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| 2009年11月10日 (火) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第1部スロベニア(1) |
2009年8月23日から9月2日までのクロアチア、スロベニアを巡るツアーに参加しました。
このコースは最近、女性の間で人気になってきているそうですが、私も突発性難聴になったせいか安全性を考慮して前回のグアム島に続きやや行き先がミーハー的になって来たようです。 参加者が13名と少なく往復はアリタリアーイタリア航空で関空ーローマ間は全員がビジネスクラスです。 ただアリタリア航空は参加者から聞いた話ではJALと同様他の航空会社に身売りしなければならないほど今経営危機に落ち入っているそうで、往きの機内食は惨憺たるもので中華航空や大韓航空など他のアジアの航空会社のエコノミーよりも酷い内容でした。 一つよかったのはカタール航空のドーハのラウンジにはイスラムの国と言うことからアルコールがないのに対して復路ローマでの乗り継ぎの間ラウンジでワインが飲み放題だったということでしょう。 又私は利用しなかったのですが機内にはワインバーがありいつでも好きなだけワインが飲めるそうでその点ではノンベーの私には有り難いサービスではあります。 この次利用する時には是非とも行ってみようと考えています。
関空を20分遅れで出発し、ローマのフイウミチーノ空港には15分早い18時45分(現地時間)に到着したのは良いのですが、その後トリエステへの出発時刻が遅れに遅れて21時25分発が結局24時発となり、トリエステ到着が翌日の午前1時になってしまいました。 結局この時にはローマでのラウンジは利用できないので5時間余りを国内線の待合室で過ごすこととなりビジネスクラスで来た割には疲れきって夕食なしのままトリエステのホテルで就寝することとなりました。 初日からこれでは先が思いやられたのですが幸にも今回も天候に恵まれこの後の旅はすこぶる順調に過ごすことが出来ました。 到着した空港が何という空港かは分からずじまいですが、最寄の空港がフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア空港というトリエステ湾の先端にある空港らしいので恐らくそこに到着したのでしょう。 トリエステはもともと正式にはトリエステ自由地域と言われていましたが1954年に中央ヨーロッパにおける戦略的要衝であるトリエステ地域の帰属を一旦棚上げして、トリエステ市を含む北部地域(A地区)をイタリアが統治し、イストリア半島の一部を含んだ南部地区(B地区)をユーゴスラビアが統治するということになり自由地域は消滅、その後1975年のオージモ条約で正式に分割が承認され現在に至っています。 トリエステの気候は区分上は地中海性気候に入りますが、夏季には降雨の少ない一般的な地中海性気候とは異なり年間を通じて80〜100ミリの雨が降ります。 又年間を通してボーラと言う強風が吹くことでも有名だそうです。 主としてイタリア語を使い、カトリックを信仰する人が多いそうです。 車で走っていると窓外に教会の塔を多く見かけます。
2日目の8月24日の最初はスロヴェニアのボストイナにある鍾乳洞の観光です。
移動は専用バスでこの後旅行中に何度かイタリアとスロヴェニア間、スロヴェニアとクロアチア間、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナ間を検問所のようなところで出国と入国の審査を繰り返しますが日本人にはどこも好意的で車を降りての審査はなく係官がわざわざ車内に来てパスポートを確認するだけであっと言う間に終わってしまいます。 ただ係官の機嫌が悪い時には日本人であってもそうはいかず皆さん下車しての審査になるらしく、その日の係官のご機嫌次第ということらしいですが我々は旅行中一度も車を降りることはなく済ますことが出来ました。 出国と入国の検問所は数十メートルくらいの間です。
スロヴェニアは国民の90%がスロヴェニア人でスロヴェニア語を話すと同時に、殆どの人が英語、イタリア語又はドイツ語も出来るそうです。大多数がローマカトリック教を信仰し、使用する通貨は2007年に自国通貨を止めてユーロに変えています。 又地理的には地中海地方、アルプス地方、パンノニア地方というヨーロッパでも異なった世界を隣国に持ち、大多数の人々の先祖は農民で自然を大切にする精神に富んだ人々で、狩猟民族のアングロサクソンを先祖とする米国共和党の言いなりになり自国のDNAを捨ててしまった日本人とはその生き方に雲泥の差があります。 農耕民族であった日本の食糧自給率が今や40%とは! |
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| 2009年11月10日 (火) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第1部スロベニア(2) |
ポストイナ鍾乳洞は世界で3番目、ヨーロッパでは随一の規模を誇るそうですが、世界一が米国のケンタッキー州にあるマンモス・ケイブらしいと言うのは分かったのですが世界2位がどこかは分かりません。 いずれにしろスロヴェニア唯一の世界遺産であるシュコツツィアン洞窟群の一部でカルスト地方にあります。 石灰岩の大地が水で溶かされて出来る特異な地形でカルスト地形の語源になったところです。 ポストイナ鍾乳洞は規模が全長27kmあり、日本一の秋芳洞が10km強だからその大きさが分かります。 2kmの洞窟トロッコは140年前の1872年に敷設され、1.7kmの歩行観光ルートも良く整備されています。 第2次世界大戦中はナチス・ドイツの弾薬庫としても使われたそうです。 入り口正面の壁には「撮影禁止」の表示があったそうですが観光客の皆さんが写真を撮っているので私も負けずにバチバチ撮っていると他のグループを案内していたガイド(若く可愛い女性?)が何か話しかけて来たのですが言葉が分からないので諦めたようです。 撮影禁止を言いに来たのかどうか結局分からずじまいですが事前情報だとガイドが「ノーフラッシュなら撮影してもかまわない。」としており、当然私もノーフラッシュで撮っていたので問題なかったとは思っていますが。 結局真実は会話が通じないので分からずじまいです。 話が通じないのは良いのか悪いのか。 いや矢張り怒られたとしても通じた方がいい。 海外で言葉が通じない事ほど味気ないことはないですね。
この洞窟にはプロテウス・アンギヌスという人間の肌色をした「類人魚(ヒュウマンフイッシュ)」が生息しているそうです。両棲類のサンショウ魚の一種で、盲目で餌がなくても1年以上生きられるそうで、年は80歳から100歳くらいらしいです。 展示してある絵を見ると体長25〜30cmの4本足の白い魚ですが、ストレスが溜まるという理由で2ヶ月に一度は暗黒の地底に戻されるらしいです。 我々が行った日は丁度この地底に戻されている日に当たったようで実物を見ることが出来なかったのですが、インターネットで調べてみたところその実物を見たとか、その実物の写真を撮影したとか言う記録は一つもありませんでした。 ひょっとしてこれは日本で伝説となっている「ツチノコ」と同じ類の話ではないかと疑いを持ってしまいました。
洞内の気温は常時8〜10度で水滴対策としてブレーカーくらい必要かと思いましたが、中は風や水滴もなくトロッコを降りて歩き回るのでブレーカーなしの長袖の合服で十分です。
鍾乳洞の観光が終わるとポストイナを北に向かってオーストリアの国境近くにあるブレッド湖を目指します。 途中レストランで昼食を取り、緑豊かなスロヴェニアの農村地帯を過ぎればそこはもう「アルプスの瞳」と呼ばれるブレッド湖です。 ブレッドはスロヴェニアを代表する観光地で、湖周辺ではリゾートを楽しむ人々が水着姿で日光浴をしているのをよく見かけます。 湖の中にはブレッド島と呼ばれるスロヴェニア唯一の島があり、「プレタナ」と言う手漕ぎのボートで行きました。 島には聖マリア教会があり、ボートの船着場から階段98段を登って教会に行きます。 この教会で結婚式を挙げるカップルは多く、伝統的な結婚式では新郎は新婦を担いでこの98段の階段を上がると言うことでした。 又ここを訪れるアベックも多く、この階段やボートの中で二人だけの世界に浸っているのをよく見かけます。 日本人なら殆ど絵にならないのに西洋人ならそれが自然とサマになるのは何故でしょうか? 又湖の傍には岩の上に出来たブレッド城があり、湖の全景を見渡すことが出来ます。 城内はそれほど広くはなく、甲冑や槍を展示した室やカフェがあるくらいです。 城から下を見下ろし湖を見るとそこでも矢張り老若男女が日光浴を楽しんでいました。 開発により汚れきった日本とは違って水と空気が綺麗なこの国が羨ましくなります。
写真の構図としては島の聖マリア教会、その後ろに遠くブレッド城、さらにバックにユリアン・アルプスの最高峰「トリグラウ山」を一枚の写真に入れるのがベストでしょうが、この日は雲が「トリグラウ山」を隠ししかもその撮影地は走る車窓からとなり、林の隙間から撮ることは無理でした。 最後部座席から「車を止めて!」と叫んだものの聞こえなかったか停車が無理だったか、無情にも車は走り続けたのでした。
ブレッド湖の観光が終わると今度は来た道を53km南に向かいスロヴェニアの首都で2日目の宿泊地となるリュブリヤーナへと向かいました。 |
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| 2009年11月10日 (火) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第1部スロベニア(3) |
リュブリヤーナでは朝早く起きてホテルの周囲を探索すると、ルネッサンスやバロック風の飾りを施したファサード(建築物の正面のデザイン)やアーチのある中庭を見かけます。 美しい教会や館がこの街を中央ヨーロッパのバロック様式で飾られた街であることを示しています。
旧市街ではリュブリヤーニツァ川に扇の形をした「三本橋(トロモストウイエ)」があります。 この橋は1930年代に建築家ヨジェ・プレチニックが設計したものでもともとは1本の橋でしたが、それに新しく歩行者用の橋を左右に行け加えたものです。 この「三本橋」の手前にプレシェーレン広場があり、リュブリヤーナの中心となっています。 又、この近くには市のシンボルとして紋章となっている竜が欄干に彫刻されている「竜の橋」があります。 「三本橋」を挟んでプレシェーレン広場の対岸にはリュブリヤーナ駅があり、遠くにはティヴォリ城を望むことが出来ます。
リュブリヤーナ城は9世紀から存在していたそうですが現在残っている部分は16世紀当時のもので岩で出来た丘の上に建てられ、そこからはリュブリヤーナの街を一望出来ます。 又、リュブリヤーナ城の丘の麓にある市庁舎の前には「ロッバの噴水」があり、スロヴェニアの三本の川を表現していて、これが市のある広場全体をバロック調にまとめています。 又豪華なバロック様式の身廊祭壇があるリュブリャナ大聖堂も見物です。
スロヴェニア土産の定番はピランの塩ということですが日本で買えば5倍の値段はするということです。
昼食のデザートにはスロヴェニア名物の焼き菓子「ギバニッツァ」を食べ、昼からいよいよクロアチアへと向かいました。 |
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第2部ラストケ村&プリトヴィッツェ湖群国立公園&シベニク(1) |
| クロアチア観光の最初はスルンというところにある「滝に浮かぶ村」として知られるラストケ村です。
ここでは特筆することはないので景色を写真でご覧下さい。 ラストケ村を観光した後はそこから余り遠くない「プリトヴィツェ湖群国立公園」へと南下し、公園内のホテルに入りました。
4日目の8月26日の午前中はクロアチアの世界自然遺産(1979年ユネスコ登録)の「プリトヴィツェ湖群国立公園」観光です。この公園はクロアチアの首都ザグレブから140kmほどのリカ地方にあり、大小16の湖と無数の滝で構成されています。 上湖12個と下湖4個で一番上の湖が海抜639m、一番下が503mです。 最後の湖からは76mの落差で滝がコナラ川に落ちていきます。 湖は周囲をトラバーチン(石灰華:カルストの川と小川から流れる水が境界、河及び他の地形を築き、炭酸カルシウムの沈殿により作りだされた多孔質石灰岩)の堤で堰とめられ長年に亘って自然に作られたもので中国の九寨溝に似ていますが規模的にはそれをこじんまりとしたもので見所は九寨溝の方が遥かに上でしょう。 公園の有料区域内は無料の連結バスが走っていて遊歩道以外の移動は環境保全のため徒歩かこのバスになります。 又公園の中央付近にあるコジャク湖を往来するボートも電動式で環境を保護しています。 森林の多くはブナノキとモミで特にヨーロッパで最も美しいモミブナ原始林で、321種の蝶、161種の鳥及び21種の蝙蝠がこれまでに発見されており、大きな動物ではヒグマもいるそうです。 飲食施設は有料区域内には唯一のレストラン「POLJANA」があり、我々もそこで昼食をとりました。
昼食後再び車に乗り、ゴシックとルネッサンス様式を融合した世界遺産の聖ヤコブ教会があるシベニクへと向かいます。 高速道路の途中でスーパーに立ち寄りみやげ物の買い物をした後公園を出て2時間半ほどで右手に海が見えて来ると愈々シベニクに到着です。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第2部ラストケ村&プリトヴィッツェ湖群国立公園&シベニク(2) |
| シベニク海域には大きな島はなく、膨大な数の島々が入り組んだコナルティ群島があり、島数ではアドリア海域最大です。 そのためこの後シベニクからトロギール、スプリットへと海岸線を走っていると対岸に島々が途切れることなく現れるためにまるで川岸を走っているような錯覚を覚えました。
シベニクは9世紀から12世紀にかけてクロアチア王国の王や諸侯が王宮や邸宅を構えた所で、沿岸部では他の町が古代ローマの町を礎に大きくなったのとは異なり最初からの純粋なクロアチアの町です。 この街で最も有名なのが世界文化遺産のシベニク大聖堂(聖ヤコブ教会)です。 この建物の建築には1431年から1535年まで百年以上を要していますがこの文化遺産登録の理由はゴシックとルネサンス両様式の独特の組み合わせと、大きな石板を組み合わせていく所謂プレハブ建築の工法(予め所定の寸法に切削された石板だけを組み合わせる)によるものです。 大聖堂は石材のみで作られそれ自体が一種の彫刻品とも言えるものです。 後陣と丸屋根に独特な組み立て工法が採用された結果、建物の内側と外側の完全な一致が得られ建築物、構造、彫刻が一体となっており、この工法は当時の建築技術に大きな影響を与えました。 ヨーロッパの殆どの建物が後にバロック時代の手直しを受けているのに対してこの大聖堂は15〜16世紀の創建以来珍しく変わらない姿で残っています。 外壁には71人の男女と子供の石の頭像と正面扉口がありシベニク中心部の景観によく溶け込んでいます。 ただ残念なことに内部の撮影は禁止されていたのと丸屋根を近くからは撮影出来なかったことです。 そしてその大聖堂の周りにはシュヴィチェヴァツの丘の麓のきつい勾配の狭い通りが続いています。
要塞は波乱に富んだ過去の承認ですがシベニクには3つの要塞があり、その一つがシュヴィチェヴァツの要塞です。その他文化建造物として聖バルバラ教会などの教会や16世紀のルネサンス市庁舎などがあります。
シベニクの観光が終わるとアドリア海を右に見ながら1時間足らず車で走りトロギールに着きます。 途中アドリア海の海岸線を走っていると度々黒く焼け焦げた地を見かけましたがこれはこの地方が夏には雨の少ない地中海性気候のため乾燥していて山火事がよく起こるためで、監視のための消防飛行艇もよく上空を飛んでいました。 トロギール旧市街の中のレストラン「TRAGOS」で夕食を取った後ホテルへ向かいました。
第2部の構成は
滝に浮かぶ村「ラストケ」 ⇒ プリトヴィッツェ湖群国立公園 ⇒ シベニク で102枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第3部トロギール&スプリット(1) |
| 翌日の5日目(8月27日)は旧市街の入り口近くにあるオープン・マーケットを見物した後世界遺産に登録されているトロギール旧市街の観光です。 トロギールは紀元前3世紀にヴィス島から移ってきたギリシャ人の殖民者たちによって作られた小さな島の城砦の町です。 本土とチオヴォ島の間にあり、本土とは橋で繋がり殆ど中世のままの姿を残していて、アドリア海域を含む中央ヨーロッパでも最高によく保存されたロマネスク・ゴシック建築群を擁しています。 塁壁に囲まれた旧市街は古代ギリシャ期にまで遡りロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック時代の城館や塔、邸宅などの記念遺産が軒を接して並んでいてさながらヨーロッパ建築史を見ているようです。 中でも最も重要なのが13〜14世紀に建てられた聖ロヴロ大聖堂で13世紀のラドヴァン作のロマネスク正面扉口(クロアチアのロマネスク・ゴシック作品の最高峰)や堂々たる天蓋つきの祭壇が有名です。 北側には15世紀の聖イヴァン・ウルスィニの礼拝所があり、壁面と天井のすばらしい浮き彫りもダルマチア・ルネサンス建築の最高峰とされています。 大聖堂の隣には15世紀の市庁舎ロッジャや旧市街の西端にはトロギールの歌謡にもよく歌われているカメルレンゴ塔などがあります。 又、1千年前に造られた聖ニコラ修道院とそこに残るカイロス(紀元前4世紀のギリシャの幸運の神)の浮き彫りなど見所は沢山あります。 しかし旧市街は何百年か前にある歴史家が中心部を実測したところ750歩ほどで周り終えたと言う位小さく30分でさっと見ることも出来るし、じっくり見ても2時間もあれば十分です。
クロアチアは硬い岩盤の上に出来た国でその豊富な石を使って本土や島々の海岸部には多くの石造の街が造られています。 日本のようにゼネコンと安藤 忠雄のような建築家がデザインする無機質なアスファルトやコンクリートそれにガラスで造られた街並みではなく昔からの伝統・文化(DNA:魂)を守って国民は日々の生活を楽しんでいます。 建物だけでなく人々が長年に亘って踏みしめた石畳が黒く映えて大通りや裏路地の散策を心豊かなものにしてくれます。 それに引き換え日本では心を病む人間ばかりが増え、その結果児童虐待や無差別殺人それに放火に飲酒運転や不法投棄などの自己中心的な犯罪だけが増えてているのは本当に嘆かわしいことです。 「こんな日本に誰がした。」と愚痴の一つも言いたくなります。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第3部トロギール&スプリット(2) |
| トロギール旧市街の観光を終えると車で約1時間足らず走りスプリットに着きました。 スプリットの見所はディオクレティアヌス宮殿とその周囲の旧市街です。 ローマ皇帝ディオクレティアヌスが3世紀末に世界で最も美しい所といわれるスプリットの真ん中、マリャン(マルヤン)の丘の麓に宮殿を造りました。 皇帝亡き後、時代はビザンチン、ヴェネツィア、オーストリアなどの統治下で人々の住む街スパラトそしてスプリトへと変容していきます。 即ち宮殿そのものが旧市街になったという珍しい起源を持つ街で建物のかなりの部分が残されています。 宮殿の土台、列柱広場、皇帝霊廟、ジュピター(ユピテル)神殿、初期クロアチア時代の教会、ロマネスク様式の邸宅などが今もよい状態で残っています。 旧市街から15分ほどのマリャン(マルヤン)の丘の展望台からの眺めが写真のベストスポットらしいですが残念ながら行く時間的余裕がありませんでした。 宮殿は方形をしており、周囲の塁壁の長さは一辺が200mほどで建造当時は高い防壁で囲まれていたそうです。 宮殿内のディオクレティアヌス霊廟は、現在は聖ドムニウス大聖堂ですが、これは7世紀にスプリットの守護聖人ドムニウスに捧げられたもので建物内はすっかりキリスト教聖堂と化しています。 又、大聖堂入口前のロマネスク大鐘桜は12世紀に出来たものです。 その前には列柱広場があり、かっては多くの民衆が皇帝ディオクレティアヌスへ忠誠を尽くしたものと思われます。 宮殿の四周にはそれぞれ門があり、どこからでも出入り出来るようになっています。 門には東の青空市場に向かう「銀の門」や南の地下ホールを通り海岸へ向かう「真鍮の門」など金属名が付けられています。 事前の収集情報によればスプリットの海岸通りに行けば自称世界一の美人に出会えると言うことでしたが残念ながらそのような美人には出会えませんでした。
スプリットの観光の後はドブロヴニクへ向かってアドリア海の沿岸を一路南下して行きます。 スプリットからドブロヴニクの間204kmのうち60kmほどが全てクロアチアで最も美しいビーチになっていて夏には人々が水着姿で日光浴を楽しみます。 そう言えばここクロアチアがヌーディスト・クラブ(ナチュラリスト)の発祥の地でした。 沿岸には赤土で焼いた瓦「テコラッタ」を葺いた赤い屋根(私の眼には橙色や柿色にしか見えないのですが皆さんがそう言うので赤色にしておきます。)の家が建ち並んでいますがこれらは夏の間だけのペンションや別荘らしいです。 そして海岸と反対側の内陸部に聳える山の向こうはもう隣国のボスニア・ヘルツェゴヴィナです。
ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの街ネウムによって分離され、飛び地となっています。 そのため本土とドゥブロヴニクとの往来には今は一旦他国のボスニア・ヘルツェゴヴィナを通過する必要があります。
チョコレートなどの土産物はクロアチアよりボスニア・ヘルツェゴヴィナの方が安いということで途中ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスーパーへ買い物に寄った後再び国境を越えてクロアチアに入りました。 この間4時間半ほどで、ドブロヴニクが近ずく頃には太陽もアドリア海に沈み始め、海面が眩しく輝やいていました。
他国を通過せずに移動できるようにするため、現在ドゥブロヴニク側から伸びるペルジェサク半島とクロアチア本土との間に、長大橋「ペルジェサク橋」の建設が進められています。
ドブロヴニクに着くと先ずレストランで夕食をとり、これから3連泊するドブロヴニク旧市街に近いホテル「リクソス リベルタス」に到着です。
第3部の構成は
トロギール市街 ⇒ トロギール旧市街 ⇒ スプリット で107枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第4部ドブロヴニク(1) |
| 6日目(8月28日)は終日ドブロヴニク旧市街の観光です。
クロアチアは1991年に国民投票が実施され、独立に78%の賛成を受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言しました。 一方で、クロアチア領内でもセルビア人が多くクロアチアの独立に反対していたセルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍はクロアチアに侵入。クロアチア軍は9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突となり、1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者と難民を生み出しました。 そしてユーゴスラビア連邦軍が砲火を浴びせたのが、ドブロヴニク旧市街など海岸沿いにたたずむ旧市街で建物の多くが攻撃を受けたのです。 しかし国の伝統と文化を愛する誇り高きクロアチアの人々により街は修復され、バルカン半島屈指の観光地は10年余で完全に復興し、かつての活気と平和を取り戻したのです。 クロアチアの通貨は自前の通貨クーナで今は未だユーロ圏ではありませんが、2010年のEU加盟を目指しておりもし実現すれば旧ユーゴスラビア構成国家ではスロヴェニアに続いて2例目となります。
クロアチア文化遺産の至宝ドブロヴニク旧市街はクロアチア観光地域で最も日照の多いダルマチア・ドブロヴニク地域のほぼ南端にあります。 そのため夏の間人々は海辺に出て水着姿で日光浴を楽しみます。 ヨットやボートを止め釣りをしたり、岩場で肌を焼いたり海に梯子をかけプールのようにして泳いています。 そして子供たちは水着姿のまま観光客に混じって街の中を遊び場にしています。 そうここは今も人々が居住する街で子供たちにとっては大通りも路地裏もそして文化遺産の建物や海辺も全てが格好の遊び場所なのです。 それでも日本のような犯罪がないのは皆が同じ価値観を共有し、格差が少ないからでしょう。 ナチュラリスト発祥の地らしく裸の付き合いをしているからかもしれません。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの街ネウムからドブロヴニク旧市街に向かう時には道路は海沿いの断崖を通りますが、そこから見下ろす旧市街の景観が最も素晴らしい大パノラマです。 しかし走っている車から車窓ごしに写真を撮ることが難しくなかなか思うようなのは撮れませんでした。 ユネスコ世界文化遺産リストのドブロヴニクに関する叙述の冒頭は「ダルマチア海岸アドリア海域の真珠。。。。」となっている所からドブロヴニク旧市街は「アドリア海の真珠」と言われています。 実際、海岸の岩盤上に中世の石の塁壁や砦が保存され、15世紀の建築物(中でもストラドゥン大通り(プラッツア通り)、旧総督邸(元首官邸)、聖ヴラボ教会、聖母被昇天大聖堂、聖フランシスコ修道院、スポンザ宮が有名)がこの狭い旧市街の中にぎっしりと詰まっているのです。
ドブロヴニク共和国は独立した小さな海運通商国家で80以上の都市に領事部を置き、ヴェネツィアに匹敵する700隻の商船を保有していました。 しかしドブロヴニクの美しさと豊かさが多くの征服者たちの野望を誘引し、最も近くは1990年代にも戦争がありました。 しかし特筆すべきはドブロヴニクは勢力争いの激しいアドリア海にあって外交努力により中世からずっと今まで独立を守ってきているのです。 そして今は塁壁の上からは兵士の姿は消え、旅行者が憩い、オペラなどの舞台としても利用されています。 それはこの場所では声が特に大きく響いて舞台として格好の場所であることからイベントの舞台として使われるようになったからです。 又、ロブリエナッツ要塞の入口にはラテン語で有名な「如何なる黄金と引き換えようとも決して自由を売り渡すな。」と記した文書が刻まれています。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第4部ドブロヴニク(2) |
| 塁壁内の大通りはストラドゥンで、その西端はピレ門から入ってオノフリオ大噴水や聖フランシスコ修道院(クロアチア最古の薬局マラ ブラーチャがあります)があり、東端にはルジャ広場がありドブロヴニクの自由の象徴であるオルランド騎士像が立っています。 そしてこの広場の周りには中世ドブロヴニクの重要な建物があります。 1つはドブロヴニク共和国の元首官邸(ゴシック・ルネサンス様式)でもう1つはスポンザ宮です。又主な宗教施設もこの広場の周囲にあります。 ドブロヴニクの守護聖人の聖ヴラボ(ピレ門の上の像も彼です。)に捧げられた聖ヴラボ教会や聖母被昇天大聖堂などです。 それらは1667年の大地震の後17世紀末に建てられたバロック建築です。
こうした大通りにある有名な建築物だけでなくちょっと横に入った狭い路地裏の階段を上がってみるのも風情があっていいものです。日本の下町の長屋のようにそこに住む人々の息吹を感じることが出来ます。
塁壁に沿って下を歩いているとビーチ(岩場)への入り口に出くわしましたが残念ながら入り口の扉には「NO NUDEST CLUB]となっていました。
この旧市街を取り囲む塁塀の上に入るにはピレ門脇、レヴァリン要塞そして旧港のそばなどから入れます。 一周すると1〜2時間かかりますが上から見下ろすアドリア海も美しく又上から覗く狭い路地裏の人々の生活も面白いかもしれません。
又、旧港からは遊覧船に乗り船上からドブロヴニク旧市街を見ることが出来ます。 ビーチや岩場で日光浴を楽しむ老若男女を見るとせかせかと観光する我が身と比較して羨ましくなります。 勿論ナチュラリストのヌーディスト達も日光浴を楽しんでいます。
翌日ライトアップされた旧市街に行きましたが夕方の旧港や夜空に浮かぶ要塞なども又違った趣がありいいものです。
7日目(8月29日)はドブロヴニクを北へ戻りスプリットとの中間点にあるコルチュラ島の観光です。 車でアドリア海を左に眺めながらコルチュラ島へ渡るボートの乗り場があるオレビッチを目指します。 途中ペリェシャツ半島にある伝統的な塩田で有名なストンへ立ち寄りました。 ストンを含むペリェシャツ半島は昔ドブロヴニク共和国の領土で共和国を守る要となっていて、今でも隣のマリ・ストン(小ストン)との間の山腹に全長5.5kmの塁壁とところどころに砦を見ることが出来ます。 又マリ・ストンは牡蠣の養殖で有名で海岸には牡蠣やムール貝の養殖の筏をよく見かけます。 又地中海性気候で日照日が多く南国の暖かい気候に包まれたペリェシャツ半島はブドウ畑が広がりクロアチア・ワインの最高峰ディンガチの産地となっています。 クロアチアは岩盤の上に出来た不毛な石だらけの乾いた土地です。 そのためイタリアやフランスの地中海沿岸部と同様にワインに適したよい葡萄を生産することが出来ます。 こうした土地では水の供給が豊かでないためワインより水の方が貴重となることが多く、ワインを水の代わりに飲んだり、ワインの水割りではなく水をワインで割って飲んだりするそうです。 聞いた話で本当かどうかは分かりません。
第4部の構成は
ドブロヴニク市街 ⇒ ドブロヴニク旧市街 で107枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第5部コルチュラ島&モスタル&ロヴィニ&ポレッチ(1) |
| 7日目(8月29日)のコルチュラ島へはオレビッチでボートに乗り渡ります。 島はドブロヴニク地域では最大の島で、島の中核の町コルチュラを中心としてすばらしい建物が建っています。 町の現在の概観は14〜16世紀のものでドブロヴニクの他の地域とは異なりヴェネツィア領で、特徴は魚の骨状に設計された狭い通りと、ゴシック・ルネサンス様式の建築群です。 中でも印象深いのが聖マルコ大聖堂で豊かな装飾を施した外観と堂内で見られるヴェネツィアの画家ティントレットによる絵画です。 又この島には東方見聞録で有名な大冒険家マルコ・ポーロの生家があります。 石畳が敷かれた路地裏にはアドリア海からの爽やかな風が通り過ぎて涼しいため小さな子供達は表に出て涼をとっていました。 乳母車の中から赤ちゃんの寝息が聞こえてきそうです。 観光が終わると再びドブロヴニクに戻ります。
8日目(8月30日)は連泊のドブロヴニクを去り、隣国ボスニア・ヘルツエゴビナにあるモスタルへ行きます。 モスタルとはスラブ語のモスト(橋)に語尾_arを付けたもので「橋の番人」を意味していて、その地名は町の中心にあり16世紀に建築されたものの戦争で崩壊した古い橋「スタリ・モスト」に由来しています。 位置的にはボスニアの首都(サラエボ)から南へ100km、アドリア海には50km離れたところにあり、ヘルツエゴビナという歴史的な地方の中心になります。
1992年にボスニア・ヘルツエゴビナが独立宣言を行なうとモスタルはユーゴスラビア連邦軍の攻撃を受けます。 所謂ボスニア戦争の始まりです。 ボスニア人とクロアチア人は町の防衛を行い、ユーゴスラビア連邦軍と戦いますが、後に共に戦ってきたボスニア人とクロアチア人との間でも市街戦が始まり状況はさらに悲惨なものとなりました。 モスタルの象徴であったスタリ・モストもこの時期にクロアチア系のカトリック民兵により破壊されました。 1994年にムスリム人と協力して戦争を終結させると「ネレトバ川」の左岸(東側)はムスリム人が住み、 川の西岸にクロアチア人が住むようになります。 ムスリム人が住む地域にはトルコの影響を強く受けイスラム教のモスクなどが多くあります。 又350年位前に建てられたトルコの家が観光客に開放されていてムスリム人の生活を垣間見ることが出来ます。 市街戦で破壊されたスタリ・モストは2004年に再建され、橋とその周辺は2005年にユネスコの世界遺産に登録されました。
モスタルの街のあちこちには今でも銃撃を受けた民家がその弾痕の痕をそのままに悲惨な市街戦のメモリアルとして残っています。 スタリ・モストの橋の袂にある店では悲惨さを今に伝える終戦直後の市街地の大きなパノラマ写真が道に面して飾られていますがそれを写真に撮影すると女主人が怒るそうです。 著作権の問題だそうですが何か戦争を飯の種にしているようで余りいい気持ちはしませんでした。
昼食をスタリ・モストの橋が見えるレストランで摂った後は本日の予定は終了し、車で1時間15分ほどボスニア・ヘルツエゴビナの内陸部を走り、クロアチアに入ります。 その後2時間半ほどクロアチアの沿岸部を走り、シベニックにほど近い街ヴォディツェのアドリア海に面したホテル「オリンピア」に着きました。
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| 2009年11月12日 (木) |
クロアチアとスロベニアを巡る旅 第5部コルチュラ島&モスタル&ロヴィニ&ポレッチ(2) |
| 9日目(8月31日)はヴォディツェを一路北へ向かい5時間半を掛けてアドリア海沿岸を走った後イストラ半島の街ロヴィニに着きます。
イストラ半島はクロアチアの西端にありウチュカ山によりクロアチアの大部分の国土から分離されていて西暦7世紀の昔から様々な国の統治下にありました。 ローマ帝国時代はイタリア本国の一部で帝国が消滅してからクロアチア人が北から移り住みました。 その後何度か分割統治された後15世紀からは西側をヴェネツィアが、東側と内陸部をハプスブルグが統治し、18世紀末から19世紀はじめまでをフランスが、1815年から第1次世界大戦の終わる1918年迄をオーストリアが支配し、その後第2次世界大戦迄をイタリアが支配します。 そして1945年になってやっと母国クロアチアに統合されますが、最初はユーゴスラヴィア連邦内のクロアチア共和国でした。 そして1991年に独立したクロアチア共和国の一部となり今日に至っています。 又この地はヨーロッパ3大民族であるスラブ、ラテン及びゲルマンが接する所であり、そのためイストラ人は多様性を認めお互いを尊重すると同時に自分たちの特殊性をも誇り高く守ってきたのです。
ロヴィニには卵型をしたかわいい旧市街があり、中には壮麗なバロック建築の聖エウフェミア教会があります。 この聖エウフェミア教会とその鐘桜を中心とするロヴィニの景観、旧市街の古い建物、風情溢れる狭い通りは昔から多くの芸術家を強く惹きつけ、人はそこで描いた作品を旅行者に売っています。
ロヴィニの観光が終わると次に同じイストラ半島の街ポレッチに行きました。 この街の旧市街には金箔のモザイクや宗教建築最高峰の彫刻を擁するエウフラシウス・バシリカ聖堂があります。 この聖堂は6世紀にエウフラシウス司教の音頭で建てられ、13世紀と15世紀に増築された後16世紀になって鐘桜が造られました。
この聖堂はポレッチの古い町並みに埋没していて外からはよく見ることが出来ません。 しかし中に入るとそのユニークな構造や独特の豪華な祭壇に惹きつけられます。 三身廊の後陣にはヨーロッパ古典モザイクの代表とされる壮麗なモザイク装飾が残っています。 又、この聖堂は6世紀以前の古い教会堂の遺構の上に建てられており、その遺跡から初期キリスト教徒の生活を垣間見ることも出来ます。
この聖堂の重要性はこの時代のキリスト教建造物がこれほど完全な形で残っていることが少ないことにあります。 又、ローマ帝国が消滅した後にビザンティン帝国のユスティニアヌス大帝がこの地域を統治した結果この初期ビザンティン芸術の素晴らしい聖堂がこのようなローマの遥か西の彼方にうまれたのです。
ここで今回の旅行の全ての予定が終了し、クロアチアからスロベニアを経由して最後の宿泊地であるイタリアのトリエステに入り、来た時と同じホテルで1泊した後往路と逆にローマのフイウミチーノ空港経由で帰国の途に着きました。 幸にも乗り継ぎ地のローマではラウンジでワインが飲み放題であったことと帰りの機内食が来た時より若干良くなっていたので助かりました。
第5部の構成は
コルチュラ島 ⇒ モスタル ⇒ ロヴィニ ⇒ ポレッチ で109枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月5日 (日) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第3部(其の1)」。 |
グアム4日目は久し振りにゆっくり出来た。 事前に買っていたもう1枚のミールクーポンで朝食を取る。 この時のビュッフェは初日の時よりは幾分ましな内容であった。 デザートの大きなバナナは部屋に持ち帰り食べる
午前中の予定はセスナ機に乗って上空からグアムを写真に撮ることにしていた。 セスナの遊覧飛行を運営している会社は幾つかあるが大体は2名(アベックを想定して?)からで、一人でもよいところが1社(マイクロネシアエビエーションシステム)だけだったので否応なくそこに決めたが、当初のグアム島一周(195ドル:70分)の計画を急遽変更してココス島南部(135ドル:45分)にして若干節約することにした。 セスナ遊覧は少し高いが遊覧してみてその価値は十分あったし、グアムのオプショナルツアーの中では一押しのものであろう。 これならここで節約せずもっと他で節約すべきだったと今では後悔している。
朝の10時に迎えのRV車が来て私1人を乗せてグアム空港の裏手の方に着いた。 事務所には日本の若者4〜5人がいたが、恐らく彼らはここで訓練を受けて飛行の免許を取得するために来ているのだろう。 セスナ機は前の操縦席に左右2名、後部座席に2名の定員4名である。 前の操縦席には左右ともに同じ計器盤と操縦桿があり、左にパイロット(体験飛行時には教官? 日本人)が、右に体験飛行の時には訓練生が乗り込むのであろう。 私は一人だったので前の右の席に座った。 マイクのついたトランシーバーのようなものを頭に載せ、いよいよ滑走路へ移動。 少し緊張しているとパイロットが真ん中の棒を引っ張った後いきなり私にそれを引き込めという。 エ〜!私は体験飛行に来たんじゃな〜い! と思ったが仕方がないので思いっきりグウ〜ッと押し込んだ。 すると機は滑走する暇もなくあっと言う間に頭を持ち上げて飛び立ってしまった。 本日は晴天。 絶好の飛行日和。 パイロットが「写真を撮るのは結構ですが、時々我を忘れて身を乗り出し落ちる人がいるので注意してください。」と言うのを馬に念仏、豚に説教とばかり写真を撮りまくる。 電池が容量不足なのかなかなか焦点が合わず、連写出来ないでイライラが続く。 その間アッと言う間に被写体が過ぎて行く。 あ〜ココス島が後ろに。 ここで停まって! そして45分は終わり、機は滑走路に向かって着陸態勢に入る。 パイロットが「この滑走路はジェット機と同じ滑走路ですよ」という。 エ〜! 離陸する時には緊張して気ずかなかったけれど、あのノースウエストのジェット機が着陸した滑走路に今、セスナ機で着陸しているのだ! 時刻は11時半を少し廻っていた。
遊覧飛行の証明書を貰い、来た時と同様、若い女性ドライバーの運転で帰路に着く。 日本語が話せるのかよく分からないので道中は沈黙のまま、ホテルまでの途中にあったマイクロネシア・モールで降ろして貰う。 ここの2階には食事をするファーストフード店が沢山あり、「KITCHEN ARIGATO」でビール無料(日本の350ml缶ビール)のセットメニュー(9.5ドル)から1つを選んで昼食とした。 缶ビールを除くと8ドル弱の昼食は普段より若干贅沢だった。 ビールや味噌汁を飲み、ゴーヤと卵の炒め物を食べると満腹となり、メインのライスや焼きそばなどには殆ど手が付かず残してしまった。 それなら最初からセットメニューにしない方が良かったのではと後悔。 帰国までグアムには後1日となったので土産物はここで調達。 買い物が終わると時刻は1時過ぎで今夜のイベントには時間的余裕があるのでマイクロネシア・モールからホテルまでは歩いて帰ることにした。 およそ15分ほど歩いただろうかウエステインホテルを抜けリーフホテルの前辺りまで来ると急に雲行きが怪しくなって来た。 急いでホテルの正面玄関の手前にある建物の庇に駆け込むと同時にザアーと降って来た。 これぞまさしく南国特有のスコールだ。 以前バリ島でも経験したことのある激しい雨。 こう言うこともあろうかと傘とスーパーで貰ったポリ袋はいつもカメラのために持参しているが、この時にはそれらを使う暇もなかったが、何とか間一髪で無事に庇に駆け込んで難を逃れることが出来た。 しかし運がよかったのか悪かったのか分からないが、後1分ほど降るのが遅ければホテルに着いていたのだが。 暫時雨宿りをした後ホテルに入る。 それでスコールはこの時とシーフード・シェフの夕食時の2度だけで済んだ。 聞くところによるとグアムの雨は日本の雨と違い塩分を含んでいて体に掛かると余り良くないようだ。 勿論カメラにとっても最大の敵。 日本でも海辺近くのマンションでは潮(塩分を含んだ)風により鉄部分が錆易いのだ。
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| 2009年7月5日 (日) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第3部(其の2)」。 |
部屋に戻った後、本日の夜飲むアルコールと明日以降の朝食の辛ラーメンなどのカップめんを買いに街に出る。 ホテル前の道路を左に行けば近くに「Kマート」があり、中へ入ったものの客は一人もおらず、しかも缶ビールなどの値段も少し高いように思えたので、何も買わずに出て来た。 確かあの値段だと以前に買った「ABCストア」の方が安く思えたのだ。(実際はどうか不明。 なにしろ記憶があいまいなのだ。) それでリーフホテルの隣のアウトトリガーホテルの先にある「ABCストア」に行った。 ここでは日本のアサヒ・スーパードライ350ml缶が1.65ドルと日本で買うのと余り大差ない値段で買えた。 しかし分からないことに日本のスーパーで80円程度で売っている二流メーカーの神戸居留地産のグレープ350ml缶チューハイが2.79ドルで売られていた。 それでも欲しい時は仕方がない。 缶ビール3本と缶チューハイ4本とカップラーメン2つ(韓国の辛ラーメンが1.29ドルに対して日本の明星食品の味噌ラーメンが4.35ドルと割高)を買うことにした。 今夜と明日しかないのにちょっとアルコールが多くない! しかも今夜の予定が飲み放題のサンセット・クルーズとポリネシアン・デイナーショー(125ドル)なのだ。 帰ってきてから飲むのはもう無理ではないか。 参考に現地の500ml緑茶が1.99ドルに対して日本の伊藤園の2lの「お〜いお茶」が7.49ドルであった。
5時に迎えのバスが来て、順次ホテルで客を乗せ30分ほど経過した頃にピティ湾のボムホールでフイッシュアイの海中展望塔があるレストランに着いた。 ここでクルーザーの中で飲む缶ビールやチーズなどのつまみを仕込み、再びバスで島を左へと向かう。 途中、火力発電所を過ぎ6時10分過ぎ位にヨットハーバーに着いた。 ピティ湾、アブラ湾やアガット湾などこの辺りにはダイビングポイントが多く散在している。 バスを降り船に乗り込むと早速ビールとつまみが振舞われた。 後で考えるとこの船上で殆ど出来上がるため、後のデイナーがどうだったかは余り記憶にない。 どうやら敵の作戦にはまってしまったようだ。 大体、船が出て夕日が沈む頃になっても全然景色はよくならない。 何だこりゃ。 ただ夕日の沈む頃に船に乗っているだけだ。 そうかそれでサンセット・クルーズなのだ。 そしてそれを紛らわすために飲み放題の缶ビールとつまみなのだ。 納得して酔いが廻り始めた頃クルーズは終わり、再びバスに乗って、来る途中に寄り道をした海中展望塔があるレストランに戻って来た。 このレストランがフイッシュアイのポリネシアン・デイナーショーを行なっているところだった。
我々一行はパンフレットに「ポリネシアン・デイナーショーでは良いお席を優先提供」とあったように舞台の正面に近い場所に誘導され予約席につく。 食事は本格的なシーフードBBQということであったが何を食べたのかさっぱり覚えていない。 飲み物は別料金でとてもこれ以上飲める状態ではなかったので一番安いバドワイザーの中瓶のようなもの(サービス料込みで5.45ドル)にした。 しかも30分ほど経過した頃には前の舞台に人の気配がしてショーが始まった。 そしてその時にはもうシーフードのことなど一切忘れ、席を離れて写真を撮ることに夢中になっていた。 舞台装置と音響それに地元ロコ学生によるダンスにポリネシアン人雰囲気の男女ダンサーによるアイランドショー(タヒチアンダンス、ハワイアンダンス、サモアのナイフダンスなど)とファイアーショーは確かに迫力満点か。 7時50分頃から始まったショーは9時10分位まで続き、その間食事を忘れて写真ばかり撮っていたが船上での缶ビールを飲みすぎたお陰で酔いが廻り何を食べたか全く記憶にない。 どんなシーフードがあったのか、良かったのか悪かったのか評価できないほど記憶がないのだ。 船の飲み放題で悪酔いさせ、ショーの始まりを早くしかも長くして食事をさせないという敵の作戦にまんまと嵌ってしまったようである。 今度行く機会があれば、海中展望塔見学付のコース(81ドル)にして、酔わずにじっくりシーフードのBBQを食べることだけに専念しよう。 そう反省しながら再び帰りのバスに乗り、10時前にホテルに戻った。 結局買いだめしておいた缶ビールはこの夜には飲めず、7本の缶ビールと缶チューハイは明日消化せねばならない羽目になった。
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| 2009年7月5日 (日) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第3部(其の3)」。 |
グアム5日目は早いものでグアム旅行最後の日である。 この日は8時に迎えのバスが来るというので朝6時に起床。 食事は前日買っておいたカップラーメンで済ます。 今日も天気は快晴。 清々しい中、久し振りにリーフ近辺の写真を撮る。 9Fのバルコニーから見た景色、プールサイドから見た景色などなど。 天気がよく空気が澄んでいて気持ちがいい。 今日の予定は午前中がアトランティスサブマリン(潜水艦で約35分)により水深30mの海底へ、そして昼からはココパームガーデンビーチでのんびりくつろぐ計画だ(料金はセットで126ドル)。
バスは順次ホテルを巡り客を乗せた後、前日海中展望塔へ向かう途中に通過した火力発電所の裏手にあるシャトル・ボートの船着場に8時40分頃に着く。 そこでアトランティス鶩号が待つ沖合いまでシャトル・ボート(FLIPPER 鵺号)に乗ること約20分。 9時5分頃我々を乗せたアトランティス鶩号(48人乗り)は静かに潜水を始めた。 肉眼ではよく見えている魚も20cm超はあるかと思える分厚い窓ガラス越しではなかなか思うように写真が撮れない。 色彩の鮮やかな魚が窓一杯に近接する時には何とか撮影可能。 餌付けしているのだろうか時々白い容器の周りに魚の群れが現れる。 それで大きな魚影が現れると艦内にどよめきが走る。 しかし一瞬のためシャッターチャンスを逃して悔しい思いをした。 そうこうするうちに艦は水深25mに達する。 これ位深くなると窓の外は暗くなり魚の撮影は難しい。 そしてそれまでゆっくりと潜水していた艦は一気にそのスピードを上げる。 30m、40mそして50mになった時に今度は浮上を始めた。 それまで内圧を外と同じにするため圧縮していた空気を一気に吐き出したのであろう窓の外には大きな泡が溢れ、宝石と化す。 海面に浮上するころにはこの泡は小さな粒となり、35分のアトランティスサブマリンの旅は終わる。 浮上したところにはシャトル・ボートが待機していて、再びそれに乗り元来た船着場に10時過ぎに戻った。
次にその日のうちにココパームガーデンビーチに行く人だけの車に乗り、フイエスタ・ホテルで他の客を乗せたバスに乗換える。 ココパームガーデンビーチはグアム島の一番北にあり、フイエスタからバスで1時間ある随分と人里離れたビーチだ。 それだけに俗っぽく荒らされていない。 その上ゴールデンウイーク後の平日ということで先に来ていた人を含めても30人足らずの人数だ。 この広いビーチが全くのプライベートビーチなのだ。 海は青く、ビーチはホワイトサンド。 ビーチチエアやハンモックの上で静かに風と波の音を聞きながらホテルから持参した缶ビールや缶チューハイ4本を飲みほした。
年配の夫婦が魚釣りをしている。 若い女性2人がシュノーケルで海の中を覗いていた。 この女の子の大きな悲鳴が聞こえたので見ると現地スタッフらしきチャモロ人から例の悪気のないカラマリに会っていた。 ここのビーチは底が珊瑚で出来た遠浅で、数メートル先まで足の膝くらいまでの深さしかない。 しかし突然深くなるのであろう、水の中に入る時には必ずライフジャケット(救命胴衣)の着用が義務ずけられている。 又、岩や貝、ウニなど有毒生物から守るためビーチシューズも着用しなければならない。 時々監視員だろうか沖の方で暑さよけに傘をさし椅子に座っている。 監視員がいなくなった後には忘れられた白い椅子だけがぽつんと青い海に取り残されている。 この風景どこかのCMで見たような記憶が蘇る。 そう言えばここココパームガーデンビーチはグラビア・アイドルの撮影場所としても有名らしい。 先ほど悲鳴を上げていた一人にアイドル風に写真を撮らせて貰ったが残念ながら肖像権(プライバシーの保護)の関係から日本人ではホームページに写真を載せる訳にはいかない。 こうして4時30分頃までのんびりと過ごし、グアム旅行の最後の日になってやっと突発性難聴の療養を果たした。
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| 2009年7月5日 (日) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第3部(其の4)」を。 |
ココパームガーデンビーチからバスでホテルに戻ったのは5時半過ぎであった。 グアム最後のタモンビーチの夕景色を写真に撮っておこうと6時半頃からビーチに出る。 リーフのプールサイドから階段を下りてビーチに出た。 ヒルトン方向に少し行くとグアム1日目に行ったセイルズBBQの裏に出るがBBQはもう始まっているようで白い煙が上がっている。 丁度夕日が地平線に沈む頃だ。 その夕日が海面に輝く風景をバックにビーチで戯れる人々のシルエットを写真に撮る。 家族ずれ、親子、アベックなどなど。 その中に若く可愛い女の子の二人ずれ(どうしてこんなに可愛い二人が女の子同士で来ているのか不思議)がいたので頼んで写真のモデルになってもらった。 グラビア・アイドル風にという注文にも快く応じてポーズをとって貰えたのもグアムのビーチで夕暮れ時という雰囲気が人を開放するからだろうか。 グアム最後の日、彼女達も明日早朝の帰国だそうだからお互い感傷があったのかも知れない。 残念ながら彼女らのアイドル風写真もプライバシー保護の観点からホームページには載せられない。 こうしてグアム最後の写真を撮った後最後の晩餐はセイルズBBQの表側にある「ナナズ・カフェ」でとることにした。 恐らくセイルズBBQと「ナナズ・カフェ」は同じ企業が経営しているのだろうその境はお互いが見通せる簡単な敷居があるだけだ。 そこでメニューから単品の海老シュウマイ(6.5ドル)とシーフード盛り合わせ(24.5ドル)に飲み物は最も安いバドワイザーのビール(4ドル)を選んだ。 盛り合わせにはライスが付いてきたが食欲が今ひとつで食べる気にはならなかった。 結局ここでの支払いはサービス料を入れると〆て38.5ドルとなったがセイルズBBQのあの飲み放題60ドルと比べると少し高くついた感じがする。 それにホテルに戻れば昨日買った缶ビールやチュウハイが3本残っているのだ。 明日の朝は早い。 6時にはホテルに迎えのバスが来る。 起床は4時半にして今夜はスーツケースを整理して早く寝なければならない。 急いでホテルに帰りスーツケースを片付けると風呂に入り、ビールとチュウハイを飲んで就寝。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー JTBの現地係員から貰った書類の中に出国の際に預ける荷物の検査では「預け入れ荷物には鍵を掛けないで下さい。」とあったので、鍵を掛けないまま検査に行き、そのまま預けてしまいそれでスーツケースは関空まで鍵が掛っていない状態で届くことになったが、もし途中で中身が盗難にあった場合誰が責任を取ってくれるのだろう。 これまで他の国では出国の際には鍵を掛けていても不審な時だけ係員が鍵を開けさせ検査が終われば再度鍵を掛けて預けるというのが普通だった。 入国の時もそうだったがグアム(というよりアメリカ?)の安全検査は少し異常なのでは。 入国時にはもう2度とグアムには行かないと思ったがその後天候にも恵まれ、観光地化して物価は高いものの楽しく過ごせたお陰で又来たいという思いに変わっていた。 ただし、この次に来るのは、他に行く所がなくなるか又は体が不自由になって無理が利かなくなるかした時で、今回のような旅ではなくタモン湾のビーチやココパームガーデンビーチのようなところで1日ノンビリとビーチチエアーに寝転がって缶ビールを飲んでは写真を撮るというそういう旅にしたい。 もうオプショナル・ツアーも豪華デイナーも要らない。 そう考えていたら10時半頃関空に着いたが、日本では新型インフルエンザが神戸に飛び火していてJR西日本では三宮の駅売店の女性が感染していたということで国内感染が本格化し始めていた。 このニュースは家に帰りTVで昼過ぎに知ったがこの時を境に関西の街はマスク姿の人で溢れかえる。 あ〜これが現実の世界。 次はどこへ逃避行しよう。
第3部の構成は
マイクロネシア・モール ⇒ アトランテス・サブマリン(潜水艦) ⇒ ココパーム・ガーデンビーチ ⇒ セスナ遊覧飛行 ⇒ フイッシュアイ・サンセットクルーズ ⇒ タモンビーチ(夕景色) ⇒ フイッシュアイ・ポリネシアン・デイナーショー で110枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第2部」をUPしました。(其の1) |
| 今回の旅行はルックJTBの「春とっておき!グアム」というもので航空会社とホテルだけが行く前から決まっていて、後は追加代金なしで「グアム島内観光コース」と「パイレーツコーブコース」のどちらかを選ぶことが出来る。 グアム2日目は「パイレーツコーブコース」に行くことにしていたので朝9時にホテルのロビーでバスを待つことにした。 リーフHから乗るのは私だけで、バスはホテルロードを順次西へとホテルを回り20人程度乗せてグアム島西南部分(タモン湾の真南に位置し、グアム島を左右2分割して左部分のみを見れば東海岸)の「ジェフズパイレーツコーブ」に着いたのが9時40分だった。 ここは何のことはない海賊に扮したジェフという白人のお爺さんが経営しているビーチだった。 ここでトラクターが牽引する車両に乗ってビーチ内を20分ほど巡るトラクタートラムツアーなるものを行う。(実際は大人5ドルの有料ツアーだが今回は無料。)このツアーの最後にトラクターから降りて、椰子の実(ココヤシの実でココナツと言う。)の捌き方の実演があり、取り出した殻から真っ白なイカ状のものを掻きだし、ワサビ醤油で食べさせてくれた。 まさしくイカ刺しそのもので、若い椰子の実からは硬いイカの、古い椰子の実からは柔らかいイカの食感がして古い方がおいしいとか(ひょっとして逆かもしれない)。 両方食べ比べたがやはり柔らかい方が美味しかった。
この後は自由時間。 昼食は10ドルのチーズバーガーと4ドルのドラフトビール。 このビーチから見える小さな島は珊瑚から出来た島だそうで、遠浅の海は下が珊瑚のため裸足では怪我をするので、海に入る時にはビーチサンダルが必須だ。 珊瑚で怪我をすれば15日は入院しなければ治らない。 落ちが「サンゴ15」という話はグアムにいる間何回も聞くことになる。
自由時間に釣りを楽しんだ人もいたようだが大半の人はビーチチェアーやハンモックで休息し、チーズバーガーとビールで昼食を済ませ、その後1時からのアドベンチャーリバークルーズに参加した(大人68ドル)ようだ。 どこがアドベンチャーなのかはよく分からないが一応マングローブの茂るタロフォフォ川を船で遡って行き、途中水牛やヤシガニやナマズ(?)を見ることが出来た。 グアムに来る前にチャモロ人はイタズラ好きだと聞いていたがここでそれが真実であることが分かった。 クルーズを行っている側の人間は説明をしているチャモロ人が一人とあともう一人若いチャモロ人が乗っていたが、この男は特別仕事をするでもなく、時たま藁のようなもので後ろから首筋を撫ぜては知らん振りを決め込み一人悦に入っていた。 特に女好きでもあるようだ。 若い女と見ると俗に言うスキンシップをはかりにいく。 これが日本なら今やセクハラもんだが、彼らには自然なのだろう悪気を全く感じさせないのでどうしようもなくなすがままとなる。 ただ笑ってごまかすしかないだろう。
40分ほど船に乗った後陸に上がり古代チャモロ村へ。 といっても古代チャモロ村らしき跡は殆ど残っていない。ここで先ほど船にいたチャモロ人の若い男がやっと仕事らしいことをした。 それは椰子の実の繊維質で出来た殻の毛のようなものから古代チャモロ人が火をおこすという実演だった。 このためにずっと一緒にいたのか?
この後再度船に乗り出発地点の船着場にもどるとバスで「ジェフズパイレーツコーブ」経由で順次ホテルに戻っっていった。 私がホテルに戻ったのは4時過ぎであった。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第2部」をUPしました。(其の2) |
| この後前日に予約しておいたオンワードポリネシアンデイナーショーの送迎バスが迎えに来る6時まで部屋でノンビリ過ごす。 日航ホテルで客を乗せた送迎バスはリーフHで私を乗せた後順次ヒルトンホテルまで参加者を積み込んでアガニア湾に面したオンワードビーチリゾートホテルに6時半頃に到着。 ポリネシアンデイナーショーで踊る女の子に出迎えられる中、プールサイドの指定された席に着く。 今日は食べ放題に飲み放題。 それにポリネシアンショーがついて価格は50ドル。 前夜のセイルズバーベキューと比較して極めてお得感があるが飲み放題のビールはアサヒスーパードライなどの日本の缶ビールで、しかもビーチは見えない。 夕景色という雰囲気がない代わりにポリネシアンショーがあり、食べ放題なのだ。 食べ放題のBBQには牛肉、チキン、ポークなどにえび、イカ、白身魚や野菜などなど自分の好きなものをたっぷり食べられるがロブスターのような高級なものはない。 しかしショーを含めて2時間余りのBBQは充実感・満腹感十分。 BBQが始まり1時間経過した頃にショーが始まると私は席を離れプールサイドから缶ビール片手に写真を撮っていたので食べ放題は1時間ほどしかなかったがショーの間も食べ放題、飲み放題は続いていたので他の皆さんは十分満足したと思う。 その上踊り子には若く可愛い子を揃えていてここもお得感から個人的評価で一押しに分類。 ただビールを飲みすぎて帰りのバスに戻る途中でホテル内のトイレに入ったのはよいがその間に誰もいなくなり、ホテル内で迷子になりそうになったのには今思い出しても冷や汗が出る。
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グアム3日目は前日予約しておいた「グアム島一周の旅(75ドル)」で朝8時に迎えのバスが来る。 午前中は島の左半分を左回りで巡り、昼食をオンワードビーチリゾートホテルの南東に位置するシーフード・シェフで内容が今いちのビュッフェ形式でとり、昼からは島の右半分の真ん中に位置する「ジーゴ・南太平洋戦没者慰霊公園」のみであった。 この右半分は慰霊公園の周り一周しただけ(正確に言えば島半分も一周していない)なのでこの昼からの分は不要で単なる時間稼ぎ。 寧ろ45ドルで昼食なしの「レッツゴーサウス南部早廻り」の方で十分だと思う。 午前中の左半分の一周は ①戦争記念館 ②ガアンポイント ③スペイン古橋 ④ソレダット砦 ⑤イナラハンチャモロ文化村 ⑥タロフォフォの滝 ⑦横井ケーブ である。 ⑦の横井ケーブでは横井 庄一さんが終戦を知らず、28年間身を潜めていた小さな洞穴(ケーブ)が外から見られる。 ガイドの女性からバスに乗っている間日本では今ではもう誰も歌わなくなった望郷の唄などを何曲も聞かされた時には少々閉口した。 それでもまあ日本人なら一度は行って先人の苦労を知るのも悪くはない。 昼から慰霊公園に行った後帰途の途中、一部の人はマイクロネシア・モールで下車したが私はこの後の予定があったので寄り道をせずホテルに戻った。 4時過ぎであった。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「グアム?初めてのリゾート? 第2部」をUPしました。(其の3) |
| この後は毎週水曜日にしか行なわれないという「チャモロビレッジナイトマーケット(45ドル)」だ。 これは何もオプショナル・ツアーで行かなくても赤いシャトルバスで行っても同じで安くいけるのだが、帰りのバスの時間を気にしなくて済むのと、夕食をシーフード・シェフで出来るということでツアーで行くことにしたのだ。 ただ「グアム島一周の旅」が昼食も同じシーフード・シェフで食べるとは思ってもいなかった。(考えてみれば運行事業者も同じラムラムツアーズであった。) もし分かっていれば別の行動になったかも知れない。 少し救われたのは夕食はビュッフェ形式ではなく昼食よりは少しはましだったということ位か。 飲み物は別料金で夕食の時も昼食と同様にアサヒのアクアブルーでサービス料込みで3.85ドルであった。 そして幸運なことにこの夕食中に南国特有のスコールという雨が降り、食事が終わる頃には止んだということであろう。 そう言えば未だスコールにはこの時と後1度、ホテルまで1〜2分というところで降られたことがあるだけである。 天候に非常に恵まれたのは悪運をグアム到着の空港で全て使い切ったためだろう。
聞くところによるとチャモロビレッジナイトマーケットでチャモロ人が出している夜店は少なく、多くはフイリッピン人や韓国人がやっているということだった。 焼肉など白い煙があたりに立ちこめ臭いも凄い。 この臭いが衣服に沁み込み、家に帰ると犬が寄ってくるという話をガイドがしていた。 又行列が出来ている店はうまい店で、行列のない店は今いちというのは日本でも同じ。 ただ時間のない観光客にとってはこの行列に並ぶのは無理だ。 又、夜店の屋台には床机のようなものがないのでそこかしこに座って食べることになる。 皆がそうだから別に恥ずかしいことはない。 マーケットの中央に少し高い塔があり建物の中で人々が踊りを踊っていた。 何の踊りかはよく分からない。 好き勝手に体を動かしている。 そういう踊りだそうだ。
マーケットがいつまで続くのか知らないが、我々は7時に到着し、1時間程見学した後8時過ぎにはバスに乗り帰途についた。
第2部の構成は
グアム島一周の旅 ⇒ ジェフ・パイレーツコープ ⇒ チャモロ・ビレッジ ナイトマーケット ⇒ オンワード・ポリネシアン・デイナーショー で102枚の写真によるスライドショーです。
スライドショーは最上段右の「戻る」をクリック願います。 |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第1部」をUPしました。(其の1) |
| 2009年5月10日(日)から1週間、16日(土)まで久し振りに海外旅行をすることにした。
前回、海外へ出かけたのが1年前の3月末にチュニジアへ行ったのが最後で、それからは円安と燃油サーチャージ代とかで余りにも高くなったので馬鹿らしくて家に籠ったままの状態だった。 やっと円も高くなり、しかも燃油サーチャージ代もなくなったので、これでは家に籠っている理由もなく、久し振りに行くことにしたが、行き先は私としては初めてのリゾート地で、しかもハワイとともに日本人が行く海外の常にベスト1位を争っている島、グアムということにした。
何故リゾート地かというとこの1年、ある事情によりストレスから突発性難聴になってしまい、その療養がてらということでノンビリと南国で過ごすのも悪くないと考えた次第。 ところがグアムに向かう直前からカナダより帰国した高校生3人が新型インフルエンザに感染していたことが分かって大騒ぎになっていたが、成田空港のことでもあり未だ対岸のことと軽く考えて出発した。
飛行機の出発が約1時間遅れてグアムに到着したのが現地時間の夜中2時30分頃だったが、ホテルに着いたのは朝の5時30分になった。 その間空港の日本で言うところの入国管理局の役人(ポリスやGメン、麻薬官でもなくこの人たちを総称すると何と言うんだろう?)から2時間30分以上に亘って尋問を受けていたのだ。 グアムもアメリカ領だから審査が厳しいというのは分かるが同じ飛行機に乗っていた他の日本人は私以外皆すんなり通過して行ったようで、引き止められたのは私1人だけであった。 通訳(最初は女性だったが途中から男性と交代した。)からは同姓同名の人間と思われていると聞かされた。
後でJTBデスクの者から聞いた話ではパスポートに色んな国の印が押されていると審査が厳しくなるらしい。 しかしそれが事実ならアメリカに行く時にはパスポートを再発行して貰ってマッサラにしてから行けば良いということか。
尋問の内容はグアムでのスケジュールに始まり「刺青があるか?」とか「黒子があるか?」、「金は幾らもっているか?」とまで。 質問してはどこへやら電話をしている。 電話中は手持ち無沙汰で暇だから通訳の男性と世間話をしていた。 その通訳は現地のチャモロ人ではなく私と同じような顔立ちだったので聞いてみるとフイリッピン人ということであったが、帰国の際大韓航空のチェックカウンターで仕事をしているのを見かけたので通訳が本職ではないようだ。 このお陰でこの日は一睡も出来ずに過ごすことになり突難(突発性難聴をこう呼ぶらしいです?)の療養どころではなくなった。 ホテルはC級クラスのグアム リーフ ホテルだ。 安くて買い物にも便利ということで少々格下であろうと眠ってしまえば豪華ホテルも同じこと。 しかも部屋からは絶景とは言えないが一部海が見えるオーシャンビューだ。 ただセーフテイ・ボックスが有料(2ドル/日)なのと日本で2千円で買ったミールクーポンで食べるビュッフェ形式の朝食のお粗末さには参った。
大体日本で朝から2千円もする飯を食べたことがない。 朝は300円迄、昼は500円迄、夕食でも普段は700円以内というのが私の普段の食生活。 ということで翌日からは朝はコンビニで買ったおにぎりやカップラーメンに替わった。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第1部」をUPしました。(其の2) |
| 自分で作ったスケジュールではグアム1日目は赤いシャトルバスが走るメイン通り(ホテル・ロード)を歩いて探索し、どこにどんな店があるかを知って食料品やアルコール類を買いだめすることにしていたので、朝7時過ぎにミールクーポンで朝食をとると早速、リュックをかついでカメラを片手に街に飛び出した。 先ずリーフホテルからヒルトンホテルに向かって歩きだしたものの暑さと昨夜来一睡もしていないせいか1時間少々歩いたところで少し気分が悪く成り、丁度日本人経営の「コンビニエンス・ストア大阪」が目の前にあったので飛び込んだ。 中は冷房が効いていてす〜と暑さが引いた時には本当に助かったと思った。 この店は事前調査で安くて親切という評判通りで、日本人の若い女将?によるとアルコールは朝9時を過ぎないと販売出来ないそうだ。 これを破ると店は営業停止、買った客には罰金が課せられるということであった。 時計を見ると9時5分前だったので缶ビールを2本買い、9時になるのを待って店を出て、店前で1本飲んでやっと一息ついた。
それから又暫く歩いていると左手にUSA公認の実弾射撃の看板が目に入ってきた。 実弾射撃も今日の計画の1つに入っていたので早速店に入っていくと、客は1人もおらず、少々不気味な雰囲気ではあったがチャモロ人風の男が2人いて、私が「22口径」を撃ちたいというと、22口径の銃を指して「こんな小さいのでは面白くない。 50ドルで357(18発)、44(14発),45(14発) これにしな。」というので当初予算の倍掛かることにはなったが、あの22口径を見たらヤッパリ仕方がないか。
私は銃に関しては全く知識がないので男に言われるままに従うことになった。 最初は357マグナム弾のコルト・パイソンという銃らしい。 シリンダーをスイングアウトして金色に輝く6発の357マグナム弾を1発ずつ詰め込んでいく。6発を詰め終わるとシリンダーをフレームに戻し、何メートルか先にある的に向け構えて、左手親指でハンマーを起こそうとするがなかなか起き上がらない。 見かねたのか横から男の手が伸びてきてハンマーを起こしてくれた。 再度両手で握ったグリップを確かめ、トリガーにかけた人差指を必死の想いで引き寄せた。 音と共に衝撃が手から脳天に走る。 おお〜これが357マグナムだ! これを3回繰り返し全部で18発を撃ち終える。 次は大型自動拳銃のコルト・ガバメントで弾薬は45ACP弾で既に実包(カートリッジ)されている。 これをグリップの下から装填して7発連続射撃する。 始めに357マグナム弾を撃っているのでこちらは左程驚きもなく終わった。 装填を2回ほど繰り返したように思うが何が何やら分からないうちに無我夢中で終わってみると44(14発)、45(14発)ではないようにも感じた。 最後に店の男が銃を持っている姿を写真に撮らせてくれたが、後でこの写真を見るとどこかのテロのアジトにいる男のような雰囲気ではあった。
グアムにはこのような屋内だけではなく野外の射撃体験をさせるところなど沢山ある。 ホテルまでの送迎もあり店の人も殆ど日本語が通じる。
射撃体験を終え店を出ると再び街の探索を続ける。 ヒルトン・ホテルの手前のイパオビーチ公園を抜けてビーチに出て、そこから逆にビーチ沿いにリーフ・ホテルへ向かった。 ヒルトン付近のこのイパオビーチがこのあたりでは一番綺麗だということだが平日でもあり人気は余りない。 寧ろハイアットからリーフにかけてちらほら人影が見える。 しかしゴールデンウイークの後だけにさすがに静かだ。 どこもかしこも全くのプライベート・ビーチ状態ではある。 アウトリガー・ホテルからリーフ・ホテルにかけては海水遊具が海に浮かんでいてやっと海水浴場らしくなる。 リーフの北にある日航ホテルからヒルトン・ホテルまでのあたりはタモン地区と呼ばれていて海水浴を楽しむ普通のビーチで、ホテルなどもここに集中している。 ただマリン・スポーツをするにはもっと西南(島の左側)の方へ行く必要がある。
ここで一旦ホテルに戻り、昼飯を今探索した中で比較的近いハイアットリージェンシーホテル正面にある大衆レストラン「太助亭」という日本人のやっている店で食べることにした。 セットメニューが豊富でいつも人が一杯と宣伝されていたが「チャーハンとラーメンのセット」のようなものを食べたように思うが余り記憶にない。 大衆レストラン(というより年寄り夫婦でやっている大衆食堂)だから左程おいしくはなく、値段も安いとも思わなかったが、驚いたことにこんな日本人がやっている大衆食堂でサービス料を取るの! タスケテー(太助亭)!
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「グアム〜初めてのリゾート〜 第1部」をUPしました(其の3) |
| 次に本日の予定は恋人岬(TWO・LOVERS・POINT:スペイン人に仲を裂かれそうになったチャモロの若い男女がここから身投げしたという伝説)だけど歩いて行くにはちょっと疲れてしまったので、赤いシャトルバスに乗ることにした。 このバスはJTBで貰ったコンチャカードは使用できないので3ドルを払いDFSギャラリアから岬に行き、又3ドルを払って展望台に入った。 ここは特に何かがあるということでもなくここから見る日航ホテル側の景色や、絶壁の上から一望するタモン湾の景色に意味があるのだろう。
帰りはマイクロネシア・モールに行くつもりだったが、最初に到着したバスがDFSギャラリア行きだったので面倒臭くなりそのバスに又3ドル払って乗ってしまった。 後で知ったがDFSギャラリアから恋人岬(往復)と展望台入場券で「恋人岬シャトル・トクトクキップ」というのが7ドルであり、結局2ドルを損してしまった。 この日は無料のシャトルバスに乗らず、その後も乗る機会がないままコンチャカードは行方不明になってしまい結局一度も使用することはなかった。
ホテルに戻って、本日のメイン・イベントである夕食をリーフホテルと隣のアウトリガーホテルの間にあるセイルズバーベキューに予約し、夕方6時前に車で迎えに来て貰った。 メニューはシーフードBBQで飲み放題で60ドル。 迎えの車には私1人だけが乗り込みすぐ隣りのビーチに近いところ迄2〜3分で到着。 テーブル席には既に赤々と炭が燃やされ周囲も混雑、白い煙が立ち込めていた。 皿に盛ったロブスターなどの魚介類が先ず先に来て、その後飲み放題のビールが到着。 このビールが又すごい。 1人の私に対して小さなバケツ位ありそうな器に入れて持ってきた。 それをジョッキに好きなだけ足して飲むのだ。 私は終わるまでにバケツを空にしたが、恐らくジョッキ4〜5杯は飲んだだろうか。 夕日が沈み始める頃にはBBQをそっちのけで写真を撮るのに夢中になっていたが、ウエイターらしき男がやってきて海老の殻を綺麗に取り分けてくれていた。 そして夕日のビーチが最高に綺麗であったので本日早朝の空港での嫌なこともすっかり忘却の彼方状態であった(恐らく早いピッチでビールを飲んだことも影響したのだろう)。 正味1時間ちょっとの短いBBQで、人によって好みは色々あるから一概には言えないが個人的には後日のデイナーの中でも一押しに分類した。 ただ天候が悪く綺麗な夕景色がなければ評価は下がるだろうが。 それで帰りはどうして帰ったのか記憶が飛んでしまっていたが、日本に帰ってから写真を見るとBBQの後に街の夜景やホテル正面の写真が写っていたので、恐らく迎えの車で来た道を歩いて帰ったのであろう。
第1部の構成は
グアムリーフH ⇒ ホテル・ロード ⇒ USAガン・クラブ ⇒ 恋人岬 ⇒ タモンビーチ ⇒ ナナズ・カフェ&セイルズBBQ で104枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
チュニジア紀行 |
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白い壁に青い窓。 チュニジアン・ブルーで有名なチュニジアに2008年3月末から4月上旬にかけて行ってきました。 飛行機はドーハ経由のカタール航空で、ここの飛行機は窓側の席になると前の席の下に救命用具を置いているため足を伸ばすことが出来ません。 昼間なら隣の人とおしゃべりをしたり、飲み食いしていると時間が過ぎていきますが、機内泊ともなると照明も消え、おしゃべりも出来ません。 膝をほぼ直角に曲げたままひたすら寝るしかない訳ですが、とてもその姿勢で睡眠出来ない私は一晩中本を読んで過ごした経験があります。 殆ど気が狂う思いで一夜を過ごしました。 そのため今回はエコノミーをやめ、関空とドーハ間だけのビジネスクラスで行くことにしました。 カタール航空はANAと提携しているので関空ではANAのラウンジが利用出来て、ビールなどアルコールを何杯も飲み、酔った勢いで眠りながらドーハに着きましたが、残念ながら帰りのドーハでのカタール航空のラウンジではイスラムの国のためアルコールがなく飲むことが出来ませんでした。 ドーハで乗り換えた飛行機も矢張りカタール航空のものでしたがチュニス空港に着陸体勢に入った時に両翼が上下に揺れ、このまま着陸すると主翼が地面にぶつかるのではと心配しましたが、着陸寸前にはうまく両翼を安定させ無事着地した時には図らずもいっせいに拍手が起こりパイロットの腕に感謝したものです。 後で分かったことですがこの日チュニスでは春一番とも言うべき突風が吹き荒れていたのでした。 日本でもこの日前後に東京でも強い風が吹き被害が出たということを後で知りました。
チュニジアはりビアとアルジェリアに挟まれ、面積は日本の2/5で南部はサハラ砂漠です。人口約1000万人の小さな国ですが以前はフランス領であったことから北部及び東部の地中海沿いを中心にリゾート地として発展し、治安が大変良く日本より安全な国といわれています。 又民族の大部分はアラブ人ですが南部には原住民のベルベル人が住んでいます。 3月下旬というと気温は日本と同じ位と聞いていたので少し薄手の長袖にしていましたが現地の人たちの中には(大人のみならず子供も)北海道の真冬に着るような厚手の服を着ていたのには驚きました。 これは砂漠近くに住むと朝夜冷えるからでしょうか。 その反面地中海沿いのリゾート地では海に入って泳いでいる人がいます。 それから公用語はアラビア語ですがフランス語も一般的に通用します。 「こんにちは」と「ありがとう」のアラビア語は「アッサラマレイクム」と「ショコラン」と言うそうです。 歴史的には第3次ポエニ戦争(紀元前149年〜前146年)でカルタゴは滅び、ローマの属州となりますがローマは植民地としてのカルタゴを復興します。 その後640年にイスラムの支配となった後1881年にフランスの保護領となるものの1956年に独立を果たします。
チュニジアの観光スポットは�フェニキア遺跡を含むローマ遺跡とイスラム文化(北部や中部地方)、�サハラ砂漠とベルベル人文化(西部の山岳や南部の砂漠地帯)�ビーチとリゾート(東部や北部の地中海沿い) と3部に分けられますがこれを左回りで周回して来ました。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「チュニジア紀行�チュニス」をUPしました。 |
| チュニジア紀行の第1部はチュニスです。
チュニスに着いて最初にバルドー美術館(もともとは宮殿だったそうですが今では殆どその面影はありません。)に行きました。 この美術館は世界でも最も多くのモザイクやタイルを収集していることで有名です。 ローマ帝国時代のモザイクタイルは生なましい描写と色鮮やかな色彩で知られています。 館内は撮影可能ですがただカメラの持ち込みには1台に付1チュニジアデイナール(約90円)、ビデオは2チュニジアデイナールが必要です。 私は広角と望遠レンズ用2台持っていたので2チュニジアデイナールを払うことになりました。 これはこの後遺跡など入場料を払うところはどこへ行っても同料金を取られることになります。 又バルドー美術館では所々ロープが張られていて中に入れない場所がありますが、警備員らしき男が中へ入れと言ってくれる時があります。 親切に言ってくれているのかと思い、中へ入り撮影して出てくると片手を差出し金を要求されましたが、何
のことか分からないふりをして無視して済ませました。 どうやら警備員が小遣い稼ぎにやっているようです。
次にチュニスのメデイナを散策しました。 メデイナとは城壁に囲まれた旧市街のことでチュニジアには各都市にその土地のメデイナがあります。 チュニスのメデイナは13世紀にイスラム都市として完成し、東西約700m、南北約1kmの楕円形に近い街で1979年に世界文化遺産として登録されています。 今は城壁は取り払われて有りませんがフランス門だけがその面影を残しています。 又言われないと分からないですが奴隷取引所跡なども残っています。 通りを歩いているとアンダルシアの影響が色濃く残るひときわカラフルなタイルで飾られた八角形の塔が目にとまります。 これはオスマン帝国時代初期(1616年)に建てられたシディ・ユセフ・モスクのミナレットです。 モスクの周囲にはモスクに接して本、香水、衣料品、乾物などの店を構えることを許されスーク(アラビア語で市場)を形成したそうです。
ビュルサの丘はカルタゴ国立博物館の前にある遺跡で伝説によると「フェニキアの女王エリッサがこの地に都市を建設しようとした時現地人より牛皮(ビュルサとはこの牛皮のこと)1枚で覆える土地を譲ると言われた女王が皮を細く切ってひも状にし土地を囲うことによって広い土地を確保した。」と言われています。 この丘からはチュニスの市街を見渡せます。 カルタゴ国立博物館は展示物のほとんどはカルタゴ遺跡(タニト神の聖域トフェやアントニス共同浴場など)から出土したものです。 ビュルサの丘にある首なし像はローマの皇帝が替わるたびに新たに像を造り替えるのが面倒であったために首だけをすげ替えていたようです。 そのため首だけが盗難にあったり紛失したりして今では首のない状態になっています。
タニト神の聖域トフェはローマ以前のカルタゴの面影を残す数少ない墓地遺跡でポエニ時代の最高神タニト神の聖域だった場所です。 ここには小さな墓石と子供の像が沢山ありますがこれは当時のカルタゴでは幼児を殺して神に捧げるという生贄の習慣があったためです。
アントニス共同浴場遺跡は地中海を背にローマの5賢帝の一人アントニウス・ピウスによって2世紀に建造されましたが、5世紀になってヴァンダル人により破壊されました。 現在のヘルスセンターのような規模の共同浴場です。 時々ホロホロ鳥が放し飼い(?)にされているのか自由に走り回っているのを見かけます。
イシュケル国立公園は1980年に世界自然遺産に登録され、1996年から2006年まで危機遺産に指定されていました(ダム構築による生態系の大きな変化による)が現在は解除されました。 公園はチュニジア北部の地中海の海岸の近くにあり、湖と湿地には毎年何十万もの渡り鳥(コウノトリ、フラミンゴなど)が訪れます。
シデイ・ブ・サイドは白壁に青い窓とドア模様が条例で定められていて典型的なチュニジアン・ブルーの、街全体が「保存区域」に指定されいるチュニジアで最も美しい街です。 観光地化されていて日本で言えば京都の嵐山といった感じです。
第1部の構成は
ホテル「メルキュール エル ミチュテル」&界隈 ⇒ チュニス市街 ⇒ バルドー美術館 ⇒ メデイナ(チュニス) ⇒ スーク(市場) ⇒ ビュルサの丘 ⇒ カルタゴ国立博物館 ⇒ タニト神の聖域トフェ ⇒ 古代カルタゴの港 ⇒ アントニス共同浴場遺跡 ⇒ チュニス郊外 ⇒ イシュケル国立公園 ⇒ シデイ・ブ・サイド で90枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「チュニジア紀行�ドウッガ〜」をUPしました。 |
| チュニジア紀行の第2部はチュニジアの西部でドウッガ〜ケロアン〜スベイトラ〜トズールです。
チュニスからドウッガへ向かう一帯は肥沃な農村地帯が続きます。 春から初夏に向かうこの季節は小麦畑が緑の絨毯で覆われたように広がっています。
ドウッガではドウッガ遺跡が最大の見もので、数多いチュニジアのローマ遺跡の中でも最大の規模を誇り、1997年に世界文化遺産に登録されています。 中でも劇場が圧巻で19段の観覧席に3,500人の観客を収容出来、15mの高さの最上段からは遺跡が一望できます。 又ここにある像も矢張り首のないものばかりでした。
ドウッガからケロアンまでもやはり小麦畑の緑が続きます。 そしてケロアンに近ずくと送電線の電柱の上にコウノトリが巣を作っているのが見られました。
古都ケロアンは、北アフリカにおけるイスラム発祥の地で、マッカ、マディーナ、エルサレムに次ぐ第4の聖都となっています。
長い間イスラム教徒以外はこの街に入ることができなかったのですが、最近は可能になりました。 1979年に町全体が世界遺産に指定されています。 西暦800年から909年の間ケロアンからイフリーキヤ(東部マグリブ地方を指すアラビア語)を支配したアグラブ朝によって栄え、その時代の貯水池が残っていて今もなお市民の重要な水源になっています。 又メディナ(旧市街)は城壁に囲まれており、その入り口の門は遠くからでも目にとまります。 又ケロアンには多くのモスクがありますがグランド・モスク(グランド・モスクとはその都市にある最も大きく重要なモスクのこと)はその建築材の大部分が昔からのもので、回廊の列柱のほとんどはローマ・ビザンチンの遺跡を移築したそうです。 中庭は中に向かって雨水が流れるよう緩やかに傾斜し、地下の貯水槽で貯められる仕組みになっています。
シデイ・サハブ霊廟はモハメッドの同志である聖者アブ・ザマエル・ベラウィが眠る霊廟で壁、床、天井などいたるところに美しいアラベスク模様のタイルや透かし彫りが施されています。
余談ですが映画「レイダース ーー失われたアークーー」でのカイロのシーンはここケロアンで撮られたものだそうです。
次にケロアンを出てアーモンドとオリーブが混在する果樹園の広がる農村地帯を進みスベイトラ遺跡のあるスベイトラに向かいます。 スベイトラは7世紀半ばアラブの攻撃を受け壊滅します。 そのためチュニジアでのビザンチン時代終焉の地と呼ばれていますがチュニジアに残る一番新しいローマ遺跡です。 スベイトラ遺跡のフォーラム(公共広場)内に入ると向かって左からミネルバ、ジュピター及びジュノの神殿がその威容を誇っています。 そのほか個人用の浴場やハマム(下に暖かい煙を通し上の床を暖めるサウナ)などの遺跡が残っています。 又付近一帯が古くからオリーブオイルの産地として栄えた証拠に遺跡にもオリーブ圧搾台などが残っています。 ところでアーモンドとオリーブの木はよく似ていますがその見分け方は色にあります。 アーモンドの木が鮮やかな緑の色なのに対してオリーブの木は黒ずんでいます。 又その実を食べ比べてみても違いがはっきりします。 アーモンドの実は美味しいですがオリーブの実は食べられたものではないそうです。 そこで日本では「嫁に食わすな秋茄子」と言いますがチュニジアでは「姑にはオリーブの実を食わせろ」と言うそうです。
では次にスベイトラ遺跡を見た後はトズールに向かいます。
第2部の構成は
(チュニス→ドウッガ) ⇒ ドウッガ遺跡 ⇒ (ドウッガ→ケロアン) ⇒ ホテル「コンチネンタル」&界隈 ⇒ ケロアン市街 ⇒ メデイナ(ケロアン) ⇒ アグラブ朝の貯水池 ⇒ グランドモスク(ケロアン) ⇒ シデイ・サハブ霊廟 ⇒ (ケロアン→スベイトラ) ⇒ スベイトラ遺跡 ⇒(スベイトラ→トズール) ⇒ ホテル「オアシス」&界隈 で98枚の写真によるスライドショーです。 |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「チュニジア紀行�トズール〜」をUPしました。 |
| チュニジアの第3部はチュニジアの西&南部でトズール〜ドウーズ〜スベイトラ〜マトマタの山岳・砂漠地帯です。
ジャメル砂丘での日の出を見に行く前に映画「スターウオーズ」の撮影セットが残されているところに寄りました。 わざわざ行くほどのものではなく途中よってみる位のところです。 又ジャメル砂丘の「感動的な」日の出という謳い文句とは裏腹に何の感動もない平凡な夜明けでした。 それよりドウーズでのラクダ体験の方が思わぬ天候により忘れられぬ思い出となりました。 こちらも「砂漠に沈む感動的な夕日」と謳い文句がありましたが、出発してすぐに風が吹き砂嵐に襲われました。 私は一人で写真を撮るためラクダには乗らず皆が夕日の鑑賞地点まで移動するのを撮影していましたが、余りにも砂嵐が激しくなってきたのでカメラのためを考え途中から一人で出発地点へ戻ることにしました。 幸いにもハンデイGPSを持っていたので(というよりそれがあったので一人で行動したのです。)全く周囲が見えない状態でも方向だけは把握でき、最短距離で帰ることができましたが、途中砂嵐のみならず稲妻が走り、ポツリポツリと雨も降り出しました。 もう夕日なんてとても見れる状態ではないのに、皆はそのような中を否応なく目的地まで行きそして戻って来たようです。 写真的にはこのような場面を望んでも滅多に撮れるものではないので私にはいい思い出になりました。
山岳や砂漠地帯の道を走っているとラクダの絵を描いた標識に出会うことが時々ありますが、これは「ラクダに注意して!」という交通標識です。 日本でも北海道に「エゾシカに注意」とか沖縄に「西表山猫に注意」とかありますが、意味は若干異なるようで、日本の場合には「車にぶっつけて殺さないように注意して運転して下さい」という意味ですが、ラクダの場合にはぶっつかると車が大破して危険だから注意して運転して下さいという意味らしいです。
山岳オアシスの村シェビカは1969年の洪水で水没し廃墟となり、今はオアシスの近くに新しい村が作られているそうです。 この辺りの土産物屋(テーブルの上に商品を並べただけのもの)では水晶やアメシストと言った鉱石の原石を売っています。 私も2つに割ったアメシストの原石を値切りに値切って安く買い得意になっていたら何とオアシスに流れる小川で同じような原石を拾った人がいました。 ここらの石をハンマーで割ればひょっとして水晶やアメシストが出てくるのかもしれません。
アルジェリアとの国境に近いミデスにはアルジェリアで降った雨が急流となって岩肌を削って出来た峡谷があり、幾重にも積み重ねられた地層が、バルコニーのようになっていることからバルコニー・オアシスと呼ばれています。
先住民族ベルベル人が住んでいた穴蔵地下住居の近くにタメズレットという街がありますが、彼らは敵から身を守るため険しい山頂に住居を構えたようです。
彼らは東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域サハラ砂漠以北の広い地域に生活しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどといわれています。 モロッコでは全人口の半数、アルジェリアでは5分の1、その他、リビア、チュニジアなどで人口の数%を占めています。
トズールからドウーズに向かう途中にジョット・エル・ジェリド(大塩湖)があります。 チュニジアにはいくつかの塩湖がありますが中でもここショット・エル・ジェリドが最大で長さ200km、幅89kmもあります。
山岳や砂漠地帯を車で走っていると時々2階が未だ完成していないと思われる家を見かけます。 未完成だから人は住んでいないだろうと思いきや、どうも生活臭があります。 どうやら聞くところによると1階だけ完成した時点で金がなくなれば取り合えず1階に住み、金が出来た時に2階を完成させるという方法をとるらしいです。 雨が少ないから出来る方法?
又オアシス付近の草原地帯にテントを見かけることがあります。 これは先祖がえりのテントと言われ、石油で財をなしたサウジなどの大富豪が昔の遊牧民として暮らしていた先祖のアイデンテイテイを忘れないために体験生活をしているのです。
第3部の構成は
トズール市街 ⇒ スターウオーズ・撮影現場跡 ⇒ ジャメル砂丘(日の出) ⇒ 山岳オアシスの村への道 ⇒ シェビカ ⇒ ミデス ⇒ タメルザ ⇒ (トズール→ドウーズ) ⇒ ホテル「サハリエン」 ⇒ ドウーズ市街 ⇒ サハラ砂漠(ラクダ体験) ⇒ (ドウーズ→マトマタ) ⇒ タメズレット ⇒ 穴蔵地下住居 ⇒ スターウオーズのホテル で99枚の写真によるスライドショーです。
スライドショーは最上段右の「戻る」をクリックト願います。 |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「チュニジア紀行�エルジェム〜」をUPしました。 |
| チュニジア紀行の第4部はチュニジアの東部でエルジェム〜スース〜ハマメットの地中海沿岸です。
チュニジアの道を車で走っていると道路沿いに小さな掘立て小屋の前にポリタンクらしきものが数個置いてあるのを見かけます。 チュニジアでは石油を産出し輸出している位だからガソリンは豊富で安いだろうと思いますが実際は精製施設が少なくガソリンを輸入していて高いらしいです。 そこでチュニジアの人は隣国のリビアで安いガソリンを仕入れて来て私的に道路沿いで売っているとのことでした。
ローマ帝国時代、エル・ジェムは今日ほど乾燥していなかったためオリーブオイルを生産し輸出で大いに繁栄しました。 円形闘技場が造られた頃はカルタゴに続く都市の座をスースと競っていましたが後にローマ軍により破壊されました。 その後7世紀末にイスラム・アラブ軍と先住民ベルベル人の最後の決戦がここエルジェムを舞台に交わされ、ベルベル軍を率いていた女王カヒナは追い詰められ炎上する円形闘技場とともに命を絶つたと言われています。
エル・ジェムの円形闘技場は230年のローマ帝国時代に造られ、1979年に世界文化遺産に登録されました。 現在でも使われていて夏には民族舞踊や歌劇などのフェスティバルが開催されています。 ローマ、ベローナに次ぐ3番目の大きさで30,000人を収容出来るそうです。
次にエル・ジェムからいよいよ地中海のリゾート地へ向かいます。 これまでチュニジアを車で走っていて気のつくことがもう1つありました。 それはチュニスの繁華街以外の交差点には信号機がなく、交差点の中央には色々な造形物があり直進出来なくなっていることです。 交差点の中央がロータリーのようになっていてそこで一旦スピードを落とし、左右前方を確認しながら反時計方向に徐行しながら望む方向の道へ入って行くことになります。 車同士が鉢合わせした時にはどちらか(恐らく右側の車)が優先すると言う事がきっと決まっているのでしょう。 これなら車で混雑していない時や所でも事故や待ち時間もなくスムーズに車が流れて行きます。 ただこうするには交差点の周囲は物陰がなく全て見渡せるように広々と視界が広がっている必要があるので日本では無理なのか?(維持費など安くつくのに)と考えてしまいました。
スースは紀元前9世紀頃にフェニキア人によって建設されましたが、古代ローマと同盟を結びんでいたため700年の間比較的平和で、大きな被害を免れました。その後7世紀になってアラブ人のアグラブ朝時代になってメディナの街並みが完成しました。 「スース」という呼び名は18世紀になってフランスに征服されたことからフランス風に改名されたものです。
メディナは高さ8mの城壁で囲まれており中央には城塞カスバがあります。 メディナで一番古い建物は要塞リバトで8世紀末に建造され高さが38m有り、後にイスラム教の修道院として使われました。 1988年に世界文化遺産に登録されています。
スースのグランドモスクはアグラブ朝時代の9世紀に建造されましたがミナレットは11世紀になってから造られたものです。
ポートエルカンタウイはサウジアラビアの大富豪などによって開発されたリゾート地でマリーナには多くの豪華なヨットが係留されています。
スースからハマメットへは地中海の海岸沿いを車で行きます。 ハマメットはローマ時代の遺跡は殆ど残っておらず、メディナやカスバはアラブ時代のものです。 1920年代になってヨーロッパ人がリゾート地として開発し、多くの芸術家(ドイツ人の画家クレーなど)がここに住み活動の場としました。
ヨーロッパ人にとってチュニジアは気軽にバカンスを過ごすことの出来るリゾート地です。 日本からのツアーが夏の間なくなるのはそうしたヨーロッパ人でホテルが満杯になるためだそうです。 地元の子供たちは泊まっているホテルによって観光客を値踏みするので注意しましょう。
又メディナやスークには街の地元の人が多く買い物に来ますがハマメットの木曜市には周辺の田舎から買出しに来る人が多いそうです。 山と積まれた古着やアクセサリーそれに野菜や果物などなど混沌としています。
第4部の構成は
(マトマタ→エルジェム) ⇒ エルジェム市街 ⇒ エルジェム円形闘技場 ⇒ (エルジェム→スース) ⇒ ホテル「ロイヤル・サレム・メルハバ」 ⇒ スース市街 ⇒ メデイナ(スース) ⇒ グランドモスク(スース) ⇒ ポートエルカンタウイ ⇒ (スース→ハマメット) ⇒ ホテル「メハリ・ハマメット」&界隈 ⇒ 木曜市 ⇒ メデイナ(ハマメット) ⇒ ハマメット市街 で93枚の写真によるスライドショーです。
スライドショーは最上段右の「戻る」をクリック願います。 |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「チュニジア紀行�ナブール〜」をUPしました。 |
| チュニジア紀行の第5部はチュニジアの北部でナブール〜ケリビア〜ケルクアン〜ビゼルトの地中海沿岸です。
ナブールはナブール焼きと呼ばれる陶器が有名で街のシンボルとなっているオレンジ・パフェは陶器で出来ています。 又瀬戸市とは姉妹都市です。
港町ケリビアは第3次ポエニ戦争で一旦街は破壊されましたが、その後ローマ時代に復興されました。 街の中でもひときわ小高い丘の上にはビザンチンの城塞がそびえており、その城塞からはボン岬の南側に広がるケリビアの街を望むことが出来ます。 また城塞の中には現在も人が住んているそうです。 しかし城塞の面影は城壁にのみ残っているだけで今はこの時期の黄色い野草(?)の花で城の中一面が覆われていて昔の栄華今いずこと言った風情でした。
ケルクアンはボン岬の地中海沿いにある古代ポエニ時代の都市遺跡で、紀元前6世紀頃に建設されましたが紀元前2世紀にカルタゴが滅亡するとローマによって破壊されました。 その後この地には都市が造られなかったため数少ないフェニキアの遺跡としてカルタゴの姿を今に残しています。 この都市遺跡には多くの区画化された住居跡(基礎部分)が残されていて、建物が隣家と隣家が隣り合った長屋の形式になっているのが分かります。 1986年に世界文化遺産に登録され、現在も発掘は続いています。
ビゼルトはアフリカ最北端にある街でフェニキア時代から運河を造り貿易港として栄えた街です。 ここから地中海を挟んでイタリアのサルデーニヤ島やシチリア島とは目と鼻の先になります。 運河沿いにカスバ(城塞)がありその上は公園になっていて若いアベックの憩いの場にもなっているようです。
第5部の構成は
(ハマメット⇔ナブール) ⇒ ナブール市街 ⇒ ナブール旧市街 ⇒ 陶器工房 ⇒ (ハマメット→ケリビア) ⇒ ビザンチンの要塞 ⇒ 要塞から見たケリビア市街 ⇒ (ケリビア→ケルクアン) ⇒ ケルクアン遺跡 ⇒ ケルクアン遺跡資料館 ⇒ (ケルクアン→チュニス) ⇒ (チュニス→ビゼルト) ⇒ アフリカ最北端 ⇒ ビゼルト市街 ⇒ 民族舞踊(ベリーダンスなど) で95枚の写真によるスライドショーです。 |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「ネパール・早春紀行 〜遥かなるヒマラヤ〜」① |
| 2007年の11月下旬にヒマラヤを見たくなりネパールへ行って来ました。 ネパールは標高1000m以上の高地にあるので11月下旬にもなると相当寒いだろうと思っていた事前の予想とは逆に渓谷の農村では山桜が咲き、段々畑は菜の花で黄色の絨毯が敷き詰められたようになっていました。 聞くところによるとネパールは標高3000mのトレッキングエリアに行かない限り寒くはなく、温暖な亜熱帯の気候らしいです。 だからフルーツが豊富でバナナをはじめ ブドウ、ライチ、いちご、パパイヤ、グアバ それにマンゴーなどもあり果物屋の店だけでなく屋台や自転車の荷台に載せて売っているのをよく見かけます。 ただ首都のカトマンズにしても標高約1400mの高地にあるため1日の中の気温差が大きく、昼間は暖かくても、朝夕は冷え込みます。 日本で言えば日中は5月、朝夕は3月に相当するでしょうか。 それにしてもネパールの人は寒さには強いのか日中とは言え屋外で小さな子供が水浴びをしていたり、歌麿の浮世絵よろしく女性が髪を洗っているのをよく見かけます。
ただ最近のニュースではヒマラヤの氷河が溶けて出来た氷河湖が地球温暖化の影響で融解の速度が加速し、決壊による洪水の危険性が増しているそうです。ヒマラヤの麓にはチベット(中国の自治区)やブータン、インドそしてネパールと言った国がありそこには9000を越える氷河湖があって、そのうちの2000個がネパールにあります。 その中でもエベレスト(8850m)の南10kmのくぼ地に出来たイムジャ湖(標高5010m)が最も決壊の危険性が高く、もし決壊すれば下流の渓谷にある村は天から豪雨が降ってくる滝のような水によって破壊されると言われています。 現在では約200の氷河湖が決壊の恐れがあり、3年に1回、ヒマラヤのどこかで決壊していて、最近でもブータンで決壊が起こっています。 先進国が豊かで贅沢な生活をしている結果の環境破壊が何の関係もないこうした貧しい(物質的にであって精神的には豊かな)国の暮らしや生命を脅かしていると思うとやるせない思いになります。
それはそうとネパールはヒンドゥー教を国教としている世界で唯一の国で、国民の約87%がヒンドゥー教徒です。 ヒンドゥー教はもともとインドから入ってきた宗教なので、南部のインド系の民族を中心に広く信仰されています。 ヒンドゥー教は多神教ですがそのうちの1つがシヴァでナンディといわれる牝牛を乗り物にしています。 そのためヒンドゥー教徒は「聖牛」の肉である牛肉を食べないどころかネパールでは牛を殺すと死刑になります。 それで首都カトマンズでは車は牛に衝突しないように気をつかわなければならないし、歩道に寝そべっている牛を避けて人が歩くことになります。
ネパールは36以上の民族が存在する多民族国家ですが大きくは南部のインド系の民族と、もう1つは北部の山岳地帯(トレッキング道で見かける村)に集中して住んでいるチベット系民族です。 後者のチベット系民族(カトマンズ盆地を中心に住むネワール族)の人達はヒンドゥー教と仏教が一体となったネパール仏教を信仰しています。 ネパールでマニ車を回しているのをよく見かけますが、このマニ車の中にはお経が入っていて1回まわすと1回お経を唱えたことになるという非常に便利?なものです。
海外へ行く時には私はいつも最低その国の2つの言葉だけは覚えていくことにしています。 その2つとは日本語で言えば「おはよう」とか「こんにちは」といった挨拶の言葉と「有難う」というお礼、感謝の言葉です。中国語では「ニーハオ」と「シェーシェー」という具合に2つの言葉を覚えて行きますが、ネパールではこれに代わる言葉として「ナマステ」という1つの言葉で済ますことができます。 感謝の気持ちを表す時には胸の前で両手を合わせて言いましょう。(確かインドでもこの言葉が使われているようですが) ただ50種類近くの言語が話されている国ですから相手によってはいつも通用するとは限りません。 (続く) |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「ネパール・早春紀行 〜遥かなるヒマラヤ〜」� |
| 又ネパールの水道、電力事情ですが、ネパールでは水道はありません。 氷河や雪の溶けた水を集め街や村の至る所にある水場まで水を引いているようです。 人々はその水場まで1日使用する水を汲みに行ったり、そこで髪を洗ったり身を清めたりしています。
又ネパールの電力事情も余りよくありません。 氷河湖の水は豊富にも拘わらず資金不足で人工的な発電ダムの開発が少なく、よく停電になります。 だから旅行中懐中電灯の携帯は必須となります。 夕食をとりながらネパールの伝統舞踊を見るためにレストランに行ったときにも店に入る直前に停電になり、真っ暗な中、蝋燭の火を頼りに席につき、蝋燭の明かりで食事をしながら舞踊を見る破目になりました。 途中で電気が灯った時には本当にホッとしたものです。
第1部はネパールの首都で1979年ユネスコの世界文化遺産に指定された古都カトマンズです。 標高1300mにあるカトマンズ盆地は沖縄と同じ緯度にあるので年中気候は温暖で、カトマンズ、パタン、バクタプル(バドガオン)の3郡で構成されています。 この3郡にはそれぞれダルバール広場(ダルバールとは「宮廷」という意味)があり、その周囲には旧王宮や広場の近くには庶民のバザールなどがあります。 カトマンズのダルバール広場にはクマリの館があり今でも生き神の少女が住んでいます。 少女はネワール・サキャ族の由緒正しい家の出身の少女の中から選ばれます。(選ばれる32の条件:身体の全ての部分・・・目、口、耳、顔、動作、歩き方等など・・・が健康で、 手は軟らかく繊細、ライオンのような胸、ほら貝のような頬、青又は黒色の目、牛のようなまつげ、すずめのような低い声、この他に強い意志、何事にも怖がらないなど心理的要素も加味して全てに合致する必要があります。) 選ばれた少女は親元を離れクマリの館に住み、神としての修行をすることになります。 学校には行かず祭事の時以外は外に出ることも出来ません。 団体で訪れ、いくらかお布施をすれば運がよければ2階の窓から顔を見せてくれますが写真を撮ることはできません。
スワヤンブナート(ネパール仏教の寺院)は町から2kmほど離れたところにあり町を見下ろすように建っています。 約2,000年の歴史を誇るここの仏塔は、ネパールで最も古く世界で最も壮麗な仏塔の一つとされ、四面についた目は森羅万象を見通す仏陀の目とされています。 また、万国旗のようにはためく小布はタルチョーと呼ばれ、経文が刷られていて黄(大地)、緑(水)、赤(赤)、白(風)、青(大地)の五色からなり大宇宙を表しています。
インドラチョークはマチェンドラナート寺院の近くにある旧市街の中心地で中世の街並みがそのまま残っています。
エベレストは別名 チベット名:チョモランマ(「大地の母又は世界の女神」という意味) ネパール名:サガルマータ(「宇宙の頭」という意味)と言われ、標高は1999年5月までは8848メートルとされていましたが現在は8850メートル(29035フィート)に修正されています。 バンコックやソウルからカトマンズに来る時には飛行機の右窓側に席をとれば天気がよく運がよければ着陸態勢に入る少し前にその姿を見ることが出来ます。 又遊覧飛行(20人乗り程度の双発のプロペラ機)で写真を撮る時には一番前の座席に座るのがベストです。 エベレストが近ずくと前席の人から順次、操縦室の前方窓から撮影させて貰えますが後ろにいると順番が来た時にはエベレストは遥か後ろに遠ざかってしまっていたということにもなりかねません。 もちろん汚れていないで翼が邪魔にならなければ座席横の窓からも撮影は可能ですが。
スライドショーは最上段の「戻る」をクリックするか、下記をサイトアドレスへコピー&ペースト願います。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「ネパール・早春紀行�カトマンズ」UP。 |
| 第1部はネパールの首都で1979年ユネスコの世界文化遺産に指定された古都カトマンズです。 標高1300mにあるカトマンズ盆地は沖縄と同じ緯度にあるので年中気候は温暖で、カトマンズ、パタン、バクタプル(バドガオン)の3郡で構成されています。 この3郡にはそれぞれダルバール広場(ダルバールとは「宮廷」という意味)があり、その周囲には旧王宮や広場の近くには庶民のバザールなどがあります。 カトマンズのダルバール広場にはクマリの館があり今でも生き神の少女が住んでいます。 少女はネワール・サキャ族の由緒正しい家の出身の少女の中から選ばれます。(選ばれる32の条件:身体の全ての部分・・・目、口、耳、顔、動作、歩き方等など・・・が健康で、 手は軟らかく繊細、ライオンのような胸、ほら貝のような頬、青又は黒色の目、牛のようなまつげ、すずめのような低い声、この他に強い意志、何事にも怖がらないなど心理的要素も加味して全てに合致する必要があります。) 選ばれた少女は親元を離れクマリの館に住み、神としての修行をすることになります。 学校には行かず祭事の時以外は外に出ることも出来ません。 団体で訪れ、いくらかお布施をすれば運がよければ2階の窓から顔を見せてくれますが写真を撮ることはできません。
スワヤンブナート(ネパール仏教の寺院)は町から2kmほど離れたところにあり町を見下ろすように建っています。 約2,000年の歴史を誇るここの仏塔は、ネパールで最も古く世界で最も壮麗な仏塔の一つとされ、四面についた目は森羅万象を見通す仏陀の目とされています。 また、万国旗のようにはためく小布はタルチョーと呼ばれ、経文が刷られていて黄(大地)、緑(水)、赤(赤)、白(風)、青(大地)の五色からなり大宇宙を表しています。
インドラチョークはマチェンドラナート寺院の近くにある旧市街の中心地で中世の街並みがそのまま残っています。
エベレストは別名 チベット名:チョモランマ(「大地の母又は世界の女神」という意味) ネパール名:サガルマータ(「宇宙の頭」という意味)と言われ、標高は1999年5月までは8848メートルとされていましたが現在は8850メートル(29035フィート)に修正されています。 バンコックやソウルからカトマンズに来る時には飛行機の右窓側に席をとれば天気がよく運がよければ着陸態勢に入る少し前にその姿を見ることが出来ます。 又遊覧飛行(20人乗り程度の双発のプロペラ機)で写真を撮る時には一番前の座席に座るのがベストです。 エベレストが近ずくと前席の人から順次、操縦室の前方窓から撮影させて貰えますが後ろにいると順番が来た時にはエベレストは遥か後ろに遠ざかってしまっていたということにもなりかねません。 もちろん汚れていないで翼が邪魔にならなければ座席横の窓からも撮影は可能ですが。
第1部の構成は
(仁川空港→トリブヴァン空港) ⇒ トリブヴァン国際空港 ⇒ ホテル「アンナプルナ」&界隈 ⇒ カトマンズ市街 ⇒ スワヤンブナート寺院 ⇒ ヒマラヤ遊覧飛行 ⇒ ダルバール広場 ⇒ インドラ チョーク ⇒ ネパール伝統舞踊 で104枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「ネパール�ナガルコット&バクタプル」UP。 |
| ネパール・早春紀行の第2部はナガルコット及びバクタプル(バドガオン)です。
ナガルコットはカトマンズ盆地にあり首都カトマンズの約32km北東に位置していて、2,175mの高さにあります。 周りはヒマラヤの山々に囲まれており朝日を見るのには最高のロケーションで、特にジュガール、ロールワリン、クーンブ山群や日本人にはお馴染みのマナスル主峰(8163m)を擁するマナスル山群の展望が広がります。
又ここの農村地帯は11月にも拘わらず気候が温暖なせいか丘稜には山桜が咲き、段々畑には真黄色な菜の花で埋め尽くされています。 ネパールの国土は日本の1/3程度でしかも殆どが厳しい山岳地帯であるため傾斜の強い丘稜を削って段々畑にして耕作しています。 それを飛行機など上空から見れば日本や中国(元陽)等の棚田と比べても規模も大きく又異なる紋様の美しさがあります。
バクタプル(別名「バドガオン(信仰の町の意)」)は889年にアナンダ・デヴ王によって築かれ、その後12世紀〜18世紀の間、首都のひとつとして栄えてきました。 カトマンズやパタン同様カトマンズ盆地内の代表的な古都で、ネワール族の町の中ではこのバクタプルが一番中世の町並みを残しているそうです。
カトマンズが騒々しいのに対して田園地帯の小高い丘の上にあるのんびりとした非常に静かな街です。 1934年の大地震で、数多くの寺院や僧院、民家が被害を受けましたが、今では復興が進み世界に誇るネワール族のすばらしい建築物や彫刻そして赤レンガ造りの町並みが私たちを中世の世界へと誘ってくれます。
ダルバール広場(旧王宮前にある広場)では旧王宮・寺院を中心にすばらしいネワール建築の数々を見ることができます。 カトマンズやパタンにもダルバール広場がありますがバクタプルのものが一番美しいとされています。 又ゴールデンゲートの前には石柱の上に乗ったブパティンドラ・マッラ王(在位1696〜l722年)がお祈りをしている像があります。 このマッラ王の像はネパールの中でも最もすばらしい像とされています。
トゥマディー広場では、ネパール最大の五重の塔ニャタポラ寺院がひときわ目を引きます。「ニャタポラ」とは、「五重の屋根」という意味で、この寺院は5段の基壇と五層の塔で成り立っていますが1934年の大地震の際にも、この寺院は最小限の被害にとどまったため建築技術の高さが評価されています。
ネパールには鉄道がない為、カトマンズ盆地内の移動は車になりますがそうでない盆地外に移動する時には山岳の道が嶮しいので一般の旅行客は飛行機に頼らざるを得ません。 飛行機は遊覧飛行と同じく20人乗り程度の双発のプロペラ機で風が強いと弱くなるまで出発が延期されます。 今回のツアーではネパールに入るまでの国際線でソウル経由の大韓航空利用により往復4回、ネパール内移動の国内線(遊覧飛行も含めて)で5回ということで飛行機には計9回乗ることになりました。 ということで私の飛行機嫌いも短期間にこれだけ乗れば殆ど解消された感じです。
第2部の構成は
(カトマンズ→ナガルコット) ⇒ クラブ「ヒマラヤ」&界隈 ⇒ クラブ ヒマラヤより望む ⇒ (ナガルコット→バクタプル) ⇒ バクタプル市街 ⇒ ダルバール広場 ⇒ トゥマディー広場 ⇒ (バクタプル→カトマンズ) ⇒ (カトマンズ空港→ポカラ空港) で104枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「ネパール�ポカラ」UP。 |
| ネパール・早春紀行の第3部はポカラです。 ポカラはカトマンズより西へ200kmのところにありアンナプルナを望む町です。
「ポカラ」はネパール語の「ポカリ」(湖)という言葉から来ていて、ここにはアンナプルナの氷河を水源とするペワ湖、ベグナス湖、ルパ湖などの美しい湖があります。 標高が827mとカトマンズに比べて低地にあり気候も温暖です。 近くにはアンナプルナの8,000m級の山々がそびえていて街のどこからでも素晴らしい景観を望むことが出来ます。 例えばペワ湖からマチャプチャレ【6,993m】まではわずか28kmでその間には他に山はありません。 低地にいながら眼前にヒマラヤの山々を見ることの出来るこの湖周辺はリゾート地としても有名です。
もともとポカラはインドとチベットの間を結ぶ交易路の重要な町として栄え、現在も車の出入りが困難な山奥にはポニー(ロバ)が物資を積んで運搬しています。
マチャプチャレ(6993m)はアンナプルナの前衛となる山で聖なる山とされているため現在も未踏峰で、ネパール語で「魚の尾」を意味します。
サランコットの丘は標高1592mの緩やかな丘で頂上の展望台からはマチャプチャレやアンナプルナ山群を望むことが出来ます。 朝4時45分のモーニングコールの時には既に準備万端を整え終え、5時15分の集合前に朝食の弁当を受け取って車で日の出鑑賞のための第1展望台へ。 日の出は6時40分頃、既に地元の学生ら大勢の人が日の出を見ようと陣取っていました。 雲海の中、日が差し込んでくると標高6993mのマチャプチャレが色ずき始めます。 感動の一瞬でした。 その後、途中朝食の弁当を食べながら頂上の展望台まで1時間ほどのハイキングです。 頂上展望台でマチャプチャレやアンナプルナ山群を撮影して下山しました。
ペワ湖はネパールで2番目に大きな湖で、湖の真ん中には小さな島がありバラヒ寺院があります。 又湖の東側はバイダムといわれるレイクサイドで人気のツーリストエリアになっています。 近くにはパタレ・チャンゴがあります。
パタレ・チャンゴとは「地獄の滝」という意味で、昔トレッキングに来ていたスイス人のデヴィッドという人がここの川に流されて行方不明になってしまったために「デヴィズ・フォール」とも呼ばれています。 ペワ湖から地中を流れて来た川の水が岩壁の穴から滝となって流れ落ちているとのことですが、見た目には小さな滝で余り感動はありませんでした。
ポカラのオールドバザールはカトマンズとは異なり山地の民族をはじめとしたいろいろな民族が衣類、化粧品、食料品、家具などを買うのに集まって来ます。ネパール人の暮らしぶりがよく分かるところです。
第3部の構成は
ポカラ市街 ⇒ ホテル「フルバリ リゾート」 ⇒ ホテルより望む ⇒ サランコットの丘 ⇒ ペワ湖ボートクルーズ ⇒ オールド・バザール ⇒ (ポカラ空港→ジョムソン空港) で103枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「ネパール�ジョムソン&パタン」UP。 |
| ネパール・早春紀行の第4部はジョムソンとパタンです。
ジョムソン地域に入るには事前に入域許可の申請取得が必要です。ポカラからは20人乗り位の双発のプロペラ機で行きますが、出発は天候に左右されるので行く時には季節を選んで行くようにしましょう。 ジョムソン地域は標高2700mありトレッキングの拠点になっているところですが朝は10時頃から非常に強い南風が吹きます(ジョムソンには風力発電があります)。 往きは午後の到着だったので無事に定刻通りに到着しましたが復りは朝だったために2〜3時間出発が遅れました。 空港のあるニュージョムソンからホテルまでは普通は歩いて行きますが荷物を運ぶトラクターが一緒だったのでそれに乗せてもらいました。 ここはカトマンズより電力事情が悪くホテルには冷暖房がなくしかも2700mの高地にあるため夜はぐっと冷え込みます。従って夜寝る時には各寝室には湯たんぽが用意されます。 日本から持ってきたワールド・クッカーでお湯を沸かそうとすればスイッチを入れて数秒で電気が切れてしまいクッカーが潰れてしまったのかと思いましたが、カトマンズに戻って使った時には正常に動作しました。 恐らくジョムソンでは電圧が低かったので正常に動作しなかったのでしょう。 ホテルの「ジョムソン・マウンテンリゾート」からはダウラギリ(8167m)やニルギリ山群(主峰7061m)を眼前に見ることが出来ます。 ダウラギリ(「白い山」の意)は、ダウラギリ山群の主峰で世界で7番目に高い山です。1960年5月13日にスイス・オーストリアの登山隊によって初登頂されました。
マルファ村へはポニーに乗って行きましたが途中一本道の狭い道を進んでいる時に頭上から勢いよくこぶし大の石が眼前5cmに落ちてきました。 道の右側が急な崖になっており崖の上数十mのところで崖にへばりついた羊たちが足で石を崖下に向けて蹴っていたのでした。 間一髪カスメタだけで被害はなかったものの運悪く頭や顔に当たっていたらと思うとゾッとします。 マルファ村はりんごの栽培が有名で、特産品はりんごのブランデーということですが、工場と言っても農家の家屋で全くの手工業で作られていました。 180mlのボトルで50〜60円とすごく安いのですが独特の風味があり私には今ひとつの感じでした。 村自体は両側の石造りの白壁を縫うように細い石畳の道が続きとても雰囲気があるとともに純朴で人なつこい人々の笑顔が我々日本人にとっていつかどこかに置き忘れてきたものを思い起させてくれます。 又この村には河口慧海(1866−1945:堺出身)記念館があります。 彼はチベット語約の大蔵経(一切経)を入手するため単身徒歩でヒマラヤ山脈を越え鎖国化のチベットに潜入するなど17年間のチベット行の結果念願を果たします。 記念館になっている建屋には今も彼の子孫が暮らしています。
パタンはカトマンズ盆地にある3郡の1つでカトマンズの南にあり、ネワール文化の華開いたマッラ王国が栄えた時代には首都だったところです。3郡の中では最も古く299年にアショーカ王によって作られました。 別名をラリトプル(「美の都」の意)といい、その名の通り大変美しい町です。 住民の殆どが彫刻や絵画などに優れたネワール族で、金銀細工、木彫り、絵画など工芸の街として有名です。
ダルバール広場は旧王宮前にある広場で、建物が石畳の路をはさんで軒を接するほどびっしりと建てられています。
クンベシュワール寺院は1932年に建てられたパゴダ様式のシヴァ寺院です。当初は2層の屋根でしたが17世紀に現在のような5重の塔になりました。 又境内の入り口には聖なる湖ゴサインクンドから流れてきた水場があり、ここの水で身を清めると、ゴサインクンドへ巡礼したのと同じご利益があるといわれています。
ネパールで気付いたことですが、子供たちの影には母親がいて子供たちにキャンデイなどをやればたちまち母親にそれを渡し親がそれを食べてしまうという光景に何度か遭遇しました。 小さな子供にキャンデイをやれば虫歯になるという事でカンボジアなどでは注意されるようですがここでも同じ理由からかどうかは不明です。 水場で6〜7歳の男の子が4〜5歳の妹らしい子に水場で汲んだ水を飲ませているところを旅行者に写真に撮らせ、金銭を貰い母親に渡しているのを目撃してしまいました。 中国や途上国では土産物を子供に売らせたりするのをよく見かけたりしますがそれと同じなんでしょうか。
第4部の構成は
ニュージョムソン ⇒ ホテル「ジョムソン・マウンテンリゾート」 ⇒ ホテルより望む ⇒ マルファ村への道(ポニーに乗って) ⇒ マルファ村 ⇒ (ジョムソン空港→ポカラ空港→カトマンズ空港) ⇒ パタン市街 ⇒ ダルバール広場 で106枚のスラ |
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・北京�老龍頭長城〜」UP。 |
| 2007年の9月下旬に中国・北京の世界遺産と北京郊外の万里の長城9箇所を巡るツアーに行って来ました。 北京はこの時期オリンピックを来年に控え、どこもかしこも工事の真っ最中で、初日の秦皇島へ行く道路も例外ではなく工事が車の渋滞を産み、その日のうちに訪れる予定であった山海関長城(老龍頭を含む)の入場時間に間に合うことが出来ず翌日に持ち越すこととなりました。 これがこの後の長城巡りを極めて過酷な行程へと陥しいれたのです。 長城はこの山海関長城にある渤海に突き出した老龍頭(ここが最東端)から甘粛省の嘉峪関(最西端:敦煌の手前)まで約6000kmを山を登り、谷を下ってエンドレスに続きます。 秦皇島は北京から車で約4時間ほど行ったところの港湾都市で、ツアーはこの秦皇島にある最東端の老龍頭から西へ北京の北郊外にある八達嶺までの要所々々にある長城を巡り、最後に北京の世界遺産を訪れるものです。
第1部は最東端の老龍頭(山海関長城)から黄崖関長城までです。山海関長城は北の燕山と南の渤海に挟まれているところから名付けられ、かっては4つの門がありましたが現存するのは東門のみで天下第一門と呼ばれ高さが12mあり、楼閣に上がれば遥か彼方へと続く長城など周囲を一望出来ます。 次にダムの建設により湖底に沈んだ長城を遊覧船で見るという瀋家口長城へと行きましたが、残念ながら水中の長城は見られず(誇大か虚偽の宣伝?)周囲の山々に続く長城を見てきました。 その後夕日に映えて黄金色に輝くためその名を黄崖関と呼ばれる長城に行く予定でしたがこれも最初の日程が狂ったために夕方には到着出来ず翌日の朝に回されることとなり黄金に輝く長城を見ることは出来ませんでした。 ただこの辺りまで長城を観に来る人は少なく静かだったことだけが唯一の救いではありました。
第1部の構成は
北京空港 ⇒ (北京→泰皇島) ⇒ 泰皇島長城酒店・界隈 ⇒ 泰皇島市街 ⇒ 老龍頭長城 ⇒ 山海関長城 ⇒ (泰皇島→瀋家口) ⇒ 瀋家口長城 ⇒ (瀋家口→薊県) ⇒ 漁陽賓館・界隈 ⇒ 薊県郊外 ⇒ 黄崖関長城 で93枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・北京�〜八達嶺長城」UP。 |
| 北京・世界遺産と長城巡りの第2部は金山嶺長城から八達嶺長城までの5箇所の長城です。 金山嶺長城は泰皇島と北京の中間のやや北に位置したところにあり、承徳(回族、満族、蒙古族などの少数民族が多く住み、燕山山脈の一角にある古くからの避暑地)との境界山麓に約47km続きます。 ここも北京や泰皇島からも遠く離れているためか我々以外に観光客はおらず、極めて静かで長閑な雰囲気の長城でした。 しかし次の司馬台長城(北京の北東約120kmの位置)からは観光客も多く又アップダウンも厳しくなります。 特に司馬台長城は急勾配な城壁で有名で山頂から一気に下るサマは見ごたえがあります。 そして次の慕田峪長城に到着したのが夕方の5時前で辛うじてロープウエイにのる最終時間に間に合い、夕闇迫る長城を撮影できました。 ただロープウエイの最終運転の関係から滞在時間20分と極めて短かったのは残念です。 そして北京から北50kmにある八達嶺の内関・居庸関長城は北京防衛のための最後の砦として建造され、全長4142mが山の尾根を這うように伸びており、勾配も急で上に登るに従い城壁幅はやっと人がすれ違える程に狭くなります。 そして長城の最後は八達嶺長城で、秦の始皇帝が建造した最大規模の長城で、城壁の上で騎馬5列、兵士が10列になって行進したと言われており、匈奴の来襲に備えるために110m毎に城桜が設けられています。 現在公開されているのは北側(女坂)の2.4kmと南側(男坂)の1.1kmです。
第2部の構成は
八達嶺荘園飯店・界隈 ⇒ 金山嶺長城 ⇒ (金山嶺長城→司馬台長城) ⇒ 司馬台長城 ⇒ (司馬台長城→慕田峪長城) ⇒ 慕田峪長城 ⇒ 居庸関長城 ⇒ 八達嶺長城 で92枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・北京�世界遺産」UP。 |
| 北京・世界遺産と長城巡りの第3部は北京の世界遺産(故宮博物院、天壇公園、陵墓明十三陵、頤和園)です。 北京での最初の日は小雨交じりの曇天でしたが、その夜の雨ですっかりスモッグが洗い流され翌日は青空の広がる素晴らしい天気になりました。 現地のガイドはこんな天気の方が普通なんだと盛んに言っていましたが、そう言われれば言われるほど北京は今オリンピックを前に環境汚染が大変なんだなと思ってしまいました。 しかし中国の庶民はそんなことは気にもとめず健康のためか、自己顕示欲が強いのか、はたまた根っからの遊び好きなのか分かりませんが、少しでも広場があれば集団で太極拳をしたり、刀剣や棒などを振り回したり、最近では新体操のリボンのようなことや、卓球のラケットのようなものにテニスのボールのようなものを載せて遊んでいたりするのをよく見かけます。これは日本でいうところの朝のラジオ体操のようなものなんでしょうか。 そして北京の街は天安門広場を中心に南北に南から永定門(天壇公園はこの近くにあります)、箭桜、前門(正陽門)、天安門広場、端門、故宮博物院(大和殿など修復中)と続き、故宮の出口(神武門:修復中)を出てすぐ北に景山公園があります。 景山は人工的に土盛りされたもので高さ44.6mあり、山頂中央にある萬春亭からは市内や故宮が一望出来、夕暮れ時の故宮は甍が黄金色に輝き一見の価値があると言われていますが、残念ながらこの日は一時雨の曇天であったため景色は今ひとつでした。 天壇公園は皇帝が五穀豊穣を祈ったところで、中国最大にして最古の祭祀建築物で祈年殿の内部の4本の竜井柱は四季を、それを取り囲む12本の柱は時刻を表しているそうです。 又北京市内から西北約50kmに位置する明十三陵には明の歴代13人の皇帝と23人の皇后、1人の妃が眠っています。中でも定陵は14代皇帝の墓で、1957年に発掘されたアーチ構造の大理石で出来た地下宮殿が有名です。 そして最後の頤和園は北京市街の西北にあり、英仏軍の焼き討ちにより荒廃したものを西太后が軍費を使って再建したことで有名で800年の歴史を持つ庭園です。
第3部の構成は
永興花園飯店・界隈 ⇒ 北京市街 ⇒ 天安門広場 ⇒ 故宮博物院 ⇒ 景山公園 ⇒ 天壇公園 ⇒ 陵墓明十三陵 ⇒ 頤和園 で98枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・武夷山(前編:九曲渓筏下り)」UP。 |
| 2007年の8月中旬に中国の世界複合遺産の1つである武夷山へ行って来ました。 福建省北部にある武夷山は36峰からなり標高は約400mの小高い岩山です。 山には魚の捕獲を禁ずる清代の石碑が残されているなど古くから自然を保護する伝統が生きずいており、1999年に世界複合遺産に指定されて以降は目障りな広告などは一切なく、ごみの投棄などにも監視の目が光っています。 又、13世紀の南宋時代に朱憙が朱子学を説いた場所としてもよく知られています。
前編は武夷山の峰峰を九回縫って流れるところから九曲渓と称されている谷川を竹で作られた筏で下る「九曲渓いかだ下り」と武夷岩茶で有名な大紅袍風景区でのウオーキングです。 武夷岩茶は武夷山一帯で栽培されている烏龍茶の総称で、数ある烏龍茶の中でも最高級品とされるのが「大紅袍」です。 その母なる4本の樹齢300年の大紅袍の古木が今も「水簾洞」の岩山の斜面に自生しています。 これ以外の大紅袍は全て第2世代のもので、その名前のついた大紅袍風景区は切り立った岩山に湿気がみなぎり、まさしく茶所といった風情をなしています。
前編の構成は
武夷山空港 ⇒ 遠華国際大飯店・界隈 ⇒ 武夷山市街 ⇒ 武夷山郊外 ⇒ 九曲渓・いかだ下り ⇒ 武夷宮宋街 ⇒ 大紅袍風景区 で86枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・武夷山(後編:武夷山ウオーキング)」UP。 |
| 武夷山の後編はウオーキングが中心で天遊峰景区にある標高400mの武夷山ウオーキング(往路の上り階段888段+復路の上り階段100段)と玉龍大峡谷&龍川滝(往路の上り階段約1000段?)及び水帝洞景区(往路の上り階段?段)のウオーキングです。 武夷山ウオーキングは九曲渓の五曲の橋を渡った先に登山口があり、急勾配の888段の階段を登りますが、速い人なら約1時間で頂上に辿りつけるでしょう。 しかし階段の上は人、人又人で、登山口から頂上までぎっしり人で埋まっているため頂上に到達するまでには優に2〜3時間を要することになります。 そのお陰で途中は休み休みに登ることとなり、眼下に広がる素晴らしい絶景(九曲渓のいかだ下りも俯瞰できます。)をじっくりとカメラに収めることが出来ました。
後編の構成は
天遊峰景区 ⇒ 玉龍大峡谷&龍川滝 ⇒ 閔越王城博物館 ⇒ 閔越王城遺跡 ⇒ 遇林亭遺跡 ⇒ 古民家 ⇒ 水帝洞景区 で90枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「江南旅情�杭州・西塘」をアップ。 |
| 2007年の5月下旬に久しぶりに中国へ行って来ました。 今回は上海に近い江南地方で主に水郷古鎮や老街を訪れました。
第1部は2度目の杭州と西塘老街です。 杭州は浙江省の省都で、蘇州とともに地上の楽園と謳われるだけに緑豊かで新しく開発されるところには必ず緑豊かな公園を造ることが義務ずけられています。 しかも環境に配慮してバスはトロリーバスのような電気で動くバスであり、バイクは電動自転車のような電動バイクが街を走っています。 そのため空気がきれいで食が上海なら住むのは杭州といわれています。 又緑茶の代表とされる龍井茶(ロンジンチャ)の産地で西湖西岸の山中に茶畑が広がりその一角に中国茶葉博物館があり龍井茶の試飲をさせてもらえます。 又西湖東岸には新しく出来た明清風の商店街の河坊街がありぶらりと散策するのも楽しいです。
構成は
納徳大酒店・界隈 ⇒ (続)杭州市街 ⇒ 蘇堤散策 ⇒ (続)西湖遊覧 ⇒ 花港観魚 ⇒ 河坊街 ⇒ 中国茶葉博物館 ⇒ 六和塔 ⇒ (杭州⇒西塘) ⇒ 西塘老街 で109枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「江南旅情�蘇州・無錫」UP。 |
| 中国・江南旅情の第2部は蘇州と無錫です。 水郷村落の蘇州には湖水や大小さまざまな河川があり米などの豊富な物産の輸送に利用されてきました。 東洋のヴェネチアとして知られた蘇州には多くの文人が集まり「天に極楽、地に蘇(州)杭(州)」と称えられ、庭園文化が生まれました。 中国の古典的な庭園は一般に山、水、建物、草花・樹木の4大要素で構成されてきましたが蘇州ではそれに石(太湖石)を加えて独特の庭園が築かれました。 又蘇州から車で30分くらいのところにある無錫はもともと大量の銀を産出していて「有錫」と呼ばれていたそうですが紀元前2世紀に鉱脈が枯れ、今の「無錫」と改名されたそうです。 この街のはずれに太湖があり、その北岸にすっぽんの頭のように突き出した岬が元頭渚です。 ここには「無錫旅情」で謳われた歌碑がありました。 ただ太湖は急激な近代化による富栄養化が進んだ結果、今年は大量の青藻が発生し湖水は緑色、悪臭が周囲を覆い、とても景色を眺めながらゆっくりと散策を楽しむという気持ちにはなれませんでした。
構成は
(西塘⇒蘇州) ⇒ 天平大酒店・界隈 ⇒ 蘇州市街 ⇒ 中国江蘇省シルク研究所 ⇒ 寒山寺&界隈 ⇒ 呉門橋・(から望む)界隈 ⇒ 留園 ⇒ 蘇州運河夜遊 ⇒ 無錫市街 ⇒ 元頭渚公園 ⇒ 太湖遊覧 で105枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・江南旅情�朱家角・上海」UP。 |
| 中国・江南旅情の第3部は朱家角と上海です。 米の集散地として栄えた朱家角は上海市に属し、市街から車で1時間30分ほどのところにあります。 町は運河と路地によって9つに分けられ放生橋、廊橋、泰安橋、平安橋など36の石橋が架かっており、北大街には道幅2m程度の狭い路地に米問屋、酒屋や茶屋などの店が並び明清時代の古い面影を残しています。 西塘老街でもそうですがここ朱家角も町並みや運河の風情はどこか懐かしい田舎の故郷を思い出させる郷愁が漂っていますが、残念なのは河の水は透明度が全くなく泥水のような色をしていることと空がすかっとした青空にならないことです。 もしこれが雲南省の麗江のように玉龍雪山の雪解けの湧き水だったり、すかっと吸い込まれそうな青空だったらと思わずにはいられませんでした。
一方上海は1990年に浦東開発が始まりアジアの金融センターを目指して、未だ進化を続けるコスモポリス(摩天楼都市)です。 その中で黄浦江を挟む外灘と浦東では新旧2つの上海を見ることが出来ます。 外灘は租界時代の建築が並ぶオールド上海、浦東は近未来都市のニュー上海です。 南京路では東路1.3Kmが歩行者天国で気ままに散策後、疲れたらいろいろな形の遊覧車に乗るのも楽しい。 又上海老街と予園商城は隣接していてその境界がどこなのか分からないまま人ごみの中を歩きましたが、予園商城の方は19世紀から老城隍廟商場の名で上海の中心地として栄え、伝統的な建築様式で造られた店舗が特徴だそうです。 一方上海老街は1999年の再開発によって出現した老街で、西側は明清時代を、東側は民国初期を思い起こさせる町並みになっているそうです。 とにかくどこもかしこも人、人で溢れ、活気に満ちた魅力ある街ではあります。
構成は
(蘇州⇒朱家角) ⇒ 水郷古鎮・朱家角 ⇒ 上海市街・夜景 ⇒ 上海・外灘 ⇒ 上海・南京路 ⇒ 上海老街・予園商城 ⇒ 上海雑技 で109枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「インドネシア 〜2島巡り〜�バリ島」UP。 |
| 2007年の4月下旬にインドネシアの2島(バリ島、ジャワ島南部)へ行って来ました。
インドネシアは1万8千近い島からなり、面積は日本の約5倍あります。主な島はスマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラウエシ、イリアンジャの5島で、人口の約60%は5番目に大きなジャワ島に集中し首都はそこのジャカルタです。 ジャワ島の主とした宗教がイスラム教であるのに対してバリ島では独特のヒンドウ教を信奉する人が多く、街の至るところに祭壇があり日に何度となく供物を供える敬虔な人々を見かけます。 しかしそのように敬虔な人々がいる一方で、実に悪質なポーターが州都テンパサールの空港にいます。 インドネシアに始めて土を踏むことになったテンパサール空港のターンテーブルで殆ど最後近くなったスーツケースをテーブルから引き下ろすや否や「空港作業員」の身分証明証を胸に掲示したポーターが待ってましたとばかりいきなりケースをとると税関の方へ歩き出したのです。 そしてそのまま税関を通り過ぎ次に両替所へ行き両替させると又又いきなり私の手元の両換え済みのルピア紙幣から赤い10万ルピア紙幣2枚を取り上げアッと言う間もなくポケットにいれ空港の外へ歩き出すのでした。 未だルピアについて余り知識がない間の一瞬のことでまんまと3千円近いポーター代を巻き上げられてしまいました。 普通だといくら渡すのか分からないが帰りの空港のカウンター付近ではポーターが500円硬貨2枚を紙幣に交換してくれと日本人観光客に纏わりついているのを見て思わず叫んでいました。「日本人は騙されるなよー!」 てね。 聞くところによるとインドネシアでは日本の紙幣は利用できるけれども硬貨は利用できないらしい。(本当かどうかはわからない。) 何故なんだろう。 器用な彼らが硬貨を偽造するからか? だとしたらあの2枚の硬貨も日本人客から貰ったチップではなく偽造されたものかも? ということでホテルに入ってから「JTBパブリッシング」出版のるるぶ ポケットガイド「バリ島 ボロブドール」を見てみると「空港内の注意点」として「何も頼んでいないのに勝手に荷物を持っていき、不当なチップを請求する悪質なポーターもいるので注意」とありました。 ということは何年も前からこういう輩がいるのにインドネシア当局はこの連中に何の対策もとらずに野放しにしているということか? 経済を観光に頼っているこの国が? 最初から最悪の印象だと其の後もスコールに見舞われたり、棚田が見えるレストランからは普通の田んぼしか見られなかったり散々な旅となりました。 第1部はそのバリ島です。
構成は
ングラ・ライ国際空港(デンパサール空港) ⇒ ニッコーバリリゾート&スパ ⇒ デンパサール市街 ⇒ デンパサール郊外 ⇒ 木彫りの村・マス ⇒ 彫金の村・ヂュルク ⇒ ライステラス(棚田)の見えるレストラン ⇒ モンキーフォレスト ⇒ タナロット寺院 ⇒ 芸術の村・ウブド村(ネカ美術館) ⇒ ケチャックダンス ⇒ バリ舞踊 で109枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「インドネシア 〜2島巡り〜�ジャワ島」UP。 |
| インドネシアの第2部はジャワ島の南部です。 ジャワ島の北部には首都ジャカルタがありますが南部にはジャワの宮廷文化を受け継ぐ古都ジョクジャカルタがあります。 ジャワ島の主たる宗教はイスラム教ですが古都ジョクジャカルタ周辺にはそれ以前に栄えた仏教やヒンドウ教の寺院遺跡が残されています。 世界最大規模の仏教遺跡として有名なボロブドウール寺院や仏教とヒンドウ教様式が混在するプランバナン寺院などです。 そのほかジョクジャカルタには現在も10世一家が住むジョクジャカルタ王宮があり、古都ソロにはカスナナン王宮やマンクヌガラン宮や水の宮殿そしてジャワ原人の頭蓋骨レプリカを展示しているサンギラン博物館などがあるがいずれも保存状態もいまいちで無理やりに観光コースに組み込んだもののようにしか思えなかった。 これは最初の印象が悪かったためのひがめでしょうか?
第2部の構成は
アディスチプト空港 ⇒ ホテル(ハイアット リージェンシー ジョグジャカルタ) ⇒ ジョグジャカルタ市街 ⇒ ジョグジャカルタ郊外 ⇒ ジョグジャカルタ王宮 ⇒ 水の宮殿 ⇒ プランバナン寺院遺跡群 ⇒ ボロブドウール寺院遺跡群 ⇒ ソロ市街 ⇒ ソロ郊外 ⇒ カスナナン王宮 ⇒ マンクヌガラン宮 ⇒ サンギラン博物館 で108枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「台湾�台北〜花蓮〜知本温泉」UP。 |
| 2007年の2月下旬から3月上旬にかけて台湾を右回りで一周して来ました。
台湾は九州とほぼ同じ大きさながら富士山より高い山が幾つかあるそうです。 だから当然地震国であり、又温泉も豊かで日本式の露天風呂なんかもあります。
気候は亜熱帯に属し夏は蒸し暑く、そのため台湾はフルーツ天国で街中にフルーツが溢れているけれども国外へ持ち出すことは禁止されているそうです。 どこに行ってもコンビニがあるので日常の買い物には困ることは殆どありません。
たまに「全家」と描かれたファミリーマートを見かけますが殆どがセブンーイレブンです。 レストランのビールは中瓶で大体200台湾元くらい(700円強)と余り安くはないですがコンビニで缶ビールを買うと350�リットル缶で40〜50元です。
又昔の日本統治時代に覚えた日本語を喋るお年寄りだけでなく就職がしやすくなるため日本語を学ぶ若い人が多いので話をしていて日常生活で不自由することは余りなさそうです。
それで肉を食べない私には海鮮料理や小吃など安くてうまいものが多く大満足の台湾グルメでした。 ただ韓国と同様に観光そのものは特別すごいと思うところはなくやっぱりグルメ旅と温泉三昧を目的に行くところだと再認識しました。
第1部は台北〜花蓮〜知本温泉でメインの観光はタロコ渓谷です。 ここには3000億tの大理石が埋蔵されており、その下に翡翠やサファイア、猫目石もあると言われています。
第1部の構成は 三徳大飯店・界隈 ⇒ 台北市街 ⇒ 故宮博物院 ⇒ 龍山寺 ⇒ 忠烈祠(儀仗兵交代式) ⇒ (台北→花蓮) ⇒ 中信花蓮大飯店・界隈 ⇒ (花蓮⇔タロコ峡谷) ⇒ タロコ峡谷 ⇒ (花蓮→知本温泉) ⇒ 老爺大酒店(知本温泉) ⇒ 原住民族歌舞ショー で97枚のスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「台湾�ガランピ岬〜高雄」UP。 |
| 第2部はガランピ公園(台湾最南端)〜高雄です。 ガランピ公園は台湾・最南端の岬にある公園で展望台からはバシー海峡の紺碧の海を一望できます。 又このガランピ公園に至るまでの海岸線は白い砂浜とサンゴ礁の海が広がる常夏のマリンリゾートになっています。 海水浴やマリンスポーツの出来るこの海岸線を通過するだけで終わったのは残念ですが公園からは海抜318mの岩山でこのあたりのシンボル的存在になっている大尖石山を遥か彼方に望むことが出来ました。
高雄では歩行者天国の屋台街で有名な六合夜市に行き約300mの間に140もの屋台でごったがえす様を見たり、そのニオイだけを嗅いで来ました。 その帰りには偶然、ホテルの近くの川(愛河)で提灯祭りが行われており噴水の幕にレーザー光線を当てて見せるCMに暫し見とれていました。
第2部の構成は (知本温泉→ガランピ公園) ⇒ ガランピ公園 ⇒ (ガランピ公園→高雄) ⇒ 華王大飯店・界隈 ⇒ 高雄市街 ⇒ 澄清湖 ⇒ 龍虎塔 ⇒ 寿山公園 ⇒ 夜市(六合二路) ⇒ (高雄→台南) で88枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「台湾�阿里山〜日月潭」UP。 |
| 第3部は台南〜阿里山〜日月潭です。 阿里山賓館(阿里山)の付近は檜の原生林が生い茂り3月頃には花もピンクに色ずき森林遊楽区と呼ばれる歩道では気持ちよく自然と触れ合うことが出来ます。世界3大山岳鉄道の1つ(?)と言われる阿里山森林鉄路に朝5時過ぎに乗り、祝山駅に到着した6時頃には空が明るくなっていました。 日の出を写真に撮る予定が狂い、走って観日桜(展望台)に行きやっと朝焼けだけを撮影出来ました。 日の出に合わせ列車を運行しているとの情報は全く出鱈目でした。 遅れて来た人を乗せるため出発を相当遅らせた可能性があります。
日月潭は台湾のほぼ中央に位置し、台湾屈指の風光明媚な観光地として知られているそうです。 朝方や夕暮れ時には霧に煙り幻想的な姿を見せるそうですがそうでない平時の薄く曇った時には何とも平凡な湖にしか思えませんでした。
第3部の構成は 台南市街 ⇒ 安平古堡 ⇒ 赤嵌桜 ⇒ (台南→阿里山) ⇒ 阿里山 ⇒ (阿里山麓→日月潭) ⇒ 日月潭 ⇒ 玄奘寺 ⇒ 文武廟 ⇒ (日月潭→台北) で98枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「エジプト�カイロ(ギザ:ピラミッド・エリア)」をアップしました。 |
| 2006年11月中旬にエジプトへ行って来ました。 エジプトは面積が日本の3倍弱あるけれどそのうち2/3が砂漠だからそれを除くと日本と同じ位の広さといえます。 人口は7600万人余りで主として南北に流れるナイル川沿いやアレキサンドリアなど地中海に面したデルタ地域に暮らしていて主産業はスエズ運河事業や観光事業です。 国民の大多数は敬虔なイスラム教徒ですが7%ほどの人が古代ローマ時代から続くコプトといわれるキリスト教を信じています。
第1部はカイロのギザ(ピラミッド・エリア)です。 ギザの3大ピラミッドはカイロより車で30〜40分のところにあり建造から4500年を経た今も殆ど往時の姿を留めています。 夜になるとライトアップされますが数秒間と短くすぐに消えてしまい、次にいつライトアップされるのかわからないのでホテルの窓からの写真撮影はなかなか難しくうまくいきませんでした(ひょっとしてライトアップではなく「音と光のショー」だったのかな)。 又ギザよりナイル川を南に遡るとサッカラやメンフイスに着き更に遡るとダハシュールに着いてピラミッドの原型を見ることが出来ます。
第1部の構成は
ホテル(メリデイアン ピラミッド)界隈 ⇒ ギザ市街 ⇒ ギザの3大ピラミッドとスフィンクス(クフ王の大ピラミッド、カフラ王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッド、スフィンクス、太陽の船博物館) ⇒ メンフイス遺跡(メンフイス) ⇒ ジェセル王のピラミッド・コンプレックス & アクナートン・カーペット・スクール (サッカラ) ⇒ 赤のピラミッド & 屈折ピラミッド (ダハシュール) の写真89枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「エジプト�ルクソール〜コムオンボ」をUPしました。 |
| 第2部はルクソール〜コムオンボです。 ルクソールへは関空からエジプト航空が直行便を運行しており13時間ほどで行くことが出来ます。 エジプト航空は日本の航空会社とは異なり厳しいイスラム教国家のため機内でのアルコールのサービスがありません。 そのため行きは缶酎杯と紙パックの焼酎を持ち込み機内でもらった氷と缶酎杯で焼酎を割って飲むことになります。 エジプトでは古代よりワインやビールが造られていたようですが、今では一般の店では販売されておらずどうしても飲みたい人はホテルやレストランなどで海外の観光客用の高いビール(中瓶のビールで4〜5ドル)を飲まざるを得ません。
第1部のギザはピラミッド中心でしたがこの第2部は王家の谷の墓とファラオの神殿が中心となります。 エジプトを南北に流れるナイル川をカイロから2/3ほど南に遡った所に位置するルクソールにはナイル川の西岸には王家の谷があり多くの墳墓や葬祭殿の遺跡(ネクロポリス「死者の町」と呼ばれています。)が、東岸にはファラオの権力を象徴する神殿が多く残されています。
第2部の構成は
ホテル(ル メリデイアン ルクソール)&界隈 ⇒ ルクソール市街 ⇒ カルナック神殿 ⇒ ルクソール神殿 ⇒ ルクソール郊外 ⇒ 王家の谷 ⇒ メムノンの巨像 ⇒ ハトシェプスト女王葬祭殿 ⇒ (ルクソール⇒エドフ) ⇒ ホルス神殿 ⇒ (エドフ⇒コムオンボ) ⇒ コムオンボ神殿 の写真110枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「エジプト�アスワン〜アブ・シンベル」をUPしました。 |
| 第3部はアスワン〜アブ・シンベルです。 エジプトでは観光バスが観光地を移動する場合、バスは決められた時間と場所に集合し、前後を小銃を持った警官数人が乗った護衛のジープに挟まれて一列に隊を連ねて移動します。 又バスの中にはピストルを携帯し黒のスーツに身を包んだ屈強のシークレットサービスのガードマンが現地ガイドの横に座り周囲に睨みを利かせます。 これはかってエジプトではテロが頻発し、そのたびに観光客に多きな被害(日本人が亡くなったこともあります)が発生して、観光立国であるエジプトに多大な影響が出たことによります。
又ピラミッドなどの遺跡にはラクダに乗った警官が観光客相手に写真を撮らせた後、「マネーマネー」とか「1ドル1ドル」とか言いながら手を差出し金をせびりますが、この手の警官は身分が低く弱い警官だそうで金を渡すかどうかは自由です。
第2部は王家の谷の墓とファラオの神殿が中心でしたが第3部も神殿が中心でそれにナイル川の風景が加わります。
第3部の構成は
(コムオンボ⇒アスワン) ⇒ アスワン市街 ⇒ ホテル(イシス アイランド アスワン)&界隈 ⇒ フィラエ神殿 ⇒ ファルーカによるナイル川セーリング ⇒ (アスワン⇒アブ・シンベル) ⇒ ホテル(セテイ アブシンベル)&界隈 ⇒ アブ・シンベル神殿 ⇒ 寝台特急ナイルエキスプレス(アスワン⇒ギザ) の写真110枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「エジプト�シナイ半島&西方砂漠」をUPしました。 |
| 第4部はシナイ半島と西方砂漠(ナイル川の西側にあるリビア砂漠<サハラ砂漠の一部>)です。 シナイ半島ではモーゼの十戒で有名な標高2285mのシナイ山に登り日の出を見ます。 夜中1時半のモーニングコールで目を覚まし、バスで2時過ぎにホテル(セント カテリーナ ツーリスト ビレッジ)を出発、聖カテリーナ修道院の手前でバスを降り2時半頃聖カテリーナ修道院を過ぎたあたりでラクダに乗る人と別れ闇の中をガイドと歩くこと1時間40分ほど、階段下にある第2休憩所(7合目)に集合し、暫時体を休めた後、4時半再度頂上を目指し残り800段ほどの階段を最後の体力を振り絞って登ります。 5時半頃山頂に到着すると日の出を待つ場所を確保し携帯カイロで体を温めて待つこと30分、やがて日の出とともにかってモーゼが感じたであろう神聖な時間と景色が流れて行くのを体験しました。
リビア砂漠の一部である西方砂漠はバハレイヤ・オアシスを中心に他の砂漠では見られない奇岩が林立する白砂漠や玄武岩で黒くなった黒砂漠が中心で古代遺跡のエジプトとは又違った趣を見ることが出来ます。
第4部の構成は
(カイロ⇒スエズ) ⇒ スエズ ⇒ (スエズ⇒セントカテリーナ) ⇒ ホテル(ワデイ エル ラハ:セント カテリーナ ツーリスト ビレッジ) ⇒ シナイ山 ⇒ 聖カテリーナ修道院 ⇒ (カイロ⇒バハレイヤ・オアシス) ⇒ ホテル(ホットスプリング インターナショナル) ⇒ 黒砂漠 ⇒ クリスタルマウンテン ⇒ 白砂漠 の写真111枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「エジプト�アレキサンドリア&カイロ」UP。 |
| 第5部はアレキサンドリアとカイロです。 アレキサンドリアは地中海に面したナイル川の河口でナイルと地中海の両方の恩恵に浴した豊かなデルタ地帯です。 紀元前3世紀にアレキサンダー大王によって建設され港湾都市として栄え、後にオスマン・トルコの支配下でエジプト一の港となり、1869年のスエズ運河開通によりヨーロッパとアジアを結ぶ拠点となりました。
一方カイロは7世紀にアラブ民族がローマ統治下にあったエジプトを侵攻した時の拠点で、以降イスラム統治の中心地として栄えて来ました。 「1000のミナレットを持つ町」と称されるようにどこを歩いても高いミナレット(礼拝の時間を知らせるためのモスクにある塔)が目に飛び込んで来て迷路のような通りで道に迷った時の心強い目印となります。
第5部の構成は
(ギザ⇒アレキサンドリア) ⇒ アレキサンドリア市街 ⇒ ナショナル・ミュージアム(国立博物館) ⇒ ポンペイの柱 ⇒ カイトベイの要塞 ⇒ ホテル(ラムセス ヒルトン)&界隈 ⇒ カイロ市街 ⇒ オールド・カイロ(エル・ムアッラカ教会、聖ジョージ協会) ⇒ モハメド(ムハンマド)・アリ・モスク ⇒ ハーン・ハリーリ・バザール ⇒ ナイル川デイナークルーズ の写真111枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「藤森神社(伏見)」をアップしました。 |
| 2002年京都は伏見にある「藤森(ふじのもり)神社」(京阪電車の藤森駅下車)で行われる駈け馬神事(5月:写真19枚)、紫陽花まつり(6月:写真26枚)および蹴鞠奉納(6月:写真20枚)をスライドショーにしました。
ホームページのアドレスは
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です。
駈け馬神事は戦場の馬術を再現したもので迫力ある見事な曲乗りが披露されます。 見た目には流鏑馬が中央競馬とすれば駈け馬は北海道の道産子レースといった感じですが、手綱を持たずに狭いコースを疾走するために落馬の危険性などを克服する勇気と高度な技術が要求され、その曲乗りの迫力には圧倒されるものがあります。
又2002年6月16日はサッカーワールドカップ の真っ只中で日本対トルコの対戦前でした。 この日にはワールドカップを取材に来ていると思われる海外のメデイアが日本古来の伝統である玉蹴り(本来中国より伝わって来たものですが今では中国では姿を消し、日本にのみ残っているものです。)を母国に伝える為にビデオ撮りに来ていました。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・シルクロードを行く�西安」をUPしました。 |
| 2006年8月上旬に3度目の中国・シルクロードに行って来ました。 今回は西安を起点に敦煌、トルファン、ウルムチで敦煌とウルムチは2回目で見学先も一部ダブルことになりましたが、トルファンやウルムチの天池などに行きたくて決心しました。 第1部は東のシルクロードの起点である西安で、昔は長安と呼ばれ2000年もの間中国の歴代王朝の都であったところで遣唐使や遣隋使が派遣され日本の文化に大きな影響を与えたところです。今回の旅では1日の滞在であった為広大な西安の全てを観光するには短か過ぎました。 又いつの日にかゆっくり華清池や秦始皇陵、乾陵、華山などを訪ねて行きたいと考えています。
第1部の構成は
唐華賓館(西安)・界隈 ⇒ 西安市街 ⇒ 明代城壁 ⇒ 大雁塔 ⇒ 陝西歴史博物館 ⇒ 兵馬俑抗 の写真61枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・シルクロードを行く�(続)敦煌」をアップしました。 |
| 第2部は広大な砂漠に囲まれ沙州と呼ばれた敦煌です。 敦煌はシルクロードの河西回廊の終点であり天山北路の始点で且つ天山南路の西域北道と西域南道の始点であり東西の人々が行きかう交差点でした。 しかし東西南北の中心にあったが為歴史の中で何度も興亡の憂き目に会ってきたところでもあります。
第2部の構成は
(続)敦煌太陽大酒店・界隈 ⇒ (続)敦煌市街 ⇒ (続)鳴沙山 ⇒ (続)敦煌郊外 ⇒ (続)莫高窟 ⇒ 白馬塔 ⇒ 万里の長城跡 ⇒ 河倉城遺跡 ⇒ 玉門関 ⇒ (続)陽関 ⇒ 軟臥車(敦煌→トルファン) の写真74枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・シルクロードを行く�トルファン」をアップしました。 |
| 「中国・シルクロードを行く�」の第3部は夏の気温が高温で乾燥していて風が強く酷暑が続く為火州と呼ばれるトルファンです。 トルファン盆地の中央部にある山は赤い山肌が夏場には地表から立ち上がる陽炎によって燃えているように見えることから火焔山とよばれ、「西遊記」にも登場しています。 又この夏の暑さを凌ぐため人々の多くは家の外(屋上など)で夜を過ごしています。
トルファンはシルクロードの天山南路と天山北路を連絡する要衝の地として栄え、5〜7世紀には漢族の高昌国、その後唐の支配下を経てウイグル王国の建国によりウイグル族が統治することになります。
特産品の葡萄は延べ10kmにも及ぶ葡萄溝を中心に生産していますが、そこでは天山山脈から地下水路(カレーズ)を通して運んだ雪解け水を利用しています。
第3部の構成は
吐魯番大飯店・界隈 ⇒ 民家 ⇒ 地下水路カレーズ ⇒ 葡萄溝 ⇒ 蘇公塔 ⇒ アスターナ古墳群 ⇒ 火焔山 ⇒ ベゼクリク千仏洞 ⇒ 高昌故城 ⇒ 交河故城 ⇒ ウイグル族の歌と踊りの夕べ の写真100枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「中国・シルクロードを行く�ウルムチ」をアップしました。 |
| 中国・シルクロードを行く�」の第4部は新疆ウイグル自治区の区都であるウルムチの続編です。 ウルムチは内陸性乾燥気候で年間を通して晴天が多く雨が少ないですが、周囲を万年雪を頂く山々に囲まれており雪解け水を水源とする河川に恵まれて水不足になることはありません。 人口は160万人を超え漢族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族、回族など42の民族からなっています。 街の中心部は高層ビルの建ち並ぶ近代都市ですが、街を歩くとウイグル帽をかぶった髭面のおじさんやカラフルなスカーフをした碧眼の女性たちのウイグル族の人々に出会えます。
第3部の構成は
(続)新疆大酒店 ⇒ (続)ウルムチ市街 ⇒ (続)紅山公園 ⇒ 新疆ウイグル自治区博物館 ⇒ (続)二道橋国際バザール ⇒ (続)ウルムチ郊外 ⇒ 天池 の写真40枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「トルコ大地(西部)を行く�イスタンブール」 |
| 2006年5月下旬にトルコの西部をイスタンブールから時計廻りのコースで行って来ました。 アジアの最東部が日本ならその逆の最も西にあるのがトルコで、イスタンブールはシルクロードではアジアとヨーロッパの架け橋として栄えました。 日本から最も遠いアジアの国でありながら日本に対するトルコ人の感情は他のどの国よりも友好的で、旅行中我々が日本人と分かると子供たちは「こんにちは!」と言いながら手を振り、大人も彼らの好きなチャイというお茶を飲めと勧めてくれる。 これは日露戦争で彼らの敵国であったロシアに日本が勝利し、又明治23年にトルコの船が和歌山沖で台風にあい難破した時村人が必死に彼らの仲間を救助したということを小学校の歴史教育などで授業で教えているからだと言われています。 近い国でありながら未だに反日教育を推し進める韓国や中国とは全く異なり、日本人に親近感をもち友好的なこの国について日本はもっとよく知り大事にして、経済的にも政治的にももっと強く連帯すべきだと今回の旅行で感じた次第です。
(ちなみに1985年にはイラクのサダムフセインの魔の手から日本人を逆に助けたのはトルコでした。イランのテヘラン空港から日本人215名を脱出させる為に到着した2機の飛行機は日本から派遣されたものではなくトルコの飛行機だったのです。)
第1部は今回の旅行の始点であり終点となったイスタンブールです。 イスタンブールは1923年にアンカラに首都を移すまで1000年もの間オスマン帝国などの都として栄えてきました。 イスタンブールは約30kmのボスポラス海峡によってヨーロッパ側とアジア側に分かれており、ヨーロッパ側には旧市街がありそこにはトプカプ宮殿やアヤソフィアなど歴史的建造物が集中しています。
第1部の構成は
コロール・ホテル界隈 ⇒ コロール・ホテルより市街を望む ⇒ イスタンブール市街(市街、グランドバザール、トプカプ宮殿、ドルマバフチェ宮殿、地下宮殿、アヤソフィア大聖堂、スルタンアフメット・ジャミイ(ブルーモスク)) ⇒ ボスフォラス海峡クルーズ ⇒ ベリーダンス・ショー の写真104枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「トルコ大地(西部)を行く�サフランボル〜アンカラ」をアップ。 |
| トルコ(西部)の第2部はサフランボル〜アンカラです。 サフランボル昔この地域にサフランの花が群生していたことから名付けられた小さな街で、切り立った谷の中にあります。 ここは昔ながらの古い民家(土塀に木の窓枠が並んだ木造の家屋)が今も人々の暮らしの中に残っていてその町並みが世界遺産に登録されています。 又アンカラは1923年にトルコ共和国の首都として初代大統領のアタテュルクが定め都市計画のもとモデル都市として整備されてきました。 アンカラの歴史は古く新石器時代から人が住んでおり、ローマ時代にはアンキラ(谷底の意)とオスマン朝時代にはアンゴラと呼ばれていました。 又アンカラから車で4時間程行ったところのボアズカレにはヒッタイト王国の都ハットウシャシュの遺跡やハットウシャシュの聖地である露天神殿のヤズルカの遺跡が残されています。
第2部の構成は
(イスタンブール→サフランボル) ⇒ フドウルルックの丘 ⇒ サフランボル旧市街と民家カイマカムラル・エヴィ ⇒ (サフランボル→アンカラ) ⇒ エセンボア エアポート ホテル ・ 界隈 ⇒ アンカラ市街(市街、アタチュルク廟、アナトリア考古学博物館) ⇒ アンカラ郊外 ⇒ ハットウシャシュ遺跡 ⇒ ヤズルカヤ遺跡 の写真105枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「トルコ大地(西部)を行く�カッパドキア地方」をアップしました。 |
| トルコ(西部)の第3部はユルギュップ(カッパドキア地方)です。 カッパドキアは数億年の噴火により出来た凝灰岩と溶岩が風雨の浸食により出来た大奇岩地帯です。 この地方は交易ルートの要所として古くから栄え、4世紀ごろからはキリスト教の修道士が洞窟を掘って教会を作り天井や壁に見事なフレスコ画を描きました。 又アラブ人からの迫害を逃れたキリスト教徒が住んだと言われている蜂の巣のような地下都市には礼拝堂、学校の教室、寝室や厨房などがありカイマクルでは2万人が暮らしていたと言われています。 又ウチヒサルなど岩窟住居に住む人は少なくなっていますが昔ながらの生活環境を維持する事を条件に今もそこに住み続けている人々がいます。
第3部の構成は
デインラー ホテル・界隈 ⇒ ウチヒサル ⇒ ローズバレー ⇒ ゼルベの谷 ⇒ パシャバー地区 ⇒ ギョレメ・パノラマ ⇒ ギョレメ野外博物館 ⇒ カイマクルの地下都市 ⇒ 洞窟レストラン ⇒ 絨毯工場 の写真104枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
スライドショー「トルコ大地(西部)を行く�〜クズカレスイ」をUPしました。 |
| トルコ(西部)の第4部はキャフタ〜アダナ〜クズカレスイです。 ユルギュップ(カッパドキア地方)を出てキャフタに向かう途中にシルクロードの東西を行き来した隊商が定宿としていたキャラバンサライ(隊商宿)などが今も残っています。又途中ドンドルマ(トルコアイス)のふるさと(150年の老舗)があるカフラマンマラシュを通過します。 キャフタのホテル「ユーフラット」はコテージ形式のシンプルな宿でここから早朝マイクロバスでネムルトダー山に登ります。 山頂の手前徒歩10分ほどはかなり急な坂できつく、 標高が2150mで内陸部にある為日中と日没後では温度差が大きくなります。 この山には世界遺産に登録された巨大な神像が転がっており首がまるで地面から生えたように見えます。 そしてアダナからクズカレスイに向かう途中は左側に地中海を見て走ることになりますがこの辺りのビーチは本当にすばらしいです。 しかしこのクズカレスイから内陸に7km位入ったところには天国とは名ばかりの険しい崖のような地獄めいた洞窟があります。 いわゆる「天国と地獄」です。
第4部の構成は
(ユルギュップ→カフラマンマラシュ) ⇒ (カフラマンマラシュ→キャフタ) ⇒ ユーフラット ホテル・界隈 ⇒ ネムルトダー山 ⇒ アタチュルクダム ⇒ (キャフタ→アダナ) ⇒ アダナ市街 ⇒ ホテル「チュクロバ スルメリ」・界隈 ⇒ アダナ→クズカレスイ ⇒ 乙女の城とビーチ ⇒ 天国と地獄 ⇒ (クズカレスイ→コンヤ) の写真101枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
ベトナム&カンボジア�ホーチミン |
| 2006年3月上旬にベトナム・ホーチミンからカンボジア・シェムリアップへ、そして再度ベトナムに入ってハノイに行って来ました。
第1部は1986年のドイモイ以来ベトナム経済の中心となっているホーチミンです。 ベトナムではどこもバイクの交通量が非常に多く、しかも3人乗りや4人乗りが当たり前になっています。 当然ヘルメットを被っている人を見かけることもない代わりに、余りにもの排気ガスに耐えかねた人々がマスクをしているのをよく見ます。
もちろん信号なんてものも殆どない為歩行者が道を横断するのは命がけです。
第1部の前半はホーチミンの台所であるベンタイン市場と1975年のサイゴン陥落の舞台となった旧南ベトナムの旧大統領官邸である統一会堂を中心に、又後半はホーチミンから車で2時間程走ったところにある町ミトーのメコン川を中心にスライドショーを構成しています。
第1部の構成は
タンソンニャット国際空港 ⇒ ウインザープラザホテル・界隈 ⇒ 統一会堂 ⇒ ベンタイン市場・界隈 ⇒ ショップ ⇒ ホーチミン市街 ⇒ メコン川 ⇒ タイソン島(果樹園) ⇒ メコン川支流クルーズ ⇒ レストラン の写真84枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
ベトナム&カンボジア�シェムリアップ |
| 第2部のシェムリアップ(カンボジア)はアンコール遺跡が中心です。 カンボジアはベトナムと同様交通の手段は自転車かバイクで、バイクではベトナム同様3人乗りや4人乗りが当たり前です。 中には5人乗りも見かけました。 ベトナムと異なるところはバイクの運転は男性が多いというところでしょうか。
アンコール遺跡は仏領時代の1860年にフランス人によって発見され、その後独立を果たしたけれども国内が内戦状態になりアンコール遺跡は荒廃を余儀なくされました。 しかし1992年に世界遺産に登録され、政情が安定すると保存・修復が日本を始め各国の援助で進められて来ました。
カンボジアの他の地域は今も治安が悪く、地雷の危険性もあり観光客は多くないですが、シェムリアップは比較的治安がよくアンコール遺跡を訪れる若い人や女性など観光客は多い。
第2部の構成は
コデイアナ アンコール ホテル・界隈 ⇒ シェムリアップ市街 ⇒ シェムリアップ郊外 ⇒ アンコール遺跡保護区 ⇒ 伝統・民芸ダンスショー の写真111枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
ベトナム&カンボジア�ハノイ |
| 第3部は再びベトナムに戻って首都ハノイのハロン湾が中心です。 ベトナムは1954年〜75年に南北統一を目指した「ベトナム戦争」が起こり南ベトナムを支援したアメリカとの間に激しい戦いがあった。 その時にアメリカ軍が使用した枯葉剤によりベトナムでは多くの奇形児が生まれ、平和になった今も時たま大人になった彼らの悲惨な姿に出くわしはっとさせられる。
又、数々の奇岩、奇峰が密集するハロン湾は「海の桂林」と称され1994年には世界自然遺産に登録された。(ちなみに本家本元の中国の桂林は未だに世界遺産になっていない。) ハロン湾クルーズには日帰りのコースと1泊2日のコースがあるが今回は日帰りのコースで夕日や朝焼けの景色を見ることは出来なかった。
第3部の構成は
ハノイ デウ ホテル・界隈 ⇒ ハノイ市街 ⇒ ハノイ郊外 ⇒ ハロン プラザ ホテル・界隈 ⇒ ハロン湾 ⇒ 水上人形劇 の写真114枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
ミャンマー・癒しの旅 |
| 2005年の12月上旬に癒しの国ミャンマーを旅行して来ました。 人口が日本の1/3で面積は1.8倍、しかも山国日本と異なり大草原の広がるミャンマー(旧名:ビルマ)は135の民族が居住し、国民の85%が信仰心の厚い仏教徒です。
社会基盤、生活水準は低く美人も少ないけれど人々の心が優しく篤いせいか拝金主義にまみれた日本からこの国に来ればいつのまにか心を癒されているでしょう。
この国は現在軍事政権下にあり、いろいろな理由で外国人には「行けない場所」「行けたり行けなかったりする場所」と「開放されている場所」に分けられているが今回旅したのは分類の最後にあたる「バゴー」「ヘーホー」「バガン」及び「ヤンゴン」です。
第1部はヤンゴンの北東約70kmにある古都バゴーです。
第2部はインレー湖(ヘーホー)です。 インレー湖は南北に細長く、水深が乾期で2m、雨期の深い時でも6m程度と浅い為、アシなどの水草が繁茂し、浮島を形成しています。
又標高1328mにあるので夏でも涼しく過ごしやすい。 そして広々とした青い湖面では時折インダー族の漁師が細長い小船に乗り、両手を自由にするために片足で櫂を操っているのに出会います。
又運がよければパオ族の集落では女性達が川で水浴びしているところにも出くわすことにもなります。
第3部はバガンです。 バガンはエーヤワデイー(イラワジ)河中流域の広大な草原にあり、中でも11世紀〜13世紀に造られた大小さまざまなパコダや寺院などの仏教遺跡群(1287年にフビライが率いる蒙古軍によって破壊された。)が残るオールドバガンはミャンマー最大の仏教聖地です。
現在オールドバガンは考古学保護区に指定されて一般の建物が取り壊され、広大な平原には椰子と仏教遺跡の影だけが延々と続いています。
第4部はピンダヤとヤンゴンです。 ピンダヤは標高1176mにあり、「ピンダヤ」とはシャン語で「広大な平原」を意味するようにどこまでも広大な農作地帯が広がっています。 又信者から納められた無数の仏像が安置されている洞窟寺院でも有名です。
一方ヤンゴンは軍事政権により昨年(2005年)突然、遷都が宣言されるまでミャンマーの首都でした。 街はイギリスの植民地時代に整然とした都市計画のもとに建設されており、ミャンマー最大の仏塔「シュエダゴンパコダ」があります。 高さ99.4m、周囲433mあり、使われた金箔8688枚、塔の最頂部には5451個のダイヤモンド、1383個のルビーなどがちりばめられているといえあれています。 そしてその全てが善男善女により寄進されたものです。
第1部の構成は
シュエワタンホテル界隈 ⇒ バゴー市街 ⇒ シュエモードパゴダ ⇒ ハンターワデイー遺跡(王宮発掘現場) ⇒ シュエターリヤウンパゴダ(寝仏) ⇒ チャイプーンパゴダ ⇒ チャイテイーヨへの道 ⇒ チャイテイーヨへの参道 ⇒ チャイテイーヨ の写真89枚によるスライドショーです。
第2部の構成は
水上コテージ(パラダイス・ホテル) ⇒ インレー湖 ⇒ ケーラー村(水上生活) ⇒ 水上レストラン ⇒ 水上パコダ(ファウンドーウーパコダ) ⇒ パオ族集落 ⇒ インデイアン遺跡(カックー) の写真92枚によるスライドショーです。
第3部の構成は
ミャンマー・トレジャー・ホテル ⇒ シュエジーゴンパゴダ ⇒ テイーローミンロー寺院・界隈 ⇒ マヌーハ寺院・界隈 ⇒ バガン遺跡群 ⇒ ダマヤンジー寺院・界隈 ⇒ アーナンダ寺院・界隈 ⇒ タビイニュ寺院・界隈 ⇒ (その他もろもろ) ⇒ ミインカバ村 ⇒ ニアウン・ウー・マーケット の写真100枚によるスライドショーです。
第4部の構成は
ビンダヤ(農村地帯) ⇒ ピンダヤホテル ⇒ (ピンダヤ⇔バガン) ⇒ ビンダヤ洞窟 ⇒ 空港 ⇒ (ヤンゴン)国立博物館・界隈 ⇒ チャウッタージーパコダ(涅槃) ⇒ ボージョーアウンサンマーケット ⇒ シュエダゴンパコダ の写真69枚によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
シルクロードを行く(�河西回廊) |
| 中国シルクロード----河西回廊(蘭州から敦煌)---- です。 5部編成になっており
1部(蘭州) : (蘭州空港→蘭州市街)⇒蘭州飛天大酒店・界隈⇒蘭州市街⇒黄河第一橋(中山橋)界隈⇒蘭州工業地帯⇒蘭州郊外⇒黄河遡上(蘭州市街→劉家峡ダム)⇒黄河遡上(船乗り場⇒船着き場)⇒炳霊寺石窟 の写真95枚、
2部(武威) :(蘭州→武威)⇒天馬寳館・界隈⇒武威市街⇒雷台漢墓⇒羅什寺塔⇒文廟⇒バザール(涼州市場)⇒西大街・夜市 の写真92枚、
3部(張掖) :(武威→張掖)⇒張掖寳館・界隈⇒張掖市街⇒大仏寺⇒張掖郊外⇒張掖郊外(ゴビ灘と祁連山脈)⇒馬蹄寺石窟⇒モンゴル族集落・界隈⇒モンゴル族舞踊 の写真101枚、
4部(嘉峪関): (張掖→酒泉)⇒酒泉市街⇒嘉峪関寳館・界隈⇒嘉峪関市街⇒魏晋壁画墓⇒嘉峪関⇒(嘉峪関→安西)⇒瓜州寳館・界隈⇒安西市街⇒安西郊外⇒楡林窟 の写真97枚、
5部(敦煌) :(安西→敦煌)⇒敦煌太陽大酒店・界隈⇒鳴沙山⇒月牙泉⇒敦煌市街⇒バザール(沙州市場)⇒敦煌郊外⇒莫高窟⇒陽関⇒敦煌楽舞 の写真116枚、
の合計501枚の写真によるスライドショーです。
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| 2009年7月3日 (金) |
桂林・陽朔の旅 |
| 2004年6月の上旬、中国は桂林・陽朔に行ってきました。 漓江下りの日は生憎の雨となりましたが、翌日は増水のため中止となったので実施出来ただけでもよしとせざるをえないでしょう。 おかげで翌日の高田郷や世外桃源も増水で水が溢れ泥水になっており、世外桃源では中に入ることも出来ませんでした。
この前編では漓江下りから冠岩(鍾乳洞)、西街を含むを陽朔、高田郷及世外桃源を57枚の画像でスライドショーにしました。
後編は桂林市街、漓江四湖夜景、鵜飼、尭山及び畳彩山です。 61枚の画像でスライドショーにしました。
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| 2009年7月3日 (金) |
京のもみじ |
| 京都の紅葉を再掲載しました。 洛北・洛南編(延暦寺、比叡山、円光寺、金福寺、詩仙堂、蔓殊院、東福寺)、洛中・洛東編(京都御苑、梨本神社、金戒光明寺、真正極楽寺・真如堂、哲学の道、法然院、永観堂、南禅寺、南禅寺・水路閣、日向大神社、清水寺、来迎院、今熊野観音寺)、清滝・嵐山編(天龍寺、常寂光寺、祇王寺、化野念仏寺、清滝川、西明寺、神護寺、高山寺、源光庵、常照寺、光悦寺)を219枚にしました。 スライドショーで見て下さい。
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| 2009年7月3日 (金) |
夏の思い出--サンバとダンス |
| 夏の思い出第3弾は神戸のメリケンパークで行われた(第1回)サンバフェスタKOBE2004(2004.7.18)とみなとまつり2004(2004.7.19)からサンバとダンスをとりあげて104枚のスライドショーにしました。
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| 2009年7月3日 (金) |
雨の神戸まつり |
| 2004年5月16日、神戸まつりは3日間の最終日のフィナーレとしてあいにくの雨の中をパレードが行われました。その中でバトンとサンバのみを52枚の画像でスライドショーにしました。
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| 2009年7月3日 (金) |
フエリーで行く韓国(慶州・釜山) |
| 2003年9月末に格安ツアー「パンスターフエリーで行く慶州・釜山5日間」(¥24,800)で行ってきました。
フエリーが2泊で、往は大阪南港を出て夜中じゅうずっと寝たままで釜山につきましたが、
帰りは明け方に瀬戸内海に入ったので奇麗な瀬戸の夜明けや3つの大橋を見る事が出来ました。
98枚のスライドショーにしたので見て下さい。
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| 2009年7月3日 (金) |
越中おはら・風の盆 |
| 2004年9月1日に越中八尾で3日3晩行われる「風の盆」に行って来ました。 バスで1日の昼に発ち、夜7時から11時近くまで八尾で写真を撮り、折り返し車中泊で翌日の朝7時頃に帰ってきました。
昔ながらの風情あふれる町並みと哀愁漂う優美な踊りを演舞場と町ながしの60枚の写真でスライドショーにしました。
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| 2009年7月3日 (金) |
神戸まつり2005 |
| 2005年5月14日に行われた「神戸まつり」のパレードの模様を中心に99枚の写真によるスライドショーです。 2004年の「雨の神戸まつり」と合わせてお楽しみください。
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| 2009年7月3日 (金) |
世界自然遺産・武陵源 |
| 2004年4月中旬に中国・武陵源へ旅行して来ました。 この模様を3部のスライドショーに纏めました。
第1部は張家界風景区で 張家界空港 ⇒ 琵琶渓賓館 ⇒ 金鞭渓景区 ⇒ (金鞭渓→黄石賽) ⇒ 黄石賽景区 の87枚の写真、
第2部は天子山風景区で 武陵源市街 ⇒ (琵琶渓賓館→袁家界) ⇒ 袁家界景区 ⇒ (袁家界→天子山) ⇒ 天子山・賀龍公園 ⇒ 天子山ロープウエイ ⇒ (天子山→琵琶渓賽館) の97枚の写真、
第3部は索渓峪風景区で (琵琶渓賓館→宝峰湖) ⇒ 宝峰湖 ⇒ (宝峰湖→黄龍洞) ⇒ 黄龍洞 ⇒ 張家界市街(市街、自由市場、ファッションショー)の104枚の写真,
の総計288枚のスライドショーです。 世界自然遺産の墨絵の世界をお楽しみください。
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| 2009年7月3日 (金) |
ファインダーの中の野鳥たち |
| 京都の鴨川や枚方の淀川とその周辺の支流など(一部和歌山の由良や神戸の須磨のものもあります。)で生息している野鳥を撮影しました。91枚の写真によるスライドショーです。
(野鳥の名前については野鳥図鑑を参照してそれと思われるものを当てはめましたが 、中には間違っているものがあるかも知れません。 正しい名前が分かれば教えて下さい。)
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| 2009年7月3日 (金) |
京都・北野天満宮(野点) |
| 2002年2月下旬に京都・北野天満宮で行われた「梅花祭」のメイン行事である上七軒歌舞会の芸妓・舞妓総動員による野点の模様を66枚の写真でリニューアルアップしました。
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| 2009年7月3日 (金) |
祭り屋台 in 姫路 |
| 2004年5月22日に「灘のけんか祭り」として有名な兵庫県姫路市の松原八幡神社の祭り屋台(いわゆる神輿)7台が姫路城の三の丸広場に集結し、華麗な練り合わせを行いました。 毎年10月の神社の例大祭で行われるものですが、姫路市の特別イベントとしての今回の「姫路城の天守閣と屋台」のツーショットというのはそう見られるものではないでしょう。 その模様を40枚の写真によるスライドショーでお楽しみ下さい。
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| 2009年7月3日 (金) |
中国・雲南地方の旅 |
| 2004年の11月下旬から12月上旬にかけて中国の雲南地方を旅行して来ました。 この模様を5部のスライドショーに纏めました。
第1部は雲南省の南西部(ミャンマーやラオスと国境を接する地帯)にあり、タイ族の故郷、孔雀の故郷として知られる西双版納(シーサンバンナ)です。
西双版納空港(景洪)⇒景洪(郊外→市街)⇒タイ園大酒店・界隈(西双版納)⇒西双版納孔雀園⇒モンロン熱帯植物園⇒曼聴公園⇒自由市場⇒民族風情園⇒アイニ族村⇒タイ族村⇒タイ族民族舞踊(西双版納)⇒麗江へ の写真85枚、
第2部は少数民族ナシ族の住む標高2400mの高原盆地にある麗江古城が中心の麗江(前編)で 麗江市街(夜景)⇒麗江市街⇒(麗江市街より見た)玉龍雪山⇒麗江古城⇒東巴宮⇒麗江古城(夜景)⇒レビュー・ショー「麗水金沙」 の写真129枚、
第3部はナシ族の守護神として崇められている玉龍雪山(未踏峰の主峰:5596m)が中心の麗江(後編)で 別荘地(麗江)⇒ 玉泉公園 ⇒ 農村地帯 ⇒ 玉龍雪山(雲杉坪)⇒ 虎跳峡 ⇒ 長江第一湾 ⇒ 束河村 の写真106枚、
第4部は白(ペー)族が多く住むジ海のほとりに広がる高原の古都大理です。 農村地帯(麗江→大理)⇒ ジ海(麗江→大理) ⇒ ショップ(大理) ⇒ 新華村 ⇒ 虎跳峡 ⇒ 藍染工房(周城) ⇒ 厳家民居(三道茶と白族のショー) ⇒ 三塔寺 ⇒ 大理古城 ⇒ 大理空港→昆明 の写真93枚、
第5部は昆明・石林です。昆明は海抜1900mの高原にあり、酷暑も 酷寒もなく温暖な為春城の別名をもち、広大な昆明湖の北にあります。又石林はカルスト地形に石灰岩の石柱が林のように立つことから呼ばれる公園です。
昆明空港 ⇒ 昆明市街 ⇒ 錦江大酒店・界隈(昆明) ⇒ 華亭寺 ⇒ 西山(昆明) ⇒ 昆明郊外 ⇒ 石林 の写真72枚、
以上413枚の写真によるスライドショーです。
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