IDEA-ISAAC
カバー写真 吉村浩一著「鏡の中の左利き―鏡像反転の謎―」へ

一物理屋のコメント
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多幡達夫
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Copyright © 2004 by H. Yoshimura

 この文は表記書の巻末に掲載されているもので、文中「本書」は、同書を指す。同書の目次はこちら。ご注文はアマゾンへ。


目 次

まえおき

1 狭義の鏡像問題
1.1 問題の解釈
1.2 吉村の説明:Tabata−Okuda説との比較
1.3 文字の鏡像:特に上下対称文字の扱い
1.4 従属軸仮説
1.5 鏡映変換
1.6 物理学者と「心理」(1):朝永の随筆
1.7 物理学者と「心理」(2):ファインマンの説明
1.8 数学者の示唆(1):滝沢の教科書
1.9 数学者の示唆(2):矢野の随筆

2 広義の鏡像問題
2.1 発端
2.2 問題の解釈
2.3 吉村説とその意義
2.4 「今後の課題」について

おわりに

文献

付記
 

まえおき

 私の文では,学術論文式に敬称や敬語を一切省略することを断っておく.吉村が引用している文献を私が引用するときは,()内に発行年を記す.私独自の文献引用には,[]内に発行年を示し,文末の「文献」欄に詳細情報を記す.また,吉村が左右等の1軸について「反転」といっていることを,私の文では,「逆転」と書く.その理由は,1.5で述べる.

1 狭義の鏡像問題

1.1 問題の解釈

 グレゴリー(1997/2001)によれば,「鏡像ではなぜ左右が逆になるのか」という問題は,プラトン(427―347BC)の「ティマイオス」中ですでに論じられているそうである.しかし,設問自体のアイマイさと,視覚による認知という心理的要素の介在のため,本質的には心理に関係のない説明のできる範囲においても,この問題への明快な解答はごく近年までほとんど与えられて来なかった.「心理に関係のない説明」を以下では「物理的説明」と略称する.略称であることを明瞭にするため,つねにこのことば全体,あるいは,そのような説明等に言及するときの「物理的」の語に「」をつける.吉村は「物理学的説明」としているが,これでは,より狭い意味を連想しそうなので,私は「学」の文字をはずす.

 「鏡はなぜ左右を逆にし,上下を逆にしないか」という古来の疑問文に対しては,「左右を逆にしない場合もある」,「上下を逆にする場合もある」などの反論もできる.しかし,これらは別の問題として除いておき,この疑問文を字義通りに捕らえたものを,ここでは狭義の鏡像問題と呼ぶ.

 与えられた疑問文に答えるには,まず,その意味をはっきりさせなければならない.問いの内容が成立するための条件が疑問文中に述べられていなければ,それがどのような場合でも成立するかどうかを検討する必要がある.その点,この疑問文には,少なくとも一つの条件規定が脱落している.「鏡」は「1枚の平面鏡」といい換えなければならない.凹面鏡や2枚の平面鏡をチョウツガイでつないだもの(後者は本書7.7節でも「直角合わせ鏡」として登場する)では,1枚の平面鏡とは異なった像を作ったりするからである.しかし,私の文では,特に断らない限り1枚の平面鏡を扱うので,このいい換えを実際に書き込むことは省略する.

 ほかにも,古来の疑問文で脱落している条件はないだろうか.それを考える際,支障のない限り,疑問文自体が規定していない条件を持ち込まないように解釈することも重要である.

 この疑問文を,「私が右手を上げた姿を鏡に映すとき,鏡の中の私は左手を上げている」という例で示される現象の理由をたずねている,と解釈してみよう.本書の「はじめに」にある吉村の解釈では,「鏡の前に立って右手を上げたとき」とあるが,必ずしも「立って」いる必要はないので,ここではそれを省き,「私」と鏡の相対位置が限定されないようにした.この解釈例は,疑問文が暗に意味する条件(「無条件」は条件の一種と考える)を,次の(1)と(2)で説明するように,正確に再現している.

 (1)古来の疑問文は「私」と鏡の相対位置(垂直状態の鏡に正対する,横向きに相対する,あるいは,水平状態の鏡の前に立つ,等々)を取り立てて述べてはいない.したがって,この点で制限がないと考えるのが妥当であろう.前記の解釈例も,この相対位置に無関係に成り立つ現象を述べている.

 (2)解釈例では,「私」については,当然「私」を基準としての右に言及しているが,「鏡の中の私」については,それが独立な人物であるかのように見て,その人自身の基準での左について述べている.換言すれば,解釈例での向きの基準は,重力のように外界に依存するものではなく,また,「私」だけの基準でもなく,「私」と「鏡の中の私」のそれぞれに属する基準である.このことから,前は腹,うしろは背で,上は頭,下は足を意味することになる.つまり,「鏡の中の私」においても,頭(上)はあくまでも頭であって,足(下)が頭になることはない(同様の説明は,本書2.3〜2.5節にも述べられている).したがって,疑問文の後半にある「上下を逆にしない」という状況が,解釈例においても,「私」と鏡の相対位置に無関係に成り立っている.

 この解釈例から,鏡に映るものを「私」という人間以外の一般的な「物」に敷衍すれば,狭義の鏡像問題は次のようにいい換えられる.「実物と鏡像のそれぞれに固有の座標系(固有の上下・前後・左右軸)で判断したとき,それらの左右非対称性は逆になる(以下「左右の逆転」と略記)が,上下非対称性は逆にならない.これはなぜか.」

 一般的な「物」といっても,この表現にあるように,固有の上下・前後・左右軸を決めることができ,たとえわずかでも左右非対称性をもつ(本書1.3節で述べられている「キラル」性を有する)ものでなければならない.なお,ここでいう「固有の座標系」は,吉村が使っている「固有的定位」あるいは「個別化された座標系」と同じものである.

 英語では,上下を表すことばとしてup−downを使うと,重力の向きとまぎらわしいので,Tabata−Okuda報文(2000)(正規の「論文」でなく,Theoretical Noteである)では,実物と鏡像にそれぞれ固有の上下をいうとき,top−bottomを使っている.これに相当する適切な日本語が見当たらないのは残念である.

 問題を前記のように明確化すれば,「上下が逆にならない」のは,先に(2)で説明したことから,しごく当然であり,謎は左右の逆転だけに絞られる.

1.2 吉村の説明:Tabata−Okuda説との比較

 吉村は第1章において,狭義の鏡像問題への答を2段階で与えている.第1段階は,実物と鏡像は鏡面を対称面として面対称関係(鏡面に垂直な方向について逆向きの関係)にあるという説明である.これは光の反射法則から出てくることで,第1章の表題通り,まさに幾何光学的な事実である.

 次いで吉村は,非対称な物体を1軸について逆向きにした構造のものが,もとの物体の対掌体と呼ばれることを述べている.したがって,第1段階で述べられた実物と鏡像間の面対称関係,すなわち,鏡面に垂直な方向についての逆向きの関係は,両者が互いに対掌体の関係にあることを意味している.

 対掌体を作るためにそれに沿って逆向きにする「1軸」は,必ずしも上下・前後・左右の軸のうちの一つでなく,任意の方向でよい.このことを幾何学的に証明するのは面倒かも知れない.しかし,次のようにして経験的に得心できる.右手を鏡の前に差し出して,どのような向きに回しても,その鏡像はつねに左手の形になる.このとき,逆になる軸は,鏡についていえば,鏡面に垂直な方向として一定しているが,右手についていえば,中指に沿う線であったり,手の甲の中心から掌の中心へ突き抜ける線であったり,親指のつけ根と小指のつけ根を結ぶ線であったり,さまざまである.つまり,右手をどの線に沿って逆向きにしても,左手という対掌体の形になるのである.

 前々段で述べた実物と鏡像の対掌体関係を使えば,狭義の鏡像問題は,「実物と鏡像は,任意の1方向について逆になったと考えてよい対掌体同士であるにもかかわらず,それらにそれぞれ固有の座標系で判断したとき,つねに左右が逆転するのはなぜか」という問題に還元できる.

 吉村は,このような「問題の還元」は行わないで,上下・前後・左右3軸の決定において,上下・前後に優先性があること(3軸決定の順序性)に触れる.そして,鏡映による像の前後軸の負号化と,比較のため実物の上下・前後軸を像のそれらに一致させる操作で生じる負号化を合わせて,左右のみが互いに逆になることを示し,第2段階の説明としている.比較の操作は実物の回転であり,これによって前後・左右2軸が負号化し,前後の負号化は鏡映の負号化と打ち消し合う.鉛直軸の周りの回転で前後軸を一致させて比較するところに,上下・前後軸の優先性が使われている.この説明では,実物が鏡に正対している場合を扱っているだけで,任意の向きで相対している場合はどうなのかという疑問が残る.しかし,その場合についても,いくらか込み入った数学を使えば,同様に説明できるはずである.

 他方,前記の「問題の還元」を行い,還元された問題に対して,3軸決定の順序性を適用すれば,実物と鏡の相対位置にかかわらず,左右の逆転を一般的に説明できる.実物の対掌体である鏡像で逆転した1軸は,決定が後回しになる左右軸に押し付けられるほかない,というのが答であり,これがTabata−Okuda報文の採用した説明である.同報文は,吉村の説明の一般化に必要な込み入った数学を,対掌体の性質についての立体幾何学上の知識で代用したのである.

 なお,吉村は第2段階において,実物と鏡像の対掌体関係を利用してはいないが,その本質である「1軸について逆転した関係」を「鏡映変換による1軸逆転の原理」と呼び,左右逆転感の有無を分析する際の基礎として,一貫して利用している.

1.3 文字の鏡像:特に上下対称文字の扱い

 対称性のない文字の鏡像が左右逆転することについて,Tabata−Okuda報文は,文字に固有の上下・前後・左右を,人ほか一般の物体の場合と同様に仮に定義すれば,後者についてと同じ説明があてはまる,としている.文字に固有の上下は,普通われわれが文字を読むときに視野の上下にそれぞれ合わせる向きであり,特に問題はない.文字に固有の前は,普通われわれが文字を読むときに相対する面,うしろは文字の書かれている媒体の裏面とする.そうして,この上下・前後軸から,人の場合と同様に文字に固有の左右を決めれば,その左は,われわれがその文字に正対したときに向かって右側にある方になる.これは,われわれが普通「文字の左」という側とは逆であるが,実物と鏡像の文字の両方で逆の定義になるので,左右逆転の理由を考えるのに支障はない.吉村が3.1節で述べている文字の左右逆転の説明も,Tabata−Okuda報文と同じ考え方である.

 ここで,「上下対称文字」の鏡像について特に考えて見たい.本書4.7に,「上下対称文字である『B』には鏡文字が存在する」とある.しかし,「B」の鏡文字と思われるものは,鏡面内での180度回転を考えれば,もとの文字と同じになるので,鏡文字ではないと見ることもできる.真の鏡文字ではない,というべきであろう.

 一般の物体は上下対称であれば,固有の左右軸が決められないので,狭義の鏡像問題の対象から自動的に除外される.他方,文字は上下対称でも,その文字の存在環境である本の構造や黒板の設置状態など,媒体の上下を頼りに,2次元的非対称性が学習される(吉村のいう「鋳型」の形成がなされる).その結果,例外的に3軸決定の順序性に従わないで,左右非対称性を優先した固有座標系の決定がなされる.これは一見,従属軸仮説に都合が悪いようだが,次のような理由で,上下対称文字は上下対称物体と同じく,狭義の鏡像問題の対象から除外されると考えられる.

 吉村が「B」の鏡像を鏡文字であるといったのは,観察者あるいは実物の文字の上下を鏡像にも適用した判断によるものである.これは,広義の鏡像問題に対する吉村説に出てくる「共用座標系」を一部利用したことになり,固有座標系の使用のみを考えている狭義の鏡像問題にはおさまらない.また,「B」の学習において生じた固有座標系における左右軸の例外的優先を適用すれば,鏡像を180度回転して実物と比較し,鏡像には逆転がないと判断し,やはり,「左右が逆になるのはなぜか」という狭義の鏡像問題の対象に入らなくなる.上下対称な一般の物体が除外されるにもかかわらず,上下対称文字は除外されないと考えるのが無理なのである.狭義の鏡像問題の対象となる文字を,1.1や本節の初めに記したように,単に「対称性のない文字」としておけば,上下対称文字を左右対称文字とともに除外できる.この点で,Tabata−Okuda報文は不明確であった.

1.4 従属軸仮説

 前々節で要約した吉村の狭義の鏡像問題に対する説明は,第2段階においてTabata−Okuda報文のものとは相違があるとはいえ,基本的には3軸決定の順序性に基づいており,同報文と同じく「従属軸仮説」に属するものである.

 従属軸仮説という名称は高野[2003]による「優先次元仮説」という命名を修正したものである.修正の理由は,決定が優先されるのは上下・前後の2軸であるが,逆転が問題になっているのは,これらに従属的に決まる左右軸であるから,「従属」を前面に出す方がよかろうということである.高野自身も鏡像問題を扱う中で,高野(1997)とTakano(1998)の両文献において,左右軸の従属性に言及している.しかし,彼はこれを鏡像問題の答の中心には据えなかった.問題の捕らえ方がTabata−Okuda報文とは異なり,心理的認知過程に重点をおいたものだったからであろう.

 Takanoの論文(1998)への反論としてTabata−Okuda報文と同時に同じ心理学誌に掲載されたニュージーランドの心理学者Corballisの報文[2000]や,Takano論文とCorballis・Tabata−Okuda両報文に気づかないで執筆されたイギリスの心理学者McManusの著書[2002]中の説明も,従属軸仮説に属するものである.

 吉村は1.7と5.6節で,私が3軸決定の順序性を「物理学的定義」と考えている,としている.これは,いささか誤解を招くおそれがある.「はじめに」において,Tabata−Okuda報文の説明について,「細かくいえば光学と幾何学,それに左右の定義の性質が利用されている」と,吉村が述べているのは,たいへん正確である.しかし,吉村は,そこで「本書ではこれを『物理学的説明』と略称する」と記したことにあくまでも忠実に従って,「物理学的定義」ということばを使ったのであろう.私の考えを正確にいえば,この順序性は,発生の原因は別として,既成の規則(左右1軸に着目すれば,その定義)と見る限り,心理には関係がない,ということであり,「物理学の対象になる性質のもの」という意味ではないことに注意して欲しい.

 また,第7章の導入部に「鏡に映る物品には上下・前後・左右が固有的に定まっており…」と私が提案している,とある.私は自然科学の取り扱い対象を「物品」といわずに「物体」という.しかし,これはむしろささいなことで,もっと重要なのは,この表現では,鏡像が上下・前後・左右という軸名を書いた札でもぶら下げて立っていて,他の座標系の使用を許さないかのような誤解を与えそうなことである.実際,吉村自身がそのあとで,このような物理学的説明に従えば,鏡を見る者は,いつも左右逆転感を抱かなければならなくなる,と述べている.Tabata−Okuda説の真意は,「固有座標系を採用する限りでは,つねに左右が逆転している」ということであり,固有座標系を採用しない場合を考慮したからこそ,古来の疑問文の成立条件を明確にするため,この座標系を持ち出したのである.

1.5 鏡映変換

 話は少し後戻りするが,この節では,狭義の鏡像問題が「物理的」に説明できるはずだという私の考えのもとになった事項について説明し,続く節で,過去の物理学者や数学者の鏡像問題への関わりを整理しておきたい.そうする中で,本書中の吉村の記述に関連する事柄とその問題点が,いくつか浮かび上がってくるからである.

 物理学の基礎である力学の学習のごく始めに,立体幾何学や物理学でよく使われる右手直交座標系というものを学ぶ.この座標系に対して,座標軸の1本(あるいは3本とも)を逆向きにする変換を施すと左手直交座標系が得られ,この変換は数学的には,行列式の値が−1になる行列で表すことができる.いま述べた数学的表現について,ここで理解して貰う必要はない.この変換が「鏡映(reflection)」と呼ばれていることが重要なのである.

図1
図1

 本書9ページの図1(上に再現)で,O1をx軸,O2をy軸,O3をz軸としたものが右手直交座標系である.この名称は,右手の掌を上に向け,親指,中指,人差し指を互いに直角になるように伸ばし,それぞれをx,y,z軸と見立てれば,この座標系の模型ができるからである.この座標系の特徴は,x軸を90度回してy軸の方へ持っていく回転で右ネジ(普通のネジ)の進む向きが,z軸のプラスの向き(O3の矢が指している向き)になっていることである.

 同じ図で,O1'をx'軸,O2'をy'軸,O3'をz'軸としたものが左手直交座標系である.この座標系では,z'軸のプラスの向きは,x'軸からy'軸への回転で逆ネジ(左ネジ)の進む向きになっている.図形O1O2O3の鏡像がO1'O2'O3'であったことから,右手直交座標系から左手直交座標系への変換を鏡映と呼ぶことが納得できるであろう.

 本書1.1節で鏡映変換と呼ばれている操作は,一つの座標系内での実物の各点の座標値を鏡像の各点の座標値に移す「負号化」の変換であり,いま述べた座標系同士の変換とは意味が少し異なる.しかし,座標値と座標軸の向きという相違こそあれ,「1軸について逆にする」ことは共通であり,どちらも鏡映による構造の変化(対掌体への移行)に対応している.

 なお,鏡映変換のことを「反転(inversion)」と呼ぶ場合もある.したがって,数学・物理学用語としての「反転」は,対掌体の出現する3次元的なひっくりかえしを意味しているので,前後や左右の1軸が逆になる意味で「反転」を使うことは,私にはなじまない.それで,吉村が「左右反転」等と書いているのを引用するときも,私の文中では「左右逆転」等としているが,本書の副表題にある「鏡像反転」は数学・物理学用語としての反転の用法と合致している.

1.6 物理学者と「心理」(1):朝永の随筆

 私が鏡像問題に初めて出会ったのは,朝永振一郎の随筆集[1965]中の書名と同題名の短い文においてだった.朝永はまず,彼の好んだ落語のような調子で鏡像問題をくだいて述べているが,それは要するに古来の疑問文と同じである.私はそれを読んで,前節で述べた鏡映変換を連想した.そして,実物と鏡像の関係は,右手直交座標系と左手直交座標系の間の数学的関係と同じだから,この問題の答は,数学屋や物理屋にはほとんど自明のはずと思った.

 ところが,朝永は,理研時代に研究者仲間と議論した折に出たいろいろな考えを分かりやすく述べた後,「心理空間には上と下の絶対性のほか,前うしろの絶対性があるらしい」と書いている.私は,「上下・前後は,左右がそれらの向きとの関連で決まるという意味で,少し特別な役割を担っているにすぎないであろう」と考え,「心理」ということばの出てくることを不思議に思った.私はこの時点で,従属軸仮説の入口近くまで来ていたのである.

 第3軸の向きが,第1,第2両軸の向きとの関連で決められなければならないことは,右手直交座標系や左手直交座標系でも同じである(先述の右ネジ,左ネジの関係).これらの座標系では,x軸とy軸の向きからz軸の向きが決まるのと同様に,y軸とz軸の向きからx軸の向きを,また,z軸とx軸の向きからy軸の向きを決めることもできる.これに反し,上下・前後・左右軸には,このような平等性がない.ここに,左右軸決定の従属性が潜んでいる.

 朝永の結論は次の通りである.

 右と左が逆になっているとか,上と下とが逆になっているとか,あるいは前とうしろとが逆になっているとか,そういう判断は,鏡のうしろに実さいにまわって立った自分の姿を想定して,それとの比較の上での話であろう.そうすれば結局は,鏡の横を通ってうしろにまわった自分の方が,鏡の上を通って向こうがわでさかだちしている自分より想定しやすいからであろうし,…(以下略)…

これは,高野(1997)の分類では「移動方法仮説」に入るものと思われる(以下いろいろな仮説の名称は,いずれも高野による).朝永はさらに,「何かもっと一刀両断,ずばりとした説明があるのか,読者諸兄に教えていただきたい.」と記していた.私はこのことばにつられて,そのとき思いついた考えを朝永宛の手紙文の形にまとめ,随筆集の出版社へ送った.随筆集発刊後まもない頃だったと思う.

 私は従属軸仮説に近づきながらも,朝永の文にあった「平らにおいた鏡では上と下が逆になる」ということに惑わされ,これにも直接あてはまることばで説明をしようと苦心した.その結果,このときの私の説明はいささか奇妙なものになってしまい,ここに記すほどの価値がない.あまり期待はしていなかったが,朝永から返事を貰えなくて当然であった.

 「上下が逆になる」のは,古来の疑問文で「左右が逆になる」というときの基準とは異なった基準を採用しているからであり,同一のことばで説明する必要はなかったのだ.この異なった二つの基準が,本書第5章に述べられている共用座標系と個別化座標系であることを,読者はすでに理解ずみであろう.

1.7 物理学者と「心理」(2):ファインマンの説明

 朝永およびシュヴィンガーとともにノーベル物理学賞を受賞したファインマンも,大学生時代に鏡像の左右逆転について考えていた.その話は,グリックによるファインマンの伝記[1992/1995]中に紹介され,グレゴリーの本(1997/2001)にも引用されている.ファインマンは,朝永によく似た次のような説明をしている.

 われわれは自らをつぶすように変形して前後を逆にすることを想像できないので,鏡の向こうへ回って反対に向いたかのように,左右入れ替わった自分を想像する.左右が逆になるのは,この心理的な回転による.(グリックの原書から筆者訳)

 いま引用したファインマンの説明に類似の記述が本書2.1節にもある.「自らをつぶすように変形して前後を逆にする」(吉村の場合,身体を「裏返す」ことを,逆に鏡像に対して行おうとする)ことは想像できないという記述に対し,グレゴリーは,写真ではわれわれ自身が平らに押しつぶされているのを見慣れており,そのような想像ができないとはいえない,と反論している.これに反し,吉村は,逆さめがね実験で上下の「裏返し」は行われる場合があるが,前後の「裏返し」は行われないという結果(6.3節)に根拠をおいて,この想像を不可能としている.想像できるかどうかは別として,このような想像を左右逆転の説明の引き合いに出すことには,次のような欠点がある.

 身体の前後を逆にする変形が想像できたところで,それは,対掌体の一方を任意の向きについて逆にすれば,他方と同じになることを一つの軸について試みただけのことである.この操作で実物と鏡像が同じになるからといって,前後軸が逆転した軸だという決め手にはならない.つまり,この操作は,もともと逆転の向きを見いだすものとしては不適当なのである.こう考えれば,「その想像ができないので,自分を回転させる結果,左右が逆になる」という論理は成り立たないことになる.

 少し脱線したが,前節と本節でいいたかったのは,朝永やファインマンといった優れた物理学者たちが,鏡像問題を十分「物理的」には説明しておらず,逆に,心理ということばを持ち出していたことである.彼らは既存の考え方に捕らわれない自由な発想を得意としたので,理論物理学上の問題にくらべればずっと簡単な狭義の鏡像問題については,発想力を働かせすぎたのかも知れない.それにしても,量子電磁力学上の同一の難問題を解いた朝永とファインマンが,鏡像問題でもよく似た説明をしていたのは面白い.

 他方,グレゴリーは,先に引用したファインマンの説明は明快でないとしながらも,次に引用する後続の説明が「まったく正しく明快である」としている.それは,その説明がグレゴリー自身の「回転仮説」に一致しているからだが,ファインマンが先に心理を持ち出したことを,心理学者のグレゴリーは退け,鏡像の左右逆転に心理は関係していないと主張している.

 文字が左右逆になるのは,本を鏡に向けるため垂直軸の周りに回転したからだ.代わりに本を上下ひっくり返すことは容易であり,この場合には文字は上下逆に見える.(グリックの原書から筆者訳)

 しかし,逆さにもった本の文字が逆さに映っているからといって,それは,鏡映による逆転の説明にはならない.また,このとき鏡の中の文字は,上下が逆である以外に,本を垂直軸の周りに回転したときに見られるのと同じことを相変わらず起こしている.ファインマンはこれを見落としたのであろうか.そうでなければ,一見なるほどと思われる説明で,聞き手たちを煙にまいたのであろう.ファインマンの性格から考えれば,これも大いにあり得ることである.

 私は最近ニュージーランドを旅行して,ミラーレイクという湖のほとりを散策した.そこには,水面に映った影で Mirror Lake と正しく読めるような看板が立っていた.看板にどのように書けばよいかを考えれば,ファインマンが見落としたかと思われる事柄が理解できよう.(第3章と4.6,4.7節をよく理解した読者は,そこまでしなくても分かるであろう.)

1.8 数学者の示唆(1):滝沢の教科書

 1985年3月12日づけ朝日新聞夕刊の科学質問欄「こちら科学部」に,鏡像問題についての質問が掲載された.編集委員は,前出の朝永の随筆とガードナーの著書[1964/1971]に触れたあと,読者の解答を求め,投稿を呼びかけていた.私は朝永宛の手紙と同様の趣旨を,もう少し簡潔にまとめて送付した.

 同年4月16日の夕刊に,読者からの反響の一部が,かなりのスペースをさいて紹介された.私の説明は採用されなかったが,掲載された答の中で私の考えに近かったのは,多摩市の主婦・橋詰節子が20年前に滝沢精二の大学生向け代数学教科書[1964]で出会って,目からウロコが落ちるような気がした,として引用していたものである.

 その答は,滝沢の本の「1次変換」の章中,「ベクトル空間の向き」という節の一つの問題に対する解答として,巻末にのっている.問題は,「鉛直に立てられた鏡に向かうと,左右が逆になって映ることはよく知られている.では,なぜ上下が逆にならないか.」となっている.滝沢は私が大学1年のときに数学を習った先生の一人であるが,その頃は,まだ彼の教科書は出版されていなかったし,教室で鏡像問題を出題された記憶もない.答を滝沢の本から直接引用する.

 鏡に映るとき,実は左右も上下もそのままで,ただ前後だけが変わる.ところが,われわれの日常用語では前後を指定して初めて左右が定義されるもので,前後を逆にすれば,左右は逆になるとみなされている.これに反して上下の定義は前後の指定に関係しない.

 滝沢の答は3軸決定の順序性をふまえたものかと想像されるが,文面には,上下の決定も左右の決定に優先することが現れていない.また,「日常用語では」という表現からは,ガードナーの前出書にある「言語習慣仮説」に似た考えだったとも推定できる.われわれがTabata−Okuda報文を書くにあたっては,滝沢の説明から最もよいヒントを得たのであり,彼の著書を文献として引用したが,上記の不明確さにも言及した.

1.9 数学者の示唆(2):矢野の随筆

 本書1.2節の始めに引用されている矢野の文の終わりのことばを,吉村は,「鏡像と実物で左右が逆になっていると見ることは,心理学の問題だと述べている」ものと理解している.しかし,矢野の文には,鏡像で逆になるのを前後と見るか,左右と見るかは「見解の相違であって,どちらも正しい」とある.これは,いかにも数学者らしい意見である.この二つの見方は,心理的原因は別として,結果的には,採用する座標系の相違にすぎない.一般に数学あるいは物理学の問題は,どのような座標系を採用しても,同様に取り扱うことができ,得られる本質的な結論は同じになる.したがって,より便利な座標系というものはあっても,正しい座標系とか間違った座標系というものはなく,鏡像の見方についても,数学的な立場からは,「どちらも正しい」という評価が出て当然なのである.

 この点に注目すれば,矢野のいう「心理学の問題」は,吉村が受け止めたのとは異なり,「後者のように[左右が逆になると]考える人が多いとすれば」を直接受け,「その理由は何か」を意味するものと思われる.こう解釈すれば,それは,まさに吉村が本書のテーマとした問題の一端を示唆していたことになり,7.1節の「全員が左右反転感を抱くのか」とも密接に関係している.

2 広義の鏡像問題

2.1 発端

 高野が自らの論文(Takano, 1998)への反論には納得できないで,実験的に研究を続けていることを,私は彼自身から聞いていた.鏡像問題を狭義にしか捕らえていなかった私は,この問題にどのような実験的研究があり得るのかと,いぶかっていたのだが,本書「はじめに」にも紹介されている日本認知心理学会シンポジウムでの高野の講演を聞いて,なるほどと思った.彼は被験者たちに自分たちや文字などの鏡像を見せて,どういう逆転を認知するか,あるいは認知しないかなどを調査していたのである.これは明らかに,Tabata−Okuda報文が扱った範囲外の問題である.

 シンポジウム後,高野,吉村,私,ほか1名がコーヒーやジュースを飲みながら,かなりの時間にわたって議論をした.私は高野に,鏡像の認知に関することは,Tabata−Okuda報文の守備範囲外の,心理的問題であり,それはそちらで大いに進めて下さい,という旨のことを告げた.Tabata−Okuda報文は,古来の疑問文を字義通りに捕らえる形で問題を明確化し,それに「物理的説明」を与えたのであったが,他方では,報文の本質に関わることではないとはいえ,鏡像の認知に関する問題を全く棄却してしまうという,いささか不遜な態度のものであった.

 吉村も,「はじめに」で述べているように,その後さらに高野と意見交換をすることにより,鏡像をどのような場合にどう認知するかという問題を含めた広義の鏡像問題に目を向ける必要性を感じたのであった.高野は早くから広義の鏡像問題に気づき,それと取り組みながらも,狭義の鏡像問題にも定説のなかった頃に発表した論文では,そのことを明確に打ち出せていなかったといえよう.しかしながら,Takano論文は,CorballisとTabata & Okudaの従属軸仮説を引きだす上で重要な役割を果たしたのである.

2.2 問題の解釈

 広義の鏡像問題は,以前から狭義の問題にまつわりついてはいたが,それを正面切って取り上げたのは,おそらく本書が初めてであろう.したがって,いまこの問題を包括的に述べることは難しいが,「『われわれは,鏡像を左右が逆転していると見る場合もあれば,逆転していないと見る場合もある.これはなぜか.』という疑問を基本とし,これから派生する諸問題を含むもの」といえるのではないだろうか.ここで表明されている疑問は,1.1で述べた古来の鏡像問題に対する反論を,問題の中に取り込んだものである.

 このように表現された広義の鏡像問題は,矢野の随筆にあったような,鏡像では前後より左右が逆になるという見解をとる人が多いとすれば,それはなぜかという問題や,後で述べるような心理的諸問題をも含むであろう.しかし,基本的疑問の範囲では,狭義の鏡像問題と同様に,「物理的説明」ができると思われる.私は少し先走りして,1.9でその説明の核心に触れたが,それは,「相異なる座標系を使用しているところに原因がある」ということである.

 この説明を,もう少し詳しくいえば,次のようになる.狭義の鏡像問題が意味しているように,実物と鏡像のそれぞれに固有の1対の座標系を使って判断すれば,鏡像ではつねに左右が逆になる.他方,観察者,鏡または空間に固定した一つの座標系を実物と鏡像の両方に適用すれば,鏡像は鏡面に垂直またはこれに近い軸で逆向きになると判断される.(後者の判断は,鏡映についての幾何光学からの結論に直結しているので,前者の判断ほど理解が難しくない.)

 ところで,われわれは鏡に向かったとき,いつも客観的な合理性をもって座標系を選択し,左右逆転の有無を判断しているのではない.無意識あるいは半ば無意識で,どちらかの座標系を使っている.どういう場合に一方の座標系を採用し,また,どういう場合に他方の座標系を採用するのか.同じ状況下でも,何かのきっかけで,一方の座標系から他方の座標系へと,視点が移ることはないだろうか.…というような疑問がいろいろ湧いてくる.これらは広義の鏡像問題の含む心理的課題である.吉村はこのような「広義の鏡像問題」を本書の中心テーマとして取り上げたのである.

2.3 吉村説とその意義

 吉村は第2〜4章で,広義の鏡像問題に属する心理的状況の分析をしている.その分析は当然,「物理的」面にも及ぶことになる.広義の問題については、この面に限っても、明白な形で取り上げた文献がなかったからである.彼は,その周到な準備をふまえ,鏡像問題の数ある説に仲間入りするものとして,「座標系の共用―個別化説」を提唱している(5.1節).吉村の鏡像知覚に関する的確な分析は,逆さめがね実験からの多くの知見をも参考にしている(第6章).  吉村説に対する彼自身の「仲間入り」的位置づけは,「あとがき」にも再び記されている.しかし,従来の諸説が,主に古来の疑問文に答えることのみにかかずらっていたのに対し,吉村説は,広義の問題に属する鏡像の認知という心理面に,初めて意識的に切り込んで得られたものである.したがって,私は,この説は従来の諸説と並ぶものではなく,それらより一歩進んだレベルに位置づけるべきものと考える.

 吉村説中の個別化された座標系(固有的定位)は,1.1でも述べたように,Tabata−Okuda報文中の固有座標系と同じものである.同報文が「固有座標系で判断するとき」という限定をしたのは,問題の成立しない別の座標系での判断を除外するためであった.別の座標系として私の頭にあったのは,前節でも触れた,観察者,鏡または空間に固定された座標系である.これらの座標系の鏡像問題での共通点は,実物とその鏡像の両者に共用されることであり,吉村説が固有的定位に相対するものを共用座標系と呼んでいるのは,まことに適切である.

 共用座標系が存在し,鏡像に左右非逆転という判断をするときの枠組みを与えていること自体は,「物理的」面であり,これに適切な一括名称を与え,広義の鏡像問題への「物理的説明」をも含む答を見だしたことは,いわば,心理学者吉村の物理学的功績である.また,吉村が5.6節において,物理事象と心理事象との境界を論じているのも,実に行き届いた取り扱いである.

 ただし,5.6節の最終段の記述には,論理のずれが見られる.吉村は,鏡に映った自分の顔の左右や自動車のバックミラーの左右では,心的処理として前後より左右を優先させている,と述べ,これらは3軸決定順序のルールが当てはまらない事象である,としている.しかし,これらの場合の「優先」は,前後の逆転感を取り除くことより左右の一致感を尊重する,という意味であり,個別化座標系よりも共用座標系を優先したのであって,1座標系中の軸の決定で左右を前後より優先し,3軸決定順序のルールを破っているのではない.

 本節では,吉村説の位置づけと,鏡像問題の「物理的」面での同説の意義を述べた.吉村説の鏡像問題の心理的面での意義,あるいは心理学上の意義については,いずれその道の専門家たちが論ずるであろうから,私がそこまで踏み込むことは差し控えておく.

2.4 「今後の課題」について

 この節では,本書第7章「今後の課題」中のいくつかについてコメントする.

(1)主導権争い

 第7章の始めに,鏡像問題について,「物理学と心理学が主導権争いをしてきた」とある.これは,物理学者は「物理的」説明を,心理学者は心理学的説明をしてきた,という意味ならば,1.6と1.7に記したように,事実と異なる.したがって,これは,「物理的」に説明できるという考え方と,心理がかかわっているという考え方とが争ってきたという意味であろう.

 しかし,従来主に考えられてきた古来の疑問文としての鏡像問題,すなわち狭義の鏡像問題については,従属軸仮説が示したように,心理は本質的なかかわりがないという形で決着がついた,と理解すべきで,吉村も第7章でそのように述べている.古来の疑問文の字義通りの解釈があてはまらない場合について,あるいは,あてはまる場合とあてはまらない場合の分岐についても考えようとすれば,それは,広義の鏡像問題になり,心理のかかわりは,そこで初めて登場する.広義の鏡像問題の心理面の研究が,「物理的」理解をしっかりとふまえた上で,いっそう進展することが望まれる.吉村が書いているように,哲学もかかわりも持つとすれば,今後の鏡像問題研究は,ますます興味深くなると思われる.

(2)対面映像

 吉村は2.2と7.2節で,自分の鏡像の左右の認知に当たり,それに向かって「回り込む」のは,その像を,自己の姿ではなく対面している他人の姿と見立てている可能性がある,と述べている.私は,これは単なる可能性ではなく,この見立ての上にこそ,鏡像への固有座標系の適用が成り立っているように思う.

 私はさらに,鏡に正対しているときの鏡像の左右の認知には,回り込みの操作を必ずしも行っていないと推定する.対面している他人の左右を認知する初期においては,回り込みをしているであろうが,そのうちに,対面位あるいはこれに近い相対位置にある他人の左右は,自分の左右とは逆側にあるという「認知の近道」が形成され,それに頼る場合が多いのではないだろうか.そしてこれが,自分の鏡像を他人と見立てることと組み合わされば,その左右の決定に回り込みは不要となる.しかし,これはあくまでも,心理学の門外漢である私自身の経験的推測に過ぎないので,今後の研究がまたれる.

(3)片腕切断者の鏡像

 2.5と7.5節に,「不幸にして左腕を切断した人」の鏡像の知覚についての話がある.右手を上げた人が鏡を見て,上がっているのは「右手」と見るのは,「上がっているのは,『あなた』のどちらの手ですか」への答である.他方,「左手」と見るのは,「上がっているのは,『鏡の中のあなた』のどちらの手ですか」への答である.つまり,二通りの答は互いに異なる問いに対応しているが,この話についての吉村の記述は,どちらの問いを対象にしているのか不明確である.左腕のない人が,「鏡の中の自分」の意味でも,右手を上げていると判断したとすれば,それは,その人が不幸のせいで左右の通常の定義に従っていない,ということになる.

 その人自身の手を問題にするのならば,その答を,わざわざ鏡像で判断させるのも奇妙である.鏡像を無視して,自分自身の筋肉感覚でも答が出せるからである.鏡に向かっている被験者の右肩のうしろに質問者がそっとハンカチでもかざして,「ハンカチがかざされているのは,あなたのどちらの肩ですか」とたずねる方がよいであろう.

 この問いには,鏡像に固有の座標系での判断を下すのは場違いであり,また,わざわざその判断を経由して被験者に固有の座標系での答を出す必要もない.したがって,被験者を基準にした共用座標系での判断から,左腕を切断した人でなくても,「右肩」という答が即座に出そうである.しかし,実験結果がどうなるかは単純に予測できない.

 左利きや両手利きの人の中には,自分自身の左右の判断自体にいくらか時間のかかる人もいるので,上記のような実験にはその考慮が必要であろう.こういう私も,幼児期に一時左利きだったし,いまでもドライバーを使うときなど,つい左手を使っており,ある意味での両手利きであるせいか,左右の判断に時間がかかる.

(4)直角合わせ鏡

 7.7節の始めに,1枚の平面鏡の前で右手を上げている自分の鏡像が左手を上げていると見えるのは,本当の意味での左右逆転ではない,とある.直角合わせ鏡での左右逆転が,左右逆転めがねに相当し,心理的に難しい問題をかかえている,ということを述べた後続の文から,著者がこのようにいいたい心境は分かる.しかし,「本当の意味」ということばを持ち出すことは,どの座標系を採用するのも正しいという矢野の妥当な考えに逆らっており,鏡像問題の議論を複雑にしかねない.

 1枚の平面鏡での左右逆転は,鏡像に固有の座標系での判断であり,上下軸方向で合わさっている直角合わせ鏡での左右逆転は,共有座標系でのものである.この系で左右の逆転していることが,特に観察者の運動に際して,左右逆転めがねと同じ効果を生じるのであろう.だからといって,こちらの左右逆転が本当であり,他方がウソである,というようなものではない.直角合わせ鏡は,自分の顔を他人が見る場合と同じように見せてくれる点で,「左右を逆転しない鏡」としての長所を持っているともいえる.「回り込み鏡」と呼ぶのがよい,という吉村の提案には賛成である.

おわりに

 この文では本書の記述の比較的細かい点について,いくつもの異論を書いたが,吉村の新しい説については,私は大局的に大いに賛同するものである.異論のほか,本書の蛇足的解説やTabata−Okuda報文についての多くの我田引水的説明なども記したが,それらが鏡像問題のよりよい理解と,同問題研究の今後の発展に,少しでも役立つならば幸いである.

 最後に,本書と鏡像問題についての一物理屋の見解をここに述べる機会が与えられたことに対し,本書の著者に深く謝意を表する.

文献

Corballis, M. C. 2000 Much Ado about Mirrors. Psychonomic Bulletin & Review, 7, 163-169

ガードナー, M. 坪井忠二・小島弘(訳) 1964/1971 自然界における左と右 紀伊国屋書店;坪井忠二・小島弘・藤井昭彦(訳) 1990/1992 新版 自然界における左と右(原書改定第3版) 紀伊国屋書店

グリック, J. 大貫昌子(訳) 1992/1995 ファインマンさんの愉快な人生 岩波書店

McManus, C., 2002 Right Hand, Left Hand. London: Weidenfeld & Nicolson

高野陽太郎 2003 シンポジウム5:鏡映反転―鏡の中で左右が反対に見えるのは何故か? 日本認知心理学会第1回大会発表論文集, 4

滝沢精二 1964 代数学と幾何学 広川書店

朝永振一郎 1965 鏡のなかの世界 みすず書房;1981 朝永振一郎著作集1 鳥獣戯画 みすず書房;1997 量子力学と私 岩波文庫

 なお、Tabata−Okuda報文(Tabata, T. and Okuda, S. 2000 Mirror Reversal Symply Explained without Recourse to Psychological Processes. Psychonomic Bulletin & Review, 7, 170-173)は、http://www.psychonomic.org/PBR/ から無料でダウンロードできる。

2004年4月

付記

 吉村は「鏡の中の左利き―鏡像反転の謎―」において提唱した説に、多幡とともに手を加え、次の論文として発表した。
  H. Yoshimura and T. Tabata, "Relationship between frames of reference and mirror-image reversals." Perception Vol. 36, pp. 1049-1056 (2007).

 小特集−鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か? 認知科学 Vol. 15, No. 3, pp. 496–558 (2008)[小亀、多幡、高野の各説、相互批判、批判への回答、の各論文がここから無料ダウンロードできる]。

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