7 京都北山登山の変遷

京都府立京都第一中学校(京都一中)に在学中の今西錦司(1902〜1992)、西堀栄三郎(1903〜1989)などが「青葉会」という登山グループをつくり1918年(大正7)ごろに旧山城国の範囲で参謀本部の地形図に山名が記載された山のなかで最も高い三国岳から順に30の山を選び「山城三十山」を定めた。1919年(大正8)発行の会誌「青葉」第3号では三雲詳之助が英文で「山城三十山」を紹介している。「青葉」は同年、第1号から第3号まで刊行されているが山のみならず西堀の数学など雑多なことが掲載されている。その後しばしば30山の変更があり三角点のない山は他の山に替えられたものもある。天ヶ岳、大悲山、烏ヶ岳、高雄山の4山は愛宕山、横高山、鷲峰山、御林山に替えられている。今西の卒業の年、1920年(大正9)にはつぎの30山になっていた。

三国岳、地蔵山、桟敷ヶ岳、愛宕山、比叡山、水井山、横高山、貴船山、朝日峰、鷲峰山、ポンポン山、半国高山、釈迦岳、三ヶ岳、千頭ヶ岳、音羽山、金毘羅山、峰山、瓢箪崩山、沢山、大峰山、十三石山、高塚山、城山、三上山、大文字山、箕ノ裏ヶ岳、大焼山、喜撰山、御林山

今西は1934年(昭和9)1月京都一中山岳部報「嶺」(いただき)第2号に「山城三十山の修正と拡張」を寄稿し、これを契機として大幅な見直しが行われた。原則的な条件としては日帰りが可能なこと、標高500メートル以上の三角点があることが追加され地形図に山名があるという制約は削除された。「嶺」は1932年(昭和7)創刊で第8号まで刊行されている。

1934年(昭和9)12月に京都一中山岳部会報として「山城三十山記」上篇(90頁)が大橋秀一郎の編集により発行されまた翌1935年(昭和10)7月には「山城三十山記」下篇(171頁、「峠」という表題がついている)が梅棹忠夫(1920〜)の編集により発行されている。ともにガリ版刷りの校内限定配布であったため現在では一般には京都府立総合資料館でしか閲覧することはできない。この大幅見直しによるものを「新三十山」ともいわれ、つぎの30山になっている。

皆子山、峰床山、地蔵山、雲取山(一中岳)、桟敷ヶ岳、愛宕山、比叡山、天狗杉山(花脊山)、魚谷山、天ヶ森(高谷山、ナッチョ)、水井山、三頭山、焼杉山、貴船山、朝日峰、大尾山(童髯山、音無山)、鷲峰山、石堂ヶ岡、ポンポン山、東股山(大山)、半国高山、牛松山、三ヶ岳、千頭ヶ岳、音羽山、金毘羅山、峰山、瓢箪崩山(クツレ)、沢山、大峰山

これらの山名は現在、呼ばれている名称をあげ括弧内は当時、京都一中で呼ばれており部内でしか通用しない呼称もあり文献に記載されたものをあげた。山名の読みも現地調査を綿密にされ魚谷山を「よーだんやま」などと呼ばれている。30山のなかで雲取山、三頭山、東股山は旧丹波国に属し石堂ヶ岡は旧攝津国になっており「山城」の定義からはずれている。峰床山については上篇発行時点では部員のだれも登っていなかったが下篇では、その年の3月に京都一中山岳部として、はじめて梅棹忠夫、川喜田二郎(1920〜)などが大悲山側から登頂していることが記されている。この時点では八丁平のスキー場が開かれていたことも注目される。「山城三十山記」の巻末には部員名簿があり部員数は上篇では16名、下篇では28名(ともに先生2名)になっている。

1948年(昭和23)、学制の変革により京都一中は鴨沂(おうき)高校と洛北高校になり両校の山岳部は「山城三十山」をそれぞれ「山城四十山」、「北山五十山」として比良山系なども含めた見直しを行い、また京都一中時代に直谷(すぎたに)上流に建てられ1942年(昭和17)に北山荘と改称された北山小屋は両校に引き継がれている。また両校以外にも京三中の後継、山城高校山岳部(芦火山岳会)では「精選北山五十山」なるものを定めている。同校の山小屋「芦火荘」も老朽建て替えられ八丁平入口の二ノ谷に残存している。

一方、戦前、京都北山で活躍された人では森本次男(1899〜1965)が注目される。森本はかつて京都二商(戦後に西京高校になるが現西京商高)で教鞭をとるかたわら北山登山をされ後輩の指導につくし「北山の父」とも呼ばれている。1938年(昭和13)「京都北山と丹波高原」という朋文堂の出版(80銭)によるガイドブックを著作された。文庫版ながら212頁あり交通や運賃などもいれ、詳しく解説されている。花脊の寺山峠で北山には不釣合いな抜き身のピッケルを携えた登山者の写真などあり当時、趣味としての登山がやっと京都にも入ってきたことがうかがえる。

この森本の著作は一般にはかなり普及したが梅棹忠夫をはじめとする京都一中出身者には不評であった。今西錦司以来、京都一中山岳部員で調査した地名や一中独自の呼称などが断わりなくつかわれていることで梅棹は自著「北山そだち」(梅棹忠夫著作集にあり)で憤慨している。後日談がありこの無断引用が原因となり京都一中は森本の提唱した京都の中学校の山岳団体を脱会している。

「京都北山と丹波高原」はその後1944年(昭和19)に改訂され新書版になり出版されたが(1円30銭)戦争さなかのことでもあり、森本はその序で北山の薮こぎが如何に戦いに役立つかを説いている。戦後1964年(昭和39)同題名で内容は一新され、こんどは山と渓谷社から四六版で出版されたが著者自身も翌年死去され長つづきはしなかった。森本はその著作以外にも実践的な山歩きで後輩に好評であり直谷に建てられた山小屋「麗杉荘」(れいざんそう)も移築はされたものの、いまも西京高校、紫野高校の山岳部に引き継がれている。今西錦司のレリーフが1994年(平成6)に北山荘ちかくにでき、それよりまえに森本次男のレリーフも1966年(昭和41)から麗山荘にあったが2001年(平成13)9月に花脊の山村都市交流の森に移設された。私も40年以上前、百里ヶ岳登山で氏に問い合わせたところ懇切な返信をいただき感謝している。

京都北山は当然学校関係者以外も登られており金久昌業(かねひさまさなり 故人)、千津子夫妻の北山クラブなどはいまも活躍されている。同クラブの著作「京都北山百山」や毎年改訂されていた山と渓谷社の登山地図は北山愛好家のなかで人気があった。



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