水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第五章/五編


蛍の墓


 次女が、聞いた。
「お父さん、『火垂るの墓』って、どんな話?」
「その話しだったら、ビデオテープがあるが。じゃけん、悲しくて泣くかも知れんぞ。」
「お母さんは、『火垂るの墓』の題名を聞いただけで、涙が出そうになるわ。」
「おねえちゃんも、幼稚園の頃から、何回も見て、大泣きしたもんね。私が、2年生の時は、クラスに本があったっつよ。」
「あんね、セツコって女の子の話で、そのお父さんと、お母さんが、戦争で死ぬっちゃがぁ。そして、セツコとお兄ちゃんは、親戚の所に引き取らるっけど、イジメられて、洞穴で二人で暮らすようになって、だんだん食べる物もなくなって、セツコは病気で体中に何か出来てきたっつよ。じゃけん、セツコは、イジメられた親戚ん所より、大好きなお兄ちゃんと、洞穴で暮らす方が、ずっと幸せだったっつよ。そして、死んでいった。残されたお兄ちゃんは、セツコを河原で燃やして、ひとりぼっちになってしもた。しばらくして、お兄ちゃんも、食べる物が無くなって、ひとり街角で死んでいくっちゅう悲しい話やっちゃが。」
「今は、嫌いな物だったら、食べない、イラナイと言っても、死ぬ事はないからいいね。」
ここまでで、女房は、涙ボロボロである。茶碗から、口にご飯を運びながら、長女がつけ加えた。
「お兄ちゃんが死んだとき、持っていたドロップスの缶から、出てきたのはセツコの骨やがね。」
私も、鼻水ズルズル、涙ボロボロになってしまった。家族の前で泣くことに、多少の羞恥も感じたが、誰も私をからかわなかった。それが、何だかほのぼのとした気分に思えた。九才、六才、四才、二才の我が子達を前に、涙を流しても、皆、私の感情を受けとめてくれていた。本能で、本音で触れ合う家族が、そこには居た。
 うれしい気持ちと、悲しい話しと入り交じり、言いたい言葉が目頭で止まってしまっていた。私が言いたかったのは、物が氾濫し、食べ物が豊富にあり、何もかも必要な物が揃う。そんな環境で、私達は暮らしている。『有難み』に対して麻痺した日常と、『不満』と『贅沢』だけを追求する現代に生きている。しかし、少しでもそれを否定できる人間になれる様に、今を生きていくのが、わが家の永遠のテーマであり、方法として選んだ自然相手の遊びなのである。
 家族で始めた『登山』も、なにかしら子供達に感じてもらいたいためである。それは、自分の足だけで確かめる事の出来る最高の満足であり、山頂からの景色は、いつまでも変わることなく、世俗を飲み込んでしまう大自然の恵みである。将来的に、わが子が、自分の子供を連れ、同じ山頂に立ったとき、今と同じ感動を与えてくれるに違いない。その手段が、どうして山登りなのか、人に聞かれる事があるが、核心の解答が出来ない。山に登らない人にまで、理解してもらう必要もないが、
「家族や親子で、アウトドアなんていいですね。理想的ですね。」
等と、よく言われる。それに、いろんな説明をしていた以前の私より、
「ええ、そうですか。」
と、簡単に答えられるまでになってきた。もっと嬉しいのは子供達で、山頂に立った嬉しさが、特別の自慢めいていた態度が消えた。長女も次女も、家族のペースを気遣い、弟をかばい、弟もへこたれずに山頂に立つのである。そこには、家族同士が、手の届く範囲でお互いを感じ、それぞれの足で大地を踏みしめ、山頂を目指す同じ目標が存在し、雄大な自然が、小さな家族をすっぽりと包み込んでくれる。気持ちよく。
 『6座縦走』計画が持ち上がった。所属する『山の会』で、10月度の例会登山を、私が企画することになった。思案重ねた結果の企画であったが、去年の霧島縦走の経験を生かし、縦走路を横切るコースの山を取り入れて『6座縦走』に決定した。
 まず、私は5月の下旬に、その中の一つ『大幡山』を一人で登った。『ミヤマキリシマ』満開の山頂付近で、最大スケールの『高千穂峰』を眺めた。その山頂からのびた登山道は、計画している『夷守岳』へ続いていた。『夷守岳』は、夏休み最後の週に家族で登った。地図上で膨れ上がった思いが、だんだん現実味を帯び、夷守岳〜丸岡山〜大幡山〜獅子戸岳〜新燃岳〜中岳のコースが構築されたのだ。
 登山組23名・サポート組7名・総勢30名が、早朝5時に集合地を出発した。登山開始7時半。夷守岳山頂まで、高度差750mを一気に2時間で上り詰めるのである。私は、3合目付近でバテてしまった。いつもの子供と登るペースでは、山の精鋭達にはついて行けないのである。しかも、その精鋭達は、冬山のトレーニングを兼ね、20キロ以上の荷を担いでいるのであるが、とてもついていけないのである。おまけに、起床時に脳裏をかすめた『下痢』に見舞われ始めた。最後尾から離れ、三度も息絶え絶えのゲリバビパッパである。下腹部に力の入らぬまま、遅れ遅れて歩く私を、いつもやさしい古田研一先生が気遣ってくれた。
 どうして、やさしい古田研一先生なのか、説明すると長くなるので、割愛させていただいて誠に申し訳ないが、今回、計画責任者は私なのである。ゲリバビパッパの責任者は、下腹に力の入らぬまま、単なる薄らハゲ親父と化した足どりで、やさしい古田研一先生の気遣いもままならず、今度は『嘔吐』に見舞われたのであった。この『六座縦走』の重圧を、計画責任者として完結させたい責任感と、登り始めて一時間でリタイアしかねない敗北感とが入り乱れ、人生の縮図を感じる山行を体験したのであった。昔の修行僧は、山岳信仰として山を奉り、荒行としての山登りをしたのだ。今、人生の終末を、この夷守岳の登りで迎えるのは、あまりにもみじめである。ましてや、責任者死亡の不報を、例会の登山で迎えてしまっては、由緒有る『山の会』の汚点として語り継いでしまうではないか。それにも増して、この場で、やさしい古田研一先生は、私を見捨てる事も出来ず、私の心境を儚んで後を追いかねないではないか。ゲリバビパッパの局部を右手で押さえ、ゲロゲロパッパの局部も左手で押さえ、長期間に渡る練りに練り抜かれた『登山計画書』に顔を埋めながら、夷守岳四合目付近にて昇天していく薄らハゲ親父の屍の隣に、寄り添うように倒れる『やさしい古田研一先生』の屍が、今世紀最大の感動超大作として史上に残るではないか・・・・・・。そんなことない?いやある!
 渦巻く心境の中、断念も考えてみたが、5合目付近で、ペースダウンしてきた全体に追いついた私は、とりあえず山頂を目指し、そこに立った自分の心境を見てみたくなった。一山過ぎ、残5山へと進む勇気が、果たして自分に湧いて来るのだろうかと、思ったのだ。ゲロゲロパッパの後、少し気分の回復を感じた私は、師匠の阿万氏が言った一言で壮快になれた。
「大丈夫じゃが。」
彼が言う一言は、耳から入るのでなく、体に染み込んで行くのである。もうすぐ50才を迎える彼は、長年の登山で膝を痛め、それでも未だ夢を追い続け、背中に20キロ以上のザックがある。そう、大丈夫なのである。彼が言うから間違いなく大丈夫なのである。そういう人間が、近くにいるのは本当にありがたい。客観的に見れば、『他人事だと思って、あんたになんかに私の事が、判るはずあるまい。』と言うのが通常だろうが、彼が大丈夫と言えば、私は素直に大丈夫だと思えるのだ。
 結局、山頂に立った私は、当然、歩く決意を固め、しかも喜びが倍増である。最近よく思うことだが、へとへとに消耗した体力以上に、歩いている、登っている喜びが大きい。自己体力の疲労のレベルより、喜びのレベルが上回れば、人は疲れることすら嬉しくなるのだ。そんな喜びたい自分が、疲労の限界へ自分の肉体を追い込み、完結へ誘い込んで行くのである。
 天候に恵まれ、祭日の賑わいもないコースで、静かな満足の『6座縦走』を終えることが出来た。ゴール地点となる『高千穂河原』には、9時間後の4時半に到着し、多くの登山客で賑わう中、我が山岳会は、この登山者の中で本日最多の山頂を踏んでいたはずである。何はともあれ、サポートしてくれた人達に感謝しながら、女房と子供達の顔を見たときには、途中リタイアまで考えてしまった自分を恥ずかしく思いながら、安堵感に包まれた。


 
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