西行は奥州を30歳の頃と70歳の頃と2度訪れています。









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西行を歌から考える(奥州行き)
☆ 西行の一度目の奥州へ訪問を考えます
歌人の奥州行きとしては、江戸時代の俳人松雄芭蕉の旅が有名で、『奥の細道』という紀行文を残しています。
この松尾芭蕉の旅の約500年前、平安時代の末期、西行は2度にわたって奥州を訪ねています。行程は正確にはわかっていませんが、平泉や出羽をたずねています。
西行の出自や、中央構造線空海役行者、俵藤太との関連をしめし、不思議な人であると前のページで書きましたが、ここでは奥州の旅でよんだ歌を考えて見ました。
注目した歌
    『とりわきて こころも凍みて 冴えそわたる 衣河(衣川)見に 来る今日しも
この歌は、歌からもわかる様に、大変寒さが厳しい日に見に行ったことがわかります。前書きにも雪交じりの嵐の日であるが、いつか衣川を見たいと思ったので、見に行ったと書かれています。
西行が30歳で平泉を訪れたときは、奥州藤原氏は一代目の清衡が亡くなり、二代目の基衡があとを継ぎ、奥州藤原氏がその栄華の頂点を極めようとしているときです。従って、まだ、後の源義経が衣川で戦い、亡くなる以前です。
寒く、激しい嵐の中、出かけたのですから景勝地としての衣川を見に行ったのではないことは明らかです。では西行は衣川になにを見たのでしょうか?
これ以前で衣川付近の戦いは前九年、および後三年の役、すこしさかのぼりアテルイが戦ったことが思い出されます。
藤原清衡も安倍の一族と考えると、西行は大和朝廷と戦った古代東北の人々をしのんだのではないかと思います。
不思議1
西行が奥州を訪ねた時の歌は非常にすくなく(14首といわれている:後の世の作と思われるが西行作伝承されるものもあるので特定が難しい)。一般に言われる歌枕をたずねて創作の旅とは言いにくいのです。一方修行僧として、あちこちの寺で修行をしたという形跡もとぼしい。したがって多くの西行研究家は非常にわかりにくいとしつつも、遊行という言葉を当てはめて、あちらの寺、こちらの寺とあてもなくわたりつつ修行したり、歌を作ったりする僧であったとしており、これが西行の魅力と言っているが、一般的な思考をすると目的は別にあると考えるべきたくなります。
不思議2
仮説
前のページにのべた西行の出自や関連。また西行の有名な歌集『山家集』の銘銘をサンカや山人の住いを連想すると、西行は日本列島の西側中央構造線を中心に住む産鉄族と、奥州黒鉱ベルトを中心にすむ産鉄族のネットワークを再構築するツナギの旅をしたのではないかと想像されます。