号 コラム・歴史人物ちょっといい話
第16号 歴史を好きになる方法
第17号 歴史人物ちょっとした話
第18号 学問に命をかけた学者たち
第19号 誤解されがち!?な人々
第20号 偉大なる教育者①
第21号 一度は言ってみたいセリフ
第22号 人を愛するって素晴らしい!
第23号 ここが踏ん張りどころ!
第24号 不安なときはどう乗り切れば?
第25号 反乱者にも理屈はある!
第26号 運命を恐れずに切り開こう
第27号 歴史の故事成語①
第28号 歴史の故事成語②
第29号 自信
第30号 転職①
第31号 失敗は成功の元
第32号 yes,we can.
第33号 損得を超えた交わり
第34号 酒は飲めども・・・
第35号 本業と著述業
第36号 バックとフロント
第37号 顔の話
第38号 企業の社会的責任
第39号 言葉は世界を広げる
第40号 世界の祝日①
第41号 世界の祝日②
第42号 世界の祝日③
第43号 選挙
第44号 勝利の哲学
第45号 山登りの話
第46号 ノーベル賞のお話①
第47号 ノーベル賞のお話②
第48号 いい夫婦
第49号 障害を乗り越える
第50号 人の力を集める
第51号 部下思う、故に我あり
第52号 大抜擢
第53号 カッとなって・・・大惨事
第54号 読書
第55号 諌言は一番槍より難しい
第56号 虎とウサギ
第57号 災害から飛ぶ不死鳥
第58号 寛容
第59号 チャリティ


メールマガジンの講読・解除は本文下部のフォームをご利用ください。

メールマガジンの感想などについては、こちら から



メルマガ相互紹介は【めるまりんく】



メールマガジン「あなたを一回り大きくする歴史人物のお話」


 あなたは、歴史についてどのようなどのようなイメージを持っていますか?覚えるのが難しい、受験科目にあるからやらなきゃいけない、堅苦しくてイヤだ、などといったイメージを持っていませんか?

 もしそうだとしたら、それは非常にもったいないことです。なぜなら、歴史は、本当は凄く面白い、個性豊かな人間による壮大なドラマだからです。大河ドラマや時代劇では、人物に扮した役者は、役を与えられて動いているだけだけれども、歴史上の人物は、自分の命をかけて、人生をかけて、自分の夢や野望、信念を追い求めていったのです。大河ドラマや歴史小説、歴史をシミュレーションしたゲームが人気があるのは、このような理由によるのです。

 人類の長い歴史の中で、多くの人物がその流れに関わってきました。その中には、清廉潔白な官僚や政治家、情に厚いサムライ、みんなを幸せにしようと自分の人生を費やした人もいれば、女やギャンブルに溺れたり、夢を果たそうとして果たせず、その人生を終えた人もいます。それらの人物も私もあなたも、各自は一人の人間です。同じ可能性を秘めて生まれてきたのです。同じように可能性を秘めて生まれてきた人間が、どこで成功者と失敗者に分かれるのか、どうしたら成功者になれるのかを知りたくないですか?昔から、人々が過去の人物に学んできたことからもわかるように、歴史上の人物には学ぶことはたくさんです。歴史は人生の最高のテキスト、と言ってもいいのです。

 ということで、このメールマガジンでは、1回につき、1人の人物を、エピソードを交えて紹介していきたいと思います。それぞれに、思わず笑ってしまったり、ホロリとしてしまうようなエピソードがあります。その教訓を謙虚に受け止めることができれば、共感したり、感心したりして、きっとあなたを一回り大きくします。

 さぁ、あなたも楽しい歴史の世界に入りましょう。


=================================================================================
【あなたを一回り大きくする歴史人物のお話】 創刊号 2003/8/*
=================================================================================
【発行者ゆーけーからのご挨拶】
 あなたは「歴史」についてどう思っていますか?難しいと思っていませんか?うっとうしい、役に立たない、受験生の敵!と思っていませんか?もしそう思っていたら、あなたはもったいない人です。
 歴史は、数多くの人物がその人生をかけて築き上げてきた、壮大なドラマなのです。その中には、夢や野望を達成した人もいれば、残念ながら力及ばず、達成できなかった人もいれば、女やギャンブルなどで身を崩してしまった人もいます。成功者からはいいところを学び、失敗者からは、その失敗の原因を学ぶことができたなら、その教訓はきっとあなたの中に根付くことでしょう。歴史は、最高の人生の教科書なのです。
 このメールマガジン「あなたを一回り大きくする歴史人物のお話」では、毎週1人の人物を、いろいろなエピソードを交えて紹介していきます。共感したり、感心したりできたとき、あなたは一回り大きくなっていることでしょう。
 ついでに、受験生の方に一言。もし、このメールマガジンを読むことで、歴史が好きになったなら、あなたの歴史の点数はぐっと上がります。あるいは、点数が獲りやすくなります。なぜなら、歴史が好きになると、自分でも止められないくらい自分から勉強をしてしまい、苦労せず、嫌な思いをせずに歴史が頭に入ってしまうからです。私も、受験の時は歴史に関しては苦労しませんでしたから。他の教科はさんざん苦労しましたが(笑)。
 それでは、お待ちかね、第1回歴史人物のお話です!
--------------------------------------------------------------------------------------------
 【あなたを一回り大きくする歴史人物のお話】
1.石田三成

 あなたは石田三成という人物にどのようなイメージを持っているでしょうか?頭が切れるけど冷たい、とか、自分の野望のために関が原の戦いをした、とか、よくないイメージが出来上がっているのではないでしょうか?
 しかし、石田三成のエピソードを知り、彼に興味を持って、彼のことを書いた本をいろいろ読んでいくうちに、決して彼は、自分のために動いた人間でも、狭量な人間でもないことを知りました。彼は本当は温かく、信義に厚い、立派な公務員であったのです。

 三成は1560年、近江(滋賀県)に生まれました。父は石田正継といい、土着の武士(土豪)でしたが、和歌や文学に造詣の深い教養人でした。そんな父親なので、三成は小さい頃に寺に預けられ、勉強させられたのです。そして、平穏に暮らしていたある日、彼の人生を変える出来事があったのです。

 ある日、狩りに出ていた人が、その帰りに、お茶をもらいに三成のいる寺に寄りました。そこで三成がお茶を出すのですが、彼は、最初に茶碗いっぱいのぬるめのお茶を差し出します。お客さんは「うむ、うまい!もう一杯くれぃ」と言いました。そして、今度は少し熱めのお茶を茶碗に半分ほど、もう一杯所望されると、今度は熱いお茶を少しだけ差し出しました。つまり、最初は、のどを潤すために、飲みやすく、2,3杯目はお茶を味わうために徐々に熱くしていった、というわけです。この機知に感心したお客さんは、「この子をわしにくれ」と、三成まで所望します。三成もこれを承諾し、この人に抱えられることになりました。この来客こそ羽柴秀吉、のちの太閤・豊臣秀吉です。

 こうして羽柴家中に属した三成でしたが、すんなり受け入れられたわけではありません。もともと秀吉は尾張(愛知県西部)の人間であり、その家臣にも尾張出身の人が多かったのです。そして、戦闘要員を特に必要としていた秀吉であったので、尾張出身の家臣には加藤清正や福島正則など、腕っ節が自慢の者が多く、才知がとりえの三成とは肌が合わなかったのです。しかし、いまや大名になった秀吉には三成などの経営能力を持った官僚タイプの家臣が必要なわけで、秀吉の薫陶を受けながら、日々拡大していく羽柴家の領地を管理する仕事をこなしていくのでした。

 そうやって、尾張組も近江組もお互い自分の得意分野で活躍し羽柴家全体がガムシャラに走っていた時、三成や羽柴家どころか日本の歴史を変える事件が起こりました。1582年、明智光秀が主君・織田信長を殺害した本能寺の変です。当時、秀吉は中国地方で中国の覇者・毛利家と戦っていました。しかし、京都で光秀が主君を殺害し、敵に回るとなれば、挟み撃ちにされかねません。そこで、秀吉はすぐに毛利家と講和し、急いで京都に戻り、光秀と対決することにします。しかし、講和を成立させても、光秀に時間を与えることはできません。そこで速攻で光秀を破ろうとするわけですが、そのためには円滑な補給作戦が必要不可欠です。この補給活動に三成はその能力を発揮しました。三成らの働きですぐに京に帰ることのできた羽柴軍は、山崎の戦いで明智軍を破ります。

 しかし、羽柴家の戦いは終わったわけではありません。その後、織田家の処理をどうするかを巡って行われた清洲会議では、織田家の重臣筆頭の柴田勝家らと対立。柴田勝家を賤ヶ嶽の戦いで破り、旧織田家内部での主導権を握ります。この賤ヶ嶽の戦いで、三成は武功も上げたが、それ以上に補給活動などで勝利に貢献したと言われています。

 こうして、織田家内部の敵をなくした秀吉は、織田信長の遺志を継承し、天下統一事業に乗り出します。1585年には関白になり、豊臣秀吉と名乗り、このとき三成も治部少輔となります。「石田治部」と言う呼び方はここから来ています。同年、四国を攻撃、四国の覇者・長曽我部元親を降伏させ、87年には島津義久を降し、九州を制圧。90年には小田原北条氏を滅亡させ、同時に奥州の伊達政宗も降伏させ、天下統一を成し遂げました。一連の戦いは、秀吉の特徴である大量動員作戦が採用されたのですが、その作戦を遅滞なく進めることができたのは三成の業績だと言われています。

 そして、内政が重要になってくると、これはもう三成の出番です。豊臣政権の政策といえば太閤検地や刀狩が有名ですが、三成は両方の政策の責任者となり、この難しい政策を成功させていったのです。三成と言うと、中央にいて現場にはいない、と言う感じがしないでもないですが、彼は積極的に動き回り、民心の安定に尽くしました。この政策遂行の過程で、薩摩(鹿児島県)の島津氏や会津(福島県)の上杉氏との交流を深めています。

 こうして、内政に大いに才能を発揮した三成ですが、災難もありました。秀吉が養子秀次を自殺させる時にはその責任者になって人々から憎まれ、朝鮮出兵では武功派と対立します。三成も何とか仲直りしようと茶会を開いたりするのですが、両者の溝は収まらないままでした。また、朝鮮で大将らしく振舞わなかった小早川秀秋(元秀吉の養子)が秀吉に怒られたことまで三成の方に悪意の視線が向いていきました。

 そのような緊迫した事態のさなか、秀吉が病没してしまいます。その直後、最大の実力者であった徳川家康が天下獲りに動き出します。家康を警戒した三成はもう一人の実力者で、豊臣秀吉の親友にして忠臣である前田利家と協力して家康を抑えようとします。しかし、前田利家が亡くなると、家康どころか、武功派の諸将にも神経を使わなければなりませんでした。利家が亡くなるや否や武功派は三成を殺害しようとしますが、三成は宿敵家康に庇護を求め、命は守りました。が、彼は隠居させられてしまいました。といっても、くじけることなく家康打倒の計画を練り続けました。

 そんな彼に最大のチャンスが訪れます。家康が会津の上杉景勝を攻撃するため、上方から離れたのです。千載一隅のチャンスだと思った三成は、同志を誘って挙兵します。一方家康も、三成を倒し、一気に反家康勢力を壊滅させることを狙っていたので、会津に着く前に反転し、両者は衝突します。関が原の戦いです。

 三成の西軍は五大老の毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝に盟友の大谷吉継・小西行長・真田昌幸・幸村、そして小早川秀秋など。一方、家康率いる東軍は徳川8万に加え、武功派の大名など。兵力は互角、布陣は西軍に圧倒的に有利でした。しかし、三成は戦歴が乏しく、味方の信頼を完全に得ているわけではない一方、家康は、織田信長と同盟している頃から各地を転戦し、小牧・長久手の戦いでは秀吉を破るほどの戦歴を誇り「東海一の弓取り」との異名まであるほどの名将で、配下の将の信頼が厚いだけでなく、武功派は三成憎しの思いで意気軒昂だったので、この点は家康の方が有利で、勝負の行方は予断を許さないものでしたが、結局、この点が勝負を決めました。

 戦闘が始まると、石田・宇喜多・小西・大谷軍の奮戦で、当初は西軍が有利に進んでいきました。しかし、お昼ごろ、家康が小早川秀秋の陣地に鉄砲を撃ちかけ寝返りを催促したところ、その通りに秀秋は寝返りました。彼の軍は大軍であった上、山上に陣取っていたので、寝返られると西軍はひとたまりもありませんでした。さらに、小早川軍に呼応して寝返りが続出しました。しかし、それでも、大谷軍は小早川軍に打撃を与え、幾度かの衝突の後に力尽き、吉継は自害しました。宇喜多・小西軍も粘りましたが、最後は崩壊し、二人とも戦線離脱していきました。そして、石田軍は・・・。

 三成は、西軍の事実上の総帥であり、彼の部隊の戦いぶりは大いに注目されました。その注目に応えるかのように、石田軍は奮戦しました。三成の下には島左近や蒲生郷舎といった名高い勇将がそろっており、そのため、石田軍は参加した部隊の中でも-恐らく最も-勇敢に戦うことができました。石田軍は最後の最後まで奮戦しましたが、結局最後は崩壊してしまい、三成も戦線離脱せざるを得ませんでした。こうして、関が原の戦いは東軍の勝利で幕を閉じたのでした。

 大坂城目指して逃亡すること数日間、ついに三成は旧友の田中吉政に捕縛されます。このとき、三成は悪びれることなく旧友に接し、吉政も手厚くもてなしたといいます。そして、その後、東軍の集結している城に連行されるのですが、ここでまた彼らしいエピソードが残っています。

 城の中で、捕縛された姿でさらされていると、武功派の一人、福島正則が通りかかりました。彼は馬上から「無謀な戦いを起こした愚か者」と罵りました。三成は「貴公を捕らえられなかったのが残念だ」と気丈にもやりかえします。同じく武功派の黒田長政は三成に上着を着せかけいたわりの言葉をかけました。豊臣恩顧の武将の藤堂高虎は「もし我が軍に至らないところがあればお教えください」と、奮闘した石田軍の大将として、謙虚に教えを請い、感激した三成は色々指摘したといいます。その後引見した家康も敬意を払って接したらしいです。そこでも三成は自らの正当性を訴えたといいますが。

 結局、三成は処刑されることになるのですが、この時にも彼の器量を示すエピソードが残っています。

 処刑される寸前に、彼はのどが渇いて護衛の兵にお湯を所望しました。しかし、お湯はないと言われ、代わりに渋柿ではどうか、と勧められました。しかし、三成は「渋柿は痰の毒だから食べられない」と言って拒否しました。護衛の者は「今から死ぬ者が今更体の心配をするのか」と笑いましたが、三成は「大義を思う者は最後まで体を大切にするものだ」と気を吐きました。同様に、彼の身柄を預けられていた家康の家臣・本多正純が三成に「自殺もせず捕まるとは恥ずかしくないのか」と問うと、三成は「貴公のような者にはわからないかもしれないが、大義を思う者は最後まで命を大切にする。頼朝も敗戦しても自害しなかったからこそ天下を取ったではないか」とやり返しました。名誉より何より目的の達成を願う三成の心が伺えます。

 処刑の時、三成は読経も辞世の句もなく、従容として死んでいったといいます。享年41。

 三成は、権力の座にありながらも、不正は行わず、私欲を肥やすこともありませんでした。関が原で奮戦した島左近には自分の禄高の半分を与えて招聘したり、関が原の戦いの後、東軍が三成の居城・佐和山城を見たところ、貧相であったりしたというところからも伺えます。関が原でも、彼に味方した者は、皆、豊臣家の忠臣と言われていることも、彼の本心が豊臣家を守ることにあったことを示しています。

 1603年、家康は征夷大将軍の座に就き、武家の棟梁としての座を確定します。そして1614年、大坂冬の陣で家康は豊臣家を滅ぼしにかかります。真田幸村などの奮戦もありましたが、時代の流れに逆らうことはできず、15年、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。徳川幕府は250年後の明治維新によって終焉を迎えます。



参考文献
・「戦国武将一日一言」 童門冬二著 PHP文庫
・「歴史群像55  石田三成」 学研
・「石田三成」 徳永真一郎 PHP文庫

-------------------------------------------------------------------------------------------------------
【編集後記】
 創刊号はいかがでしたか。少しでも歴史の醍醐味を味わっていただけたでしょうか。このメールマガジンは私にとって初めてのものなので、至らない点も多いかもしれません。そのような点がある、と感じられた場合は、是非ご意見をお願いします。また、紹介する歴史人物のリクエストなども大歓迎です。全てを紹介できるかどうかはわかりませんが、できるだけ紹介したいと思います。

 これからも、多くの人物を紹介して、あなたのお役に立てることを願っています。今後とも、末永くお付き合いいただけると幸いです。

 それでは、来週の歴史人物紹介をお楽しみに!
-------------------------------------------------------------------------------------------------------
 発行者:ゆーけー
 Mag2ID=0000115453
 購読登録・解除、ご意見・ご感想・リクエストはこちらまで:http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/9639/mailmagazine.htm
 ご意見・リクエストなどお待ちしています。
 ホームページはhttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/9639/
 歴史のほか、時事問題や政治経済・国際関係を扱っています。興味のある方は是非お越しください。筆者の自己紹介もあります。

 このメールマガジンは『まぐまぐ』http://www.mag2.com/を利用して発行しています。

メルマガ購読・解除 ID: 115453
あなたを一回り大きくする歴史人物のお話
   
バックナンバー powered by まぐまぐトップページへ



Copyright © 2009 UK TOWN.  All Rights Reserved.