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第1章 求道者

 2 日の本の国

  「大和し麗し」

シーサー  とにかく、今の生活に不満を言う人は多い。
 児童相談所にやって来る子どもたちでも、いろんな不満をぶちまけたり、ケチをつけてくる子も多い。そんな時に、 私はちょっと尋ねてみたりする。

「おまえは、どこの国に生まれたかったか…? どこの国に行きたいか?」
「…」
「北朝鮮でおまえのようなことを言ってると、もうとっくに殺されてるぞ…」
「行くはずないから関係ない…」
「人(さら)いに攫っていかれるんだぞ!  ミサイルなんか飛ばして(おど)してきてるんだぞ! どうするんだ?」
「…」
「中国や韓国だって、おまえらのように好き放題のこと言っておれないんだぞ!  それじゃ、アメリカやヨーロッパに行きたいのか? オーストラリアやニュージーランドに行きたいのか?」

 こんなふうに尋ねたりすると、結構、返答に窮したりする。まあ、あまりそんな現実離れしたことなどどうでもいいって感じで、 考える必要もない…ふうである。

 どこの国の人でも自分の国が一番と思ってるのかもしれないけど、はっきり言って、私は、日本という国が大好きである。 日本に生まれてよかったと思っている。
 しかし、こんなことを言ってると、「おまえは国粋主義者か?」とか「右翼か?」とか言われそうであるが、 けっしてそんなわけはないと思っており、むしろ、自分の国を好きになれない人間のほうがおかしいと考えている。
桜花
 分かりやすいところで、まず、食べ物でも見ていくと…

 なんと言っても、美味(うま)い刺身や鮨が食べれない世の中なんて考えられない。いや、考えたくない。
 ラーメン一つとっても多種多彩で奥が深いが、ソバにウドンにソウメンと麺類も豊富で、ざるソバや冷やし中華、焼きソバもある。 それぞれの道で料理職人たちが究極の味を追求している。そのうえ、インスタントやカップ麺まである。
 牛丼、カツ丼、天丼、うな丼と丼物もいいし、てんぷら、フライ、から揚げ、コロッケ、串カツと揚げ物もいいし、オニギリ、 お茶漬け、カツオブシ、ふりかけ、佃煮もいい。まあ、基本は、 主食の熱々(アツアツ)の焚きたてコシヒカリに、味噌汁に漬物といったところだろうか…  朝飯用としては、のり、卵、納豆、梅干、昆布… たまには、缶詰も美味しい。
魚  すきやき、しゃぶしゃぶ、湯豆腐、おでん、焼き鳥、焼き魚、焼肉と、酒の肴というように、日本酒がまた美味い!  灘や伏見だけでなく、各地の地酒がまたすごい! 焼酎も今や大人気。日本のビールやワインもなかなかのもの。酒がダメでも、 番茶に緑茶に抹茶とくつろげるし、豊富な水がまた美味しい。
 もち米を使っての赤飯、餡子(あんこ)にきな粉にゴマにオロシ餅。雑煮にお汁粉、ぜんざい。
 カレーライスも今はもうインドというより日本人の口に合った日本料理。スパゲティー、ピザ、オムレツ、トンカツなども同様か…
 卵の目玉焼きや魚のフライに、「オレは日本人だから、ソースをかけずに醤油をかける」という人にたまに出会ったが、 この茶色のソースこそ、今では、きわめて日本的なものだと思う。外国のレストランのテーブルなどには、置いてあったためしがない。 日本の食堂では、どっちが醤油かソースかというくらい定着している。調味料と言えば、コショウもいいけど、わさび、七味唐辛子、 和がらし、ショウガもいい。
 そして、欧米の主食のパン、これなんかも日本のパンは繊細で多彩。菓子パンなんかはもう最高。お菓子といえば、和菓子、 洋菓子も美味いし、たまに食べるショートケーキがたまらない。たこ焼き、たいやき、お好み焼きも日本情緒漂う…

林檎  まあ、マンガの「美味しんぼ」なんかも、もう何年も巻を重ねて未だに連載を続けてるけど、 ネタの尽きることなく人気を維持している。日本各地には、まだまだいろんな海の幸山の幸など 郷土料理があるというからすごいもんだ…
 世界には、フランス料理や中国料理などいろんな美味しい料理もあるけれど、やはり、繊細で多彩な日本料理が一番で、 見た目も美しい。アメリカへ行った友人なんかに聞いてみると、 雑駁(ざっぱく)でボリュームばかり多いと言っていた。
 食べ物を見ただけでも外国に永住したいとは思わないけれど、次は文化や環境でも見てみましょうか…

 
 まあ、国旗の「日の丸」(日章旗)なんかは、どこの国の国旗にも負けずにシンプルでインパクトが強いんじゃないかと思うんだけど、 国歌の「君が代」では、「…千代に八千代に…」と天皇家の血統が続いてるんだからすごいもんだ。 そんな国は他のどこにもないだろう…
鳥居  そして、「…(こけ)()すまで…」と出てくるけれど、 外国人なんかはあまり苔の美しさなんかを()でないけれど、 日本には京都に別名「苔寺」と呼ばれる美しい寺もあるくらいで、苔の美しさまでも庭園美の中に捉えている。
 外国の洋風庭園などは、左右対称で均整がとれており、明るく色鮮やかなコントラストで雄大である。どちらかと言うと、 偶数がベースのように見える。これに対して、日本庭園は、奇数が基本となってるようで、人工的に手を入れながらも、 盆栽などのように好き放題の自然以上に自然に調和した美しさを(かも)し出してくれる。
 たとえば、三角形を使って作庭したとしても、洋風であれば二等辺三角形で描くであろうが、和風であれば不等辺三角形で描く。 そこに、石や木を配置するにしても、洋風庭園であれば形も大きさも同じ物を整然と並べるが、和風の場合は、 形も大きさも違う物を庭師の感性でじっくり(なが)めながら配置する。
 しかし、形も大きさも違うからと言って、たとえば、そこに置かれた三つの石が種類も違うバラバラの石というわけではない。 前石とか伝統的な定石(じょうせき)のようなものがあり、その庭に「伊予青石」を使うことに決めたとすれば、これもいい、あれもいいと言って、「赤玉石」や「佐治川真黒石」もゴタ混ぜに使うということはない。「伊予青石」だけを使って調和を図る。
 これが「日本の美」ではないかと思う。
孤舟
 外国人が日本人を見れば、ファジーで曖昧(あいまい)ではっきりしないとよく言われる。 四季折々の移ろいの中で、水の豊富な日本は、同時に、湿気も多い。昔から、 (かすみ)(もや)の中での風景も愛でられており、極彩色と言うよりは、 禅の「()()びの美」や 中間色と移り行く変化の美を代々美しいと感じる感性を伝えてきている。奥の深い調和の美ではないか…

越中おわら 阿波踊り
 故郷の山・川・海に、四季折々の樹木や花が彩りを添え、各地の伝統的な祭りが情緒たっぷり思い出を焼き付けてくれる。 曳き山祭り、灯篭流し、七夕祭り、流鏑馬、その他お国自慢の奇祭もいろいろ… 盆踊りや民謡も豊富で、現代も歌と踊りは多彩。 芸能界は人気商売で、庶民の一番の娯楽となっている。
 それになにより、日本は世界一の温泉天国であることがすばらしい。露天風呂なんて、至福の一時を過ごすことができる。 温泉のない国なんて絶対に行きたくない!

 これだけ悠久(ゆうきゅう)大和人(やまとびと)の歴史と伝統の中で、 たとえば、絵画というものを捉えてみても、鳥獣戯画のような絵巻物や雪舟の水墨画、大和絵、浮世絵など、 多彩な表現が出現して磨きをかけている。
 彫刻のようなもので言えば、埴輪や遮光器型土偶、銅鐸、勾玉、前方後円墳なんかもおもしろいし、 大仏なんて鋳型で造るなんてすごい… 金閣寺や金色堂のような発想は、さすが、黄金の国“ジパング”だ…

錦帯橋  とはいえ、現代の日本の風景はあまりにも殺風景でつまらない。
 まるで、個々人が自己中心的に自分の好みばかりを主張して調和がない。そのくせ、逆説的ではあるが、 日本中どこの街へ行っても変わらないような、均質で個性や特徴のないものになってきている。
 新興住宅街などでは、一度にたくさんの家が新築されたりして、確かに個々の家は美しいものであるが、和風、洋風、ロッジ風…と、 先ほどの庭石の例で言えば、青石、赤石、黒石などがゴタ混ぜになっている状態で、街全体とすれば、調和のとれた美しさなどない。
 逆に、どこの都市へ行っても、全国チェーンのデパート、スーパー、コンビニ、パチンコ屋、食堂、服屋、車屋…等等があって、 あまり変わり映えもせず、つまらない。
 以前、出雲のほうに行ったときに、汽車の車窓から眺めた風景は、どこにも夏みかんに実がついており、 渋い朱色の石州瓦の集落が田園風景に溶け込んで、美しいなぁと印象的だった。比較的、田舎のほうでは、 地方の雰囲気が出ているのであるが、便利な世の中になるに従って、だんだんローカル色がなくなってきているように感じる。 気のせいだろうか?
飛騨高山馬籠宿
 萩・津和野とか倉敷、高山など小京都と呼ばれるようなところは、古い町並みが観光用に保存されているが、やはり、 同じポリシーで建てられたものが集合しているから美しい調和がある。しかし、肝心の京都市では、 静かな住宅街などで美しい庭のある家が比較的集まった街もあるが、やはり、街全体とすれば、全国各地の都市と何ら変わりがない。 JR京都駅を降りたとたんに、「ああ、京都に来たんだなぁ…」という感動は全くない。
 車窓風景が、お国自慢のように、地方の個性的な調和の美しさを味わうことができたらどんなに楽しいであろうか…
 スイスは、国全体が観光という国だけあって、どの家にもベランダ一杯に花が(あふ)れており、 アルプスにマッチした車窓風景は美しく、飽きずに眺めて行くことができた。 日本の鉄道でもそういったことも少しでも大切にしてくれるといいのだけど… そして、主要な駅などを降りると、 さりげないことでも、なにか、ここへ着いたんだなぁという演出や気配りがあれば楽しくなるのであるが…

 ところで、食べ物でもそうであったが、日本の職人芸というものはすばらしく、陶芸や工芸、園芸、演芸…など、 その道を深く追求していく。「道」と言えば、お茶を飲んだら茶道、花を飾れば華道、香りを楽しめば香道、 字を書けば書道…とある。
 スポーツも同様で、日本では、レジャーというより「文武両道」の武道があり、剣道、柔道、空手道、合気道…など、 戦うほうでも道を極める。しかも、この世界の“Judo”が日本の国技でなく、「相撲」というものがあるからすごい。
 小林よしのりさんは、現代の日本人は、「文武両道」の「文」の方に(かたよ)って、 「武」の心を忘れてきていると警鐘を鳴らしておられる。
五箇山 五箇山萱葺き屋根
夜の合掌造り
 
 今まで、こういった感じで見てくると、そもそも、「日本語」というものは、 長い歴史と伝統の中で洗練された究極の言語ではなかろうか?
 井沢元彦さん風に言えば、一神教ではない八百万(やおよろず)の神の日本人が、 「和を()って(たっと)しと()す」精神で、 中国文化やキリスト教の欧米文化でも柔軟に取り込んでいく。そしてまさに、 日本語というのはそういったことのできる柔軟な言語でもある。
 なにしろ、「漢字」の他に、「ひらがな」だけでなく「カタカナ」まである。なんと、柔軟で多彩な言語か!  四方八方、前後左右、どこにでも言葉を並べたりくっつけたりできる。
 漢字の一文字が意味を持つ表意文字であるため、文章全体をパッと眺めただけでなんとなく直感的に感情に訴えてきて、 雰囲気を感じる。「嬉」という字を見ればなにか嬉しい反射を起こし、「怒」という字を見れば怖いなーと感情的に反応する。
 これが、英語などの文字が長々と書いてあったんでは、無味乾燥で、目がチカチカする。 西洋コンプレックスの日本人にはカッコよくシャレて見えるんでしょうが…
 本家の中国語では、逆に漢字ばかりなので大変である。そのため、どんどん略字になってきているが、確かに、 書くうえでは簡略化されているが、漢字本来の姿とかけ離れてきており、ここまで来るとなにか寂しさを感じるし、 美的にも中途半端な感じがする。書道には使えないでしょう。日本語であれば、ひらがなとの調和も軽くて柔らかくて美しい。 それに、中国語には「四声(しせい)」という音程があり、 「マー」と発音しても音程の上下により四つの意味に異なってくる。他人事(ひとごと)ながら、 これじゃ、歌なんかを作曲してもバリエーションがなくなるんじゃないかと心配になってくる。
 ましてや、ハングル語ともなると、「ほっといてくれ!」と叱られるかもしれないけど、悲劇としかいいようがない。 もう、意地の世界でしょう…

富士山  文学においても、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集に代表されるように、人の喜怒哀楽の感情や恋心を詠ったり、 花鳥風月の美しさを愛でて文字で表現しており、優れた作品は「百人一首」としてまとめられ、遊びというかゲームというか、 今でもカルタ会で詠まれたりしている。
 江戸時代になると、松尾芭蕉などが「五七五」のもっと端的な文字数で力強く表現する「俳句」というものを作り出してしまう。 恐れ入ります。
 古事記や日本書紀の歴史書の後に、徒然草や方丈記などの随筆が生まれてきて、そして、 世界の小説の先駆けとも言える長編の「源氏物語」ができたというからすごい。

 ちょっと、「日本はなんていいところなんだろう!」というような歌を集めてみました。
   
 

大和は

 国のまほろば

  たたなづく

青垣山(こも)れる

 大和し

  うるはし

青によし

 奈良の都は

  咲く花の

匂ふがごとく

 今さかりなり

しき嶋の

やまとごゝろを

 人とはゞ

朝日にゝほふ

 山ざくら花

八雲立つ

 出雲八重垣

  つまごみに

八重垣つくる

 その八重垣を


  「家族」

 10年程前、厚生省の児童家庭局では、「 1.57 ショック」ということを言って今後の日本についての危機を訴えていた。
 これは、出生率(しゅっしょうりつ)のことで、このままいけば、 人口の減少により社会構造のバランスを崩し、大変なことになるというものである。その後も、 出生率が増加傾向に転じたという話は聞いたことがなく、問題は解決しないままではないかと思う。
 ただでさえ子どもたちが少なくなってきているのに、昨今は、子どもたちの起こす凶悪犯罪や、逆に、 親から虐待を受けるというニュースがあまりにも頻繁で、もう、どこでどんな事件があったかも記憶に残らないくらいである。 厚生労働省も出生率どころの騒ぎでないのかもしれない…

 最近の若い世代は、人との付き合いを億劫(おっくう)がるようになってきているという。 社員旅行などでも、宿泊での旅行を嫌がる者が多くなってきているという。それもそのはず、 嫌な人や気の合わない者と付き合うなんて面倒なことはしたくない。ひとりで好きなことをしていたほうがいい。 いろんな人との付き合いの幅はなくなる。キャパシティ、包容力といったものもなくなり、自分の感性、 好みに合わないことに苛立(いらだ)ち、すぐにキレてしまう。嫌なことを我慢できなくなる。
 こういったパタンの一種の現われたものが児童の不登校であったり、苛めであったりする。日本全国の一人ひとりが、 各々自分のしたいことだけをしていったら、大変な世の中になってしまう。
 そして、そういった問題などが起こると、親は、学校や(いじ)めた子が悪いと責任を追及する。 実際に、ひどく無神経な教師がいたり、苛める子も苛められる子も我儘(わがまま)になってきていたりするが、 やはり、先ずは親が最終責任者ということの認識はもつべきであろう。

 非行とかの問題を起こす児童などに大概当てはまるキーワードとしては、 「我儘(わがまま)」「自己中心的」「人間不信」「耐性が低い」…などでないかと思う。 そして、親の養育に必ず問題がある。なぜなら、親は唯一絶対、最高、最終責任者であるから…
 子は親の鏡とも言うように、非行に走る子の親に限って、 他人に責任を転嫁(てんか)する人や子どもにしっかり向き合わずに逃げる人が多い。 自分は好き放題したり、離婚や再婚を繰り返したりしているのに…

夕暮れの靖国神社  まさに、小林よしのりさんが、「公と個」ということで、個人の意思ばかりを尊重して、 公の心が失われてきていると言うとおりである。
 そのうえ、子育てまで、行政や他人に任せてあたりまえという風潮も芽生えているようだ。驚いたことに、 「子育てをしたくない方は是非とも子育てを放棄してください!  また、純粋に自分の子供として育てたい方は子供を預かって育てて見ませんか!」という商売も出てきている。
 弱ったことに、今のマスコミなんかもそんな風潮を加速させているようなとこがあって、行政側も、 くさいものにはフタ…で弱腰で、もっと戦ってもらいたいんですが…

 昨今は、確かに多忙な時代で、仕事に追いまくられるという場合も多く、仕事のために子育てができないという場合もあるが、 「子どもより仕事が大切なのかどうか…」という問いかけは常に必要と思う。わりと、 子育てに心を入れない言い訳に仕事に逃げ込むという場合もあり、そんな親に限って、保育所や学校が悪いとわめきたて、 出るとこへ訴えて出ると(おど)してくる始末…
 それでいて、矯正施設に入ったりすると、その事実をひた隠しに隠そうとしたりする。ということは、悪いこと、 恥ずかしいことだと分かっているからだろう。

 悪いと分かっていながら、虐待とかをしてしまうというのは、 普段の生活の中になにも牽制力(けんせいりょく)とかプレッシャーがなく好き放題やれるからである。
 しかも、これほどに問題が噴出(ふきだ)してきているのに、なぜ、 抜本的な対処をしていかないのだろうか? 偉い学者や官僚が一所懸命考えているだろうに…

3月の皇居  私は、現代の社会では「常識」と多くの人が考えているようなことでも、見直していくべきではないかと思っている。

 今の世の中、核家族化があたりまえで常識のようになってきている。たとえ、三世代が同じ屋根の下に同居していたとしても、 食事から入浴・洗面にに到る生活全般が別々になって、ほとんど会話もなく、たとえば、父親である爺ちゃんが、 自分の息子がどこで働いているかも知らない…といったようなことも起きてくる。
 そりゃ、ゴタゴタせずに楽で快適だろう。誰だって、自分の思い通り、自分の好みで伸び伸びやっていきたいのは当然で、 社会にゆとりができてくれば、そういった方向に向っていくのも当然の結果と言える。
 しかし、どんどん誰もが自分の欲求のままに生活していくということは、 価値観や好みの違う人との交際を(わずら)わしく考えて避けるということでもある。

 「艱難(かんなん)(なんじ)(たま)にす」 という言葉がある。そして、「寒さに(こご)えた者ほど温かさを知る」という言葉も聞いたことがある。
 いろんな理不尽(りふじん)なことや悪などと対峙(たいじ)し、 反面教師としてなにがおかしいのかを見抜き、(きた)えていかねばならない。 雑菌に対する抵抗力をつけていかねばならない。無菌状態の保育器の中にずっといたのでは、いざ、社会の中に出たときに、 あまりにも(もろ)い。
 だから、今の子どもたちは、昔で言えばちょっとしたことでも、すぐに自殺したり、非行に走ったり、不登校となったり、 首を(かし)げたくなるようなことも頻発(ひんぱつ)している。

 (まれ)に、社会に不要な老人を抹殺していくべきだと言う人がいる。確かに、 昔から姥捨(うばす)て山という話もあったくらいで、腹の立つ老人も多い。 やさしく慕われる(じい)ちゃん(ばあ)ちゃんもおれば、 煮ても焼いても喰えない強欲で鬼のような頑固爺(がんこじじい)(ばばあ)もいて、一緒に生活していくことはとても困難である場合もある。 しかし、普通一般には、そういった両極端ではなく、いろんな面で長短混ざり合って人間模様を作っている。
 大家族の中で、別の目で見られていることはプレッシャーであるが、嫌でもやっていかねばならないルールやマナーもある。 大家族のせめぎ合いの中で鍛えられていく一面もあり、妥協点、譲る気持ち、助け合い、相互理解、忍耐、 思いやり…なども生まれてくると思う。
 だれだって死にたくないし、そうすれば年をとって老人となる。
 昔、小学校の国語の教科書で、ニワトリかブタの兄弟たちが、親に、「この麦を誰が植えますか?」と尋ねられ、 みんな「嫌だ」と答える。次に、粉を曳いたりして、「誰がパンを焼きますか?」と尋ねられ、またみんな「嫌だ」と答える。 最後に、出来上がったパンを「誰が食べますか?」と尋ねられ、今度はみんな「食べる」と答える。
 不思議とこの話をうろ覚えに覚えているが、この話の本来の趣旨と違うかもしれないが、人間、余裕があれば嫌なことはしたくない。 しかし、してもらったことは覚えており、自分が大人になったときはしなければならないと考える。 成長に応じた役割分担などを学んでいく。老人と一緒に生活すれば、老人とはどういうものかも分かってくる。

 誰にとっても不満のない完全な社会というものはどこにもなく、過去、現在、未来を通じてもありえない。それでも、 社会の矛盾や悪をきちんと見つめ、正しく改善し、より多くの人にとって理想的なものにしていけるよう戦っていかねばならない。
 事実、これまでの歴史というのは、社会の矛盾や理不尽との戦いであり、たくさんのことが改善されてきており、少なくとも、 昔よりは相当住みよい社会になってきている…はずである。
 それなのに、この殺伐とした感覚はなぜなのであろうか?

 もちろん、老人と一緒に暮らす大家族の家庭であっても、不登校や非行の子が育つこともあるし、だいたい、今更、 大家族の生活様式に戻すべきだと言ったところで、大川の流れを逆流させるように困難なことかもしれない。
 誰だって、辛く不自由な生活になると分かっているのに、自分からそれを望んでそういう生活をしていくということはまずない。
 しかし、好むと好まざるにかかわらず、こういった、より進化し改善された社会が、逆に、深刻な問題を生み出しているということ。 これは、(まぎ)れもない事実である。
 逆流させることが困難となれば、何か別にいいアイディアがあるだろうか?

<閑話休題>

 実は、こういったことを考えていて、昔、「無気力」「無感動」「無関心」の『三無主義』 というものが言われていたのを思い出した。相当、昔のことだったので、それじゃ、いったい今はどういうことになってるんだろうか…? と思って、ちょっと調べてみると、けっこう、現在に到る世相の流れといったものを垣間見ることができた…

 『三無主義』と言っても、「無気力」はたいていの場合共通に入っているが、あとの二つは、「無感動」「無関心」「無責任」 の三つの中から二つが選ばれて組み合わさっているようで、この四つを『四無主義』とも言う。そして、 この四つに「無作法」を加えて『五無主義』とも言うそうだ。

 30年ほど前の1970(昭和50)年代、安保闘争や高度成長が始まった頃、当時の若者を批判して『三無主義』という言葉が生まれた。

「高校生が学生運動で、制服の自由化を勝ち取ったのも『三無主義』世代で、独自の意識と熱意で精力的に活躍した人も多く、 大人に服従しない子ども達を批判する方便だ」
「やる気のある者が多かったからこそ、それについてこようとしない大多数の生徒を指さして、 『三無主義』を叫んでいたのではないか」
「少し上の熱血な世代に比べれば、 高度成長期にぬくぬくと暮らしている私たちの世代はさぞやナマケモノでやる気の無い世代に見えたのだろう」
 と、いったような様々な捉え方が見られますが、

「最近では、もう使う人がいなくなってしまいました。それは、若者が三無主義でなくなったというわけではなくて、 三無主義が若者全般に一般化してしまったので、言葉としての威力が失われてしまったのだろうと思われます」
 という切り口で、福井新聞紙上や『インターネット教育相談室』などで活躍しておられる大久保 裕介さんの教育講演記録 『現代若者気質を考える』に出会いました。
 それによると、
「 … 『無気力』 『リアリティーの欠如』 『自己否定』 『生活リズムの乱れ』  『社会性の未成熟』 『自己中心性』 『閉じられた世界』 の否定的な断面を重ね合わせてみますと、 近年の若者による凶悪な犯罪も、異常ではなく、これらの延長線上に必然のように見えてくるような気がします。 日本の若者は危機的状況になっているのです…」
 と、かなり説得力があり、教育や子育て相談のアクセスも多いようで人気サイトのようです (→『花の家ビル』)。

 10年ほど前には、「無批判」「無節操」「無抵抗」「無教養」「無能力」「無学力」「無定見」「無思想」を加えて、 『十三無主義』を言い出す人が出てきた。
 そして、近年はもう、 『二十無主義』になるという…
 「無反応」「無表情」「無常識」「無自覚」「無軌道」「無分別」「無神経」…

 まあ、ここまでくると、もうどうにでもしてくれって感じだけど…

  「文においても武の心」

 話は変わるが、アメリカという国は、建国の段階からインディアンを根こそぎ虐殺したり、 第二次大戦では日本を狡猾に戦争に巻き込んで原爆を落としたり、愛と博愛のキリスト教を傲慢に押し付けたり、 未だに銃を持たないと自己防衛できない野蛮で怖い国だと思っていた。
 国の歴史そのものを「フロンティア スピリッツ」ということで正当化しなければならないはずである。 そんなことを考えていた矢先に、映画 “THE LAST SAMURAI”が封切られ、観に行った。

 主人公は、インディアンを虐殺したことの嫌悪感によって魂が空虚なものとなっている。 日本の主人公は、現代人が忘れ去ったような武士道精神の塊である。奇しくも、アメリカの映画ではあるが、 インディアン虐殺の嫌悪を認め、日本の『侍』の生き様、死に様の美を描いている。
 さすがに、アメリカンドリームと自由の国と言えるかもしれない。これが、イデオロギーや独裁の国家であれば、 自国の正当化を妨げたり他国の文化を賛美するような映画などは、検閲によって上映禁止になるはずである。
 私は、映画の中で不思議と印象に残った場面は、侍たちが戦いに出陣して村を出る際、 どの村人も静かにお辞儀して見送る光景であった。自分たちの生活を守るために、侍たちが命がけで戦ってくれることへの敬意…

 ところで、社会や組織が続いていくと、残念なことに、不正や不祥事、腐敗などが起きてくる。 上司には管理責任が問われるので、人事管理などがどんどん厳しくなる。出張や研修などは、 ぎゅうぎゅうに目的に沿ったものを詰め込まないといけない。

 「第2章 知的障害 1 叱る」でも書いたが、今の世の中、 「ああしたらダメ、こうしたらダメ」と決まりや禁止ばかり言われる。家でも学校でも会社でもそうである。
 そのうえ、昨今のオンブズマンのように必要以上にエスカレートしたり、 何かあればすぐにセクシャルハラスメントとか言って糾弾され、どんどんギスギスしてきている。
 自分たちこそ正義の世直しを実践している者だといった感じで、匿名で悪を暴くような人たちを、 インターネットの掲示板とかあちこちでも見かけるようになってきた。
 彼らは、他人の長所とか努力している面は見ようとせず、魔女狩りのように鬱憤を晴らしているようにも見える…  世の中をどう創造していくのかというビジョンなどは全く見えてこない。ただの口うるさい破壊者としか思えない。 いったい、何が楽しくて生きているのかと聞いてみたい気がする。
 人のあら捜しをすることほど楽で簡単なことはない。
 私は、たとえば、一見正論のようなオンブズマンのような動きが、 今の社会を息苦しく楽しみのないものにしている一因があると思う。

 今年の成人式でも、甘えん坊のお坊ちゃまたちが暴れる様子をテレビでやっていたが、まあ、 こんな世の中だとそうでもしないとやってられないのだろうか…?
 大人から、「何を楽しむか」ということは教えてもらえなかったのではないか…?
 たとえば、公務員なんかが県外に出張する際などは、ご当地の旅も楽しむということも必要だと思う。 議員先生が海外視察に行ったら十分楽しんで来るべきではないかと思う。美しさを味わい、 楽しむこともできないところへ行って何を学べるのであろうか…?
 決して、ノーパンしゃぶしゃぶとか快楽を得ることを楽しむという意味で言っているのではない。 結局、旅とかいろんな楽しみ方を知らないために、猫も杓子も性的欲求や破壊や攻撃の欲求を楽しむしかないのではないか…?
 小泉首相は、「日本は必ず元気になる!」とおっしゃってますが、どうやって元気になるのでしょうか?

 マスコミは「差別用語」とかの言葉狩りを受けて、 (くさ)いものには(ふた)で、行政はマスコミや暴れてくる人、 団体には、事なかれと弱腰だ。
 世の中がジワッジワッと複雑怪奇な閉塞状態になっている今こそ、もっともっと、物事の議論を深めるため、 侍の「武」の心で真っ向からじっくりと理屈で戦ってほしい。せっかく、アメリカ映画でも賛美されたのであるから…

 <議論においての勝ち負けの判定>

 どういった場合が負けなのかを自分なりに考えてみた。

1 相手の言うこと、主張を聞こうとせず、理解しようともせず、ただ、自分の考えばかりを言い続けたり、 わざと相手の話の腰を折ったり、喋ろうとするのを妨害すること。こういう人は負けである。

2 感情的に声を荒げて、威圧的に脅したり、罵倒したりする。相手に対する敬意も礼儀もなく、ただただ見苦しい。 また、感情的にカッとなったりして、もう()めたと討議から戦線離脱するのは、明らかに負けである。

3 匿名により、言いたい放題言い、相手の問いかけた論点にまったく反論しない。これでは、戦いの席にもついていないことになる。

4 議論されている主題を、相手の人格などの個人攻撃や別の話題などによって()らしてしまう。 また、言葉尻ばかりを捕らえたりして議論を外してしまう。これは、勝負から逃げ出した卑怯者である。

5 暴力による革命を正しいと考え、反対するものを力でねじ伏せようとし、陰で嫌がらせや妨害工作をする。それが正しいとすれば、 そういう人が逆に力でねじ伏せられた場合、「お見逸(みそ)れしました。 あなたは強くて正しい」と文句も言わずに納得するのだろうか?力であれば、格闘技などで決着をつけてもらいたい。

6 マスコミがインタビューする風景はテレビなどでも見かける。客観的に、国民の代弁的にやっていると自負しているかもしれないが、 インタビュアーは自分には反論を受ける心配も必要もないと考えて、一方的に不躾(ぶしつけ)な質問などをしたり する。しかし、会社とか個人の責任において、自分自身も同じ土俵の上で、問われたことにはしっかり答えていくべきであろう。 なぜなら、質問項目自体が、何がしかの思想、人生観、価値観などから出てくるものであるから、 特定の思想誘導をしていくということにもなりかねず、影響力は大きいから…


 ところで、現代の日本人は「政教分離」があたりまえと考えており、世界中もそうであると考えているかもしれないが、決して、世界の常識とはいえないのである。そして、日本では、そんなすばらしい社会のあり方を創ってくれたのが、天才織田信長だと井沢元彦さんは言う。なるほどと思う。先人の知恵に感謝感激だ!

 そして、「武」の次は、「和」をもって貴しとする日本古来の美点が、世界に広まっていくようPRしていくべきだと思う。  (H16.1.19)
 

  “2004”

 H16年3月に、国立武蔵野学院の二泊三日の研修を受ける機会に恵まれた。
レトロ  出生率の低下については、今はもう大騒ぎこそしてないが、決して、増加しているというわけではなく、 静かに低下していたようである。今は「 1.3 」だそうである。
 このままの調子でいけば、なんと、34世紀には日本の人口は一人になるという。

 その上に、「学級崩壊」というものが、東京では10年前に中学生であったが、今は、小学生にまで降りてきているという。
 「不登校」というものも高校生にまで波及しているが、日本の場合は3〜4%なのに対して、スウェーデンでは17%というから、 あまり、心配する必要もないのだろうか?
 さらに、「非行」という問題があり、親のエゴによる家庭崩壊や、昨今話題になっている「虐待」などは、今後、減少していくという (きざ)しは全く見えてこない…
 加えて、「知的障害」や「自閉症」などの「障害」の子供たちがいて、1/30人位が「うつ病」になるというのだから大変である。
 そのほかにも、交通事故、怪我病気などがあり、ストレスもある。

 社会に出れば対人恐怖症、生涯独身、結婚しても子宝に恵まれないなど…
 日本は大丈夫なのだろうか…? (H16.4.14)
 

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