ステンショ物語 (その3)        汽車が走り出した明治の頃           
                         駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
     
ラッキーばっかし集めました。・・・しかし・・
 肥薩線・吉都線 (鹿児島県湧水町)

 肥薩線は「一勝地駅」が、何にでも「勝つ」ていう、マン(運とか縁起)のよか名前の駅。スポーツするもんやら、受験生に人気のある。

 
真幸・吉松・鶴丸もおめでたい名が三つ並んで「幸福の鉄道」ゲナ。特別切符まで売りよんなる。

 真幸駅(まさき)は、宮崎県で最初に来た駅で、しかも肥薩線で宮崎県内にあるたったひとつの駅。
 観光列車「しんぺい号」が着いて、ホームが急に賑やかしゆうなった。いま肥薩線で人気の観光列車は、下りが「いさぶろう号」で、上りが「しんぺい号」。人吉と吉松の間ば1日2回、行ったり来たりしようケン、名前が変わるだけでクサ、車両は一緒。

 この駅は、逆 Z 字型のスイッチバックになっとるケン、昔からどげな特急列車やったっちや、絶対に通過することはでけんやった。
 吉松からホームに着いた上り列車は、発車したらいったんパックしてスイッチバック線に引き上げ、折り返して矢岳トンネルへと登って行くことになっとる。

 駅舎は開設当初のもので相当に古か。それでも、そそくって(修繕して)大事に使われとるとが分かる。駅の直ぐ横ばクサ、国道447号が通っとるとバッテン、駅周辺には家はなか。
 昭和47年(1972)の大雨で、この真幸駅は附近の民家ともども、土石流に巻き込まれてしもうた。

 駅長が蒸気機関車ば撮しに行きよった頃は、災害の直前でクサ、駅前の集落に人が住んどんしゃった。ところが鉄砲水で真幸駅一帯が流されてしもう人が居らんごとなってしもうた。ポツンと駅だけ残されて秘境駅になってしもうた。

 いま、駅のホームには、その時の置き土産が残されとる。線路の上の山から、土石流で落ちてきた重さ8トンもの大岩タイ。災害の凄まじかモニュメントにたまがる。昔はまぁだ先まであったホームも線路も、短うちょん切られてしもうとる。

 ホーム上の中程にある鐘は、昔から鉄道マンが旅客の安全を願って鳴らし続けた「幸せの鐘」
 誰が言い出したか知らんバッテン、「自分の幸せに合わせてつけばよか」ゲナ。観光列車が着いたら、みんな降りてきて、欲の深かとがガンガン鳴らすもんやケン、やかましかこと。

 吉松駅はJR九州、肥薩線と吉都線の駅。いまは肥薩線から吉都線が分岐するだけの小さな駅バッテン、かつては鹿児島本線と日豊本線ていう二つの大幹線の分岐駅として賑おうとった。

 吉松駅のざっとした歴史はこうタイ。

 明治30年代ごろ、鹿児島とすで鉄道が敷かれとる九州北部を結ぶとは必須の課題になっとった。

 九州鉄道の路線が八代まで開通したとば見て、「鹿児島もなんとかせんばでけん」
 鹿児島と八代ば結ぶ計画が立てられた。

 八代と鹿児島ばどう結ぶか。川内経由の海岸線まわりと、人吉から山ん中ば通す案とがあったとバッテン、結局山ん中ば通す案に決まった。「海岸に線路ば敷いたら危なか」て、軍の幹部が怖れたけんタイ。

 まず明治34年(1901)に鹿児島線として鹿児島駅から国分駅(現在の隼人駅)までが開通した。明治36年(1903)には国分駅からさらに横川駅(現在の大隅横川駅)まで延びてきた。そして同じ年の9月に、横川駅からこの吉松駅までがでけた。

 八代側では明治41年(1908)に、八代駅から人吉駅までが開業したとバッテン、問題はクサ、南九州中央山岳地帯ば通らないかん人吉駅からこの吉松駅までの間やった。

 こげなとこに線路ば敷くいうとは、常識外れやったバッテン、軍の云うことにゃあ勝てんタイ。困難の末、それでもスイッチバックやループ線などばいくつも取り入れ、明治42年(1909)遂に開通させた。これで鹿児島は福岡やら大阪、東京まで一本の線路でつながることいなった。人吉から吉松までが開通したことで、門司から鹿児島までば鹿児島本線ていうた。

 吉松駅前にはこれば記念する「肥薩鐵道開通記念碑」が機関車の動輪とともに建てられとる。2008年はこの路線がでけて100年になるとゲナ。

 大正5年(1916)には、吉松駅から小林へ延ばしよった宮崎線が宮崎駅まで開通した。この宮崎線は、一時日豊線になった後、吉松・都城間が吉都線になる。

 このころの吉松は熊本・宮崎・鹿児島からの線路が一つに集まつて繁栄しとった。路線の管理も一手に引き受けとったケン、機関区もあってSLもゴロゴロしとった。吉松町は鉄道の町として全盛期やった。鉄道関係の職員もこの町には多く住んどって、町民がみんな、なんらかの形で鉄道と関係があったていう。

 ところが昭和2年(1927)海岸線まわりの八代から鹿児島までが全通して、こっちが鹿児島本線になり、従来の人吉経由は肥薩線ていう支線に格下げされてしもうた。

 また日豊本線も、都城駅から現在の隼人駅までば海岸回りで通す路線がでけて、昭和7年(1932)にこっちも全通。これが日豊本線になったケン、吉松から都城まではローカル支線の吉都線に格下げになってしもうた。

 そやケン吉松駅は、吉都線と肥薩線、二つの小さなローカル線の接続駅としての役目にしかすぎんごとなってしもうたっタイ。そして昭和62年(1987)国鉄の分割民営化で九州旅客鉄道の駅となった。

 今の駅舎は昭和43年(1968)鉄筋コンクリート二階建てに建て代わった。駅前広場はきちんと整備されとって、C55形蒸気機関車52号機が静態保存されとるし、吉松の町と鉄道との関わりば紹介する展示館などもある。
 また駅前近くには「汽笛饅頭」ていう菓子ば売る店もあって、鉄道との深い繋がりば感じさせてくれる。

 スイッチバック線から見下ろした真幸駅構内。左は行き止まりで、ここから先に線路はなか。中央の駅舎は直撃ば免れたけど、ホームの左側は土石流にやられた。

 鶴丸駅にはたまがった。駅名の表示板がなんと木にぶら下がっとるとやもん。

 駅長もこれまで秘境駅やら、いろんな駅ば見てきたバッテン、こらあ始めてやった。希少価値がある。

 鶴丸駅は、吉都線では吉松駅とともにたったふたつ鹿児島県内にある駅タイ。駅の北東1kmのところに宮崎県との県境がある。

 大正元年(1912)、宮崎線の吉松駅から小林町駅までが開通したとき、この駅はまぁだなかった。

 吉松と宮崎ば結ぶ幹線やったこの路線は宮崎本線ば経て日豊本線の一部になったとバッテン、いまの日豊本線が全通すると、ローカルな吉都線に格下げされた。

 鶴丸駅が開業したとは吉都線となってからの、昭和33年(1958)やった。

 ホームに出てみると、雨宿り程度の待合い小屋がポッン。
 線路には草が生えとって、ここいほんなこと汽車が来るとかいなて思うてしまう。

 駅前には、せーまか道ひとつ挟んだ向かい側に鶴丸温泉いうとがあって、真っ昼間から近所のおばさん達で賑あうとった。

 2007年J R は、喜入駅・重富駅 ・財部駅・吉松駅・鶴丸駅・中福良駅・霧島神宮駅ば結んで「七福キップ」いうて3,000円で2007枚売り出した。

 
こればつないだら
『喜び入り、富が重なり、中くらいの福も良し、。おみくじ引けば吉と出て松の祝いに鶴が舞い、家内円満。 さらには宝の山。満願成就で宮参り』て、ようでけとる。

 買うたっちゃ乗らんもんばっかりやったケン、J R は丸儲けやった。

駅前に整備された「川西鉄道公園」にはC56がおって、SL観光食堂があり、SL資料館もある。

 肥薩線列車退行事故(ひさつせんれっしゃたいこうじこ)いうとは、第二次世界大戦が終わった直後の昭和20年(1945)8月22日にここで起こった。
 当時は情報も混乱しとったし、よか話じゃなかケン、あんまり知っとるモンはおらん。

 悲劇の背景はこうタイ。
 昭和16年(1941)12 月8日未明のハワイオアフ島真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争も、昭和20年(1945)6月には、沖縄がアメリカなどの連合国軍によって占領され、日本の旗色は悪うなってしもうとった。

 次は南九州がやられるバイて判断した軍部は、日本各地から多くの兵士ば南九州へ集め、急ピッチで迎撃準備ば進めた。 バッテン、この占領作戦が実行される前の8月15日、日本は降伏して第二次世界大戦は終り、南九州にあつめられとった兵士たちも故郷に帰れることになった。

 
吉松駅からも、熊本方面への復員兵ば乗せた列車が発車した。
 もちろん当時の列車やケン、蒸気機関車牽引タイ。吉松から人吉へ行くには、急勾配でトンネルばっかしの難所「矢岳越え」ばせなならん。

 列車は大勢の復員兵ば乗せるため、一般客車5両の後に「代用」として無蓋貨車ば8両連結しとった。それでも早う帰りたか復員兵が殺到して、客車の屋根にまで乗って超満員。

 列車は定員オーバーで前だけでは坂ば引き上げきらんケン、、後ろにも補助用の蒸気機関車ばつけ、 後ろからも押して急勾配ば登りきろうとした。しかし物資不足やった当時の石炭は出力不足、やっとかっとなんとか真幸駅の手前にある全長618mの山神第二トンネルまで登ってきた。写真・右奥がその山神第二トンネル。

 ところが、列車は勾配ば登りきれず、とうとうトンネルの中で停ってしもうた。

 トンネルの中で蒸気機関車が停まったらどうなるか。

 トンネル内は機関車が出す煙がアッというまもなく充満。 屋根に乗っとるモン、貨車に乗っとるもんはもちろん、 客車の中のモンも煙で苦しくなるばかりタイ。

 とうとう我慢しきらんで、多くの乗客が列車から飛び降り、線路つだいに走ってトンネルから脱出しようとした。

 
運転士は、このままやったらみんなが煙でやられてしまうと思い、トンネルから出るため、列車ばバックさせることにた。

 前の機関車の運転士は、乗客が列車ば降りて、線路ば逃げよることには気づいとらん。 後ろの機関車の運転士はていうと、 すでに煙でやられて気絶しとる。車外へ出た乗客へ連絡のしようもなかった。

 バックしだした列車は、次々にトンネルから逃げ出しよった乗客ば轢き殺してしもうた。

 ふるさとに帰るとば目前にしとって、53名の命がトンネルの中で無惨にも散ってしもうた。

上と左・山神第二トンネルの真幸側出口。列車はここまで出てききらんやった。

 事故の17回忌に地元婦人会がトンネルの人吉(真幸)側出入り口付近に慰霊碑ば建てた。線路際のその場所は、事故当時、トンネルから遺体が運び出され埋められたとこやった。

 いま人気の矢岳越え
「いさぶろう・しんぺい」号は、この場所ば通るとき、慰霊碑の見えるごと徐行運転ばして、車内アナウンスで、この悲しか話ばして聞かせる。

 九州に鉄道が走り出して以来の大きな事故が三つある。

 ひとつは、明治31年(1898)4月8日 8時ごろ、九州鉄道(後に国有化された)幸袋線の幸袋駅構内で貨車入れ替え作業中やったアメリカ製ボールドウィン
蒸気機関車のボイラーが破裂。乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切におった歩行者4名、民家のなかに居った1人が負傷した。
 また吹き飛んだ車体で約120mも離れとる民家3軒も破損した。

 
ふたつめは、昭和5年(1930)4月6日、久大本線の鬼瀬駅〜小野屋駅間で、バック運転しよった機関車のボイラが破裂。煙室扉が開き、熱水と飽和蒸気が客車内に吹き込み、23名が死亡した。

 そして三つ目が、この肥薩線の山神第二トンネル事故やった。

 駅長は、いっぺんこの現場に行った見たかて思い、これまでに何回もトライしたとバッテン、場所とそこまで行く道が分からんやった。地図でトンネルの北口は分かっても、道が書いてなか。

 一番近い真幸駅は無人やケン、駅員さんにも聞けん。吉松駅で聞いても、なんせ古か話。知っとるモンは辞めたり死んだりしてしもうとる。親切に電話で地元の歴史に詳しか人にも聞いてくれたけど、現場への行き道までは知んなれん。毎年命日に供養ばしよった婦人会も、高齢化していまはもう止めとんなるごたる。

 それでも風化してしまいよるこの事故、どうしても一度は現場に行って拝んできたか。
 「よし、真幸駅から線路ば歩こう」 
 幸いというか肥薩線山線は、12時から15時まで列車は通らん。物好き駅長は真幸駅に車で登っていった。

左・線路脇に殉難の記念碑が立ち、これは肥薩線の車窓から見ることがでける。
下・遺体を葬った林の中のお墓に手を合わせてきた。

 駅の時間表で列車が来んことば確認して、さあ線路ば歩き出そうとしたとき、駅の前で車の音がした。
 出てみたら駅の近くに畑ば作っとんなる地元のおじさん(おじさんいうたっちゃ、あとで駅長より二つ下のじいさんて分かった)が、畑の様子ばみに上がってきなったとやった。

 「山神第二トンネルに行きたかとバッテン、道がどうしても分からんもんやケン、いまから線路伝いに行こうと思うとります」ていうたら
 「そらあ危なか。そんなら私が教えましょう。教えるいうても難しゅうてひとりじゃ行かれん。わたしが連れて行ってやろう」   なんというラッキー。

 早速、おじさんの後について道なき山道ば走り、これから先は車が通れんていうとこからは、山んなかば登って、やっとトンネル北口の慰霊碑までたどりついた。

 「ここまで連れてきてもろうたら、もうあとは自分で帰ります」ていうたけど「いいや下りで迷うたらいかん」いうて、写真撮ってしまうまで付き合うてやんなった。

 「犠牲者の親戚の方ですか」て聞かれたバッテン、ウソはいえんケン、「いいえ、鉄道ファンです」ていうたら、なんてまた物好きな男やろうかていうごるたまがった表情ばしなった。


場所・吉松駅は、九州自動車道ば栗野ICで下りて県道55へ右折。すぐ国道268へ右折して約7kmで「吉松小前」信号を左折すると400で突き当たり。信号からさらに268を2km北上して吉都線の踏切ば越え、1kmで右折。1kmで鶴丸駅前に着く。真幸駅へは、いったん268へ戻り、右折して3kmで京町温泉。駅前の「京町」信号から左折して国道447に入り京町温泉街ば抜けて5kmで真幸駅に到着。これが「幸福の道」タイ。   2006.8.8/2007.3.25/2013.5.7