水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第六章/五編


二ツ岳に熊!


 長男5才を連れ、早朝に自宅を出発した。運動会シーズンも近づいていたが、山登りの相手をしてほしかった。延岡を過ぎ、日之影から見立渓谷へ向かう。『傾山』に登る計画で、登山口方面へ左折し、林道を走った。台風シーズン後の林道は、修復の跡が生々しく残っていた。水流がえぐった未舗装路を、いくつもまたぎ、『登山口へ』と標識の立つ分岐点に来た。しばらく車が通っていないのか、整備がされていないのか、夏草や笹が道を隠すように茂っていた。草を擦りながら、車を走らせると倒木が道をふさいでいた。やはり、この登山口へは、しばらく人が入っていないことが判る。道具箱の中からノコギリとナタを出し、直径15センチほどの木を除いた。
「まだ、行くとぉ。」
と、長男が聞いた。
「そおよ、もうすぐやが。倒れた木ぐらいで、お父さんは諦めんよ。」
しかし、そこからすぐの所に、今度は、落石が道を塞いでいた。
「ここから歩こうか。」
「うん。」
しかし、私は思いとどまった。子連れなので、登りやすいルートを選んだのだが、しばらく登山者が来ていないのかもしれないと、察したのだ。草の勢いに踏み跡が隠れているかも知れない、道に迷うかも知れない。諦めるのには、かなりの勇気が必要だった。葛藤があった。
「お父さんは、今日はここから登るのは止めるわ。」
「なんでぇ。」
「お父さんが、弱いから恐くなったんだ。」
「ふうん。」
「引き返して、別の山に登ろう。」
「いいけど、登らんでもいいけどぉ。」
「ごめんなぁ。父さん弱虫で、先へ行けなくて。」
なんだか、長男の肩を握り、涙ぐんでしまった。どんな感情なのか、自分でも理解出来ないが、挑戦せずに諦めた自分が情けなかったのだ。父親としては諦めたが、男としては悔しかった。しかも、息子を前にしてである。表現できない感情を、グッと飲み込んでいた。小さい集落のタバコ屋で、自宅に電話を入れた。女房の声が聞きたかった。
「傾山は諦めて、『二ツ岳』を登るわ。」
「そお、無理しないで、ゆっくり温泉も入って来たらいいわ。」
姉二人を小学校へ送りだし、洗濯を始めた頃の時間だなと思った。
 ヒタヒタと長男は歩いた。もう、手はつながない。あまり話しもしないが、時折、休憩をねだった。
「僕は、休憩をして、オヤツを食べるとパワーが出るっちゃがぁー。」
「そおか、でも、お前のパワーは、すぐ切れるなぁ。」
私から遅れながら、ヒタヒタついてくる。7合目を過ぎた頃、ガイド本に書いてあった、熊の爪痕の残る『イヌギリ』の木を確認した。
「熊がおるとぉ。」
「そうみたいやなぁ。」
「お父さん、途中で熊に遭ったら、どんげすっとぉ。」
「そりゃ、決まっちょっがぁ、お前を差し出して『どうぞ食べて下さい。』って言って、その間にお父さんが逃げるとょ。」
「何言いよっとぉ、そんげしたら僕は死ぬわぁ。」
「じゃけん二人とも死なんからいいわ。」
「やーっぱ、僕はお母さんが好きじゃがぁ。」
「そうか。」
「うん。」
それからの長男は、私から離れない速度で歩き、その日は、なんだが順調に山頂に到着した。返り道『日之影温泉』に入り、うどんを食べ、約束のアイスクリームを買った。車内で、そのアイスクリームを頬張りながら、
「お父さん、そろそろ僕は水曜日に、幼稚園を休まんようにするわ。」
「なんでか。お父さんと、山登りしたり遊んだりするのが嫌なのか。」
「うんにゃ、運動会やらお遊戯会やらの練習があるかい、休むと判らんくなるっちゃがぁ。」
「そうか。」
「まっいいが、時々でいいっちゃかい、休め。」
「うんにゃ。・・・・・・。」
「なあ。」
「・・・・・・。」
気持ち良さそうに眠っていた。
 数日前、そろそろ全員食卓に付いて、夕食を開始しようかとした矢先、長男が、何かを鼻の穴に押し込んだのを見た。
「お前、今、鼻の穴に何を入れた。」
と、私が叫んだのを聞いて、皆が集まった。次女が3才の頃、おもちゃを突っ込んだまま、数日、経って気が付き、取り出すのに大変な思いをしたからだ。私も、女房も、長女も、その記憶があったので、少し強く問いただした。あまりの迫力に、長男は不安そうに押し黙ってしまった。何度聞いても、答えようとしないので、女房がやさしく聞いた。上目使いに、答えた彼の言葉にビックリした。テレビを見ながら、鼻クソを指でホジり、丸めていたところに、ゴハンだと言われ、また後から丸めたかったら、鼻の穴に戻したらしい。マユをねじり、困ったような態度で、
「そしたら、また取り出そうか。」
と言った。全員が、大声で
「バカか、そのまま突っ込んでおけ。」
と叫んだ。その後、どうしたかは未確認である。
 いつも、ボーッとしているような長男であるが、姉2人も気付かなかったスルドさもある。朝食を食べながら、
「このおかず、昼の弁当にも入っているっちゃないやろね。」
と言った。
「あんたスルドイなぁ。」
と言う女房に、
「僕は、あんまりこれは好きじゃないとよ。ゲンキ君なんか、いっつもピリマヨウインナーとか果物とか、いろんなものが入っちょって良いっちゃがぁ。」
こんな指摘をして、警戒を促した子供はいなかったが、
「そう、あんたは、これが嫌いね。ゲンキ君ところはいいねぇ。」
と、言いながら、姉の頃から6年間、弁当のレパートリーも変えず、好き嫌いの区別も一切関係なく、強引な弁当を排出する女房に、子供達は誰も逆らいはしない。


 
Copyright(C) 水流渓人 All Rights Reserved

戻る