沖縄の歴史

○先史時代 

  琉球列島は、1500万年前頃から海面に出て大陸や九州とつなが り、200万年前頃には大陸と切り離され、150万年前頃に再び 大陸とつながる。そして、2万年前頃に3つの島嶼群に別れた。 氷河期を経て海水面が100m程上昇し、 現在のような姿になったと言われる。大陸と地続きのときは、 多くの動物が移って来たし、 離れているときは独自の進化を遂げていたことが化石の発掘から分 かっている。 又、数万年前から、大陸から旧石器人が渡って住みついたことも、 那覇市・山下洞人(約3万2000年前)、具志頭村港川の港川人 (約1万7000年前)の化石人骨から分る。新石器時代(縄文時 代)には、 遺跡や出土品から中国大陸や九州との交流が盛んだったことが分る 。縄文時代以降は、北部は九州から、南部は台湾、フィリピン、 インドネシアから文化的影響を受けた。 

○琉球時代

  12世紀に入ると九州から農耕技術が伝わり、農耕社会が発展し、 各地に按司(アジ)とよばれる指導者が誕生して、グスク(城)を 築き、勢力争いが始まる。14世紀には南部・中部・ 北部に三つの勢力が台頭し、中国との交易を通じて勢力を増し、 いわゆる、三山時代(南山、中山、北山)が始まる。1406年、 南部から出た按司・尚巴志(しょうはし)が三山を統一し、 琉球王国となる。琉球王国は、中国・明朝の「冊封体制」の下に、 周辺諸国(中国、東南アジア、朝鮮、日本等)と積極的に交易を行 い、いわゆる、大交易時代を迎える。1609年、 薩摩の島津氏の侵攻により、中国と薩摩の両勢力に服従し、 民は苦難の道を歩む。それでも、琉球王国は尚巴志王統7代( 1604年〜、佐敷の按司・尚巴志と子孫)、尚円王統19代(貿 易官・金丸氏と子孫)と、1879年の政府の廃藩置県(沖縄県設 置)まで続いた。 
このときまでは琉球、以後は沖縄と呼ばれ、1895年の日清戦争 で正式に日本帰属となる。

○維新後の沖縄

  1853年に米艦隊司令長官・ペリー提督が琉球・ 首里城と本土に押しかける。本土は1854年3月日米和親条約の 締結を、琉球は同年6月に琉米修好条約の締結を余儀なくされた。 欧米諸国の圧力によって開国させられた幕府は崩壊し、本土、 琉球共に近代国家へと突き進む。明治政府は本土との制度・ 風習の違いが大きいことから、当面旧慣温存策取られた。 このため沖縄の諸政策が他府県より大きく立ち後れ、 結果的に沖縄の発展が遅れてしまうことになる。大正3年( 1914)に勃発した第一次世界大戦によって沖縄も大戦景気の恩 恵を受け、砂糖成金が生まれるほどであった。しかし、戦後恐慌、 大正12年(1923)の関東大震災、昭和4年(1929)の世 界恐慌により、本土と同様、 慢性的な不況が沖縄の人々を苦しめた。沖縄では、「ソテツ地獄」 と呼ばれ、 多くの農民は野生の蘇鉄を食糧にする程疲弊しきっていた。 それでも、日本のアジア侵略が拡大し、 沖縄は本土防衛の前線基地として危険にさらされる。昭和19年( 1944)10月10日、米軍の大規模攻撃は、 北は奄美諸島から南は石垣島、 東は大東島に至る南西諸島全域に行われた。那覇市の市街地の90 %が燃えつき、琉球王国時代の貴重な文化遺産が多数消失した。 そして、昭和20年(1945)年3月、米軍が沖縄・ 慶良間諸島に上陸、悲惨を極めた沖縄戦へと突入する。

○戦後沖縄

  昭和20年(1945)8月15日、 日本がポツダム宣言を受諾して、戦争は終結する。 本土及び南西諸島は米国の軍政下に置かれた。これ以来、 沖縄は日本から政治的に切り離され、昭和47年(1972)5月15日の日本復帰までの27年間、 本土と異なる戦後史を歩むことになった。

 

シーサー:沖縄県などでみられる伝説の獣の像。建物の門や屋根、 村落の高台などに据え付けられ、家や人、 村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けになる。 スフィンクスや中国の石獅、日本本土の狛犬などと同じく、 源流は古代オリエントのライオンもしくは犬と伝えられている。( Cf:http://rca.open.ed.jp/ history/index.html )

1. 那覇空港(那覇市)

国内線ターミナル、国際線ターミナル、貨物ターミナルの3つのターミナルがある。滑走路は3000m×45mの1本。ゆいレール(モノレール)で那覇市内と繋がる。

2. 中城PA(中城村)

沖縄自動車道、中城パーキングエリア。

3. ザ・ブセナテラス(恩納村喜瀬)

名護市喜瀬。東シナ海に面する部瀬名(ぶせな)岬の先端にある高級リゾートホテル。マリンハウス、グラス底ボート乗り場、海中展望塔、バニァンビレッジ(食事、売店)、それに万国津梁館とコテージ風宿泊施設・ラブコテージ(2000年7月、G8首脳サミット開催)もある。域内、シャトルバスが走っている。第三セクターのブセナリゾート株式会社の経営、部瀬名岬全体を所有。

4. 名護湾海岸道路(名護市)

ザ・ブセナテラスから許田に行く途中の名護湾岸道路からの眺め。

ザ・ブセナテラスからちゅらうみ水族館に行く途中の名護湾岸道路からの眺め。

5. 許田IC周辺(名護市許田)

沖縄自動車道、許田IC周辺、橋を渡れば、許田村落へ。福地川や許田区民会館が見える。

6. 後ろの御嶽(名護市許田)

(うたき)。名護市許田。国道58号と県道71号の交差点北東約200m、集落の山手側にある。鳥居、階段、灯籠、礼拝所がある。
御嶽:琉球王国(第二尚氏王朝)が制定した琉球の信仰(太陽信仰、来訪神崇拝、祖霊崇拝)における聖域の総称。琉球の神話の神が存在、或いは来訪する場所であり、又祖先神を祀る場。神に仕えるのは女性(祝女:ノロ、女司祭)とされていたため、王国時代は男子禁制であった。多くは森の空間や泉や川等にあり(古代の集落跡が多い)、イビ石という石碑があり、大きなものには「神あしゃぎ(神あしゃげ、神あさぎ)」と呼ばれる前庭や建物(拝所)がある。本土の神社のような社殿はない。鳥居がある場合は、明治維新後の神道化で作られた。

7. 許田の手水(名護市許田)

(きょだのてみず)。名護市許田。国道58号と県道71号の交差点北東約200m、集落の山手側、後ろの御嶽の傍にある。市指定文化財(史跡)。
(説明板から) むかし、許田の村にたいへん美しい娘がいました。ある日、娘が村の後にあるクシヌカー」という泉で選択をしているとき、首里の殿様が馬に乗ってそこを通りかかり、娘を見て「水を下さい」と声をかけました。娘がニーブ(ひしゃく)で水を汲むと「あなたの手で水を汲んで下さい」といったので、娘はやむなく手で水を汲んで上げました。そして、娘の美しさにほれた殿様は、娘を首里に連れ去り、村人をなげかせたという話が伝えられています。それからその泉を「手水」と呼ぶようになったそうです。許田に橋がかかる前は、大きく入りくんだ内海(入江)沿いに道があり、遠く福地原や現在の古知屋又を迂回して、ここにたどり着きました。その道沿いにこの泉があり、旅人ののどをうるおしたのです。古くから、その泉のことは廣く知れわたり、次のような流歌も詠まれ、平敷屋朝敏作の組謡「手水の縁」にも引用されました。

・馬よ引き返せしばし行ぎ見ぼしゃ 音に聞く名護の手水 与那原親方良炬

・面影よ残す許田の玉川に なさけ手にくだる水の鏡 玉城親方朝薫

・汲みよ始めたる誠真実の 流れても絶えぬ許田の手水 読人知らず

8. 墓(名護市許田)

許田周辺の墓。沖縄の墓は大きく分けて3種類になる。あります。いずれも、本土のものに比べれて大きい。
@亀甲墓(きっこうはか、かめこうはか、カミヌクー)、 中国大陸の影響を大きく受けたもの。 
A破風墓(はふはか、ハフー)、琉球王国の王室の流れを汲むもの。
B屋形墓(やかたはか、ヤーグァ)、 基本的なものや屋根が付いたもの。 昔は風葬が多く、遺体を墓の石室内に安置したため大きいく、入口が横向きになっている。風化後、洗骨して骨壷に納骨し、再び石室内収めるという方法を取った。

9. 美ら海水族館(本部町)

国頭郡本部町字石川424番地。国営沖縄海洋博覧会記念公園(海洋博公園)。2005年に米国のジョージア水族館が開館するまでは世界最大の水族館。ジンベエザメやオニイトマキエイ(マンタ)が遊泳する水槽は7,500m3。総展示槽数は77槽。財団法人海洋博覧会記念公園管理財団が管理・運営する。
美ら海の向こうに唐突に突出した山・城山(ぐすくやま)が見える。俗称はタッチュー、もしくはイータッチューと呼ばれる高さ172mの岩山。オフスクレープ現象(古い岩盤が新らしい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)で出来た山。

10. 琉宮城蝶々園(本部町)

温室の蝶々園では3000頭ほどの蝶がいると言う。日本最大のオオゴマダラが舞う。

11. 万座毛(恩納村)

万座ビーチホテル近辺から万座毛を望む。
万座毛:沖縄県国頭郡恩納村にある景勝地。隆起珊瑚礁で、東シナ海に象の鼻の形ように突出している絶壁。コウライシバ、ナハエボシグサ、シオカゼテンツキ、イソノギク等多くの海岸性植物が見られる。沖縄海岸国定公園。