水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第四章/十四編


痛快、印象派おじさん


 理屈ばかりのたまう不純な性格の私は、何の為に、誰の為に、働くのか、生きているのか考えると、内臓が全自動洗濯機の如くかき混ぜられる。その洗濯機もプログラムされた、給水・洗濯・排水・給水・すすぎ・排水・脱水・・・・ってな正確な動きではなく、接触不良で不安定な動きをする洗濯機の如くである。増してや、思考回路はメモリーが足りなくて、CPUの遅いコンピーターみたいで、記憶回路は断片化されるのである。
 私には親父の壁がある。現在三十九才。親父が他界したのは五十一才。あと十二年で私もその年を迎えるのである。何を考えても、脳裏から
「あと十二年で、私には何が出来るだろうか。」
という言葉が離れない。その先の想像は出来ないのである。考えのすべてが、そこに集約し、焦りと不満が蓄積してしまう。願望も欲望も、十二年という限られた期間の中で、どれだけ消化出来るのか・・・・・。と考え、何もかも投げ出して自分の事だけ考えていたい衝動にかられたりもする。うらはらに私が五十一才で生涯を終えれば、長女二十才・次女十八才・長男十六才・次男十四才なのである。決して十二年で、没する事無く頑張らねばならない。たとえ私が没しても、経済的な心配がいらないように、現在まで相当な無理をしている。すべて親父の壁が、その先を見せてくれないからだ。親父が生きていれば、現在まで、もっと気ままに生きて来られたはずだ。片意地張る事もなく、自分の気持ちに、もっと正直で、しかももっとグウタラにである。しかし、今の私は客観的・世俗的に見れば、普通の堅実な人間のはずである。それがたまらないほど我慢出来なくなり、切れてどこかに飛んでしまいそうでもあるが、家族と言う一本の糸が、私を現実にとどめてくれている。その糸は、私を安らげてくれる糸なのか、縛りつけてしまう糸なのか、答えは判らない。

 次女が小学校に入学した。細い細い手足体で、何を着てもブカブカ。しかし、気の強さと意地悪と、どんな虫でも触る勇気は素晴らしい。そんな彼女が、小学校三日目にして、行きたくないと言い出した。原因は、体育着替えの時に、男子の一人から
「毛深い!」
と言われたのが、相当のショックだったらしい。いつも
「私はサルの子だから、毛深いっちゃが。」
と、自慢げにふざけていたのに、彼女の中の感受性が変化してきたのだろうか。悩んでいる彼女に、
「ほら、お父さんだって毛深いだろ、お父さんの子供だから当然だろ。」
と、腕まくりをして、次女の腕と並べてみた。
「ほぅら、私の方が毛深いわ。」
と、余計に落ち込ませてしまった。そんな次女へ、
「私だってみんなから、つながり眉毛!って言われるけど、気にしないとよ。」
と、長女が言った。翌朝、長女と近所の三年生が、次女をかばう様に登校していった。そればかりか、長女は、次女の担任の所まで、言いに行ったそうである。家でけんかばかりの姉妹であるが、妹をかばう姉の姿には、やさしさと勇気が満ち溢れていた。
 長男4才、姉のいない幼稚園で、年中組を迎えた。朝の体操を意地でもしない。その意地張りも二年目を迎え、協調性のない変な奴である。弟にチョッカイを出して、いつも泣かせている。
「何をしたのか。」
と、問いただしても、絶対
「何もしていない。」
と、言い張る。目に余る行為に、寝る前、
「正直に言うまで、そこに立っていろ。」
と、気合いを入れた。二十分ほど直立の彼は、黙ったままで一人整列をしていたが、
「今度から気を付けろ!」
と、言う私に、
「ハイ」
とだけ答え、翌朝からまた弟への攻撃を開始していた。
 三ヶ月も山登りが出来ず、イライラ状態の私の所に、思わぬ話が舞い込んできた。女房の知り合いの知り合いに、オーストラリアから来て、英会話を教えているジュリィーさんがいる。彼女が、オーストラリアで高校の教師をしていた頃の同僚が、遊びに来るというのである。まったく知らない、関係のない話であるが、関係が出来てしまったのである。要するに、ジュリィーさんが仕事の為、相手が出来ない日、彼が山登りを好きなので、連れて行ってくれ!と言う依頼を、女房が引き受けたのである。初対面の外人を、果たして私が案内出来るのか!?周囲の心配を受けながら、約束の朝六時がやってきたのである。
 私の心境としては、周囲が心配するのとはまったく関係なく、山に登れる事と、まったく英語しかしゃべれない外国人と、一日を過ごせるのは、チャンス以外の何物でもない気持ちであった。単語羅列の行き当たりばったり会話の私でも、高千穂峰の登山口である『高千穂河原』に着くまでには、四十三才独身のジョージと、奇妙な会話がはずんだ。彼は、私の車と同車種トヨタ・ランドクルーザーを所持し、その価格が日本の倍以上であること。彼の務める高校は、生徒五百人に対し、教師が百人もいる学校であること。素晴らしい家とキャンピングカーも所有し、釣りやゴルフも好きだが、ウォーキングが一番好きな事。オーストラリアの中でも、タスマニア島に近く、そこのブッシュウォーキングは最高である事。私の家にはゴールデンレトリバーがいるのだが、彼は黒のラブラトルレトリバーを飼っている事。弟と妹がいて、父は十年前、亡くなっている事など、英語を喋れないはずの私が会話を続けたのである。私が単語に行き詰まると、その都度ジョージは
「私は日本語をまったく知らないのに、君は素晴らしい。」
と励ましてくれるのである。高千穂河原から遊歩道を経て、ガレ場の登山道になる頃、ジョージは、
「グッド エクセサイズ!」
「グット ビュー!」
を連発した。近くに見える新燃岳は、活火山で六年前には、一時登山禁止になっていた事や、高千穂峰も、八十年ほど前まで活火山であった事を説明した。つけ加えて、週末、彼が行く阿蘇は活火山の中でも、現在多量の噴煙を上げ、去年には火山性ガスによって二人が亡くなっている説明もした。
「今は大丈夫なのか?」
と聞く彼に、
「ノー プロブレム!」
と答えながらも、
「メイビー!」
とつけ加えた。
 御鉢で十分程休憩すると、後は一気に山頂を目指し、十時過ぎには『天の逆鉾』の前で記念撮影をした。十一時に下山を開始すると、ジョージが、
「日本人はあまり挨拶を交わさないのか?」
と痛い所をついてきたので、
「いや、山登りの時はコンニチハ!と言う。」
と答えておいた。数人とすれ違うと、気持ちの良い挨拶が戻ってきたので、私は内心ホッとしていたのも束の間、すごい事態が発生したのである。前方から同色の服を着た行列が、その数を増し、だんだん近づいて来るのである。聞くと、日南市の高校生が課外授業の登山をしていた。その数、百六十名。すれ違うたびに、ジョージは
「コンニチハ・コンニチハ・コンニチハ・コンニチハ・コンニチハ・・・・・・。」
を連発する羽目となり、挨拶不得手の日本人のイメージもずいぶん変化したはずだ。
 下山、十二時十五分、さて・・・。新湯温泉行きが決定した。二人で入る温泉で、ジョージは、
「裸で入っていいのか?」
と尋ねた。オーストラリアは温泉の数は少なく、混浴がほとんどで、しかも水着で入るそうである。彼の感覚で言うならば、バスルームに近い感覚で、石鹸でゴシゴシ状態が、日本の温泉!ってなところだろうか。その後、これぞ日本の風景『霧島神宮』を案内したが、それでなくても乏しい私の単語力では、説明が不可能となり、ウエストバックに忍ばせた和英辞典の登場となった。帰路、御池に寄り、登った高千穂峰の雄姿を再確認し、四時半、自宅着となった。
 自宅に着くと、『なんだか外人だぞ』状態を、遠巻きに様子を伺っていた子供達は、なかなか近寄って来ず、三才から英会話教室に通わせている長女・次女の授業料は無意味だったのか!という気分になってしまった。しばらくして帰宅してきた女房が、私よりずっと流暢な英語で挨拶を交わすと、次女が勇気を出して近寄ってきた。
「ハウ ドウ ユー ドウ.マイ ネーム イズ・・・・・。」
すると、長女も近寄ってきて挨拶をした。しばらくすると、不思議な事態が起きている事に気付いた。私より数段上手のはずの女房が、会話に詰まり、単語羅列の私が、スムーズにコミュニケーションをとっているのである。朝、家を出て十時間半。その九十八%を、メチャクチャな英語で過ごしていた私は、やはり思っていた通り充実していた。無料でマンツーマンのレッスンが受講出来、しかも山登りも出来た。なんとなく、海外が少し近づいた様な気分であった。
「うなぎを食べるか?」
と、私自信の感謝を表し、早めの夕食へ、家族とジョージと行った。食後、西都原古墳群公園を案内し、ジョージを迎えにくるはずの、女房の知り合いの家へと向かった。都合十五時間を彼と過ごせた意義は大きかった。
 先週の高千穂峰を下山する時、翌週の山行を胸中に決意していた。山の会仲間、しかも女性が、ネパールから戻り、しかも失業中と聞きつけたので誘い、ふたつ返事で相棒が決定した。そして、前日、もう1人失業中を思い出し、女房に誘いの電話をさせてみた。長女・年中組、次女・年長組の時にお世話になった、『あかね先生二十七歳独身』である。今年、退職したので、どうかと考えたのだが、これまたふたつ返事で参加を承諾してくれた。かくして、初登山の彼女を含め、三人で、人数少ない阿蘇を独占するべく、平日の贅沢登山が決定した。
 登山口の仙酔峡まで四時間、喋りっぱなしの車移動は、あっという間に過ぎた。まばらに咲くミヤマキリシマを眺めながら、仙酔尾根に取り付いた。初心者のペースも考えてみたが、なんのなんの、あかね先生は笑顔でついてくる。溶岩ゴツゴツの登山道をペンキの目印に沿って登っていくと、グングン高度が上がり、振り返れば、九重連山が雲上にポッカリ浮き上がっているのが見られ、左に鷲ヶ峰・虎ヶ峰が威圧的にそびえていた。
 それにしても、あかね先生のチャレンジ精神は素晴らしいと思った。だいたいの場合、
「いいですねー。行きたいですねー。」
などと言っても、実際、誘われて参加しない人が殆どだが、急角度の仙酔尾根を、二時間で登ったのだ。弱音を吐かず、むしろ輝いた目で、この雄大な阿蘇の景色を眺め、自分の足でしか勝ち取れない山頂の展望を楽しんだ。幼稚園では見られなかった輝いた顔で、今後の彼女の人生が頼もしく、そして、退職の決意が今後の発展の為であることを確信できた。
 登山口で、あかね先生は、
「私にも登れますか?」
と、私に聞いた。
「誰だって登れるよ。登りに来るか来ないか、やるかやらないかだよ。」
と、私は答えた。稜線に着き、山頂標識までの十分は、東に根子岳を見下ろし、遠くに祖母・傾が見えた。外輪山を三百六十度見渡し、間違いなく世界一カルデラ阿蘇の中心を歩いた。西に草千里を敷いた烏帽子岳を見ながら、極上ランチを味わえた。
 下山気味に、ガレ場を通ると、新しい標柱が立つ中岳山頂に着いた。観光で来たことのある中岳大火口を見下ろすと、全景を確認出来て、またひとつ得した気分になった。記念撮影をし、先を急ぐとロープウェイ駅が近づいてくる。トイレに立ち寄ると、ガイド本に書いてあるロープウェイ下山を、あかね先生に尋ねてみたが、もちろん自分の足で下山すると、気持ちのいい元気のいい返事が返ってきた。整備された遊歩道は足裏に響くが、仙酔峡に到着し、振り返って仰いだ高岳・中岳の山頂は、ただの景色ではなく、足で確かめた大切な景色に見えた。

「あかね先生、山登りはどうでしたか?少し押し売り気味に誘ってすみませんでした。連れていってもらったから登れたのではないですよ。あなたが、自分で勇気を出して参加して、そして、自分の足で登ったのです。阿蘇、高岳・中岳は、簡単な山ではないです。体力的にも、そして危険度も・・、そんな山から見た景色は、登った人だけの感動でしたね。帰り道で、外輪山を眺めながら、“まるで、高岳に比べると、丘にしか見えない!”と言った、あかね先生の強気な態度、とても印象的でした。」


 
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