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宇治田原は「日本緑茶発祥の地」を標榜しており、そのいわれは、永谷宗円が「青製煎茶製法」を開発し、普及させたといわれるからである。そのあらましは下記のとおり。 |
| 日本における喫茶の習慣は、遣唐使や栄西の「喫茶養生記」によってもたらされ、普及していった。しかし、高級な抹茶を飲むことができるのは、武士や貴族などの一部特権階級の人のみで、庶民は色赤黒く、味も粗末な煎じ茶を飲んでいた。宇治田原の湯屋谷村の茶農・永谷宗円は、宇治の特定の茶師が高級な抹茶の製造を独占していた当時において、法にふれずに新しい茶を作り、近在の農民を豊かにするために、15年の歳月をかけて研究し、それまでの赤黒い釜炒り茶が主流だった中で良質の新芽を選んでつみ取り、それを蒸して、焙炉でもみながら乾燥させる技法を開発し、「青製煎茶製法」を生み出した。時に元文3(1738)年。宗円は完成した新しい煎茶をたずさえて江戸へ赴き、江戸の茶商「山本山」の山本嘉兵衛のもとに持ち込むと、嘉兵衛は一目でその品質が優れていることを見抜き、販売した。すると、宗円の新しい煎茶はたちまち大評判となり、「宇治の茶」の名声は一気に高まった。宗円は煎茶製法を惜しまず近隣に教え広め、その製法は全国へと広まり、別 名「永谷式煎茶」ともいわれるようになった。山本山は宗円の功績に感謝し、明治まで毎年永谷家へ25両を贈り続けた。宗円はその功績から死後「茶宗明神」として祀られている。 |
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以上は宇治茶業界では有名な煎茶製法の誕生と宗円にまつわる話だが、研究者の間ではこの話は伝承の域を出ないものとされる。では、そもそもこのはなしの出所はなにか?そのひとつが、大正期の宇治田原町郷之口の妙楽寺住職だった好川海堂の著書「日本喫茶史要」である。宇治田原町史参考資料第8輯にも収録されているので読むことができる。海堂は様々な茶に関する文献を調べ、茶の誕生から日本への渡来、喫茶文化の流布や、近代の茶の輸出に至るまでの茶の歴史をまとめている。この中で宗円の功績についてふれているが、その根拠とするところは、宗円当時の時代の資料ではなく、後の時代に記された書籍がもとになっている。そこで海堂はこのような資料を引用している。 ・「永谷家旧記」嘉永5(1852)年 ・「唐流煎茶手前」(太田真三) 「煎茶の起源は、「茶道記」によると桜町天皇の元文戊午(つちのえうま)年、山城国綴喜郡湯屋ヶ谷村永谷三之丞(宗円と号す)はじめて製出し、当時これを青茶と称していた。ただしこれを世の中に広めた人は、肥前の国蓮池の住人で姓は柴山あざなは元昭という人で、この人は有名な売茶翁のことである」 海堂が著者の太田氏に尋ねると「茶道記」の著者は速水宗達、文化8(1811)年だという 山本家の旧記に宗円が煎茶を開発し、江戸へ赴き、山本山でその品質を認められ、発売されるやたちまち大評判となり、江戸市民が宇治茶を愛用するようになった、明治8年まで永谷家に対して毎年小判25両を贈った」とあるという いずれにしても、宗円当時(元文年間(1736〜1740年))のリアルタイムな文献資料は知られていない。永谷家や山本家の記録は当事者のものなので客観性ということでは怪しい。他の文献資料を見るかぎりは、宗円の時代より以前からすでに手もみ茶の技法は行われており(現在のものとは同一ではないが)、青製煎茶製法は、ある日突然一人の人間によって発明されたのではなく、当時の文化的流行や経済的ニーズがある中で生み出された商品であることが考えられる。 なお、海堂は宗円の功績について、あまり単純な書き方をしていないが、それをもとに簡単に紹介しようとするうちに、一部謝った引用がされているように思われる。 |
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宗円の功績で語られる要素と実際
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伝承
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実際
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| 高級な抹茶は身分の高い人だけが飲むことができた | 抹茶(「抹茶」は戦国時代になって宇治で作られたものといい、その前身の「挽き茶」の時代から)は庶民でも飲むことができた |
| 庶民は赤黒く味も粗末な煎じ茶を飲んでいた | 概ね黄色い水色(海堂も著書でそう書いている)の煎じ茶や番茶など、他にも挽き茶も飲んでいた。味は必ずしも粗末ではない |
| それまでは古葉も混じる茶葉を中国風に釜炒りするものが主流だった中で良質な新芽を蒸した | 以前から「上茶」は新芽を選び、蒸す、ゆでる、など多彩な製茶法が行われていた(海堂もそう書いている) |
| 焙炉の上でもみながら乾燥させる | 当時の焙炉は竹組骨格で、上で強く揉むことができない。筵(むしろ)などで揉んで焙炉で乾燥させる技法は行われていた |
| 15年の歳月で美しい緑の水色の煎茶を開発 | 煎茶も含め日本茶の水色は大部分が(深蒸し茶を除く)黄色〜薄黄緑系。青製煎茶は以前から徐々に発展しながら生産されていた |
| 山本山を通じて江戸で発売し、宇治茶は全国ブランドになった | 以前から「宇治茶」は最高級茶として名声を得ていた |
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海堂は「日本喫茶史要」で宗円以前の茶は抹茶用の茶葉を用いたもの、番茶、中国風釜炒り茶、茎茶だったとしている。「庶民は赤黒い味も粗末な煎じ茶を飲んでいた」とは書いていない。「赤黒い茶」とは中国風釜炒り茶のこと。 本文中ではこう記載される 「この製法の結果は水色は従来の煎茶やしな流の釜炒り茶のごとき赤黒き色や、上製の余材である茎茶の類などの煮湧かして適当の濃度に達する事、著しく黄色となる茶とは大いに赴きを異にして、美しい薄緑の色を呈し」 「赤黒い茶」とは中国から導入された釜炒り茶のことで、庶民が飲む煎じ茶を必ずしも赤黒いとはいっていない。当時一般 的な煎じ茶や番茶は黄色いとしている。これがなぜ「それまで庶民が飲んでいた赤黒い味も粗末な煎じ茶を」になったのか? 記述を省略し、わかりやすいように単純化して文章にするうち、伝言ゲームのように伝わり、いつのまにかそう変わってしまったか? 「〜永谷翁」でも宗円以前から蒸す製法の存在していたことを書いている。 「ただ、翁の新製煎茶の特色を一言でいうには、当時茶に趣味ある人々の間には相当に注意されていた、しな流の茶葉を蒸さずにただちに炒り鍋にて熱ちょうして製するいわゆる釜炒り茶ならびにその系統に属する茶に宇治製煎茶が大同小異のものであったから、自然、釜炒り茶系統の茶に対して区別 するには「湯蒸し」の一語が便利であり、又単に釜炒り茶系統の茶のみに対していえばその特色を表現しているところがあるから、その「湯蒸し」ということが、遂に翁の新製茶すなわち宇治製煎茶の特色のようにいいなされたものであろう。ただし、広く翁以前の製茶の状態より見れば、蒸すことをもって翁の製茶法の特色となすことは断じてできないのである。」 さらには、煎茶製法の発明は宗円だけがなしえたのではなく、いつのいかなる発明発案にも、同時期に行った人がいたはずで、煎茶製法を発明したのも宗円だけとはかぎらなかったはず、宗円の功績が大きく取り上げられるのは、宗円が煎茶製法を開発しただけでなく、自ら遠く江戸までその販路を開拓したからであるとする。その製法が宇治製といわれるのも、宗円が茶所として著名な宇治の近隣の人物であったという地の利もあったからだとする。 宗円の功績を語るのであれば、青製煎茶製法の発明者としてよりも、宇治田原の茶を当時の大消費地である江戸へ販売する販路を開拓することに成功したという点をこそ強調すべきであろう。それが現在も「月間茶の間」を代表とするお茶の通 信販売による全国的な販路を持つ宇治田原の茶業者が多いことにつながっているのだろうから。 なお、 宗円が茶宗明神として合祀されたのは昭和29年 のことである。昭和35年に永谷家屋敷跡地に地元有志の手で建設された「永谷宗円生家」に隣接する俗に言う「茶宗明神社」は、本来「大神宮神社」であり、そこに宗円を茶宗明神として合祀したのである。こうしたことも、茶業界を中心とした宗円の功績を顕彰しようという動きの一環である。 現在も地元や業界では宗円の功績は根強く信じられているが、そうした伝承や文化をだれも否定することはできない。学術的に茶にまつわる歴史を研究することとは別 問題である。逆にそうした研究を妨げることもできない。教育委員会ではこれから「茶史編纂事業」に取り組むというので、その成果 に期待したい。 |