Great pianist Cyprien Katsaris
ものごっついピアニスト
シプリアン・カツァリス

このサイトは、超絶技巧の持ち主にして、ロマンティックな歌い上手、そして最高のエンターテイナーである「ものごっついピアニスト」シプリアン・カツァリスのファンサイトです。
いまでこそアムランやヴォロドス、サイなど個性派ピアニストが認知されていますが、まさしく彼こそ「元祖個性派」! 日本ではなぜか実力のわりに正当に評価されない不遇のピアニストであるカツァリスに刮目せよ!
2014.04.24
PIANO21新譜の解説から本人手記「ブリュッセルの思い出」の日本語訳追加。

2009.06.08
記事追加

2008.02.28
デザイン変更


雑誌記事など、カツァリスに関するその他いろいろな情報のアーカイブスです。

記事 主な内容
本人手記「ブリュッセルの思い出」日本語訳 PIANO21「エリザベート王妃コンクールライブ」解説に収録されている本人手記を訳してみました。カツァリスの優勝がギレリスに妨害されたという噂は本当なのか???
2004年 フランスピアノ雑誌でのカツァリス自身によるレパートリー解説 フランスのピアノ雑誌についていた付録CDに収録されている曲のカツァリス自身の解説です。バッハ、モーツァルト、ショパンなど新譜に収録されている彼のレパートリーについて語っている貴重なものです。
フランス語訳はいつものようにcopinさん。



2004年 フランスピアノ雑誌でのカツァリス自身によるレパートリー解説


J.S BACHの3つの顔---オリジナル曲、バッハによる編曲もの、他人に編曲されたもの


 もうすぐ発売されるCD、DVDの合計は5時間近くになりますが、この付録CDの23分間でBACHの3つの顔が表現されていることを希望します。モダンピアノであろうがなかろうがバッハの作品を演奏する際、バッハ自身が好んだ楽器はピアノの原型であるクラヴィコードであったということを心にとめておかねばなりません。この楽器を使用することによってチェンバロではできなかったいろいろなニュアンスをつけるという奏法をバッハは見いだしたのです。バッハが最初のフォルテピアノに失望したことは事実ですが、彼の前向きな実験によってリュートのような音色を持つリュートチェンバロが発明されたのです。このことから、もし彼の時代にモダンピアノがあったならピアノを弾いていたであろうということが十分に推測できます。
 J.S BACHはピタゴラス学派の中の『音楽』における分野において作曲家の頂点に立つ人物です。紀元前6世紀の哲学では音楽というものは芸術、哲学、数学、科学などすべてのものを含む概念であるとされていました。これらの規律はバッハの中に理想的な単なる音楽的なインスピレーションとともに見出すことができます。なんというインスピレーションなんでしょう!! バッハは退屈だとか、煩わしい弾き方を教えるだけのつまらないものだなどということはバカげています。例えばそれは、フレーズにおいて効果的であるのにペダルを踏まずに我慢したり、必要だと思われる時にペダルを使わないということです。感情を押さえて弾くことに執着するのはまちがいです。それはバッハを殺菌したいと望むことだからです。
 ある古代のギリシャ人は、バッハは半神のようであると考えていました。実際バッハは人々を高度な精神界へと運んでくれると同時に五感の養分ともなります。ところでピタゴラス学派の話にもどりますが、それぞれの惑星は自転する際に特有の音を発しているという説があります。その音色がまざり合ってひとつのハーモニーが作られているのです。それはまさに『宇宙のハーモニー』と言えるでしょう。
 平均律第一番ハ長調のこの清らかな宇宙的ハーモニーは、バッハによって完璧に表現されたもののように思えます。アマ、プロを問わずピアニストなら誰でもよく知っているこの有名な曲は、もっと以前に書かれたWilhelm-FriedemannBachのための小曲集」の中に、別のヴァージョンとして見ることができます。この曲集は、幼かったW.Fのために父バッハが、自分の作品だけでなく他の作曲家のいくつかの曲を基礎練習のためにまとめたものです。平均律曲集のものよりも短く異なるハーモニーであるこのプレリュードの演奏(カツァリスの)に関しては、違ったニュアンスそしてペダルを減らしているということに注目してください。音楽的な演奏の領域において基礎となるもののひとつの再構築であるということに気づくはずです。つまり楽譜を見ていていろいろと考え付くさまざまな選択を試みるということなのです。作曲家が1つの曲でもいくつかのヴァージョンを書いているように、音楽家は同じ曲を皆と同じように弾くということは避けるべきなのです。
 パルティータ第一番の話に移ります。この初版は1726年に発刊されました。当時クラヴィエーのための6つのパルティータの「パルティータ」は「ダンスの組曲」を意味していました。5つの楽章はメロディックなプレリュードにはじまり
Allemande、Corrent、Sarabande、Menuet1、Menuet2、そしてGigaでまとめられています。
 「ジーグ」はもともとイギリスで発祥したものです(jig=15世紀)。そしてそれはバッハにより、フランス風とイタリア風という鮮明な様式として発展を遂げました。つまり、作曲家がイタリア風のタイトル「Giga」と示したならば、それは尊重されなければなりません。実際イタリア風Gigaは12/8拍子で、フランス風gigueよりも速いテンポとなっています。その構造はフランス風が多声であるのに反して、単声となっています。パルティータNo.1のGigaと、フランス組曲No.2のGigueの抜粋を比較すると、パルティータの方は危険を伴う手の交差があります(スカルラッティは『危険な交差』という言葉をしょっちゅう使っていました)。そしてフランス組曲の方はフランソワ・クープランの影響が明らかだということが、 第2テーマが逆さまになっていることからわかります。(註:楽譜を見ると一目瞭然です) これはフランスふうGigueの基本的な特徴です。その他の点では、3/8、6/8、6/4拍子で書かれている点をあげることができます。
 ハ長調3声フーガの話がまだでした。ライプチヒの聖歌隊長だったバッハは、「Ricercar」というすたれていた単語を使いました。その点について少し考えてみましょう。まず、現代で、音楽を作曲するような才能豊かな大統領を思い浮かべてみましょう。彼がひとりの作曲家を官邸に招待します。大統領は作曲家にひとつのテーマを出し、「大統領」をテーマとした即興を待ちます。これは笑い話でしょうか?いや、実際1747年ベルリン近郊ポツダムのSanssouci城であった実話です。35歳の若い王フレデリック2世は、フランス芸術のコレクションをしていた、そして作曲家、フルーティストでもあったVoltaireに、彼のおかかえクラヴシニストC.P.E Bachを通して父J.SBachと城で会う機会を設けるように頼んだのでした。ライプチヒに住むJ.SBachにとって、まるまる1日かけて他国の王の欲望を満たすためにわざわざ出向くということは、まるで雑役を命じられるようなことでした。ここで忘れてはいけないことですが、フランスとは違って、ドイツが統合されるずっと以前バッハの時代には、独立した10以上の国家に分かれていたのです。息子の微妙な立場のために拒否することができなかったバッハはポツダムへ向かいました。1747年5月11日付けの新聞「Les Nouvelles berlinoises des affaires de l'etat de l'erudition」の記事には『ライプチヒの教会の有名な合唱長であるバッハ氏が、尊厳ある無類の音楽家フレデリック2世の演奏を楽しまれるため に先週日曜日ポツダムに到着されました。』とあります。フレデリック2世は、実際ビックリするようなテーマをバッハに与えました。バッハは新しく作られたばかりのフォルテピアノで3声フーガを即興演奏したのですが、それは失敗に終わりました。ライプチヒにもどったバッハは、2つのリチェルカーレ(3声と6声)、10曲のカノン、『王の主題』による3つの楽器Fl、Vl、Bcのためのソナタから成る「音楽の捧げもの」を書きました。フレデリック2世へのこの絢爛豪華な贈り物を送る前に、バッハは楽譜の冒頭にRicercarを頭文字とする単語を書きました。それは、Regis Issu Cantio Et Reliqua Canonica ArteResolutaでした。訳すと「王が出されたテーマによるカノンその他」です。さて、この3声の奇抜なRicercarを聴きましょう。まるでバッハが私達にこう訴えているようです。「なんで神様は私をこんなにつらい目にあわせるのでしょうか?」
 30年前に逆のぼることにしましょう.1708年、バッハは23歳の時、Weimarにおいて宮廷オルガニストとなりました。彼は、作曲家、バイオリニストとして才能のあったWeimarのJean-Ernest王子に心から敬服していたのですが、王子は1715年19歳の若さで亡くなってしまいました。J.SBachがクラヴィアのために編曲したさまざまな作曲家のコンチェルト16曲の中で(Vivaldi、Marcello兄弟、Toleman、作者不詳・・・)Jean-ErnestのOPUS1コンチェルトNo.1の第3楽章において、私達は思いがけない宝物を発見することができます。それは、この100年後にベートーヴェンが作曲する作品番号81ソナタ第26番「告別・不在・再会」の第3楽章のテーマに奇妙にも類似しているということです。王子のテーマはCDの7曲目に49秒間流れ、その後ベートーヴェンのテーマへと続きます。最初は第3楽章の出だしVivacissimamenteで、その後終わりの方でPocoAndanteでも出てきます。
 というわけでバッハは偉大な編曲者としても第一人者でした。彼の同僚や弟子たちは、バッハがヴァイオリンのために書いた作品をしょっちゅうクラヴィエーのために編曲しなおしていたという重要な証言をしています。とりわけバッハ自身によるオリジナル作品の編曲としては、現在発売準備中のCDやDVDに含まれるであろうBWV1006有名な無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番をあげることができます。バッハの389のコラール作品のうちの何曲かは、事実他の作曲家のメロディーや和声が使われています。まずはコラール「Puisse Mon AmeS'eveiller」(マタイ受難曲からの抜粋)を聴きましょう。これは1642年JohannShopが書いたメロディーにバッハが和声をつけたものです。それに続いて同じくJohann Shopのメロディーにバッハが新しいテーマを重ねた有名なカンタータBWV147「主よ、人の望みの喜びよ」を聴くことにしましょう。このピアノヴァージョンは、Wilhelm Kempff編曲版とHarold Bauer編曲版を組み合わせたものです。
 さて『普遍的なもの』バッハへのオマージュを、有名なフルートとオーケストラのための曲Badinerieの未発表ヴァージョンで終えることにしましょ う。原版に忠実だがこの「恥ずべき」編曲は昨年9月5日に録音されたものです。こんなふざけたスタイルを繰り返しているひどい作者(註:カツァリス自身のこと)は、純正主義者たちのリンチから逃れるために、はるか銀河系の星に亡命するしか生き延びる道はないと思われます・・・。


Mozart
 第23番コンチェルトの第2楽章は、モーツァルトが唯一嬰へ短調で書いた作品であり、いくつかのエディションではアンダンテとして出版されました。2小節目にオーケストラなしで現れるPianoの重々しい嬰ホの音によってはじまるごくまれな広範囲にわたる声域で展開するシシリエンヌが、可能な限りの悲痛な音楽を表現しています。このコンチェルトはまさにオーケストラのさまざまな楽器を際立たせており、かけ合いは、もの悲しさと一瞬の晴れ間を繰り返しながら疲れ果て、諦めの境地へと導いてゆきます。この公開録音はモーツァルトピアノコンチェルト全曲演奏の中のひとつであり、Y.K.Lee指揮、ザルツブルグカンマーフィルハーモニーとともにザルツブルグで行われたものです。また、このCDは2001年発売の予定です。

Beethoven
ベートーヴェンは二つ目であると同時に最後のバレエ作品である"プロメテウスの創造物"を、その時代流行っていたピアノのために編曲しました。たくさんのオーケストラ作品やオペラの作品が、プロ、アマを問わずレパートリーに慣れ親しむことを目的に編曲されました。この時代多くの人々は、コンサートへ行く機会が少なかったのです。演奏時間1時間もかかるこのピアノヴァージョンはオーケストラ版が出版されるよりもずっと以前の1801年に出版されました。最初の抜粋は第一幕の終わりの部分を選びました。それはプロメテウスが神々に"創造物"の教育を委ねることを決心したところです。第1幕は"Tempesta(嵐)"第2幕は1808年の交響曲パストラルを予示するかのように"Pastorale"となっています。さて、バレエの締めくくりとしての2つ目の抜粋はCDの容量の関係で、あるヴァージョンの要約となります。1803年エロイカのファイナルの聞き慣れたテーマを耳にされることでしょう。そしてそれはまた、それ以前1802年のピアノ作品Op35エロイカ変奏曲の中にも出てくるテーマです。その他の点では、PIANO21から発売されているCDに交響曲第7番のベートーヴェン編ピアノヴァージョン最初の46小節が収録されています。(プロメテウスのおまけのCD)ボンのベートーヴェンハウスのLadenburgerさんとMassさん、貴重な楽譜を提供していただいたことに感謝いたします。

Chopin
1999年10月16日に本ツアー5度目、最終のコンサートを終えました。そして10月17日日曜日午前中NYへと離陸、13時間後ローカルタイムの正午NYのホテルに到着したのです。18時半カーネギーホールの舞台でリハーサルを行いマイクとカメラのセッティング完了。19時50分、1951年5月 5日生まれであるこの文章の著者は、本番10分前プログラムを見ていてある発見をしたのでした。それは、この素晴らしいNYのホールで1891年5月5日にこけら落としの名誉あるコンサートの指揮者として、チャイコフスキーが特別に招かれたというものです。そして、それは彼にとって最初のアメリカでのコンサートだったのです。2時間後、バルカローレ、ファンタジー、子守唄、ポロネーズなど"オフィシャル"プログラムはソナタ第3番第4楽章をもって終了します。この素晴らしい騎士道的なテーマは2つのテーマが反復しながら進んでゆき、衝撃的な突風によって中断します。そして私達を勝利の方向へと引きずり込むのです。
ショパンはその当時、健康の悪化とジョルジュ・サンドとの関係がうまくいかなくなりはじめるという問題を超越しようとしていました。ワルツの対偶主題は、演奏する際にわざと際立たせることはしません。ショパンのテキストの通りに弾くだけでよいのです。私は25年前から、いろいろな音楽原理に基づくテクニックを、直感に基づいて練習しています。読者の方々は、私自身が1990年からはショパンがやっていたのと同様な練習をしていることに驚かれることと思います。ショパンは思いがけない対偶主題を主張したり、装飾音、テンポなどのニュアンスをバラエティー豊富に演奏していました。伝統的なしきたりを 破っている他の点といえば、マズルカのリズムです。これは3拍子で書かれているにもかかわらずワルツではありません。実際ショパンの演奏による膨大な数の証拠の詳細、つまり2拍子あるいは4拍子で演奏されているパッセージによって立証しているように思えます。この独特な自然な感じのルバート、そして、それぞれの特有な音楽的フレーズが、悪趣味な演奏の中に埋もれてしまってはいけないのです。それを避けるためにはIgnaz Friedmanや Vladimir Horowitzのような偉人たちの演奏を何度も聴くことをお勧めします。

Cziffra
シフラの悪魔のようなトランスクリプションについてですが、この演奏(18極目59秒)に関しては、49小節目においてシフラ自筆譜を使用し、2重トリル(ミとシ、ファとド)を弾いています。ただし、一般的に出版されている楽譜ではトリルは単音で表示されています。(ペータース版)

Bortkiewicz
この27曲から成るCDは、ベルリンそしてウイーンへと追放されたロシアの作曲家の楽譜を提供して下さった、ドイツの音楽理論家Matthias Lenz氏の厚意により製作することができました。偉大なピアニストであると同時に教育者としても重要であったSerge Bortkiewiczは貴族の出身でした。彼が20世紀の前衛芸術の動きに追従することなく自分自身の正直な気持ちに従ったことは、とても賞賛すべきことであると思われるのに、それはたぶんまちがっていたということなのでしょ う。彼のとった行動はベートーヴェンのモットーだった「音楽は心で創られ心で感じるものである。」ということに他ならないと思います。まず1曲。これは3つのタイプの女性を細かく描写したエチュードの中から無作為に『La Blonde』を選びました。『あだっぽいロシア人』『しゃれたブロンド女性』『激烈なくり毛の女性』の中からひとつを選ぶのは困難だったので、女神アフロディーテの力を借りてくじ引きで決めるのがふさわしいと思ったのです。アフロディーテはご存知のようにキプロスで生まれた女神です。

Rachmaninov
1909年ラフマニノフは大西洋横断の客船上で第3番ピアノコンチェルトを書き上げました。航海中彼はピアノパートの部分を『無音ピアノ』で弾いていました。お披露目のコンサートは11月28日カーネギーホールでWalter Damrosch指揮NYシンフォニーオーケストラによって演奏されました。ラフマニノフはその少し後同じホールで、NYフィルハーモニックオーケストラ、Gustav Mahler指揮で再演することになったのです。ラフマニノフは、リハーサルにも手を抜かないマーラーの仕事ぶりにとても感激しました。実際、Gustav MahlerとArthur Nikischの2人の指揮者はこの時代最も賞賛されていました。何年か過ぎ、ラフマニノフは、素晴らしいフィラデルフィアオーケストラと伝説の指揮者Eugen Ormandyに出会うことになります。ラフマニノフはそこで第3番コンチェルトを録音することになるのです──オーマンディは常にフィラデルフィアオーケストラと一緒でした──著者(カツァリス)は20年前オーマンディと3回共演したのですが、それは大変光栄なことでありました。その録音はEMIのリストのLPですが、近いう ちにPIANO21からCDとして発売できたらよいと思っています。このコンサートは10000人以上の観客を前にして撮影されました。この未公開フィ ルムは、ラフマニノフ第3番コンチェルトも含めてしかるべき時に放送されるでしょう。
話は変わりますが、ここでちょっとしたエピソードを。リストの作品をEugen Ormandyの前で演奏するために彼の家を訪ねた時、私は彼の存在に気後れしてしまいました。その時彼はとっても優しく「わかりますよ。私もまだ若かりしころミネアポリスでラフマニノフに初めて会った時、あなたと同じような思いだったんですよ。」と言ってくれたのです。

ラフマニノフは作曲したコンチェルトを最も尊敬していた偉大なピアニストJoseph Hofmannに捧げました。しかしホフマンは「このコンチェルトは象のために書かれたものだな。」と言い1度も演奏しようとしなかったのです。この有名な第3番コンチェルトはテクニカル的に最も難しいレパートリーだとされていますが、ふさわしいテンポを選べば演奏可能です。そのようなテンポは 1、2楽章には完璧に適応させることができます。しかしながら3楽章では別の問題が出てきます。活き活きとした最終楽章において、控えめなテンポではコンチェルトの形式やアンサンブルの印象を妨げてしまいます。いくつかの長いパッセージにおいてはラフマニノフ自身も必然的に分けて演奏しています。従っ てこのコンチェルトは最初から最後まで早いテンポで演奏する方がこのましいのです。さらに作曲者は『Alla breve』早いテンポでと楽譜に書いています。次から次へと『Piu mossoやPiu vivo』の指示があるのは確かに演奏を困難にしているのですが、それは仕方のないことなのです。

Debussy
バッハ、リスト、ショパンの大ファンであったドビュッシーは素晴らしいピアニストでした。彼はショパンのようにやわらかく深いタッチで、リッチな音色の弱音を出すという個性的な性質を持っていました。それは稀に見る表現力の豊かさでありました。ドビュッシーは最初『月の光』のタイトルを『感傷的な散歩道』とつけていました。だからと言ってこの曲を感情的に演奏するというのはやりすぎです。ただしこの2つのタイトルを考慮に入れてドビュッシーが求めた 雰囲気をかもしだすことが大切なのです。Lord Byron(イギリスの詩人)が言いました。「友情、それは翼のない愛である。」この小曲は翼の折れた友情のように演奏してはいけないのです。(註:動きをもって演奏すべき)

Cyprien Katsaris
イソップ童話を書き換えたフォンテーヌの寓話や、フランス映画をリメイクしたハリウッド映画の監督にならって、ひとりの作曲家が動きのある彫刻をそのままダイレクトに即興演奏しました。コンサート終了時に追加として、私は彫刻の作者であるYaacov Agamさんに「この9つのハートから成る動く芸術Coeur Battantを皆に紹介してください。」と頼んだのです。彫刻を操るとその姿は変化します。そしてそれは少しの間震えた後、作者の手によって動きを止められたのでした。

メキシコ音楽
キシコ音楽に捧げられたこの録音に掲載されているのは12人の作曲家によって書かれた30あまりの曲です。こんなにたくさんの全ての楽譜を提供してく ださったRicardo Miranda教授に感謝いたします。Manuel Ponceは世界的に有名だったギタリストPaul Dukasの弟子としてパリにいました。彼等のピアノ作品はギターの作品と同様に有名です。間奏曲はその誠実さと素朴さで私たちを感動させてくれます。バルトークやRuben M.Camoisを例えにだしますと、彼等はざっと200曲にも及ぶ大衆的な歌曲を収集しピアノ用にセンスよく編曲しました。
さてもうすぐPIANO21から発売されるCDの中から、有名な曲『Paloma』の1部分を聴くことにしましょう。宝石のように貴重なメキシコ伝統音楽の発見はこれらのアレンジを通して聴いてみる価値があります。すなわち、それは素晴らしいリッチなメロディーと多様なリズムの融合です。次に典型的なメキシカンダンスの曲である『Jarabe del Bajio』を聴くことにしましょう。右手は8分の6拍子のリズムを弾きます。言い換えますと、3で割り切れる2拍子ということになりましょうか。
さて、その名にふさわしい『Adios d'Alfredo Carrasco』でお別れしましょう。





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PIANO21 《シプリアン・カツァリス・アーカイヴス Vol.14》
「エリザベート王妃国際音楽コンクール・ライヴ1972」 から本人手記
「ブリュッセルの思い出」


ブリュッセルの思い出

 国際ピアノコンクールは数あれど、特別に権威あるものは3つか4つでしょう。ベルギーエリザベス王妃国際音楽コンクールはその1つです

 私はまず最初にベルギーに対しては、非常に鮮やかなマンガ絵に出会って親近感がありました。私は、たくさんのベルギーの偉大なアーティストの9人のマンガコレクションを持っています。例えば、エルジェ、フランカン、ペヨ、モーリス、ヤコブ、ファンデルステーンなどです。

 私がパリ音楽院で勉強していた1960年代、エリザベス王妃国際コンクールが注目され始めており、私は当時ほとんど経験がないのもかかわらず、1972年にエントリーを決意しました。私が1次審査のときに弾いたものは、ショパンエチュードOp.25-10,Op10-10、リスト超絶技巧練習曲4番マゼッパ、5番、ドビュッシー練習曲opposite sonorities、プロコフィエフ練習曲Op.2-4、ショスタコーヴィチソナタNo.1 Op.12、それにこれは主催者に感謝すべきですが、ヘンデルのsublime Suite もありました。これは、ほとんど弾かれることはないものです。

 27か国68人の参加者は、まず、24人に絞られました。審査員には有名なピアニストも多く、エミール・ギレリス、レオン・フライシャー、アニー・フィッシャー、モニク・ド・ラ・ブリュショルリ、などです。モニークはいうまでもなく私の先生でしたが、私に投票することは禁じられていました。あくまで公平に、ということで。

 二次審査では私は39度の熱をだしてしまいました。ブルガリアの審査員のLiuba Entchevaが私の額に手をあてて熱を測ってくれたことを覚えています。私は、リストのロ短調ソナタ、バッハの前奏曲とフーガNo.4、モーツァルトソナタk333、メシアンの愛の眼差し、ウェーベルン変奏曲Op.27を二次審査では弾き、ベルギーの曲では、Peter Benoit の第3,4番幻想曲を選択しました。二次審査での指定曲は、Paul Baudouin michelの難曲 Concentric variationsでした。

 そこから12人のファイナリストが選ばれました。ファイナリストは、オーケストラと自分で選ぶコンチェルトを1曲、ソロ曲で二次審査でのリストに入っていない曲を一曲、1972年にこのために作曲されたベルギー人作曲家のJacques Leduc のコンチェルトを指定曲として弾きました。私はラフマニノフの第3協奏曲とショパンのポロネーズOp.44を弾き、課題曲の20分間3楽章から成るコンチェルトをたった8日間で勉強して弾きました。幸いなことに暗譜する必要はなかったのですが、日本人の神谷郁代さんだけは暗譜したのです!

 私たちファイナリスト12人は、アルジャントゥイユというウォータールーの近くにある町に隔離され、最終審査に備えるという気が重い要求の準備をしました。私たちはみな、このJacques Leducのよく書けているものの難しいコンチェルトを練習するのに時間がなく、ほとんどパニックになっていました。しかし、みな日が経つにつれだんだんとマスターできました。
教訓:どうしようもなければなんとかなる!

 いよいよ最終日が始まりました。ソビエトからの参加者は当局が十分に準備させておりコンチェルトもコンサートで弾いているなどしていましたが、私はそれとは違い、ラフマニノフの第3協奏曲もほとんどはじめて演奏するようなものでした。TVやラジオも入り、無慈悲な審査員を前に、私のプレッシャーは最高潮でした。

 本番のDefossez指揮ベルギー国立管弦楽団とのリハーサルの前に1回だけマニュエルローゼンタール指揮のパリ音楽院の学生オケとリハーサルできました。私は何よりもDefossezとベルギー国立管弦楽団の働きぶりに感嘆しました。午前中に2人の参加者のコンチェルトを4曲(つまり2曲は選択した曲、課題曲を2回)やり、午後も他の2人と同様に4曲、一方同じ午後には、前日リハーサルした2人とも再度4曲リハーサルをします。そんな感じで12人で計24曲のコンチェルトを6日間でやり遂げるのです!

 1972年6月3日にようやく授賞式でした。審査員が舞台に並び、審査委員長Mr.Marcel Pootから順に名前が呼ばれていきます。呼ばれたら審査員と順に握手します。私は9位で名前が呼ばれやはり失望しましたが、2200人の聴衆のすごい歓声と審査員へのブーイングにより救われました。私は目を丸くしている審査員達に誇りを持って挨拶しました。これはTVとラジオでベルギーにて中継されていました。

 この驚くべき聴衆とメディアの後押しは、まだ鉄のカーテンが存在した当時の西ヨーロッパ側からの唯一の入賞者という満足な結果以上に、意味のあるものだったと言わざるをえません。Baudouin 国王は「この若いピアニストはほとんど革命だった!」と言ってくれました。

 現地を去る際は、ベルギー人ピアニストの Alex de Vriesの未亡人に車に乗せてもらいました。彼女を待っている間、私は彼女の友人であったエミール・ギレリスと彼女が話しているのに気づきました。ギレリスは車の中の私をみて、右手でお祝いの親指アップをしてきました。彼女が戻ってきて言いました。「ギレリスがあなたに“なんの心配もない。君は偉大なキャリアを築くよ”と言ってくれって」と。

 ギレリスがソ連のピアニストを優勝させなければ審査員を辞めると机をたたきながら脅したという噂がありますが、もうお分かりでしょうが、単なる噂でしかありません。

 私はアントワープへの帰りの電車で、この特別なコンクールの驚くべき人気を目撃し、いろいろな人々から声をかけていただいたことに深く感動していました。

 それだけでなく、コンクールが終了する前から、ベルギーDeccaのPaul Bertinchamps から私とDavid Livelyの2人はそれぞれレコーディングのオファーを受けていました。彼は私たち2人ともトップ3に入賞すると確信していました。Davidは6月5日に、私は6月6日の午前中になんとたった4時間半でモーツァルトソナタK333とリストのロ短調ソナタを録音しました。その日の午後には国王と王妃の主催するレセプションに出席しなければならなかったのです。

 6月9日には優勝者であるヴァレリー・アファナシエフのコンサートがあり、そのときにはレコードディストリビューターのAntonie に初めて会いました。彼は私のベストフレンドとなりました。それからベルギーDeccaはレコーディングからなんと3−4日で私たち2人のレコードを販売し始めました。また、ドイツグラモフォンベルギーはファイナル進出者のトップ3のコンチェルトのレコードを発売する予定でした。しかし、聴衆やメディアの後押しのおかげで私のレコードも発売することになりました。

およそ20年以上前に私はこの録音の版権を購入し、それがこのCDとなりました。

私はエリザベス王妃コンクールの関係者、ベルギー国立管弦楽団のみなさん、指揮者のDefossez 、ベルギーの聴衆のみなさん、メディア、すべてのベルギーの友人と忘れられない思い出を共有できたことに感謝します。

2012年9月4日 フロリダ
シプリアン・カツァリス

 



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