貴峰山 光勝寺 真言宗豊山派
石鳥谷町五大堂11−49

光勝寺の起こり   五大尊(蘇民祭)   真言宗開祖弘法大師   智子伝説 
隅っこ舘   道標 


国道より望む
 石鳥谷町史跡名勝の霊山として知られる「貴峰山光勝寺」の開基は第54代任明天皇の代、承和3年(836年)である。慈覚大師(天台宗の2代目・・・開祖は最澄)が東北地方を巡教の際当地(当時さぎの巣村)に立ち寄り、21日間の修業をされて、大師自ら釈迦如来、薬師如来の尊蔵と本尊五大尊ーー不動明王(大日如来)・隆三世明王(薬師如来)・大威徳明王(阿弥陀如来)・軍茶利明王(虚空蔵菩薩)・金剛夜叉明王(釈迦如来)ーーの像を彫刻され、大堂を建立して祀ったのが仏跡地としての始まりで、「五大院里の坊」と称されたことに起因して当地を五大堂と呼ぶようになったとされている。
 

左が光勝寺、右が五大堂への道
 文治5年(1189年)7月、南部家の祖三郎光行公が、特に五大尊を信仰し、祈誓を捧げられその霊験によって駿馬を得てから、その馬に乗馬して鞭打ち奮戦し連戦連勝することが出来たといわれ、これひとえに五大尊のおかげであると建久元年(1190年)12月、光行公が当山に立ち寄り参詣されて公自ら、「五大院里の坊」の名を廃し「貴峰山光勝寺」(光行公戦に勝つの意)と奉額して山号寺号を名付けたという。
 

光勝寺を目指して
 当山は真言宗豊山派に属し、総本山は大和国長谷寺の末寺である。陸中国八十八ヶ所霊場のうち第八十八番の打ち納めの所であり、当国三十三観音霊場の第十六番の礼所である。当山所蔵の古い半鐘に「鎮護国家之祈祷場而高禄繁栄之格寺也」と銘記されており、領主の特位を受けた祈願寺であると同時に数多くの重要文化財を奉安している古来から由緒ある寺院である。

本堂
第92代後宇田天皇の代、建治元年(1275年)に智空阿闍梨が中興開山をしている
 前述した五大尊とは、仏、法、僧の三宝と国土及びその人民を守護するという仏教伝説上の守護尊で、国家安穏、五穀豊饒等の祈願を奉修する本尊である。

五大堂山門
当山が牛馬守護の尊として崇拝されるようになったのは、南部光行公に授かった駿馬が没したので、公自ら礼を厚くして、当山境内に葬り、木馬(馬頭観音として)を奉安されたのが、「五大堂如意蒼前」で、牛馬安全の守護神として広く一般の信仰を集め以来現在に至ったと言われ、今も拝殿の前に石像の御紳馬が祀られている。
 毎年旧正月7日には蘇民祭が行われている。

 五大堂蘇民祭の起こりは建久2年(1191年)旧正月から7日まで国家安全、五穀豊穣、病魔退散、牛馬安全の秘法を時の住職がした。


五大尊への登り道
満願日の7日には多数の参詣者が南部公の駿馬を感得されたことにあやかって早朝から数百頭の馬に乗馬のまま長さ92センチ、回り約7センチの勝軍木という木を鞭として、護摩火の燃え上がると同時に大音声を上げて鞭で堂をたたき、その音響の聞こえるところまで家内安全魔事なしと言われた。
 こうした堂たたき行事に続いて護摩法要に加持した護摩火の餅、すなわち供養餅を堂外の参拝者に与えた。これが年を経るにしたがって競争の度を高めてきた。そしてこれが蘇民祭の始まりと言われている。こうして年々その数を増す参詣者全員に供養餅を与えることが出来なくなったので群衆の中に投げ出すようになった。これが自然に競争になり、土や泥にまみれ、衛生上は勿論、もったいないというので、明治27年(1894年)当山26世赤塚宥天和尚の時に小さな板札(約1.6センチ四方)に五大尊の梵字を書き裏には駒形の印を押し、その年の日数365枚(その年1年間の息災祈願の意)に限り麻の袋に入れて投げ出すようになった。

五大堂(五大尊)
 今でも、蘇民袋を投げ出す前に力餅として餅をまく習慣が残ってはいる。又、乗馬参詣者は依然として小数なれどその風習を残しているが、堂叩きは悪弊があるばかりでなくお堂が破損するので禁じてから一般の者もその意義を理解し堂叩きの習慣を改め蘇民祭は漸く盛んとなってきた。


弘法大師碑
      「弘法大師」について
 弘法大師はその名を空海といい、真言宗の開祖として知られています。
 空海は773年讃岐の国に生まれました。791年18歳で長岡京の大学に入学したが、まもなく仏門にはいるために出家して旅に出ました。その後、槇尾山寺(まきのおさんじ)の勤操(ごんぞう)を師と仰ぎ、「大日経」と出会いましたが、大日経の系統的な教えがまだ日本に伝わっていない事より、804年第1船の遣唐使として派遣されました。
 その後、長安の西明寺から青龍寺に留まり、青龍寺の阿闍梨(密教の秘法伝授の師)である恵果から密教の手ほどきを受ける一方おびただしい教典類を読みぬきました。まもなく伝法灌頂(密教の師としての秘法を授ける最高の儀式)が執り行われ空海は阿闍梨となりました。

弘法大師像
 やがて、曼茶羅(まんだら:密教の仏の系統を絵で示したもので儀式に使われる)、法具、教典を手に806年に帰国し、観世音寺(太宰府)や槙尾山寺、高雄山寺などで、いっそう密教の研究をしやがて真言密教から真言宗へと発展させてゆきました。
 空海は816年に嵯峨天皇より高野山を賜り、その山頂に金剛峯寺を作りました。812年、讃岐の国主に頼まれて、万濃池の堤防を修理する責任者になりました。823年、嵯峨天皇より平安京の東寺を賜り、救王護国寺と改称、828年には「綜芸種智院」という民衆のための学校を開きました。835年空海は高野山でなくなりましたが、その死後その功績をたたえ、朝廷では弘法大師というおくり名を与えました。
 その後真言宗は全国至る所で空海の業績をたたえる弘法伝説が生まれ、四国88ヶ所を巡り歩く人々(お遍路)に見られるような、根強い大師信仰が育ってゆきました。


智子の墓と為智子供養碑
「智子(ちご)伝説」
 建治元年(1275年)智空阿闍梨阿闍梨:密教の秘法伝授の師)という和尚さんが光勝寺の住職になり、中興開山しました。
 当時の光勝寺は、伽藍壮麗、規模も広大で、当地方無双の霊場になっていました。
 住職の智空には2人の息子がいました。二人とも賢い子で、智空は大変可愛がっておりました。ある時二人が鐘楼(鐘つき堂)に行ったところ、そばの大沼に住む大蛇に見つかり、大蛇は二人を捕らえて沼に引き入れ、呑み込んでしまいました。智空阿闍梨は大変悲しみ、かつ怒り、大蛇降伏の祈祷を7日間、一心に行いました。すると6日目のこと、大蛇の化身が人間の姿になって現れ、寺の繁盛を約束するので許してほしいと言いました。しかし、智空阿闍梨は一切聞き入れず、なおも祈祷を続けました。

大蛇の住んだと言われる蛇の池
 満願の日になって、雌雄2等の大蛇は苦しみに耐えきれずに沼から這い出て村中をぬめり回り、北上川に入って流れ出しました。そして和賀郡の黒岩村(現在の北上市)に至って2つの黒い石になったと言われております。
 このとき大蛇がぬめったと伝えられる跡は、今でも一部を除いて水田として残っており、蛇の(ぬ)めり田と呼ばれています。智子の墓の横には、文化9年(1812年)5月18日に「為智子供養」と刻んだ供養塔が建てられています。この墓は数年前までは光勝寺の西南約500メートルほどの水田の脇にありましたが、農作業の関係で寺の境内に移し替えられました。この碑は当初立っていたところから何回か移し替えられたと言われております。


隅っこ舘跡
「隅っこ舘」
 隅っこ舘は県道小山田線の北側の山地にあり、南側には添市川が流れています。館跡からは添市川流域に広がる東側や南側の平地を眼下に見下ろすことが出来ます。
 館主や築城の存続期間などは分かっていませんが、山地に立地していることや残っている遺構などから見て、近世以前に築かれた館と考えられます。

小山田方面からの古道
 元亀・天正年間(1570−1591年)の頃、この地域は稗貫氏が支配しており、ここには、稗貫氏の家臣かそれと関係のあった人が居住したところではないかと考えられています。そして、稗貫氏の没落と共に館も廃城になったのではないかと思われます。
 館は南側や東側が崖となっており、北側の尾根には外堀が設けられています。南側には幅5メートルの鉢巻城の空堀があり、それに外接して土累が巡っています。空堀のほぼ真ん中には山神の祠があり、その北方には土橋を残した中堀が築かれています。

五大尊南入り口(隅っこ舘登り口?)
 館の西側には五大尊や光勝寺があり、光勝寺の北東には平安時代に開創されたと言われる寺の跡が残っています。又、五大尊の裏手には小山田方面からの古道が残っています。
 尚、館跡からは縄文土器や石器などが出ており、又、館の南側の添市川沿いの畑からは土師器や須恵器などが出ています。館の周辺には、館が築かれる前から人々が生活を営んでいたものと思われます。


光勝寺境内にある道標
「道標(どうひょう)」
 道標(道しるべ)は、道端や道の分岐点、村の境界などに立てられ、道の行き先や目的地までの距離などを表示した石像物です。
 石鳥谷町内で分かっているもので20基程ありますが、年号の分かっているもので最も古いものは、この光勝寺境内にある寛政5年(1793年)に立てられた道標です。中央に南無阿弥陀仏と刻まれ、その両側に「大迫みち」、左「郡山せき口」と表示されています。道標自体は神仏親交関係の脇表示として立てられたものが多く、庶民の交通往来が、神仏信仰に深く関わっていたことや、道案内を立てることにより功徳が得られるとする考えなどによるものではないかと見られています。


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