蜀國弦 李賀

楓香晩花静、

錦水南山影。

驚石墜猿哀、

竹雲愁半嶺。

涼月生秋浦、

玉沙光。

誰家紅涙客、

不忍過瞿塘。


【語釈】

○蜀國弦…『樂府詩集』は相和歌辭の四弦曲とし巻三十に収めている。同題の詩は梁の簡文帝、隋の盧思道の作品が本作のほかにある。二作が蜀(今の四川省)の地の豊かであることを歌っているが、李賀のこの作品は蜀の道が険難であること、蜀の女性が愛する人を送り出す悲しみを歌っている。内容としては『樂府詩集』巻四十所収の「蜀道難」が李賀の作品に近い。
○楓香…「楓」は和名を「フウ」。まんさく科の木本。その高さは40メートルに達し、三叉に分かれた葉をつける。現代日本で言う「かえで」とは違う。現代中国語で「楓香」というとこの植物のことを指す。「楓林」といえば秋の景色の代名詞でもあり、杜甫「寄柏林学士林居」に「赤葉の楓林 百舌 鳴き、黄花の野岸 天鴉 舞ふ。(赤葉楓林百舌鳴、黄花野岸天鴉舞。)」とある。この樹木の樹脂には芳香があり、楓香脂と呼ばれた。
○晩花…遅咲きの花。季節を外れて秋に咲く花。原田憲雄氏は「たぶん蓮の花であろう」としている。斉藤?氏も同様の解釈をとる。
○錦水…錦江のこと。四川省を流れる川。またの名を蜀水、蜀江。あるいは錦江、濯錦江。錦を洗うのにこの河の水を使うと他の河よりも素晴らしく仕上がるためこの名がついた。蜀の中心地である成都城の別名が「錦官城」というのも、この地がよい錦を産し、その錦を徴収する官吏がいたことに由来する。
○南山…詩において「南山」といえば「終南山(陝西省長安縣の西にある山。)」のことを指し、特別な意味を持たせる場合があるが、ここでは単に成都の南にある山を指すのであろう。あるいは李賀の住んだ長安や河南の地から見て南方の山、という事であるかもしれない。
○驚石…人を驚かすようなけわしい石。蜀の地の山の険しさを石の状態で形容している。
○墜猿哀…山から落ちる猿。あるいは、山を落ちるようにして飛び移って、山地を移動する猿の事か。古来より蜀の地には猿が多く生息していることで知られている。『芸文類集』巻九十五に引く『宜都山月記』に三峡の詩人の歌として「巴東の(猿)声 鳴くこと悲し、(猿)鳴くこと三聲 涙 衣を霑す。(巴東(猿)声鳴悲、鳴三聲涙霑衣。)」とあり、以後の中国古典詩における猿の声のイメージとなっている。
○竹雲…竹林にかかる雲。野竹が叢生して雲が立ち込めている様子。
○半嶺愁…山間の道の半ばで旅人が行き先を見失って心を迷わせる様子。旅人を迷わせるのは前二語の「竹雲」である。唐の太宗(李世民)「秋日二首」其一に「雲 凝りて半嶺に愁い、霞 碎けて高天を纈(しぼりぞめ)にす。還た似たり成都より望みて、直ちに峨眉の前を見るに。(雲凝愁半嶺、霞碎纈高天。還似成都望、直見峨眉前。)」とある。
○涼月…涼しい、もしくは冷ややかな感じの月。秋夜の月を言う。
○秋浦…秋の水辺。この句は冷ややかな月が秋の水辺にのぼっていく様を詠う。
○玉沙…宝玉のように美しい砂。冷ややかな月光に照らさされているためにこういう。
…透明感のある輝きの形容。ここでは、浦の砂が輝く様子を形容している。
○誰家…誰であるか、何者であるか。「家」は代名詞の後につける接尾辞。
○紅涙客…「紅涙」は女性が強い悲しみのあまり流す血の涙。女性の別離の涙。それに「客」の語がつくのはそんな女性に涙を流させながらも蜀の地から旅立つ男性がいることを表している。
○瞿塘…三峡の一つであり、蜀(四川)の地の入り口にあたる谷。七句めの「客」が蜀の地から中央に出るための門と考える。


【拙訳】


 フウノキの香る蜀の地に秋の花がひっそりと咲いている。錦江の水には蜀の山々の姿が映っている。
 (しかし視線を上に転じれば)険しい岩がそびえたち、山から落ちる猿の声が悲しげに響き、山の半ばの竹薮にたちこめる雲は旅行く人を迷わせ、愁いた気持にさせる。
 そんな蜀の地の晩に涼しいまでに冷ややかな月が秋の川岸にのぼり、その光りに照らされた砂が済みきったさざなみをすかして光って見える。
 どこの家の女性が血の涙を流さんばかりの悲しみで愛する人の旅立ちを見送っていることだろうか。あの険しい瞿塘の難所を通り過ぎて蜀の地を去っていく人との別れのつらさに堪えかねている(瞿塘を超えればいつ戻ってくるのかわかるものでもないだろうから。)


【鑑賞】

 李賀が実際に蜀の地を訪れたかどうかは置いておいて、蜀の地の険しさ、そこに住む女性の悲しい離別を詠った詩としては出色の出来ではないかと思います。
 まず、フウノキの香りが漂う穏やかな秋景色を初めの二句で詠いながら、三句めの険しい岩と堕ちる猿の描写でその風景を一変させます。破壊するといってもいいでしょう。そして立ち込める雲が旅行く人の行く手を迷わせ、蜀の地がいかに険難であるかを表現します。
 しかし、そんな蜀の地でも人は住み、旅立つ男性とそれを見送る人の悲しみはどこの地でも同である、そういっている気がします。すると、五句、六句めの月と砂浜の描写もその澄み切った美しさとそれに伴う寂しさが後の句に語られる長く離別せざるを得ない男女の悲しみを暗示しているのではないでしょうか。

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