水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第六章/十一編


「その暖かき懐に。」


 『駆け引き』、嫌な言葉である。父は、母の実家で夢を見失った。その事を、息子である私に嘆いた事は一度もない。死んで十七年、振り帰ると当時のすべてが、そこに集約される。母は父の死後、潰れた夫の人生の後悔を背負い、未亡人として十二年を過ごした。
 「なんで、お前は、大阪からこっちに帰ってきたんだろうね。」
不満げに、つぶやく母の言葉を聞いたのは、病床であった。夫である父が、夢を見失った場所に、こともあろうに、息子である私まで戻ったのだ。
「親父とお袋が育てた子だ。潰れるはずがないじゃないか。」
そう言いたい私が、やっと言葉に出来たのは、父母の墓を建てた時だった。
その一番嫌いなカケヒキを、私は、母への『癌告知』と言う、最も悲しいスタイルで迎える事となった。告知するべきか否か、そのカケヒキが重くかぶさってきた。命の期限を宣告された私に、母はカケヒキをしなくても済むように仕向けたのだ。暖かい母の愛は、私に告知させる隙を与えなかった。
「退院したら、今度はどこへ旅行に行こうかネェ。」
「がまんしても人生、パアッと遊んでも人生だしネェ。」
「思いっきり、パチンコするワァ。」
その時、大腿骨に転移した母の癌巣は、二度と自分の足で歩かせてはくれなかった。
「タバコ吸いたいから、喫煙室まで連れて行って。自由にタバコも吸えない所はイヤじゃねぇ。まるで、病人扱いじゃわぁ。」
「ほら、オシッコがしたいから、抱いて連れて行かんね。こんげな時しか孝行できんよ。」
「病院のごはんは、ちっとも食べた気がせんかい、今度みんなでレストランに行こうや。ウチが、おごっちゃるが。何がいいとね。チキン南蛮ね。」
車椅子に乗せ、連れて行った喫煙室で、顔見知りの患者さんに、息子である私の自慢話をした。子供達も一緒に行ったレストランで、母は、私にスペシャルランチを注文し、自分も、好きなハンバークステーキを注文した。しかし、一口も喉を通らなかった。
 か細く燃える母の命の炎にに対し、『告知』の水を浴びせる事はできなかった。息を引き取った母の肩に手を置き、主治医の土井先生は涙を流した。私が、癌の告知をしなくていいように、いつも明るくふるまっていた事を教えてくれた。
 母も亡くなり五年後、春、西日本最高峰『石鎚山』に、家族全員で登ろうと決めた。母の死後、全員で出来る手段として選んだ『家族登山』である。『土小屋』の登山口からであれば、ルート的にはきつくはない。鎖場をエスケープすれば、次男四歳も十分踏破出来ると考えた。
次女と長男は、葉や枝や雪で遊びながら楽しそうに歩いた。普段、多くを語らなくなった長女も、時折、私と歩調を合わせ、学校での話しをしてくれた。
 場所柄、登山者に混じり、巡礼のお遍路さんも多く、霊場『石鎚山』は、家族を、その大きな自然の懐に、スッポリと包み込んでくれた。家族六人が、同じ感情や考えでないことは当然だが、全員の息づかいや、視線や、歩調を感じながら、同じ山頂を目指していることには違いなかった。
「なんでぇ、ボクが、せんといかんとぉ?なんで、ボクがゴミ拾わんといかんとねぇ。ボクが捨てたっちゃねえとに・・・。」
「いい事するのに、なんでぇボクが・・・じゃねえが、他人がしなくてもボクがしたらいい。」
「・・・。」
と言いながら、石鎚山からの下山道で、長男六歳はゴミを拾いながら歩いた。
「よし、ゴミ一個拾えば、点数を一点あげるわ。」
「そしたら、今十五点やね。」
近くを歩いていた女性の登山者が、長男に尋ねた。
「点数貯まったら、お父さんに、お小遣いもらえるの?」
「うんにゃ。小遣いはもらえんとよ。点数だけでいいっつよ。」
宮崎弁なので、理解できたのか判らないが、彼は、何のカケヒキもなく、金銭より誇りを選んだ。当然だが、私は、精一杯彼を誉めた。
珍しく、五月、四国の石鎚山に、雪渓が残っていた。踏みしめる度、ギュッと固まる残雪が、とても暖かく感じたのは、今は亡き両親の懐の様に、神宿る山の心地よさなのだろう。


 
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